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第二章 少女願望 二

 二


 その日雪火は珍しく、焦燥感を抱いていた。マンションから電車でほど近い保育園に、猿鬼の群れが出たと聞いたためだ。

 あれは多く山に出る妖で、腹が減った時だけ街へ下りてくる。だが、一度人の味を覚えてしまえばその限りではない。子供の柔らかい肉を狙って、公園や幼稚園に潜むこともある。今回出たのは、おそらくそういう猿鬼だろう。

「最初に出てから一週間だそうですね」

 緋緒に渡された書類を見ながら、黒龍が呟いた。人に見られるからと、今日は金色の目を隠すために細い銀縁の眼鏡をかけている。カラーコンタクトを入れればいいのにと、雪火は思う。

 討伐は仕事としか考えていない雪火も、子供が危ういと聞けば黙ってはいられない。自分でも何故こんなにこだわるのか分からないが、とにかく、気が急いていた。

「どうしてそんなに放っておいたのだ。信じられん」

 普段は温厚な古梅紅も珍しく、憤った様子だった。

 作り物めいた少女だ。丸く大きな目に、小ぶりな鼻と唇。頬のラインはまだ丸く、幼さを残している。三つ編みにした髪は何故か白く、電車内で奇異の視線を向けられていた。

 雪火が行くなら一緒に行くと駄々をこねた彼女は、今日は翠龍を置いてきた。留守番がいなくなるのと、彼自身が行きたくないと激しく拒否したためだ。どうも子供が嫌いらしい。

 紅は十分ほど悩んでいたが、結局ついてきた。この短い期間に、ずいぶんと懐かれたものだ。

「竜士の子供が多いそうですからね。世間体があるんでしょう」

「くだらん! 世間体と子供とどっちが大事なんだ!」

「紅、静かに」

 声を荒らげた紅をたしなめると、彼女はしゅんと肩を落とした。

 怒る気持ちは分かる。分かるが、まず世間体を気にするのが大人というものだ。ただでさえ竜士は公務員だから、子供が通う保育園に猿鬼が出たとなれば、世間から責められるだろう。危機管理が足りないと。

 むろん、妖が出るかどうかなど予想できるはずがないから、完全に言いがかりだ。つまりそんな懸念を抱くほど、竜士は嫌われている。真面目に働くのが、バカバカしく思えるほど。

 嫌われようが好かれようがどうでもよかったから、雪火は竜士になった。それなりに給料も良かったし、保険も充実している。一人で生きていくには、ちょうどよかった。五星になった今も、働く理由は大差ない。

 それでも、子供だけは、いつだって守る気でいた。正義感などカケラもない雪火でも、国の未来を担う子供だけは、大事にしなければと思う。未来だとか希望だとか、たぶん、そんな理由ではないのだろうと、自分でもわかっている。

 でも、だから彼女は今、焦っていた。

「ここですね」

 黒龍の声につられて立ち上がり、彼を先頭に電車を降りた。狭いホームは閑散としており、ちらほらとサラリーマンの姿があるばかりだ。

 最近は、電車に乗ることもあまりなかった。そもそもめったに外出しないのだから、当然といえば当然か。

「しずかだな」

 ひそめた声で呟きながら、紅は辺りを見回す。駅を出ると目の前に道路があったが、車の通りはまばらだった。

 正面に雑居ビル、右手側に商店街、左手側に住宅街。都心からやや離れている代わりに、ベッドタウンとしてそこそこ栄えているようだ。

 夜になると人が増えるような町は、よく妖の脅威にさらされる。彼らはおおむね夜行性で、夜になると人の多い場所を選んで襲撃するためだ。とはいえ日中も隠れているわけではなく、活動はしている。活発でない分仕事がしやすくなるから、竜士は日の出ているうちに動くのだ。

「あ、あれだな」

 紅が指差した先には、柵に囲まれた建物があった。門に掛けられた看板には可愛らしくデフォルメされた竜が描かれており、一目で保育園か幼稚園だと分かる。緋緒は人払いさせたと言っていたが、園庭にはまだ、数名の幼児と保育士が残っていた。

