日常1
カズトは悩んでいた。
今日は、学校にどのような服を着ていけばよいであろうか?そのようなことを、かれこれ三時間も費やして、自問自答していた。
勘違いしないように一つ付け足しておくと、彼の学校は、平生は制服着用を義務付けられており、また、今日は特にこれといった行事もない。つまり、今日も制服を着用する義務が、当然のようにあった。
では、服装など考えるまでもなく、もう決まっているという状況で、なぜ彼が服装について悩んでいるのだろうか。その答えは、彼の独り言を聞けば、すぐに理解可能であった。
「うーん、やっぱりこっちの黒いシャツの方が、ワイシャツが透けたとき、少しは映えるだろうか、それとも灰色?青だろうか?いや、そもそも暗色だと暗いイメージがあるから、明色を着たほうが良いのかな?」
どうやら、ワイシャツの下に何を着用するか、というところで脳をフル回転させていたらしい。十二単でもないのだから、別に重ねて着たところで、さほど変わらないようにも思えるのだが、彼からすれば差し迫った、真剣極まりないことらしく、洗面所の前で、鏡像を確認しながら、数枚のシャツの着脱を繰り返していた。
そんなことをしていたとき、突然、手首についている腕時計が鳴った。
無機質な電子音が、腕時計から聞こえる。
「おっと、もうそんな時間か。まいったな。」
「荷物を片付けるべきかどうか……。いや、いいか。帰ってきてからにすれば。」
彼は、もういいや、とため息を吐き、着ていた黒いシャツの上に、ワイシャツを着て、ボタンも付けずにそそくさと居間へと向かった。
それから、彼は足早に朝食を済ませ、磨くどころか、洗ってすらいないレベルの、適当な歯磨きを済ませて、挨拶もなしにそそくさと学校に向かった。たくさんのシャツを、洗面台に残して。
彼の言葉は、最後まで独り言だった。
学校までの道は、きわめて退屈らしい。
少なくとも、彼の様子では、そうとしか思えなかった。さまざまな形の、しかし普段と変わることのない建物が建ち並んでいる通学路は、彼にとっては、もう、絵画に描かれている背景とほとんど同じ、興味をそそらない、ただの付加価値でしかなかった。
住宅地を抜けると、大きな交差点に出た。背後の住宅地とは裏腹に、前方の景色は、少し、田園に近いような風景が広がっていた。
広い田畑と、小さな小屋。まるで、それは別世界のようであった。横断歩道を渡るだけで、世界が劇的に変化するような、そんな気さえする。けれど、それもまた、背景にすぎない。
新入生でもなければ、来客でもない。そんな彼の目を、いったい何がひきつけるというのであろうか。毎度眺めているこの風景に、いったい何の価値を見出せというのだろう。
彼の瞳は、それらを、とるに足らないものどころか、ガラクタと同等のようにしか思っていなかった。
そしてそれは、人間に対しても変わらなかった。
彼の前を、二人の女子生徒が歩いている。眺めているだけで、幸福を感じられるような、快活な笑顔を浮かべ、談笑していた。そして、その向こうには、また数人の男子生徒が、片方が逃げ、片方が追いかけ、という感じで、駆けずり回りながら、同じように楽しげな笑顔を浮かべていた。
通常誰もが同じように笑顔を浮かべるか、少しでも幸福を感じるその様子。そうでなくとも、相手の幸福を妬んだりするものである。同じ人間のすることなのだから、それを眺める視線には、それなりの感情が込められていなければおかしいのである。
それにもかかわらず、彼の眼は、通学路を見る目同様に、真っ黒に淀んでいた。濁っていた。人を憎むことすらしていなかった。その目の中にあるのは、
「無関心」、のみであった。
登校時刻十五分前である。
彼は下駄箱に靴を入れた。学校既定の白い靴が、そこにはずらりと並んでいた。
どれも一見すれば特別なものなど無いように見える。この学校の生徒、というくくりであるだけで、ほかは区別などついていないような、そんな風に錯覚された。
だが、無機物からは感じられなくとも、共同体の中では、その本人からは、その異質さが感じられる。何か違う、何かがおかしい。関わってはならない。そんなものが。
右側の上履きを取り出して、右足にはめた。とんとんと、つま先を地面にたたきつける。靴のかかとの部分が、ちょうどはまるようになったところで、彼は靴底を地面につけ、一歩踏み出した。足が靴にはまった。
