獣2
園児の頃。僕は、その子供の話を、いつも聞いていた。
小さいころから、本が好きだった僕は、あまりほかの園児たちになじめず、どこか彼らと違う感じがした。けれど、そんな中僕に話しかけてくれる子が、一人いた。彼は、おしゃべりがしたいのか、いつも何かを話していた。
勿論、彼は子供だったから、言っていることは、すべて取り留めもない、どうでも良い話だった。僕は、こんなものを聞いているよりも、本を読んでいる方が楽しいと、素直に思っていたが、本を読んでいると、保育士が来て、僕からそれを取り上げ、友達と仲良くするようにと強く言ってくるので、しょうがないから、そいつと一緒にいるようにした。
そいつは無駄に友達の多い奴だった。彼の周りには、いつも、四、五人ほど友達が居て、そいつは、僕も含めたそいつらと、分け隔てなく仲良くしてくれた。正直、良い奴ではあったが、同時に、感情の読めない奴でもあった。
僕には、そいつが僕に、いったい何をしてほしいのかわからなかった。唯一わかったことは、そいつはいつも、自分の周りに僕らの中の誰か一人でもいれば、多分、何か幸福を感じられるのだろうということだった。
「昨日ね、お父さんと一緒にスギヤマまで行って、新しいお洋服を買ってもらったんだよ。これこれ。良いでしょー。」
こんなくだらない言葉だった。お前の服の話なんか、興味はないと、僕は内心いつも思っていた。だが、そいつの周りは、「いいなー、あたしも服買いに行きたい!」とか、「いいもんいいもん、俺は明日買いに行くから!」とか、そんな風にそいつの話にいつも耳を傾け、それに何か言っていた。
この時期の僕の行動は、本当に不毛であったと、今でも思う。もっと何か、やるべきことがあったのではないかと、今でも痛感している。だが、後悔先に立たずともいうし、僕の両親も、普通の子に擬態できるようにすることを、僕に望んでいたのだから、仕様がないことのような気もする。
その、終わりのころだったと思う。僕の元服がされたのは。
僕は、その日、七五三であった。五歳の誕生日を迎え、ほかの園児とともに、市民文化センターまで向かい、彼らと写真を撮られていた。僕の父は、ほかの連中の親よりも、とても喜んでいた。成人式でもないのに、彼のはしゃぎようと言ったら、もう正直、こっちが恥ずかしくなるほどであった。どっちが子供だよというような、そんな感じさえした。
そして、帰り道。晴れ着のままで、僕は、父に連れて行かれ、ある神社へと向かった。父は宮司であったので、僕は、同年代の子の中では、それなりに神社を見慣れていた方であったのだが、そこは、今まで見てきたものでは、比べ物にならないほどの、とても古く、廃墟になりそうな、壊れかけの神社があった。こんなところで、なにをするのかと父に訊くと、父は、黙ってついてきなさいと、さっきまでの態度をかなぐり捨て、厳格な様子で、そのまま僕の手を引いて本殿に入っていった。おかしいことに、本殿の戸は開いていた。
中は、真っ暗だった。父は、ここで待っていなさい、と言ってつかんでいた僕の手を放し、そのまま外へ出て、戸を閉めてしまった。暗闇の中、僕はとても不安になった。五歳の子供が、こんなところにいるのは、どう考えても異常である。僕はそう考え、外に出ようと戸を押した。だが、開かなかった。
「どういうこと?」
どうやら、父が戸を閉めたらしい。ただ事ではないということが、幼い僕でも、理解できた。戸を叩いて、「開けて、開けてよ!」と叫んだが、何も反応がない。僕の不安はだんだん大きくなっていった。そして、背後に何かがいるような恐れが、心を満たしていく。外で吹く風と、虫の鳴き声が、僕の孤独感を一層強くしていった。
誰か、開けてほしいと思った。もう一度戸を叩いてみたが、全く反応がない。父はもう帰ってしまったのだろうか。そう思って、声を殺して泣いていると、先ほどの恐れが、現実になった気がした。何かが、背後にいる。そう思った。