 パステルカラーのスモックを着た子供たちは、これから帰るのだろう。保育士と手を繋ぐ子もいれば、遊具で遊ぶ子もいる。親が迎えにくるのを待っているのかもしれない。

「園の方がまだいらっしゃいますね。少し待った方がいいでしょう」

「いいな、私も遊びたい」

 雪火も黒龍も、紅の呟きは聞こえなかったふりをした。

 五星は、日陰者。いつだったか黒龍がそう言っていたのは、人前に五星として現れてはならない、ということだった。龍たちはともかく、主は人間だ。地位を妬む者も、諸悪の根元と蔑む者もいる。

 だから、立場は隠して生活しなければならない。五星として仕事をしに来た以上、人に見られてはならないのだ。

「表から入るの?」

「裏門を開けておいてくださるそうです。行きますか?」

 うなずくと、黒龍は先導するように歩き出す。外からでも、早く探した方がいいだろう。

「あっ」

 突然声を上げた紅を見ると、彼女も雪火を見ていた。何か見つけたのかと思ったが、その表情は普段と大差ない。いや、妖の気配があっても、どうせ紅の表情は変わらないだろう。

「きのう芙蓉が、落ち込んでいた。なにか知らぬか?」

 聞かれても、答えられなかった。碧龍を見て切なそうな顔をしていた、などと言えるはずもない。そもそも、どうしていきなりあんな顔をしたのか、雪火にもわからなかった。

 少し悩んで首を横に振ると、紅はううんとうなった。

「また誰か振ったのかと思った、ちがうのか」

「振った?」

 頷く紅に、雪火は怪訝な表情を見せる。振ったというのは、誰かに告白されて振ったということだろうか。毎日仕事しかしていないのもわかっているだろうに、そんな発想が出てくる紅が不思議だった。

 園の周囲を囲む柵を横目に、裏手へ回る。正面には小さな公園があり、散歩する老人が一人いるだけで、変わった様子もなかった。実にのどかだ。

「学校から帰ってきて落ち込んでいるからどうしたと聞くと、いつも誰かしら振ったと言っていた」

 何故振った方が落ち込むのか、雪火には理解出来なかった。優しい人だから、罪悪感を覚えてしまうのだろうか。それなら振らなければいいのに。

「芙蓉には好きな人がいるのだ。誰なのか教えてくれないが」

 気付いていないのかと、雪火は意外に思う。あんなに分かりやすかったのに。

 近くにいる方が、わかりづらいこともある。そういうことなのだろうか。雪火は無口な代わりに、人の顔色を見るのは得意だ。

 ふと、黒龍が鼻で笑った。

「落ち込む気持ちが分かりませんね。おかしな方だ」

「芙蓉は昔からヘンだ。私の髪を見て、いいなあと言っていた」

 実に失礼な言葉だが、彼女なら本気で言いそうだ。

 紅の髪が白いのは、霊力が強すぎるせいなのだという。理由は解明されていない。ただ、そういう人は昔からいたようで、特に鬼子と呼ばれて蔑視される。

 その割に、緋緒のように異様な気は感じない。翠龍が特殊だと言っていたのは、このことなのだろうか。なんにせよ、笙を扱えるのだから、霊力が強いことは確かだ。

「誰かいますね」

 門から注意深く中を覗いていた黒龍が、ひそめた声で呟いた。こういう時だけは仕事するふうなのに、肝心の討伐となると何もしないのが不可解だ。まさか本当に、戦うのが面倒というわけでもないだろうに。