そして、左足も同様のしぐさをして、そのまま彼は、昇降口前の階段を上り、自分の教室へと向かった。
教室は騒がしかった。当然だ。特にとりえもない、平凡な公立校である。そこには、いたって普通な生徒と、いたって普通な教師が、いたって普通な学校生活を楽しんでいるはずなのだ。
けれど、ワインにたった一滴でも泥水が入れば、それはたちまち汚水となる。
彼は、教室に一歩足を踏み入れた。
たったそれだけのことで、陽だまりのような空間が、一転して、北極圏の極夜となった。
冷たい静寂と、冷え切ったまなざしが、吹雪となって彼に襲い掛かった。冷戦といってもおかしくないかもしれない。彼は、クラスメートたちと、精神戦を行っているようなものなのであるのだから。
数秒間それは続いた。性別も、体格の差も、学力の差も関係なく、クラスメートたちは一致団結していた。
集団をもっとも団結させるものはなんであるか。それは敵の存在であると、偉い人が言っていたが、本当にそうだろう。このとき、この場には、彼の味方をする人間など存在しなかったのだ。いや、いたとしても、集団心理に促されるまま、彼らは大多数という時流に流されていたのである。
そうして、団結している間の数秒間のうちに、カズトは自分の席――ドア付近の後方二番目の席――に座った。
すぐに、そのなかでも、特に「勇敢」な男子が、彼に話しかけた。
「お前のせいで、空気悪くなっちまったじゃんか。」
彼は自分の正義感をもって言う。それは事実を言っているだけ、全くもって正論だ。しかし、それを伝えるのは、傍目から見れば悪事であった。
しかしながら、この場合、その場の空気、と言っているからには、これを見ているすべての人々は、「その場の空気」に流されていた。つまり、「傍目」など、いなかったのである。
よって、「傍目」は、「その場の空気」によって、彼の主張が正論であり、彼の行動が正義であると、誤認させられていた。
「おまえ、邪魔だからさっさと出ていけよ」
その男子は冷淡にも続けた。
けれど、カズトは黙っていた。鞄から一冊の本を取り出し、読みだす。それは、ただの若者向け雑誌だった。
他人をもっとも傷つける行動は何か。無視をすることである。
無関心でしかないカズトには、全く不本意であったのであろうが、男子は大いに傷ついた。そして、その周りの生徒たちも憤慨した。
「ばかにしやがって!なめてんじゃねえぞ!」
彼がそう言い捨て、手をあげた、そのときだった。
「おはよー。」
殆ど空気を読んでいない声が、教室の中へと響いた。
その声を聴いた瞬間、カズトの目が、黒いペンキで塗られたような、どうしようもなく濁った暗い瞳が、光を得た。
「来た。」
思いもよらず口を開いてしまい、そこから出た言葉は、そんな一言だった。
その女生徒は、黒い瞳をのぞきこんで訊いた。
「うん?どうしたのよ、私、なんか妙なことをした?」
常人としては、異様なオーラをまとっているこの教室の中に、ずかずかと入った彼女は、確かに妙なことをしている女だった。
だから、カズト以外の生徒たちは、まるで汚物を見るようなまなざしで、その女生徒を見下していた。
だが、カズトの目は、彼女の姿に、声に、しぐさに、もうどうしようもなくひきつけられたのである。
「そんなこと、してないよ。」
だから、彼は、まるで幼児のような口調で、彼女の問いに答えた。
彼は、彼女がいるだけで、幸せだと思った。彼女の、ガラス玉のような、美しい瞳と、健康的な、少し日に焼けている肌、そして、人懐っこそうだけれど、同時にどこか、大人びた印象も受ける、その笑顔が、彼に、生きる意味を与えてくれた。
『俺は、彼女に会うために、この学校に来ているのだ。』
彼は、そんなことを思っていたのだった。
「そう?なんか、様子が変に見えるわよ。」
彼女はいぶかしげにそう言った。どうやら、あまり空気の読めない様子だった彼女も、流石に、中に入ってしまえば異質だと気付いたらしい。
彼女は、先ほどカズトの隣に立っていた、勝手な正義感を持った少年に、訊いた。
「ねえ、なにかあったの?どうしたのよ?」
