第二章 少女願望 一
一
深山雪火が五星として働くようになって、早半月。何度か一人でも討伐へ出て、そろそろ慣れてきただろうと、芙蓉に同行することを命じられた。紅が雪火と行きたがったが、緋緒にぴしゃりとはねつけられていた。かわいそうだ。
詰所では毎日のように芙蓉が一方的に話していたが、一緒に仕事へ出るのは初めてだ。彼女は滅多に出ないような妖を担当しているというから、雪火は少し期待していた。
竜士だった頃、彼女は力も呪具も持て余し気味だった。弱い妖しか担当させてもらえず、竜もつまらなさそうにしていたのを覚えている。
「雪火はねー、篳篥使えるんだって」
後部座席では、華やかな美貌をほころばせて浦辺芙蓉が楽しそうに喋っていた。緩やかにウェーブした髪は天然らしく、傷みもなくつやつやと光っている。仕事中邪魔になるからか、今日はサイドで結んでいた。毛先がキャミソールから覗く胸の谷間に潜り、いやに艶かしい。
「いいねぇ。私楽器出来ないから、羨ましいよねぇ」
同意を求めるような口調だが、碧龍は別に羨ましくないだろうと、雪火は思う。彼は聞いているのかいないのか、時折相づちを打つのみだ。
薄い唇にタバコを挟んだまま、碧龍はわずかに開いた隙間から煙を吐いた。まだ若く見える整った顔も、今は鬱陶しそうにしかめられている。同じような話を何度も聞かされたら、彼でなくともうんざりするだろう。
切れ長の目を更に細くし、彼は嫌そうに主を見やる。
「お前はいらんだろ別に」
「だって笛の方がいいじゃない、女龍士ってかんじで」
笛を使うのは、女性が多い。体力的に劣る女性竜士は、笛の音で動きを止めるか竜に任せるかしないと、妖とはまともに戦えないのだ。呪具には弓もあるが、あれも扱いがなかなか難しい。
笛と札で止められる妖は女性が。武器型の呪具で直接攻撃した方がいい妖は、男性が。それぞれ、担当することになっていた。笙使いはまた別らしいが、滅多にいないからよく知らない。むしろ、使いこなせるのは紅ぐらいのものなのではないだろうか。
「そんなに気にしなくとも、芙蓉様は女性らしいですよ」
運転席の黒龍は、バックミラーに映る芙蓉に笑みを浮かべて見せる。異国の彫像のように端正な顔だが、目付きがいやに鋭いせいか、笑みがうさんくさく見える。褐色の肌は、龍というよりサーファーのようだ。
シートから身を乗り出し、芙蓉は明るい表情を見せた。彼女は基本的に単純だ。
「ほんと?」
「ええ」
堂々巡りの会話には入らず、雪火は窓に頭をもたせて横目で外を見ていた。
白を通り越して青白い顔は整っているものの、伏し目がちなせいで暗そうに見える。濃いまつ毛の作る影は陰鬱な空気を助長させ、歳の割に陰性の艶があった。異様に長い黒髪は毛が細いためか、首に添うように流れて、シートの上でとぐろを巻く。
「人んちの主人口説くなよニート」
浮かべた笑みをひきつらせ、黒龍は視線を後ろへ向ける。バックミラー越しに確認すると、碧龍はニヤニヤしていた。彼はいつでもニヤけている。
「共に働く同僚をニートとは……あなたもひどい方だな筆頭」
「働くゥ? お前と働いた記憶なんかねえな」
一緒に仕事に出たことがないのだから当たり前だと、雪火は思う。それ以前のことを言っているのだろうが。
車内の空気が、にわかに険悪になってきた。この二匹が揃うといつもこうだから、雪火はうんざりする。一方芙蓉は、鼻歌混じりの上機嫌で外を眺めていた。都合の悪い話は聞こえないように出来ているようだ。
「なるほど、とうに耄碌しておられたか。おかわいそうに」
「てめえこそ、暫く引きこもってる間になまったんじゃねえのか? まともに動けねえって聞いたがな」
黒龍が働こうとしないのは、全員知っている。討伐に同行こそするものの、彼が戦うことはない。雪火は別にそれで構わないのだが、同僚達は苦々しく思っているようだった。
動かないだけで、動けないわけではない。だからこそ碧龍はそう言ったのだろうし、黒龍も顔をひきつらせる。口では碧龍が一枚上手だろう。
