1-1 溶けない疑問
真上から照りつける太陽は、
この闘いを賞賛するかのように明るい。
その光を邪魔する白い雲さえ
一つも見当たらない。
「おい! いちろー!
お前にかかってんだからな!」
外野から太陽のような声援が送られる。
そうだ。
内野で一人で闘っている俺は、
皆の最後の希望なんだ。
絶対に負けるわけにはいかない。
俺は敵陣に構える、
たった一人の的に向かって駆け出した。
蹴られた地面からは、
乾いた砂ぼこりが舞う。
「せりぃやぁっ!」
ラインギリギリまで詰め寄った、
俺の腕から希望の球がはなたれる。
ラインをこえ、歪むことなき
直線軌道を描きながら敵を捉えた。
「バシィッ」
俺の希望は怯むことなく敵を殴打し、
そのまま、すべての力を失ったかのように
地面にコロコロと転がった。
「よっしゃ、当たった!」
「さすがや、いちろー!」
外野から、再び
俺をたたえる声が湧き上がる。
俺は遠くを見つめながら、
皆に笑顔を振りまいた。
「氷上 いちろー、
たった一機で敵を破りましたぁ。
いやあ、我ながらいい闘いだったなぁ。
パンツ脱げそうになったけど」
俺は尻に付いた土を
手で叩くように払いながら、
悠々とコートの外に出ようとした。
「待てよ」
敵陣から声が聞こえた。
素早く視線を戻すと、
敵がボールを掴んでいた。
なんでだ。
俺は勝ったのに、
まだ試合を続けるってのか。
「……顔面セーフって言葉、
知ってるか?」
俺の頭は真っ白になった。
え、マジかよ。
「うわぁおぅ!」
俺の左足にクリーンヒットした。
自分が投げた希望が、
絶望となって帰ってきた。
「何やってんだよいちろー、
しっかりしてくれよ」
先ほどとは反対に、
蔑むような声が外野から漏れてくる。
あぁ、やっちゃったぜ、俺。
「あーあ、早よ帰ろうぜ。
もう授業始まるし。
いつまでもパンツ一丁とか
やってられんわ」
目の前の勝者は、
赤色のトランクスを
ゆらゆらと揺らしながら、
リングを降りていった。
残された俺は、白旗のような
味気ない色をしたブリーフ一丁で、
敗戦の地に佇んでいた。
やっぱあれだな。
パンツ一丁ドッジボール大会とか、
やるんじゃなかったな。
「んで、あんたらさっきまで何やっとったん?」
熾烈な争いを終え、
汗だくになりながら教室に入った俺は、
ある女子から早々に質問がぶつけられた。
「いや、だからパンツ一丁ドッジボール大会」
「そうやないねん!何でそんな遊びしょったんや、
って聞いてんねん」
彼女の名前は、天風 しずか。
名前に似合わず非常にうるさい。
名前と行動をちょっとくらい
合わせたらどうなんだ。
「いやさぁ、まぁ、暑かったし」
「アホか!」
「痛えっ!」
しずかは手に余るようなハリセンで、
俺の頭を引っ叩いた。
テレビでみるかのような、
快音が教室内に響いた。
「それ、マジで痛いんやって!
そら暑かったらパンツ一丁にもなるやろ」
「ならんわ、アホ!
どないな思考回路してんねん!」
肩ほどに短く切りそろえられた
髪の毛を乱しながらしずかは言った。
「ん、じゃあみんな席つけよ。
授業始めるぞ」
不毛な争いをしている間に、
担任の先生がもう教壇に立っていた。
今からの授業って確か算数だよな。
最近何やってるのか
全くわかんないんだよな。
俺は軽く背伸びをした後、
しぶしぶ席へと足を運んだ。
「君たち、またケンカしあってたね」
後ろの席に座ってる、
武藤が話しかけてきた。
こいつの本名は
トム=なんちゃらバーン
っていう名前なんだけど
俺は訳あって「武藤」と呼んでいた。
なんちゃらの部分は、
確か、ライズとかレイズとか
そんな感じだったけど
普段呼ぶこともないので
すっかり忘れていた。
彼は今年の4月に、
父親の研究室の関係かなんかで
東京から引っ越してきた、
お金持ちのお坊っちゃんだ。
短く刈られた黄金の髪に、
海のような深みのある青目を持つ、
ハーフで整った顔立ちに、
女子どもはみんな釘付けになっている。
「そういやお前さ、
なんでドッジボールこなかったんだよ。
わりと楽しかったぞ」
俺は武藤に少し誇るように言った。
「いや、そりゃあんなことできないよ。
恥ずかしくて。
よくあんな遊び思いついたね」
自慢はすぐに壊された。
「やっぱ、イケメン坊ちゃんは違うよなあ」
「そんなんじゃないよ。
だいたい普通、暑いからって
全裸になるやつなんていないだろ」
「武藤君、安心してください。
履いてましたよ。全裸じゃないですよ」
最近はやりの芸人のモノマネをしたが
「あ、そう」と軽く流されてしまった。
ああ、やっぱりキザなやつは
ちょっと苦手だな。
黒板には、
もう白い文字が書かれ始めていた。
速さとか距離とかなんとか。
視線を右に移せば
「7がつ20にち」の文字が目に入った。
あと3日で夏休みか。
楽しみだなぁ。
何して遊ぼうかな。
授業が始まってまだ数分なのに、
妄想の海のなかに飛び込んでいた。
ああ、海行きたいよな。
日差しがガンガンと照りつけるビーチでさ、
無限に広がる海に向かって走るんだ。
どこまで泳いでも海海海。
そしていっぱい泳いだあとは、
浜辺でバレーとかしたいな。
