胎児の夢
胎児は夢を見ていた。
地獄の夢を。
灼熱の地獄の夢を。
憎悪の炎に包まれた鬼を。
だがいまだ叫ぶすべを持たぬ胎児には助けを求めることもできなかった。
ただひとつの自己防衛は体を丸めて悪魔が通りすぎるのをじっと耐えしのぐことだけだった。
出てはいけない。ここから出てはいけない。外界に出てはいけない。
しかし、ふと思う。
はたしてここも安全なのだろうか、と。
ここは害の及ばぬ世界なのだろうか、と。
怖い。なにが怖い?その恐怖はどこから来ているのか?
死か?死ぬのが怖いのか?いまだ生まれてさえいないというのに?
自分を傷つける者が怖いのか?苦痛を受けるのが怖いのか?
嫌だ。生まれたくない。このまま永遠に眠り続けていたい。
少なくともここから出なければ時間は動かない、と思った。
なにも見なければ良い。なにも聞かなければ良い。なにも感じなければ良い。
まだ自分は人間ではないのだ。人間で無ければ人間としての害を受けることはない。
人間はつらい。人間は悲しい。人間は苦しい。人間は・・・。
このまま胎児でいよう。願い続ければ叶うかもしれない。
どうかこのまま時が止まりますように。
未来は見たくありません。未来なんかいりません。このままがいいのです。
胎児にはわかっていた。
ここから出たらおそらく自分は不幸になるでしょう。幸せを知ることもなく不幸に。
ならばこのままがいいのです。
もし、もしそれさえ叶わぬのならいっそ今のうちに殺してください。
ああ、熱い。焼ける。肉が焦げていく。
水を、水をください。このままでは干からびてしまう。
ああ、こんなつらい夢はもう見たくない。なぜ夢なんかを見るのだろう。
夢?本当に夢なのだろうか?
もしや・・・自分はもうすでに生まれてしまったのではないか?
ではこれは夢ではないのか・・・?
こんなひどいことが夢ではないのか・・・?
ああ、熱い。焼ける。つらい。
つらいのは肉体的な苦痛のせいなのか。死を予感した絶望のせいなのか。
でもいい、これでまたあの無の世界に戻れるのだ。
戻れたならもう二度とこの世界には来るまい。
生まれなければ良いのだ。
そうだ、悪魔だ。悪魔の正体。
自分を疎ましく思い、常に死を望んだ者。
追い求めるも拒絶する者。
でももういい。これでこの悪魔の呪縛からも逃れられるのだから。
無に還る間際、胎児は気づいた。
自分の感じた恐怖は死や苦痛のことではなかった、と。
真実怖いのは、誰も自分を愛してくれぬことだ、と。
孤独の中で生き、孤独の中で死ぬのが怖かったのだ。
愛を知らずに生まれ、死ぬことは地獄に生きるに等しいことなのだ、と。
その乳幼児の母親が遊興場から車に戻ると冷房のかかっていない車内はすでに灼熱の地獄と化していた。
女は車内でぐったりとしたわが子を見るとしばし黙り込んだ。
だがただひとつ、うんざりしたようにため息をつくと面倒だが仕方がない、という様子で携帯電話を取り出した。
どっちだっけ?110番?119番?