「この萎れパイナップル頭」
黒龍の呟きにつられ、雪火は後部座席を振り返る。バックミラーを睨み付ける碧龍の結われた髪は、確かに萎れたパイナップルの葉に見えた。癖毛のせいだろうか。
鬼の形相の碧龍の横では、芙蓉が必死で笑いをこらえている。彼女もよく笑う。
「うるせえよ土付きゴボウ」
「土付きィ?」
黒龍は裏返った声で聞き返したが、反応すべきはゴボウの方ではないのだろうかと、雪火は思う。どちらかというと碧龍の方が細いから、髪形のことを言ったのだろう。
頭頂部に近い位置で結われた彼の黒髪は、長くまっすぐに伸びている。ゴボウかそうでないかと聞かれたら、ゴボウには見えない。苦し紛れの罵倒のように思えたが、黒龍には効いたようだった。
「このクソジジィ、大人しくしてりゃ調子に乗りやがって」
「口ばっか達者なガキが偉そうに抜かしてんじゃねえ」
「黒龍、前を向いて」
ハンドルを潰さんばかりの力で握りしめ、黒龍は肩越しに振り返ってしまっていた。いくら龍は視野が広いとはいえ、事故を起こされてもたまらない。芙蓉も乗っているのだ。
しかし黒龍は、聞いていなかった。仮にも雪火が主だ。言うことを聞かせられないのは、いささか不愉快だった。
「耄碌したジジィより……」
とうとう身を乗り出して横を向いた黒龍の頬に、雪火は両手を伸ばした。驚いて目を円くする彼は、そのままの体勢で固まっている。さすがに驚いたようだった。
黒龍の頬は、見た目より冷たく感じた。末端冷え性で秋口からすでに氷のように冷えた雪火の手よりは、いくらかマシだが。
「ぐっ……」
両手で思いきり頬を挟んで前を向かせると、首辺りから嫌な音がした。うめいた黒龍は、硬直して肩を震わせている。痛かったのだろう。しかし雪火の知ったことではない。
「前を向いてって言ってる」
「……申し訳ありません、主」
黒龍が謝罪を口にした瞬間、後部座席でどっと笑いが起きた。彼は恨みがましい目でバックミラーを睨むものの、今度は振り返らない。
わき見運転する方が悪い。心中独りごちて、雪火は再び目を伏せる。
また今日も山へ入るらしく、さっきから揺れが激しい。目立たないためとはいえ、未舗装の道を車で進むのは辛かった。歩く方が辛いが。
「雪火、具合悪い?」
思いの外近くから声が聞こえて、驚いた。見れば、芙蓉がシートの背もたれの横から顔を出している。
「酔いやすい?」
「……いや」
「こんだけ揺れりゃ酔うだろ。もうすぐ着くだろうが、寝てていいぞ」
きょとんと目を円くして、芙蓉は碧龍を振り返った。
「私平気だよ」
「お前さんみたいにガサツじゃないんだよ」
「ひどーい!」
ガサツとは違うような気がしたが、雪火は何も言わなかった。今喋ったら、余計に具合が悪くなりそうな気がする。
早く着かないだろうか。周囲の景色は、もう完全に森の中だ。ここは一体どの辺りなのだろう。
「止めて!」
考えた矢先、芙蓉が叫んだ。驚いて振り返ると、彼女はもうドアに手をかけている。黒龍は急ブレーキこそかけなかったが、即座に停車させた。
見れば、碧龍もすでに外へ出ようとしている。水筒に浸けてあったリードを片手で拭きながら、雪火もドアを開けた。
濃い土と木々の香りが、車内に吹き込む。それを胸いっぱいに吸い込むと、いくらか気分も良くなった。先に外へ出た芙蓉は、トランクを開けて中から何か取り出している。
そっと車を降りてみる。秋口の冷えた風の中に、異質な気配があった。これは何かと考えながら、雪火は芙蓉と碧龍の所在を確認する。
二人はそれぞれ、一振りの刀を持っていた。思わず目を円くすると、芙蓉が気付いて微笑みかけてくる。
「私のは模造刀だよ」
そこは別に聞いていなかった。
呪具として刀を使う竜士は多い。だが、女性が使うのを見るのは初めてだろう。
己の霊力をして刃と成し、妖を斬る。加減が必要な銃の比ではないものの、常に刃を作っていなければならないために、使用には大変な集中力を要する。つまり、感情的になりやすい女性には向かない代物だ。