彼は、何か言おうとして、彼女の瞳を覗き込んだ。そして、その茶色いガラス玉のような、半透明の球体を見た瞬間、彼は「ちっ」と言って、そのまま、最初にいたグループの方へと歩いて行った。
彼女は、その態度を見て、少し辛そうな微笑を浮かべていた。空気を読めなくとも、悪意は感じられたらしい。いや、もしかすると、カズトの為に……。
どちらにしても、カズトは彼女の顔に、憂いの影が浮かんでいることが、とても許せなかった。それになにより、その状況を作ってしまったのが、自分だということが、とても憤ろしかった。
この罪は、自分が贖わなければならない。
「おい」と、彼は、男子を呼んだ。
男子が振り向こうとしている間に、彼はその男子の両頬に、左手の指を食い込ませるようにしてつかんだ。次に、どこからともなくボールペンを取り出し、それを、彼の左目数ミリ前あたりで止めて、
「いいか?もう俺に、関わるな。」
と、ゆっくりと、低い声で、はっきりと聞こえるように、言った。
光が消えたどす黒く、しかし確実に怒りで燃えている視線が、彼の、今にもつぶされそうな眼球を捉えた。男子生徒の顔を冷や汗が流れる。
口を押えられているので、はっきりとは返事が出来なかったが、「わかりました」というようなことを言ったのだろう。震えた、ぼそぼそという声が聞こえた後、カズトは、「そうか。」と言ったきり、彼を開放し、そのまま席に着いた。周りの生徒たちは、ただそれを呆然と見ているだけだった。
彼は、もう一度雑誌を広げたが、その時、ポケットの中で、何かが震えた。
携帯電話である。流行を解せぬ、彼のそれは、一世代前に売られた、通信料以外無料のフィーチャーフォンであった。
あまり見なくなった、折りたたんだそれを開き、画面を見ると、そこには、メールが一通送られていた。
両親のいない彼には、メールする相手など一人しかいない。
『おそらくあいつか……。どうしたんだろう。』
そう思い、中を開くと、それは案の定「あいつ」だった。
〈件名:今日の部活動について。
内容:誠に申し訳ないけれど、私が諸事情により欠席するので、今日の部活動はなし。まあ、いつも年中無休で来てくれているわけだし、今日ぐらいは君も休みにして、どこか買い物にでもいってくればどうですか?友達でも誘っていってらっしゃい。〉
『まったく、余計なお世話だ。』
彼の瞳の色が、少し明るくなった。微笑を浮かべる。
だが、すぐに笑顔は寂しげな表情へと変わった。
『友達なんて、お前しかいないだろうに。』
休日同様、今日も家で、惰性に過ごすことになるのだなと、彼は少し、落胆した。
はあ、とため息を吐くと同時に、予鈴の鐘が鳴った。
呆然と立って、彼の方を恐ろしげな視線で見ていた生徒たちは、はっと我に返り、そのまま各々の席に着いた。
そして五分後、平凡な授業が始まる。
言うまでもなく、それはとても退屈であった。
将来とか、進路とか。そう言ったものが決まっていない者からしたら、正直、実用的でない学問のいったい何が役に立つというのだろう。というか、そもそも何が実用的であり、何が実用的でないのか、ということすら、未だ発達途上の彼らにはわかっていなかった。
そんな彼らのうつろな目をものともせずに、教師は淡々と独り言のように授業を進めていた。「でもしか」なのであろうか、彼は生徒を誰一人として指すことなく、ただ板書と独り言を続けるのみであった。
誰一人として、他者に注意を向けている者はいない。
そして、先ほどまで異彩を放っていたカズトも、この時ばかりは周りの生徒たちと同じように、授業など目もくれていなかった。
彼は、先ほどのメールの差出人について、考えていた。
『今まで、あいつが部活をほっぽりだすことなど無かった。むしろ、サボろうと思っていたのはいつも俺の方で、あいつはそれを阻止しようとするのが、常だ。そんなあいつが休んでいるなど、考えられん。』
カズトは珍しく他人の心配をしていた。だが、そうは言ってもアポなしに、彼女のもとを、伺うことはできなかった。
もし、彼に伝えたくないような用事ならば、首を突っ込んだりしたら迷惑千万である。人に対する興味がほとんど失われている彼でも、それぐらいの常識はわかっていた。
また、アポをとることも、彼にはできなかった。「今日ぐらいはあなたも休みにして」と書いてあるということは、相手は彼が家に来ることを予期していない。そんな中そこに行くのもまた、迷惑のような気がした。