 紅は柵の間から中を覗き、ためらいなく門を開けた。雪火は硬直し、黒龍は目を見開く。

「こんにちは!」

 更に紅が大きな声であいさつしたので、雪火は絶句した。どうせ元々ろくに口を利かないが。

「こんにちはー!」

 紅より更に元気よく、子供の声が答えた。いたのは、子供だったのだろう。安堵して中へ入ると、カバンをななめ掛けした子供達が駆け寄ってきた。

 五六歳の子供達が、三人。みな一様に、満面の笑みを浮かべていた。あどけない笑顔に、雪火の胸が痛む。

「おねえさんなに?」

「ここにおばけがいると聞いて見にきた。知っているか?」

「知ってるー!」

 女の子が二人、声を揃えて言った。元気のいいことだ。

 紅が何を考えているのか、雪火にはよくわからない。何も考えていないのかもしれなかった。ただし、案外鋭いところがあるのも事実だ。

「見たことはあるか?」

「ないー!」

 二人はまた、声を揃えて満面の笑みで答えた。なんの手がかりにもならない。

 しかし、一人だけ青いスモックの男の子は、とたんに黙り込んだ。両手で服の裾を掴んで、もじもじと肩を揺らしている。あどけない仕草に、雪火は思わず笑みを浮かべる。

 そんな彼女を、黒龍が意外そうに見ていた。雪火の性格で子供好きだとは、まさか思わないだろう。

「……どうした?」

 紅も少年に気付いたのか、膝に手をついてかがみ、目線を合わせて問いかけた。おずおずと顔を上げた彼は、丸い顔を真っ赤にしている。雪火の顔もつられて赤らんだ。

「おれ、見た」

 女の子たちはとたんに、ほんとほんとと騒ぎ立てた。目を輝かせる彼女たちは、まだ妖がどれほど恐ろしいものか、知らないのだろう。

「でもヒミツだから」

 秘密なのに見ず知らずの人に言ってしまうあたり、言いたくて仕方ないのだろう。紅は困ったように眉尻を下げて身を引いたが、雪火は反対に、少年の前にしゃがむ。

 親に言われたか、保育士に言われたか。見たものなんでも報告したい年齢の子供に、秘密など無意味だ。そこまでして隠したいのかと、雪火は憤りすら覚える。

「なら、私たちも内緒にしておく」

 うつむいていた少年は、わずかに顔を上げて雪火を見た。そこでやっと、彼女は微笑んで見せる。

「どこで見たの? 知りたい」

 食い下がったのが意外だったのか笑顔の雪火が意外だったのか、紅と黒龍は顔を見合わせた。

 自力で探したいのはやまやまだが、あまり目立つのはよくない。ただでさえこの園は、柵に囲まれているとはいえ、外からよく見える。そこにスーツ姿の見慣れない人物がいたとなれば、噂になるだろう。

 被害者の意向は、尊重しなければならない。五星は直接五星として人に会ってはならない。だから手段は、これしかなかった。何も知らない子供を利用するようで、心苦しくもあったが。

