2-2 変わりゆく決意
ーー僕は、彼みたいに強くないんだ。
みんなを笑わせることなんてできないし、
みんなを引っ張るカリスマ性もない。
それに、彼みたいに自由に生きるなんて、
僕にはできないんだ。
でも、そんなんじゃ意味ないんだ。
どんなに満点取ったって、
どんなに賞状貰ったって、
どんなに褒められて、
どんなに尊敬されたって、
何の意味もないんだよ。
そうだ。僕は結局、
何もできない男なんだよ。
「ねぇ、トム君。
いちろーまだ来てないん?」
1時間目の用意を済まし、
窓の外を見つめる僕の横で、
唐突に声がかけられた。
「びっくりした、天風さんか」
相変わらず、人に話しかける声とは
思えないような音量だ。
「まだ来てないよ。
彼はいっつもギリギリで来るからね」
「やんなあ。でも、
そのくせにあいつ無遅刻無欠席やろ。
わけわからんよなあ」
天風さんは、空いている氷上の椅子に、
背もたれを足でまたぐようにして
座り込んだ。
女子なんだから、
もう少しお上品に座りなよ。
「あとな、名前呼ぶの、
別にしずかでええで。
ウチ、名字で呼ばれるの嫌いやねん」
「分かったよ」
「この前も分かった、って言ったん聞いたけどなぁ」
彼女はそう言いながら、
僕が見つめる窓の外へ目を向けた。
僕もできるだけ名前を呼びたいとは
思っているんだけど、
どうしても声に出すのが
はばかられてしまう。
ここに引っ越して来てから、
ずっとこの調子だ。
もう、1学期が終わろうと
しているっていうのに。
窓の外には、僕が通っていた学校よりも、
ずっと小さくて、遊具も少ない、
安っぽい運動場が広がっていた。
私立から公立に変われば、
いくらかは不便になるとは思っていたが、
それは、僕の想像をはるかにこえていた。
ここにくるまで、こんな木の枠で、
金属のねじ込み式の鍵のついた窓なんて、
見たことなかった。
今座ってる机だって、
足がガタガタ揺れて安定しないし、
前に置いてある黒板消しなんて、
中の綿がはみ出てボロボロじゃないか。
「あ、トム君、見て見て、
あそこ! 校門のとこ!」
つらつらと文句を並べる僕を他所に、
彼女は窓に乗り出し、
指を差しながら叫んだ。
そこには、鬼のような形相で走っている、
氷上の姿があった。
この場所からでも、
彼の走り方がよく見えた。
なんだろう、あのガニ股で
ぎこちない走り方は。
昨日体育なんて無かったのに、
筋肉痛なんだろうか。
一体、何して遊んでたら
あそこまでひどくなるのだろう。
「でやぁぁぁ!!!
間に合えぇぇぇ!!!」
この位置からでも、
駆け抜けるガニ股の声が
はっきりときこえた。
この学校の生徒はみんな声がでかいな。
上品さのかけらも無い。
「よっしゃぁぁぁ!!!
セーフやぁぁぁ!!!」
『キーンコーン カーンコーン』
彼の運動場中を反響させる叫びは、
チャイムの音とほぼ同時に発せられた。
授業開始の5分前に鳴る予鈴までに、
体の一部でも校門を通過していたら
遅刻が免除されるという、
この井中東小学校特有の
きまりのおかげで、
彼の一命は取り留められた。
「しかし、彼はなんでもう少し余裕を持って
登校しないんだろうな。理解できないよ」
「ウチは、なんとなく分かるけどな」
彼女はそう言いながら、
僕の顔に目を向けた。
「ウチ、幼稚園のときから
いちろーのこと知っとるんやけど、
あいつもわりと苦労しとんやで」
「そうなんだ。
いつもバカみたいなことしてるのにね」
僕はいかにも興味が無いような、
そっけない返答をした。
彼が苦労?
