序 -其の壱-
深淵の闇
漆黒の淵、さらにその闇よりも黒い影を纏ったものが舞い降りる。
闇と同化するほど深い闇色の長い髪は降り立ったその影を包んで、その存在をあいまいにさせる。
その長く深い髪の狭間に、力強い炎を灯した双眸が覗く。
その眼差しは眼下をじっと見渡し、微動だにしない。
そこは深い山であろうか、或いは木々の深い森であるかもしれない。
時折突風が木々をなぎ倒さんばかりに吹き付ける。
其の度に、激しい雨が地面を叩くような音がしては、しかし直ぐに静寂がそれをかき消そうと襲う。
時折獣の狂ったような雄たけびが静寂を打ち破り、闇を威嚇するように響く。
木々は誘うように影をまとい、闇を深くする事を助ける。
流れていく雲が、本来この闇を照らすはずの光を遮って闇に味方する。
僅かな雲の隙間から差し込む光は今度は深い闇を纏った木々によって遮られてしまう。
そうして僅かな光は闇を際立たせるだけの弱弱しい存在でしかなくなってしまう。
それほど深い闇がそこを支配していた。
そんな闇の狭間で、自分にまとわりついてその存在を曖昧にさせている長い髪を振りほどくと、僅かにその髪の間から覗いていた眼光がより強いものとなった。
ようやく届いた僅かな光がその影を一瞬照らす。
その光でさえ吸収してしまいそうな漆黒の髪。
姿こそ人そのものであるが、その身の丈は明らかに人のものではない。
何より違うのは、髪の間、額から天に向かって伸びる、人には無い異形の骨格
角――
一瞬照らされたその姿は御伽噺に出てくる鬼そのものだった。
『鬼』の姿、そして今まで感じた事の無い匂い。
それに過剰に反応した一匹の獣がそこに確かな存在を認め、牙を剥いて威嚇した。
『鬼』はその獣の威嚇を意にも介さず、木々の向こう――そこには暗闇しか見えない、がまるで木々の向こうに何かがあるようにじっと見ている。
獣は未知の存在への警戒心を露にし、雄叫びを上げる。
その声に今までその獣の存在すら気にも止めないでいた『鬼』が振り向く。
其の獣にしてみれば『鬼』は未知な存在ではあったが、例えそれが未知なる存在であろうとも、自分のテリトリーへと進入してきた敵でしかない。
しかし、『鬼』が振り向いた時、獣は――獣にそう言う概念があればだが――自分の軽薄さを知った。
『鬼』が投げかけた視線は、自分より遥かに恐ろしい力を持っているという事を獣が知るには充分すぎた。
命の危険を察知した獣はあとずさる様にして『鬼』から離れる。
ある程度の距離を取った所で一目散に逃げ出した。
――はずだった。
恐ろしい敵の匂い。それがしなくなったところまで来て、ようやく速度を落として息を整える。
だが、獣は気づく。走ってきた方向がどちらなのか、それはわからなかったが、しかし明らかに先ほどの恐ろしいものが居たところとは全く別の方向から、"同じ匂い"をかぎつけた。
新たな敵とそう感じたがそれはおそらく一瞬の事で、鼻のよく効くその獣はその匂いがさっきの『鬼』と全く同じものだという事に気づく。
混乱する獣。そして迷い無く近づいてくる匂いに狼狽し、それは間をおかず恐怖へと変わる。
影の中に蠢く巨大な影。
比べて自分のなんとちっぽけな存在か。
やがてそのちっぽけな影は闇へと飲み込まれていく。
微かに断末魔の咆哮が聞こえた気がしたが、木々のざわめきにかき消されてしまった。
雲の流れは、より厚く濃い雲を呼び寄せ、光を一層鈍らせた。
異形の影は、やがて闇へと溶け込むようにして消えてしまった…