「……あっち」

 少年はしばらく悩んでいたが、やがてそう呟いた。雪火が立ち上がって手を出すと、彼は素直にその手を掴む。

「黒龍」

 声をかけると、彼ははっとして姿勢を正した。

「私から離れていて」

 それしか言わなかったが、理由は自明だろう。彼は今までに何度も、雪火の笛のせいで耳を痛めている。

「……御意」

 いつもより少し硬い返答に頷いて、雪火は少年に引っ張られるままついて行く。

 裏庭を少し歩くと、かしましい女の子たちと話しながら、紅がきょろきょろと辺りを見回し始めた。いるのだろう。

 雪火は片手で篳篥を取り出し、感触を確かめるように握る。リードは、電車の中で差してきた。大丈夫と、自分に言い聞かせる。

「あれ、あの木」

 少年が指差した大木は、どんぐりの木のようだった。あそこに、いたのだろうか。

「ダメだ。ここまでだ」

 紅の声につられ、少年が立ち止まった。ふしぎそうに首を傾げる彼は、意見を求めるように雪火を見上げる。

「危ないから、先生のところへ行った方がいい」

「お姉ちゃんは?」

「私も、ちょっと見たら行くから」

 このぐらいは、許されるだろう。考えながら、雪火は紅を振り返る。何を話していたのか、彼女は二人の少女と一緒に唇に人差し指を当てていた。

「紅、この子たち……」

 紅が何の前触れもなく弾かれたように顔を上げ、大木を見上げた。やや遅れて、がさがさと音がする。さすがに、向こうも気付いたようだ。

 送って行く時間はない。雪火は若干離れて見守っていた黒龍を見上げる。

「黒龍、連れて行って」

 しばし、間があった。焦れて眉間にシワを寄せると、彼はようやく口を開く。

「……は?」

「クロさん頼む。どうせ働かないのだろう」

「や、しかし……」

 子供たちが叫んだ。雪火はとっさに少年を背後へ隠し、大木に向き直る。その根元には、四匹の猿鬼がいた。多い数ではない。一人でなんとかなる。

「おまえに命じてる。早く行って」

 黒龍がどんな反応をしたのか、背中を向けていた雪火には見えなかった。ただ、初めて彼に命令したように思う。

 少しの間の後、軽い足音が聞こえた。

「……仰せのままに」

 賑やかな声とともに背後の気配が去った事に、安堵している暇はなかった。猿鬼は耳障りな声を上げ、手足で跳ねるように近付いてくる。ある程度まで近付くと、突然跳んだ。

 雪火は身構えたが、妖は彼女の横を通りすぎた。にわかに焦って振り返ると、紅が猿鬼の尾を掴んでいる。物理的な攻撃は無意味だが、触れることは出来るのだ。

「どこへ行く」

 言いながら、紅は妖を地面に叩きつけた。すぐに起き上がった猿鬼は、牙をむき出しにして彼女を威嚇する。

 悠長に観察している場合ではない。

 雪火は篳篥を口元へ持って行きかけたが、今にも飛びかからんばかりの妖共を見て、やめた。地面に四肢を着いて跳躍のタイミングをはかる猿鬼に舌打ちし、思考する間もなくスーツのポケットから札を取り出す。笛があるからあまり使う機会もないが、念のために毎日書き直しているものだ。

 初代天王に神が伝えたとされる、十種の退魔の呪言。それぞれ効果も書くときに必要とする霊力の量も違い、一番強い札は雪火には書けない。今では読める人も少ない文字の書かれた札を見て、猿鬼が騒ぎ出す。

 読めなくてもいい。効けばそれでいいのだ。

「雪火、笙を吹いてる時間がない。任せていいか?」

 頷いて、雪火は札を紅に差し出す。彼女は素直に受け取ってから、不思議そうに首をひねった。

「私も持っているぞ」

「それは障壁を成す。持っていて、一匹ずつやる」

 紅はまだ、不可解そうに首をひねっていた。雪火は改めて、篳篥を口に当てる。

 そこで、猿鬼が動いた。紅が叩きつけたものと、木の下で様子を伺っていた三匹が、同時に跳躍する。

 紅はさすがに焦ったようだったが、雪火は構わず竹筒に呼気を吹き込んだ。大気を震わす笛の音が、辺りに響く。いつもよりも、力強い音だった。

 園庭に向かわせてはならない。逃がしてもいけない。一匹たりとも。そこにはまだ、多分子供たちがいる。

「すごい音だな……」

 紅が呟いて、降下してきた猿鬼を避けた。人間の耳には、強めの笛の音にしか聞こえないはずなのだが。霊力が強すぎると多少影響を受けると聞くから、そのせいだろうか。

 避けられた妖は、その足で見当違いの方向へ跳んだ。恐らく園庭へ向かおうとしているのだろう。

 残りの三匹が、同時に降下する。紅の表情には焦りが見えたが、雪火は動じない。園庭へ向かう猿鬼を睨み付け、大きく息を吸い込む。

 行かせない。

 音が割れず、不快にならない程度。それでいて、一際強く。篳篥が鳴いた。

 頭上にいた猿達が一斉に悲鳴を上げ、飛びかかることも出来ないまま落下した。紅は避けようとしたが、再び耳障りな声が響いたところで、目を円くする。

 二人の頭上すれすれで、猿達が弾かれた。ところどころ体毛が焼けているのは、障壁に触れたせいだ。

「……いい筆を持っているのだな」

 札の性能は、筆と墨で決まる。紙はあまり関係なく、白紙であれば折り紙に書いても障子紙に書いても同じだ。術者の霊力も、下位の札なら大して必要ない。

 だから、文字自体が読めなくてもかまわない。術者がその意味を、理解してさえいれば。

「紅、もう来る。貼って」

 雪火の視線の先には、おぼつかない足取りで近付いてくる猿鬼がいた。一匹ずつなら、操るのにそう時間はかからない。

「わかった」

 もう何も聞かず、紅はブラウスのポケットから札を取り出す。雪火からは見えないが、恐らく破魔札だろう。

 ふらふらと歩いていた妖は、少し離れたところで立ち止まる。うなだれたまま、微動もしない。殺されるのを、待っているかのように。

 紅が投げた札が当たると、猿鬼は声ひとつ上げずに消えた。やみくもに投げても当たらないから、笛で動きを止めてから消すのが通例だ。地面でもがいていた妖が動くと、雪火は篳篥を持ったまま、スーツのポケットを探る。