そんなはずないだろ。
あんなに授業中寝て、
休み時間になったらどんちゃん騒ぎして、
何にも苦労することなんてないじゃないか。
テストだってテキトーに受けて、
家に帰ってもどうせ遊びまくってるんだろ。
何が苦労だ。
「あいつな、オトンがずっと
単身赴任しとって、
いっつもオカンと二人やねん。
さかい、今日も家の手伝いとか
しとったんちゃうかな?」
「そんなわけないだろ!
彼がそんなことするわけないよ!」
自分でも驚くほど声を荒げてしまった。
周りのざわつきが静まり、目線が集まる。
「あ、ごめん。つい」
「びっくりしたわぁ。
そない怒ることちゃうやん」
彼女が少し眉間に
しわを寄せながらつぶやいた。
少し悪いことをしてしまった。
いつもこうだ。
他人の苦労自慢を聞くと、
自分がバカにされているように
感じてしまうんだ。
「皆さんおはようございますっ!
今日も間に合っちゃいましたぁ!
テヘペロっ!」
先ほど、話の渦中にいた男は、
教室前の扉を勢いよく開け、
堂々と入ってきた。
顔には汗を大量に流しながらも、
笑みがこぼれていた。
分からない。遅刻しそうだ、ってのに
なんで君は笑ってられるんだ。
「あんたほんまにギリギリやん。
なにしとったん?」
「決まってんじゃん、
もちろん寝坊だよっ!」
彼はその茶色がかった髪の毛を、
わざとくしゃくしゃにし、
親指を立てながらこちらに振り向いた。
静かになっていた教室から笑いがこぼれた。
「いやー、参ったよ~。
急ぎすぎてさ、ほら靴下、
左右で色違うしさ、
パーカー前後ろ逆に着ちゃった」
前に垂れていた青のフードを顔にかぶり、
こちらに歩いてきた。
あんな格好、街中なら確実に
変質者扱いされるだろう。
「あんたほんまアホちゃうか!?
何がしたいねん! 」
氷上と天風さんの掛け合いに、
またもやクラスメートがざわめいた。
僕が声を荒げたさっきまでの空気は、
もうどこにもなかった。
なんなんだよ、なんなんだよ全く。
彼に、何の力があるっていうんだ。
そうやって簡単に笑いを
かっさらっていって。
僕は黙って再び窓の外へ目を向けた。
そこには本当に何もない、
空虚な荒野が広がるだけだった。
僕は、そんな光景に
自分の心境を照らし合わせた。
あと2日で夏休みがくる。
そうすれば、こんな学校からも
おさらばできる。
こんなくだらない男に悩まされることも
無くなるんだ。
それなのに、僕の心の中で
迷いがバカみたいに
カニ走りで右往左往していた。
僕は昨年まで、東京にある
私立大学の附属小学校に通っていた。
明治時代初期から設立されていたそこは、
日本最古の小学校と呼ばれるほど、
歴史ある学校だ。
幾度とない改築により、
年季が一切感じられない純白の校舎には、
全教室にクーラーはもちろん、
防犯カメラまで設置してあった。
授業においても、生徒の全員が
タブレット端末を用いる
最先端の授業を行っていた。
パパが小学校の附属している大学の
教授をしていたため、
僕は大学関係者枠の
特別クラスに在籍することができていた。
周りの生徒は、皆、パパの友人や、
教え子の子どもであったため、
僕はクラスメイトの誰とでも
円滑な関係を保つことができた。
パパの名をかざすだけで、
僕は先生にだってもてはやされた。
僕はそんな親の七光りのように暮らし、
あとは附属中学、高校とストレートに進み、
パパの伝手で大学なんて
どこにでも行こうと思えば行くことができた。
はっきり言って、誰が見ても
順風満帆に進む人生に感じるだろう。
誰にも文句を言わず、
はいはい言ってるだけで
将来が保証されてるのだから。
でも、与えられたレールに
沿って生きることに、
そして、生きなければならないという
重圧に耐え続けることに、
少し嫌気がさしていた。
そんな風に生きていては、
なんだか自分が自分で
無くなってしまうように感じてしまうのだ。
そんなとき、ある転機がやってきた。