その結論がすでに出ている中でも、彼はそのまま考え続けていた。何のことはない。彼の胸の奥底では、「部長の為に」安否を確かめたい、ということよりも、「自分が」会いたいという気持ちの方が、理性を除けば強かったのである。
悩んでいる中、いったい何匹の夏鳥が窓の外を往復したであろうか。可愛らしいさえずりを音楽として譜面におこせば、何小節ぐらいになるだろうか。彼は、思考に夢中で、それらを考えてすらいなかったため、確かなことは言えないが、結論を言ってしまえば、彼は一時限ずっと、悩み続けていた。
チャイムが鳴ったと同時に、彼は一つの結論を出す。
『少なくとも今日は、部長のもとへ向かうのはだめだ。』と。
休み時間。耳を凝らしてみれば、教室という空間の中、もっと言えば、学校という空間の中では、不快な笑い声ばかりが響き渡る。
平生なら、無頓着でしかないカズトが、このときはなぜか、苛立っていた。それは先ほどの少年とのやり取りのせいではない。部長の安否に対する不安のせいである。結論を出すことができたとしても、流石にそれで、不安がすべて解消されるはずがない。少しは気が楽になったものの、正直、未だ心の中で、何かもやもやしたものが漂っていた。
その気持ちは、態度となって顕在化した。彼の普段の無表情には苦悶の色が浮かび、その瞳は普段よりも、より淀んでいるように見えた。
そんな中、時間は刻々と過ぎ、二時限目と移った。
生徒たちは、一時限目によってやっと目がさえてきたのか、より多くの人が、シャーペンで机上を摩擦させる音がする。ただがむしゃらに、考えなしに、彼らはそれを走らせていた。この暑さの中、良くそんなに頑張れるものである。一人一人のノートが黒く埋まっていく。黒板をそのまま簡略化したスケッチのように写す者も居れば、教師が時折思い出したかのように言った一言を書き記している者も居り、また逆に、自分が知っていることはあえて写さない者も居る。
そして、カズトはその中でも、写すものを取捨選択する者であった。普段の板書はあまり多くはないものの、覚えるものが少ないので、あまり苦労はしない。だから、彼には、よそ見したり、ほかのことを悩んだりする時間があった。それで、先ほどまで不安になり、悩んでいた彼が、次に何をするかと言えば、先述の通り、よそ見だった。
彼の左手前方の遠く向こうに、朝、ガラス玉のような、無垢な瞳を向けた、あの少女がいた。
彼女の名前はトウキ。身長は、カズトより2、3センチ小柄で、日焼けのため、少し肌の黒い、少女である。カズトにとって、彼女は、「生きる目標」とか、「人生の道標」とか、そういう類の物だった。彼女は、学校の生徒すべてが、少なくとも一回はそれを直視せざるを得ないような、そんな魅力を持っている美少女である。少なくとも、カズトはそう思っていた。だが、カズトが最も惹かれたのは、その容姿ではない。
瞳、つまりは目である。先ほどから、たびたび話題に挙げられている、その美しい瞳が、彼の心を鷲掴みにしたのである。そして、そのうえで、彼女の彼に向ける微笑みが、とても快活で優しげだった。それらは彼を、強く魅了した。
『ああ、俺の生きる理由が、ここにあったのだ。』と。
彼に言わせるだけの理由が、そこにあった。
なぜかはわからないが、彼女の瞳を覗き込むと、彼は自分のこころが、浄化されたような気がしたのである。不安が安心へと変えられたのである。だから、彼は、自分を救済してくれる彼女のために、何かしたいと、常々思っていた。またそれだけではなく、彼女と、友達以上のなにか、になりたいと思っていた。
ここまで書けば、彼が現在何をしているかが、おのずとわかってくるだろう。
言うまでもなく、彼は彼女の背中を見て、癒されていた。苦悶の色はすっかり消え、彼の表情は微笑となり、その視線の先は、彼女と板書以外、何も見ていなかった。そんな状態が、四限まで続いた。
最初、特別な行事がない、とは書いたが、今日は特別な日課ではあった。夏休み二日前である。午前授業だった。四限が終わると、生徒たちは、鞄の中から弁当を取り出した。カズトも同様に出し、それを食べる。多くの連中が机を動かし、友人同士でくっつけ合わせていたが、カズトは、机を全く動かさなかった。
