1-4 小さな勇気
「………。」
何と言ったらいいんだろう。
頭の中で全く整理がつかない。
クリスタルが溶けたときに生じた霧が、
思考をうやむやにしてしまっているようだ。
「え、えっと」
まだ混乱している。
確かさっきまでは
目の前に大きなクリスタルがあったと思う。
で、それが急に溶けちゃって、
周りが霧まみれになったんだ。
そしてようやく霧が
ちょっと晴れてきたから、前を見てやると、
なんか横たわってるんだ。
さっきまで氷があったところに。
白い生き物っぽいのが。
この霧につられて、
野良犬でもやってきたんだろうか。
俺はゆっくりと近づいてみた。
普段の俺なら逃げ出しそうなものだか、
不思議と恐れはなかった。
あのクリスタルに
勇気づけられたんだろうか。
2、3歩ジリジリと進んだところで、
ぼんやりと形が見えた。
思いのほか小さかった。
チワワとか、そんな
小型犬くらいの大きさだった。
少し安心した。
野良犬っていったら、
俺より身長がでかい狼とか
そんなのを想像しちゃってたから。
そして、そのままの速度で近づき、
ようやく輪郭が見えそうになったとき、
視界から、ふと消えてしまった。
「ちょ、待てよ!」
考えるよりも早く身体が動いた。
霧で阻まれた視界にあるのは
上方に交差する枝と
地面に無数に生える草だけだった。
2歩先が見えないだけで
こんなにも足が動かないものなのか。
ーーパツンッ
手探りで木の幹を触ろうとする
俺の横を、何かがかすめた。
見ると、左袖にパックリと穴が開いている。
なんだ、さっきのチワワっぽいやつか。
あいつ見た目と違って攻撃的なんだな。
あんにゃろう、喧嘩売りやがって。
ーーピシッ
また何かが俺を叩いた。
今度は右足に当たった。
強力なゴムパッチンを
受けたかのようだ。
とっさにかがみ、
手で触ると、細長く腫れて膨らんでいた。
なんなんだ一体。
先ほどまで興奮で収まっていた恐怖心が、
再び芽を出し始めた。
足に触れている手が小刻みに震えている。
なんだよ。
どっから攻撃されてんだよ。
俺はそのまま周りを見渡した。
こっから逃げなきゃ。
マジかよ、野良犬って
こんなに凶暴なのかよ。
ーーバシュッ
今度は前の方から聞こえた。
俺に当たったわけじゃなかった。
なんだよ、なんなんだよ。
わけわかんないよ。
俺は手を地面につきながら
後ろにジリジリと下がった。
奥歯が意識していないのに
ガタガタと音を鳴らしている。
周りをみても霧か枝か草かゴミしかない。
太陽の光はとっくに見えなくなっていた。
ーーザシュッ
まただ、また同じ方向だ。
さっきよりも音が大きい。
何やってるんだよ、あいつは。
俺は必死にこの状況を打開する策を考えた。
心臓がこれでもかというくらい
胸を叩きつける。
とりあえずはあの音から逃げよう。
そうじゃないと今度こそ、
どっか食われるかもしれない。
俺は膝に思い切り手を押し付け、
起き上がった。
武器が欲しい。
なんかその辺の枝とか
持ってたほうがいいかもしれない。
倒せる気なんてさらさらないけど、
持ってないよりかはマシだろう。
俺はすり足でゆっくりと、
左前に見えた、
黒板用のコンパスくらいの
大きさの枝に手をかけた。
はずだった。
確かに目の前で掴んだはずなのに、
枝が消えていた。
あれ、目が悪くなったのかな。
今度は左に見えた、
さっきの半分ほどの枝を掴もうとした。
「痛っ! 」
俺は手中に収まりそうになっていた
枝に叩かれた。
一瞬、何が起こったのかさっぱりだったが、
確かにこの目で枝が叩いてきたのを見た。
枝が意思を持つかのように
俺を拒んだんだ。
嫌な予感がした。
もしかしたら、この周りの木々が、
俺を攻撃してるんじゃないか。
こんな予感、
当たって欲しくもなんともないけど、
今の状況では信じるほかなかった。
「うえっ!」
とっさにしゃがみ、
顔面に飛来する鞭を避けた。
顔面セーフとかいってられるわけねぇよ。
あんなのに当たったら速攻アウトだよ。
逃げなきゃ、
とりあえずあの音から逃げなきゃ。
駆け出そうとしたとき、
ある一つの思いがよぎった。
ーーあの、犬みたいなやつ、何やってんだ?