背後で、突然きしむ音がした。恐る恐る振り向いたその瞬間。
人が立っていることはわかったが、分かったのはそれだけだった。意識できたときには、その人が持っていた、何か細長いものに、一刀両断にされていた。
「」
意識の混濁が感じられた。
目が覚めた。その瞬間、僕は、前歯と犬歯から鈍痛を感じた。そして、体の節々が傷んでいることも、また感じた。僕は、地面に正座のように座っていた。
「どうなっている?」
何が起きたのか全く見当がつかない。ゆっくりと起き上がろうと、地面に手をつくと、液体をふれた感覚と、それから出るペチャリという音が、聞こえた。近くの窓から月明かりが差し込んでいる。それにかざすと、手は赤く染まっていた。血液だった。
だが、少なくとも、その血は、僕の物とは到底思えない気がした。いや、僕はどこかで知っている。この血の持ち主を、僕はどこかで、知っていた。
そして、右を見てみると、そこには、血だらけになった父の変わり果てた姿があった。
そこで、僕は思い出した。僕が何をしたのかを。
獣はそこに立っていた。
晴れ着は邪魔だった。あでやかな着物は、どう考えても戦闘には不向きだった。獣はすぐにそれを脱ぎ捨て、下着姿となった。
「どうだ?意識を保てるか?これでお前は獣となった。良いか、俺に従え。俺はお前を蹂躙できるだけの力を持っている。これを見ろ!」
目の前の獲物は、一本の刀を見せた。いや、感じさせたと言った方が正しい。それは目に見えなかったのだ。獣は知っている。それが、一人の人間を一刀両断し、自分を産み落とした刀だと。
獣に恐怖はなかった。あるのはただ、この獲物を殺したいという思いのみである。獣は、右足を前に出し、歩を進めた。
「どうした!言うことを聞け!俺の刀が怖くないのか!」
獣には、奴が何を言っているかがわからなかったが、なんとなく言いたいことは理解した。だが、無理だ。獣には、恐怖を感じ取る知性はない。恐怖は、心の奥底に捨てていた。獣は、そいつに向かってとびかかった。そして、首に牙、ではなく歯を立てた。そして、深々とそれを差した。強く噛めば噛むほど、口の中に鉄の味が広がっていった。獣は、その状態から、首の肉を引きちぎった。
部屋中に血しぶきが飛ぶ。血だまりの上に、そいつは倒れた。片手で患部を抑えるが、赤い液体は止まらない。獣は、口の中に残った皮を、まずい、と思った。だから、口から吐き出した。まだ不快だったので、獣は唾を吐いた。
「父の命」という、目的の獲物を狩ることができたことで、獣の不満は満たされた。獣の意識は、だんだん薄れていった。
『そうか。僕が殺したのか。』
その、もう父ではない何かは、未だに赤いものを出し続けていた。もう、僕は、それをみても同情する気持ちは湧かなかった。当時、父が僕に何をしたのか、わからなかったが、それが良いことではないことは、当時の僕でもなんとなく理解できた。また、それがわからなくとも、僕の精神を二分した時点で、殺されて当然だと思った。
だが、僕が殺したことには変わりがない。仕方がないので、僕は、血に濡れた晴れ着を着て、そのまま本殿の外へと出た。すると、向こうから、黒塗りの高級車がやってきた。
中から、強面の男が降りてきた。そいつは、僕に、
「中に君の父はいるかな?」
と聞いてきた。僕は黙ってうなずき、
「死んでいるよ。」
と言った。彼は、僕の様子を確認すると、「そうか。」と言って、どこからともなくバスタオルを取り出し、僕を下着にして、体を拭いた。そして、
「これを着なさい。」といって、バスローブを取り出した。ぶかぶかだったが、僕は言われるままにそれを着た。彼は、後部座席にいる誰かに何かを耳打ちすると、僕の右手をつかんで、
「もう大丈夫だ。こちらへ来なさい。」
と言った。そして、僕をその車に乗せ、僕の家へと送った。