勿論、多くの連中とはいったものの、カズト以外すべてがしっかりグループになっていたわけではない。何人かは、結局はぶられることとなる。それらの人々は、自分が孤独ではないことを主張するように、その中であまり物のグループを形成する。だが、最初に作ったグループと、あまり物で作ったグループとでは、どうしても親密度的な面で雰囲気が違う。どこか、動物の生態のように分析的な視線でこれらの行動を眺めていたカズトは、「くだらないものだ。」と思った。結局、力がないのだから、ほかの集団につぶされないように味方を増やしているだけ。彼らは、スクールカーストの最下層になりたくないだけなのだ。
所詮、偽りである。表面的な冗談や、本当は悩んでもいないのに、悩み相談などをして、お互いの絆が強い、と自分に嘘をついているだけ。利害関係が悪化しそうであれば、すぐに相手を切り捨てるのだ。そんな、不安定な関係なら、最初からいなければよいと、カズトは思った。
そんな風に考えているうちに、いつの間にか、彼の周りには、殆ど、グループが出来上がっていて、残った空間に、彼がいる、そんな状態となっていた。少なくともカズトにはそう見えた。夏にもかかわらず、何とも暑苦しい様子であろうと思った。
だが、よく見てみると、ひとりだけ、未だグループのできていない者がいる。
それは、トウキだった。
「君も一人なの?」
すでに弁当を広げていて、もう少しでミートボールを口内に入れようというとき、彼女はカズトに訊いた。手が止まる。そして、そのまま数秒間、彼は硬直した。
普段は、班別で食事をするため、彼女とは、話をするどころか、そもそも机を付けることすらしない。外見的な距離は近くても、心は遠い、というような感じの雰囲気が、彼の班では、いつも漂っていた。彼の机が接触している生徒ですら、彼と話すことがないのに、ましてそれ以外の班員ならなおさらだ。よって、彼女が話しかけてきたこと自体が、まさに予想外であった。
「そうだけど……。」
驚きのあまり、彼は、それしか言えなかった。
「じゃあ、一緒にご飯食べましょうよ。私もちょうど一人だし。都合がいいじゃない?」
彼女は彼の黒く濁った瞳を覗き込み、にっこり微笑んでそう言った。
確かに都合がいい。いやむしろ、都合がよすぎた。まるで、神の見えざる手の介入でもあったかのようだったので、カズトは先ほど以上に面食らった。だが、今回は意外と速くにその意味を完全理解した。
彼は、いつもの冷静な無表情は、その時にはもうどこに行ったのか、歓喜のあまり、触れたら今にも融けてしまいそうな、柔和な微笑みを浮かべていた。
「勿論いいよ。一緒に食べよう。」
彼はそう言って、机を動かし始めた。周りの生徒たちは、唖然とした表情でその一部始終を眺めていた。言葉どおりの意味で、開いた口が、塞がらなかった。
それから、彼は彼女と何気ない談笑をし始めた。
「トウキって、テニス部だったっけ?テニス得意なの?」
彼は、誰にも見せたことのないような笑顔で言う。
「いいえ、そうでもないのよ。でも、なんていうか、好きなの。さほど大きな力を片腕にかけているわけでもないのに、ボールがコートの向こう側に行くのが、とっても爽快感があって。」
彼女は、丁寧に彼に答えた。美しい視線は、カズトの顔を見つめたままである。
「へえ、面白そうだね。でも、俺、運動神経そんなによくないから、できるかどうかわかんないな。難しい?」
「ちょっと難しいかもしれないわ。私もそんなに長くやっているわけじゃないから、断言はできないけれど。」
彼女は少し頭を下ろして、きまりが悪そうに言う。だが、すぐに上げて、今度はカズトに訊いてきた。
「そういえば、カズト君は何部なの?いつも遅くまで学校にいるみたいだけど。それに、殆どの部活が休みになる月曜日にすら、無休で行っているみたいじゃない。もしかして運動部?」
カズトは、トウキが自分のことを意外とよく知っていることに驚いた。そもそも、彼は屋内部活であるゆえ、彼が土日以外、年中無休で部活に行っていることは、普通知らないはずなのだけれど、それすら知っているという。もしかして……、とあらぬ妄想を考えそうであったカズトは、すぐに頭からそれを振り払い、トウキの方へ向いて言った。