そのとき、自分の目の前で、
枝が何かを切り裂く音がした記憶が蘇った。
「あ、あいつ、もしかして……」
こんなこと気にしてる場合じゃない
ってことは、本能的に理解していた。
それに俺を攻撃してきたのは、
やっぱりあの犬っころではないかという
疑惑は、全く晴れてなかった。
ーーバシィッ
また同じ場所で音がした。
身体が勝手に動いた。
逃げたいのに。
本能が逃げろと叫んでいるのに。
「おい! 大丈夫かぁ!」
俺は無心で走り出した。
声を出すことで、狙われる確率が
ますます上がってしまったかもしれない。
木々が一斉に牙を向けてきたように見える。
「っせい! っとぉ! うぉおおお!!!」
視界を遮ろうとする鞭の応酬を
華麗にかわす。
伊達に裸でドッジボールしてた、
ってわけじゃないんだぜ!
「おい、しっかりしろ!!!」
さっきの犬っぽい生き物が横たわっていた。案の定、身体からは血がにじみでていた。
「こっから逃げねぇと」
俺はその生き物を持ち上げ、
そのまま、前に向かって駆け出した。
しかしなんなんだろう。
この生き物は。顔付きが犬じゃない。
鼻が黒くないんだ。
例えるなら恐竜だ。
図鑑でこんなやつを見たことある。
でも毛がはえてるな。
血が滲んではいるが、
全身に白い毛が生えていた。
尻尾も身体のラインから
そのまま飛び出たかのように尖ってる。
そして、なんといっても、
背中に白鳥のごとく羽根が生えていた。
「はぁ、あの枝も、ここまでくれば、
追ってこなく、なった、かな」
俺は息を切らしながら、
手の中で眠る奇妙な生き物を
ゆっくりと地面に下ろした。
枝が軋む音がかなり向こうの方で聞こえる。
木の枝全体が動いてるという
わけではないんだな。
少しだけ安心した。
「おい、そこのお前。おいらを助けてくれたのか、ありがと」
どこからか声が聞こえた。
なんだ、俺以外にも人がいたのか。
それにしても、えらくぶっきらぼうだな。
俺は周りの霧に目を凝らした。
「こっちだよ、どこ見てんだよ」
再び声が聞こえた。
視線を前に戻すと、
さっきの生き物が立ち上がってた。
口を大きく開け、
つられてしまいそうになるほどの
あくびをしていた。
どういうことだ。
こいつが?
こいつがしゃべってんのか?
「も、もしかして、
お、お前、しゃべれんの?」
「しゃべっちゃいかんみたいな言い方だな」
目の前のその生き物は、足を上げ、
傷口を器用に舐めながら言い返してくる。
その後、ぶるっと体を震わせ、
羽根を広げたその姿は、
にわかには信じられなかった。
だってさ、アニメとかゲームとかでしか
見たことなかったんだ。
いくら小学生だからって
空想の生き物とかそういうのが
現実にはいないってさすがに分かってるよ。
「なんだ、そんなにおいらのことが
気になんのか?
怪我ならそこまで問題ないぞ。
しばらくしたら治る」
こいつ、ドラゴンじゃないか。
大きさは小型犬くらいしかないけど。
やたらぶっきらぼうなしゃべり方だけど。
そうとしか思えなかった。
「ギシィ……ギシィ……」
後ろの方から、
悪夢の枝が近づく音が聞こえる。
こちらに気づいたのだろうか。
「おい、そこのガキ。
おいらを抱いて逃げろ。
これ以上あんなもんに
鞭打ちされんのは勘弁だ」
ガキって俺のこといってんのか。
助けてやったのは俺だぞ。
もっと言い方あるだろ。
「早くしろ!
あの気色の悪い枝の切っ先に
ぶっ刺されたいのか!」
「そんなわけないだろ!