パパが、辺境の地にある
研究施設を利用するため、
短期間都心を離れることになったのだ。
これは、僕にとって
今の裕福な暮らしを捨てなければ
ならないということを意味していた。
確固とした「将来」のタワーを、
わざわざ取り壊してしまうのは、
僕にとって何のメリットも無かった。
だが、それでもいい気がしていた。
そんなタワーさえ壊してしまえば、
高い理想を押し付けられることも、
仮初めの友情を
かざし続けなくてもいいんだから。
しかし、実際のそれは、
僕が思い描いていたものとは
程遠いものだった。
引っ越すのは、僕とパパだけだったのだ。
「えっ? ママは一緒に来ないの?」
引っ越し当日まで、
家族3人で移るとばかり思っていた僕は、
マンションのエレベーターで下る最中、
パパにその理由を問い詰めた。
荷物を全て送り、
あとは引っ越し先に移動すればいい
という状態だったのに、
なんで急に知らされたのか、
僕には全く理由が分からなかった。
「ごめんな、トム」
パパはそう言うと、僕に背を向けた。
鏡に写ったパパの顔は
いつになくやつれていた。
「分かってくれ、トム。パパは向こうで
やらなければいけない研究があるし、
ママにもここでやらなければいけない
仕事があるんだよ」
ママは東京に本社を置く
美容関係の会社で重要取締役をしているため、
簡単にはここを離れられないということは、
僕も当然分かっていた。
ただ、それでも会社とうまく話を付けて、
僕たちと一緒に
引っ越すものだとばかり思っていた。
「違うよ、パパ。そんなこと聞いてないよ。何で僕とパパだけしか引っ越さない、ってことを前々から教えてくれなかった、って聞いているんだよ」
僕は思わず声を荒げた。
だって昨日まで引っ越したら
3人で何しようか、とか話していたのに
あまりにも急じゃないか。
それに前もって言ってくれれば、
気持ちの整理もできたのに。
「トム、あらかじめ言ってしまうと、
お前は絶対行かない、って言うだろう?
それじゃダメなんだ」
「何がダメなんだよ!」
僕がそう言うと、
パパは金色の髪をかいた。
よくママに隠し事がバレそうなときに、
この仕草をしていたことを思い出した。
「それなら、僕はママと暮らすよ。
別に僕がパパについて行っても仕方な……」
「ダメだ、トム。
ママのところには行ってはいけない」
言いきらぬ前に遮られた。
その声には、これ以上の追求を
許さないかのような、
そんな重みが感じられた。
そしてゆっくりとしゃがみこみ、
僕の肩に手を乗せた。
乗せられた白い手は、小刻みに震えていた。
「いいかい、トム。
君が心配することなんて何もないんだよ。
ママに会いたくなれば、
すぐ、この東京に戻ってこればいいんだから」
「いつ戻ってこれるの?」
「……決まってない。
ただ、順調に進めば
夏休みが終わるまでには
帰れるかもしれない」
「夏休みまで」という部分は、
全く確証の持てる言い方では
無かったのだけれど、
僕を少しだけ安心させた。
「よかった、パパが急に
そんなこと言うから、
僕、びっくりしちゃったよ。
1学期の間だけなら全然我慢できるよ」
「ありがとう、そう言ってくれたら、
パパも嬉しいよ」
パパは口ではそう言っていたが、
表情には何の笑みもこぼれてはいなかった。
「じゃあママに、行ってくる、
って挨拶しなきゃいけないね。
いまどこにいるの?」
僕がそう言うと、嫌な沈黙が流れた。
「ママ」と言う言葉が、
使ってはいけないタブーに
なってしまったかのような、
変な感覚だった。
それにしても、ママは
どこに行ったのだろう。
僕とパパだけしか引っ越さないにしても、
お迎えくらい来てくれたらいいのに。
ママは、僕が起きる前に家を出たっきり、
何の連絡もないままだ。
そして、不自然なのは
それだけじゃなかった。僕たちがいた部屋には、
もう荷物が残されていないのに、
僕たちと一緒に引っ越さないとするなら、