「いや、そうじゃないよ。平日は確かに無休だけど、運動部ではない。俺は文芸部に所属しているんだ。」
トウキは、それを聞いて、意外な様子を見せた。
「文芸部?でも、それって文化部でしょ?失礼かもしれないけれど、そんなに活動があるとは思えないわ。小説の連載でもしているの?」
「いや、別にそういうわけでもないんだ。特に何もやっていないし、俺は文章能力とかからっきしだから、何も書いたことないんだけど、部長ができるやつでさ。文芸部を選んだのも、そいつの推薦があったからって感じかな?そいつが作った小説を、俺が部誌にする、って感じかもしれない。まあ、つまりは雑用だよ。」
そう言った時、カズトは不意に、部長のことを考えた。『あいつは今大丈夫だろうか。家でおとなしく寝ているだろうか。何かアクシデントに遭遇していないだろうか。』などと。すると、どうやら、カズトの表情の変化に気付いたらしく、トウキが心配げに訊いた。
「どうしたの?何か心配事でもあるの?難しい顔をしているけど。」
心配をかけてしまった。カズトは、まずいと思い、すぐに微笑んだ表情を見せて、取り繕うように言った。
「いや、別に大丈夫さ。ただ、今日は部活が無いんだ。部長がなんか、事情があるらしくって、学校休んでいてさ。」
「大丈夫なの?夏風邪とかだったら、治りにくいので心配だわ。」
トウキは、未だ心配そうな顔をしている。
「メールにも、病気とは書いていないから、きっと大丈夫だよ。ありがとう。部長にも伝えておくよ。トウキが心配してくれていたよって。」
「ふふっ。早く戻ってくるといいわね。」
彼女は、少し笑った後、カズトの顔を見て言った。カズトは、なんて優しい人なのだろうと、強く感じた。見ず知らずの人を心配するなど、彼だったら絶対やっていないことである。彼は、他人になど興味を持つことができるはずがないのだから、正直、彼女の気持ちを理解することはできなかったが、彼女のその行動に、崇高さを感じた。
突然、廊下側からそよ風が吹いてきた。それは、トウキの横を通り抜けた。
彼女の制服と髪が少しなびく。乱れた髪を、彼女は自然に整えた。
「夏ね。」とトウキは言った。
「そうだね。夏だ。」と、カズトは言った。
妙な沈黙が一呼吸あった。彼は、弁当の中のおかずをつまみながら、何を言おうかと考えていた。その時、トウキが口火を切った。
「あなたは、夏休み何か予定でもあるの?」
「え?えっと……。」
正直言うと、部活があった。部長が夏休みにもやると言い出していたので、予定のない彼は否が応でも参加しなければならなかったのである。そう考えて、彼は「ある。」と断言しようとしたが、その時、実質的には予定はないようなものであることに気付いた。なぜならば、結局彼は、部長とただ駄弁っていることしかなかったのだから。
「ないよ。」と、彼は、笑顔で言った。
「そうなの。でもきっと、あなたの部活なら、部長さんが部活を入れたがるんじゃないかしら?平日毎日やっているほど熱心な方なんでしょ?」
彼女もまた、笑顔で彼に訊く。
「まあ、そうなんだけど、先に俺が言った仕事内容は、普段はほとんどなくてさ、いつもはただのおしゃべりになっているっていうのが正しいと思う。」
「意外ね。そんな感じなら、あなたは不毛だと言って、投げ出しそうだけど。」
確かに普段のカズトなら、その通りであろう。実際、もしもクラスメートの誰かが彼を遊びに誘ったら、彼はすぐさま「行かない」といっていただろうが、部長は少しわけが違った。
「いや、まあ部活に入れてもらったのも、正直言うとあいつの好意ってとこもあってさ。あいつの頼みだし、別段予定がないのなら、行くべきだろうと思うから。」
実際は、これには建前の部分も少し含まれていて、本当のところは、部長に対してカズトが気を許している、というか、カズトが部長といることを少し嬉しく思っている、ということが、最大の理由であったりもしたのだが、それを言うのはカズトも少し恥ずかしかった。
「ふうん、信頼しているのね。」
だが、彼女はどうやら、彼の考えをある程度推察できたのか、さっきよりも悪戯っ子のような、得意げな微笑みを浮かべて言った。
「私も、そんな友達が欲しいものだわ。」
彼女はぼそっと彼に言う。そして、弁当の中身を、口の中へ掻き込んだ。彼もそれに倣い、自分の弁当箱を早くに空にした。