まったくなんなんだよ
もう! わけわかんないよ」
「大丈夫、おいらも
よく分かってないから」
「なんだよそれ!」
俺は生意気なチビドラゴンの脇をかかえ、
勢いよく立ち上がり、再び走り出した。
それにして、こいつなんなんだ。
あのクリスタルから出てきたんだろうか。
こいつの耳のあたりから、
クリスタルを思わせる、
磨き上げられた結晶が生えている。
もう、何がなんだかわからない。
今何時なんだろう。
もう帰りたいな。
母さん心配してるかな。
すぐには帰れそうになくなっちゃったな。
横目で後ろを見やると、
霧を食いちぎりそうなほどの枝が、
獲物を眈々と狙っていた。
「はぁ、はぁ、これどこまで、
逃げりゃいいん、だよ」
かなり走ったはずだった。
体育のマラソンの練習でも
走らないような距離だった。
足の感覚がなくなりそうだ。
この林、こんなに広かっただろうか。
「そりゃ、逃げれんよ」
俺に抱えられ、ぶら下がっている獣は
間の抜けた声で言った。
サイズは小さいくせに、
やたらと大きな氷のツノが肩を突いてくる。
「ど、どういうことだよ」
俺は彼の呑気さとは
正反対の呼気を込めて聞いた。
食われてる? 何の話なんだ?
「お前、ここに入って来るときに
妙な感覚なかったか?
牙を向けられたような感覚が」
「あ、そういえば」
そんな感覚があった。
単に暗闇が怖かっただけだと思ってたけど、
違ったのか。
「じゃあ分かってんじゃねぇか。
お前は敵の中にとりこまれてるんだよ。
いくら走っても無駄だ」
「それもっと早く言えよ!
俺を殺す気か!」
「それな」
ふざけてんのかこいつは。
何がそれな、だよ。
こっちはお前抱えながら
命懸けで走ってんだぞ。
「じゃあさ、どうやったら逃げれんだよ」
俺は少し足を少し緩めながら、
この性悪ドラゴンに尋ねた。
「そんなことおいらに聞くな。
ちょっとくらい自分で考えろ」
ドラゴンはそう言いながら、
背中で持て余した白鳥のような羽で、
俺の頬を叩いた。
「はぁ? なんだよそれ。
ずっとここで走ってろっていうのかよ」
冗談じゃねえよ。体力持たねえよ。
「まぁ、そうなるかもしれんな。
てかさ、気になったんだけど、
お前、なんでこんなとこに来たんだよ?
もしかしてエロ本でも漁りに来たのか?」
「そんなんじゃねえよ!
しかも、今そんなこといってる
場合じゃねえだろ!」
なんでこいつはいちいち煽ってくるんだ。
危機感ってもんがあるのか。
「じゃあ、何かが見えたからなのか?」
急に核心を突かれた質問をされた俺は、
足の動きを止めてしまった。
「え、まあ、なんかデカくて
白いもんが見えたからだけど」
「なるほどな〜。
お前、足の動きが止まってるぞ」
その言葉が耳に入るのと同時に、
俺の横スレスレに枝の鞭打が炸裂した。
俺は避けようとして、
左に踏み出そうとしたが、
足がもつれて倒れてしまった。
『ギギギャァァアァッ!』
後ろから、耳をつんざくような
叫びが聞こえる。
あの化け物、声出せるのかよ。
右を向けば、
先ほど打たれた場所が
草ごとえぐり取られている。
立たなきゃ。
あんなの食らったら死ぬに決まってる。
だけど、力が入らない。
打ち所がわるかったんだろうか、
背中に石が乗せられているように重たい。
「おーい、大丈夫か?」
あのドラゴンの声だ。
そういや、さっきまで目の前にいたのに
どこ行ったんだ。
「えっ?背中の上だけど」
やっぱそうかよ。
なんか耳の後ろあたりから
声聞こえるとおもったら。
なんでそんな呑気なこと言ってられるんだ。
「おい、のけって! 早く逃げねぇと!」
「なぁ、さっきから思ってたけど、
お前って逃げることしか考えられねぇのか?」
一瞬、何が言いたいのか
意味が分からなかった。
逃げずにあんな化け物に
立ち向かえっていうのか。
どこから攻撃してくるのかも
分からない敵に勝てるわけないじゃないか。
「あ、当たり前だろ。
俺、帰りてえもん。死にたくねぇもん」
「ふーん。じゃあ、逃げろよ」
返答はそっけなかった。
見捨てるかのように味気なかった。
「でもさ、お前が邪魔で逃げれないんだよ」
「あ、そう」
そうつぶやき、
背中の重石は大儀そうに背中から降りた。
それを身体で感じた俺は、
足を引きつけながら、
思い切り起き上がった。
「でも、お前、1人で走れんのか?