浜辺だったらパンツ一丁でも違和感ないし、
しずかのやつも武藤のやつも文句言わんだろ。
日光に汗をきらめかせた後、
みんなでベンチに座って
カキ氷とか食ったりするんだよ。
溶けないように、
素早くガガッと口ん中にかきこんでさ。
カキ氷のやつ、
すぐ溶けちゃうからな。
溶けないようにする方法とかないもんかな。
北極とかだと氷って溶けないのに、
なんで溶けちゃうんだろ。
「氷ってさ、
その辺に放っておいたら溶けるよな?」
「えっ、なんだよ急に」
取り留めもない疑問がふと心に浮かび、
俺は、後ろに座る武藤に投げかけた。
「いやな、それって
あったかいところでしか
起きない現象だなぁ、って思って」
「うん、まぁ、そうだろうな」
白い数字と図形が
乱雑に描かれた黒板を見つめながら、
武藤はそっけなく言う。
「そう考えたら、逆に
氷が溶ける現象が普通に見えるって
ちょっとすごくない?」
俺はまたもや疑問を投げかけた。
「いやもう、前向けって授業中やぞ」
「ん、氷上。私語するんなら廊下でやれ、ん」
そう言いながら、
黒板の前の先生は
数字を書く手を止めて振り向いた。
「ほら言わんこっちゃない」
武藤はその青い目を
ピクリとも動かさずに小声でささやく。
「でもなぁ、気になるじゃん?」
「氷上、ん、聞こえてんのか。ん」
すんません、と心のなかでつぶやきながら、
前を向き、ノートにハゲジイさんが
「ん」といった回数をメモした。
俺は、木下先生の口癖の回数を記録する遊びを
1学期の間、ずっと続けていた。
そして、
この算数の時間だけで正の数が8個も増えた。
つまり40回も「ん」を言ってたことになる。
今、授業が開始して30分だから
1分1回を優に超えてるな。
久々にいいペースだと思う。
木下先生は、年齢は50近い、
前髪から後退してきたタイプの
典型的なハゲジイさんであるが、
理不尽に怒ったりしないところが
去年の先生とは違った。
去年は本当にひどかった。
食器の片付け忘れたくらいで、
教卓蹴りとばしてひっくり返したり、
その日の気分で大量の宿題を出してきたり、
その乱暴さはこの井中東小学校においても
1,2を争うほどだった。
それに比べて、今の担任である木下先生は
ことあるごとに
「ん」をつけてくるところが少し気になるが、
教師としては文句の付けどころがなかった。
不毛なメモを終えた俺は、
さっきの氷に関する疑問を思い返した。
普段は、氷が溶けるとか溶けないとか、
そんなこと考えもしなかったのに、
なんで急に疑問が浮かんだのだろう。
俺は数秒間そのことを考えた。
考えて考えて考えつくした。
そして、どうでもよくなった。
あと3日で夏休みを控えた俺には、
全く関係のない疑問だったのだ。
暇になり、窓の外を眺めた。
眩しかった。
雲ひとつ無い青空から照りつける炎は、
俺のくだらない心の叫びを
あざ笑うかのように燃えていた。
ざまあカンカンと言わんばかりだ。
暑い。非常に暑い。
午後2時の窓際の席というのは
冬場は快適なのだが、
夏場においては地獄である。
直射日光が容赦なく照りつけるわ、
真上に付くクーラーの風は
全く来ないわで最悪だ。
誰だよ、こんなとこにクーラー付けたやつ。
今度は目線を下げた。
そこには肌色の運動場が一面に広がり、
子供たちを待ち望むかのように一人
ポツンと佇む朝礼台があった。
今日、ドッジボールをしたのは
どこだっただろうかと
探すように視線を横に移動させると、
大きな緑の林が目に入った。
運動場のかすれた琥珀色に比べると、
その緑は不自然なくらい鮮やかだった。
昔の人は生い茂る葉っぱを
「青」と表現したそうだが、
俺にはそれを「緑」としか
表現できないと思った。
まぁ、単に語彙力がないだけなんだけど。
そんなとき、林の中を、
なにか白い物体が
駆け抜けたかのように見えた。
この距離からだと
はっきりとは分からなかったが、
確かに見えた。
何だあれ?
「今さっき、白いもん見えんかった?
緑のなかに!」
俺は後ろに振り向き、
武藤に話しかけた。
「そりゃ黒板だもんな。
白いもんもあるだろ。
氷上、マジで寝ぼけてるのか?」
「黒板じゃないって。
ほら、あの林の中だよ。あれ?」
そうやって指した先には、
変わらない同じような緑が広がっていた。
白い物体なんてハナからなかったかのように
太陽がゲラゲラと笑っている。
なんだったんだろう。
3階から見えたってことは
相当に大きなもののはずなのに。
「もう寝たら?
あと授業20分もあるから結構寝れるぞ」
「いや、あったんだって。信じてくれよ」
相変わらず武藤の言い方は
バカにしてくるようだった。
その後も、暇を持て余す俺は、
さっきの白い物体が気になり、
林の中を見続けた。
確かに何かが見えたんだ。
その「何か」がなんだったのかを
説明することはできないんだけど。
しかし、いつまで経っても
その白い物体が顔を出すことはなかった。
俺の中では「緑」としか
表現できない林を見ているうちに、
少しずつ、少しずつだが緑が色あせ、
黒くなっていく気がした。
ついに、俺の視界の緑は
真っ黒に染められてしまった。