一体どこに帰るつもりなんだろう。
僕はうつむいて、
それ以上考えないようにした。
考えれば考えるほど
悲観的な想像が増えてしまいそうだった。
僕は心の中で何度も
「夏休みが終わればここに帰れる」
という言葉を繰り返した。
しかし、繰り返せば繰り返すほど、
その言葉は重みのない紙切れのように、
頭の中をひらひらと舞うだけだった。
しばらく、僕もパパも何も話さなかった。
僕もこれ以上は追求しなかった。
僕が辛いのはもちろんだけど、
パパだって同じくらい辛いってことが、
顔を見ればすぐ分かった。
静寂を裂くようにエレベーターが鳴った。
「トム、行こう。
ママには向こうに着いてから電話すればいい」
パパはそう言うと、
エレベーターから足を踏み出した。
僕は迷った。
もしかすると、そのまま降りないで
ママのところに戻ることだって
できるかもしれない。
まぁ、ママがまだこのマンションに
居ればの話だけど。
でもそうすれば、
今まで通り学校に通って、
チヤホヤされる楽な生活が
続けれるんじゃないか、
という思いが頭の中をよぎり、
僕の足を止めた。
でも、パパの後ろ姿を目の前にして、
そんなことはできなかった。
パパに刃向かいたくないとか、
ご機嫌をとりたいとか、
そんな思いがあったわけではない。
ただ、ここで逃げたら、
一生僕が求めている自由なんて
得られないような気がしたのだ。
理由も知らされず、この東京から、
そしてママからも離される
理不尽を乗り越えなければ、
僕は前に進めないんだと、
そう自分に言い聞かせるしかなかった。
僕は閉まりそうになる扉を手で止め、
前を歩くパパの背中を追いかけた。
僕とは違い、「理不尽」だけでなく
「父親」の重圧も背負わなければいけない
パパの背中は、
他の誰よりも大きく見えた。
そして、他の誰よりも悲しくも見えた。
僕は強くなるよ。パパが背負う荷物を、
少しでも軽くできるように、
そして、またこの場所で
ママと何事もなく、笑顔で話せるように。
僕は歩いていくよ。
パパやママの敷いたレールじゃない、
自分が見つけたレールの上を。
しかしこの決意は、
引っ越し先にいた、
ある男のせいで揺らいでしまった。
その男は、父親が東京に
単身赴任しているため、
当分会えないという、
僕に似た境遇の中を生きていた。
それなのに彼は、いつもヘラヘラして、
バカなことばかりやっていた。
彼も何らかの「荷」を
背負ってるはずなのに、
そんなことはおくびにも出さず、
いつも笑っていた。
そんな彼の前では僕の決意も、
本当はくだらないものなんじゃないか、
って考えてしまうんだ。
「おーい。武藤くーん。どこ見てんだ?」
僕は突然耳元に入った氷上の声を聞き、
我に返った。
彼はフードに覆われた青い顔を
こちらに向けて立っていた。
「うるさいな、もう授業始まるぞ」
僕はそっけなく返事して、
机の上の教科書をもう一度確認する
そぶりをした。
「うーん、やっぱ武藤はつれないな〜」
「だからトムだって」
氷上は足をかばうような動作で
前の席に座った。
相変わらず、氷上のフードは
前のままだったので、
後ろの席から見ると、
顔が髪の毛まみれの人が
こちらを向いて反っているかのように感じ、
思わず鼻で笑ってしまった。
「あれ、今笑った?」
「笑ってない」
「いやいや絶対笑ったって」
「絶対笑ってない」
そんな中、授業開始の本鈴が鳴り響いた。
僕たちのしょうもない言い合いを
仲裁するかのようなその音は、
いつもより大きく聞こえた。
僕は、今日の授業がこの学校での
最後の授業になるだろうと
心に止めながら、国語の教科書を開いた。
僕は、ここの学校で、
何か変われたんだろうか。
4ヶ月前、東京を出た時から、
僕は少しでも強くなっているんだろうか。
分らなかった。
その答えなんて、
教科書になんか書いてるはずないのに、
僕は食い入るように文字を眺めていた。