俺が持たねぇとやっぱ
きついんじゃないのか?」
問いかけたが返事がない。
木の化け物の唸り声にまぎれて
聞こえないんだろうか。
「え……お前、何やってんだよ!」
後ろを振り向いたとき、思わず叫んだ。
俺の膝くらいの大きさしかない
ちっぽけな獣は、
純白の毛を血で濡らしながら、
霧に紛れた化け物に、
たった一匹で立ち向かおうとしていた。
「何やってんだよ、ガキ。
逃げるんじゃねえのか」
「いや、だって、その傷……」
俺が倒れる前には、
そんなに血は流れてなかったのに、
今は痛々しい赤がはっきりと滲んでいた。
俺をかばうために怪我したのか。
あんな化け物、
そんなちっさな身体で
止めれるわけないのに。
「逃げるぞ!」そう言いたかった。
でも、声に出せなかった。
こんな得体の知れない怪物を目前にして、
一歩も引こうとしない小さき勇者を、
放っておくわけにはいかなかった。
俺は振り返り、
自分の膝ほどしかない獣の横に立った。
「なんだ、思ってたより
根性あるじゃねえか」
彼の先ほどまでの呑気な声色は
とっくに消えていた。
「どうせ、逃げても、
意味ないって言うんだろ。
そんなら、やれることはやらなきゃ
カッコつかないだろ」
戦うための、何の手立てもなかったが、
そう言うほかなかった。
俺だって最期くらい、
カッコつけたかったんだ。
ただ、恐怖から逃げ続ける。
そんな人生で終わるなんて
あまりにも馬鹿らしいじゃないか。
『ギショオェェェェ!』
再び霧の中から鞭が振り下ろされる。
ギリギリのところでかわして、
俺たちは左右に分かれてしまった。
しまった、
あのドラゴン走れないんじゃないか?
「おい、ガキ! お前、
白いものが見えたから、
ここまできたって言ったよなぁ!」
視界から消えた小さき竜の叫び声が、
どこからか聞こえる。
「あぁ、そうだよ! 頭ん中からその記憶がどうしても離れなかったんだ!」
俺は右脇腹をかすりそうになる棘を
振り払いながら叫び返した。
「あれが見えた、ってことは、
お前は素質がある、ってことだ!」
センス? この俺に? 何の?
「お前何の話してんだよ!
全然わかんないよ!」
「こんなときに
ごちゃごちゃ聞いてくんじゃねえよ!」
どっちだよ。
ごちゃごちゃしたこと言ってきたのは
お前じゃねぇか。
「うわっ! やべえ!」
魔物の枝が、俺の左腕に絡みついてきた。
俺は残った右手で登りゆく枝を
全力で払いのけようとした。
しかし、枝の切っ先が
どんどん肩に近づいてくる。
「やべえ、やべえよっ!」
「おい、ガキ! いいか!
今からおいらがする質問に、
はいかいいえで答えろ!」
なんだよ、こんなときに。
くそ、左腕の感覚が
奪われたかのように動かない。
俺は死ぬのか? こんなところで。
まだ10年しか生きてないんだぞ。
嫌だよ。絶対嫌だよ。
「お前に、こいつと戦う勇気があるか?
これから何が起こったとしても、
絶対逃げないって約束できるか?」
再び叫び声が聞こえた。
即答できなかった。
こんな状態で戦う勇気?
そんなの持てっこないじゃないか。
「うわぁぁぁ!!!」
今度は右足が捕らえられた。
真っ茶色にそまった靴が、
無抵抗で飛ばされる。
「早くしろ! お前、帰りてぇんだろ!」
そうだよ。帰りたいよ。
帰れるんなら今すぐにでも
飛んで帰りたいよ。
そして、ゆっくりテレビでも見ながら
ご飯食べたいよ。
母さんと今日のこととか、
いろいろ話したいよ。
じゃあ……
戦わなきゃなんないのか。
逃げちゃいけないんのか。
「あ、当たり前だ! 戦うよ!
そして帰るんだ!
こいつをぶっ倒して、俺は帰るんだ!!!」
これでもかと言う声で叫んだ。
喉が張り裂けそうだ。
もう、逃げたくないんだ。
逃げてばっかり過ごすのは、
もう嫌なんだ。
いままでの当たり前を、
壊さなきゃなんないんだ。
「それじゃあ、契約、成立だな」
その声に反応するかのように、
力を失った俺の左手から、
暗闇の切り裂くような光が発せられた。
小さき勇者の言葉が、
大きな希望の光を生み出したのだった。