「でも、トウキはいっぱい友達が居そうだけど。そうでもないの?」
カズトはトウキに向かって言った。すると、彼女は、今度は、少し憂いのある微笑みを浮かべた。それは、どこかさみしそうな、そして、どこか後悔めいたものが内側にありそうな、そんな微笑みだった。
「まあ、表面的に友達と呼んでいるような人は、たくさんいるけれど、でもそんなものよ。私を完全に信用しきっている人はほとんどいないし、そして私が完全に信用している人もほとんどいない。」
まるで、自分のことを言っているようだとカズトは思った。彼が信用しているのは、トウキを除けば部長のみである。おそらく、将来的に増えることもないのだろう。カズトは、それに別段不安とか、恐怖とか、そういうものは感じてはいなかったが、彼女には、誰か信用できる人が居てほしかった。彼でなくても良い。単に、カズトは、彼女に一人で何かを背負い込んでほしくなかった。
「大丈夫だよ。トウキは優しいから、誰かきっと、信頼し合える友達ができるよ。」
だから、彼は、恥も外聞もなく、そんなことを口にした。トウキは、その言葉を聞くと、先ほどよりも憂いがなくなったかのような、どこか解放されたような笑みで、カズトを見た。そして言った。
「ありがとう。あなたは本当に優しいのね。そして、本当に、純粋なのね。」
優しい。純粋。二つとも、カズトは初めて言われた言葉だった。彼は、ほかの生徒には、冷酷とか、悪魔とか、そんな風にしか言われたことはない。また、実際彼は、その「ほかの生徒」には何も興味を持っていないのだから、別段気にすることもなかった。しかし、トウキに言われた言葉は、彼に、形容しがたい浄化作用のようなものを与えた。
唐突に、鐘がなった。どうやら、あと5分で昼食の時間は終わりらしい。
「そろそろ時間ね。カズト君、どうもありがとう。楽しかったわ。」
トウキはそう言うと、そのまま弁当を片付けて、席をもとの位置に戻した。周りの生徒も、清掃に間に合うように荷物を片付け、机を動かしている。カズトは、少し残念な気持ちになりながらも、「楽しかった」という言葉と、その甘い口調の余韻を噛みしめながら、そそくさと机を動かし始めた。
時が変わって放課後。五限はない。今日は特別日課なので、午前授業なのである。早く帰れることに、当初若干浮き足立っていたものの、部活に向かえないとなると、すぐに気持ちは落ち込んだ。家で何をしようかと考えつつ、少ない荷物を、整理していた。周りでは、さまざまな集団が、各々で何かの話題に花を咲かせている。何とも楽しそうなことである。うらやましいとは思わないが、とカズトはそれらを黒い瞳で一瞥し、荷物を背負って帰途に就いた。
すたすたと歩調を止めず、階段を下りて昇降口まで向かう矢先、彼は自分の名前を呼ぶ声を聞いたような気がした。履物入れの前で足を止めると、誰かが走ってくる音がする。果たしてそれは、トウキだった。
「歩くのが速いのね。」と息を切らして彼女は言う。
「もしかして、俺を呼んだ?」カズトは、まだ呼吸が荒い彼女に訊く。
彼女は、走ってきたせいで上気した顔を、もう少し赤くして、口ごもった。言葉を選んでいるらしい。何を言いたいのだろうと、カズトは少し訝しんだ。何か言いづらいことでもあるのだろうか。そう思っていると、彼女が重い口を開いた。
「ええ、あ、あの、一緒に帰らない?」
どういう風の吹き回しだろう、彼女がカズトと一緒に帰ろうというとは。カズトは、トウキの今日の行動を少し不審に思ったが、別段思惑があるようにも思えなかった。寧ろ、このシチュエーションは、願ったりかなったりである。どれだけの日々、彼女と肩を並べて下校することを待ち遠しにしていたことか。もしも何か思惑があったとしても、彼にはもうどうでもよかった。歩いている途中に背後をナイフで刺されたとしても、本望ではないかと思うくらいに。
「勿論、喜んで。」
だから、喜びで舞い上がっていた彼は、本心を口に出してしまった。少し恥ずかしい気持ちになったが、トウキは別段どうと思っているわけでもないらしく、嬉しそうに表情を明るくして、「ありがとう!」と言って、そのまま自分の履物入れの前に向かい、それから靴を出して履き替えた。
彼も、それに倣い、急いで靴を履き替えた。