 片手で鞘から抜いた短刀を取り出したのと、猿鬼が雪火の顔めがけて跳躍したのは、ほぼ同時。鋭い爪を振りかぶる妖をすれすれで避け、横を通りすぎようとしたところを短刀で突いた。運悪く背に当たったが、雪火はとっさに腕を横へ振る。

「雪火!」

 甲高い悲鳴と共に妖が消えた瞬間、紅が叫んだ。雪火は視線だけを流し、視界の端で赤い毛並みをとらえる。

 短刀を逆手に持ちかえ、迫る妖を迎え撃つ。鋭い爪が腕を掻いたが構わず、顔面めがけて刃を突き立てた。しぶとく動いていたが渾身の力で腕を振りぬくと、こちらも消えた。

「雪火、腕……」

「いい」

 妖の爪は袖を裂き、肉にまで食い込んでいた。スーツの裂け目から覗くシャツに血が滲み、じんじんと痛むが、動かないほどではない。痛いだけなら、慣れている。

 最後の一匹は、憎々しげに顔を歪めていた。畜生が仲間を殺されて怒るのかと、雪火は心中嘲笑する。

 書類には書かれていなかったが、あれに殺された子供もいただろう。そう考えると、久しく忘れていた憎しみがわき上がってくる。それが正義感からくる感情でないことを知っていて、自嘲する客観的な自分もいた。

 この世に正義があったとしても。

「紅、耳をふさいで。見たくなかったら目を閉じて」

 呟くと同時に、猿鬼が駆け出した。雪火はゆっくりとリードを口に当て、肺が痺れるほど深く息を吸い込む。彼女の唇は、笑っていた。

 この世に正義があったとしても。

 それは、雪火を救うためには動いてくれない。

「ひっ」

 紅が小さく、悲鳴を上げた。だから耳を塞げと言ったのに。

 篳篥が出すことの出来る最高音が、刃のように耳を刺す。跳躍しかけていた猿鬼が硬直し、小刻みに震え出す。一音だけが長く響くうち、妖の全身の震えが大きくなって行く。

 やがて猿鬼は痙攣し始め、膝から崩れた。それでもまだ、音は止まない。雪火の息が切れるのが先か、向こうの命が終わるのが先か。

 全身を震わせていた妖が、真っ赤な肉を飛び散らせて弾けとんだ。その姿が消えてようやく、雪火は篳篥を口元から離す。

「あんなことが、出来るのか」

 深呼吸しながら、雪火は紅を振り返る。目を円くしたまま、彼女は雪火を見つめていた。

「竜が近くにいると出来ないから、普段はやらない。龍もどうなるかわからない」

「なるほど……クロさんは大丈夫だろうか」

「主!」

 驚いて見れば、黒龍がいた。苦々しい表情を浮かべているのは、笛の音を聞いてしまったせいだろうか。

「なんです、今のは……」

「だから離れていてと言った。あの子たちは?」

 歩み寄ってくる黒龍から視線を外し、雪火は周囲を見回す。彼と紅以外、誰もいない。

「帰しました。駄々をこねられましたが……それより、お怪我を」

 子供の頃は、幸せだった。両親は記憶の中にいないし、祖父は屑だったが、大事な友達がいた。だから、幸せだった。

 見ず知らずの子供を守ることで、その思い出を、必死で守ろうとしている。我ながら、無様だ。

「……なんともない」

 呟いて、雪火はきびすを返した。もう、ここは守った。早く帰って、傷をなんとかしなければ。

 どうせもう、傷だらけなのに。

「主!」

 強い声で呼ばれ、驚いて立ち止まった。同時に肩を掴まれ、思わずびくりとする。

「なりません」

 見上げた黒龍は、珍しく真剣な面持ちだった。何事かと怪訝に眉をひそめると、彼は首を左右に振る。

 今まで雪火のことになど無頓着だったのに、どういう風の吹き回しだろう。初めて命令されて、下僕の自覚でも芽生えたのだろうか。そういうタイプでもなさそうだが。

「クロさん、珍しく必死だな」

 見下ろした紅は、しゃがんでリュックをあさっていた。黒龍は眉間にシワを寄せ、彼女から目をそらす。紅はしばらく荷物を探った後、あった、と呟いた。

 つき出されたのは、消毒液だった。思わず瞬きすると、紅は微笑む。

「消毒!」

 勢いに呑まれてうなずいて見せると、紅は手招きする。なぜだか、泣きたかった。

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