確かにこれを使いこなせるなら、笛は必要ないだろう。何故羨ましがるのか、雪火には理解できない。
「どっちだ?」
「たぶんあっち。行こう」
「多分かよ」
あきれた声でぼやきつつも、碧龍は鞘をベルトに挟みながら芙蓉について行く。彼も一緒に戦うようだが、いいのだろうか。
ふと見ると、黒龍は長い足を投げ出すようにしてのろのろと歩いていた。こちらはこちらで、やる気がないとしか思えない。碧龍と足して二で割ったらちょうどいいだろうに。
「お、いた」
タバコをつまんで煙を吐きながら、碧龍が呟いた。つられて見れば、黒い毛並みを持った生き物がいた。
この島の人でない者が見たら、馬に乗った人だと思っただろう。けれどここで生まれ育った人があれを見れば、一目散に逃げ出す。つまり、それほどの妖だ。
「夜行さん……?」
呟きはしたが、雪火も見るのは初めてだった。そこにいるのは、四本足の獣に乗り、腰に大刀を差した黒い着流しの男。しかしその顔は人間とはかけ離れて、騎乗している獣の首とすげ替えたようだ。その額には一本だけ、円錐形の太い角があった。鬼にはみな、大なり小なり角がある。
獣の方に頭部はない。何か強い力で引きちぎられたように、首から先が失われている。生々しい切断面からは赤黒い肉が覗き、ぽたぽたと体液が滴る。
「気付いてる。あれ速いかな」
姿は同じでも、個体によっては能力の違うものがいる。芙蓉は妖を見据えたまま、左手に鞘を持って刀を抜く。
「いつも通りだな。雪火、一匹だから見てるだけでいいぞ。鬼に笛は効かんだろ」
鬼に自分の笛が効くのかどうか、雪火は知らなかった。学校ではおそらく効くだろうと言われてはいたが、何しろ鬼にまで成長した妖を相手にしたことがなく、憶測の域を出ない。
鬼とは、小鬼や猿鬼が人の幽霊を取り込んで更に成長したものだ。これは種類が多いため、総称して鬼という。術を使うものもあれば、使わず力で引き裂くものもあるが、どれも人に害をなすという点で共通している。
小鬼までの妖なら、イタズラするだけでほとんど実害のないものもある。だが、鬼になってしまえば別だ。全てが人を襲い、喰らう。
「少し雪火から離れた方がいい?」
「いや」
短く否定して、碧龍は口角を上げた。その手がさりげなく、刀の柄に添えられる。
視線の先で、獣の前肢が地を掻く。土くれが跳ね上がるのが見えて、そう遠い距離ではないことにようやく気付く。そうでなければ、まだ経験の浅い雪火が気配を感じることなど出来なかっただろう。
先に動いたのは、妖の方だった。木々の間を縫うようにすり抜け、こちらへ向かってくる。
かと思えば、すぐそこにいた。自分が対峙しているわけでもないのに目を見張り、雪火は息を呑む。
「離れてる暇はねえさ」
金属同士がぶつかる、高い音がした。動作すら見えないほどの速度で抜かれた刃を、同じ速さで反応した碧龍が受け止めている。いや、止めたということは、彼の方が早かったのだろう。
馬頭の妖は、いつの間にか獣から降りていた。碧龍より少し大きい程度だろうか。頭部以外は普通の人間と変わらない。
膠着するかと思われたが、妖はすぐに飛びのく。碧龍は軽く右手を振り、いったん納刀した。くわえタバコを吐き捨て、金の目を細めて笑う。
「ちょっと食いすぎてるな」
「私馬の方? やだなあ……」
ぼやきながら、芙蓉は抜いた刀を軽く振る。それに反応したのか、獣が再び地を蹴った。
芙蓉は身構えたが、ぴたりと止まった。その目の前に、碧龍が立ちはだかったためだ。首をかしげる主人を肩越しに振り返り、彼は顎で人型の方を示す。
「向こうやれ」
ふふ、と笑って、芙蓉は立ち尽くしたままの妖に視線を向ける。
「ありがと」
芙蓉が地を蹴ると、碧龍は首なしの獣に向き直った。彼は値踏みするようにその全身を見てから、ふうんと鼻を鳴らし、目をすがめる。
とたん、首の切断面から何かが飛び出した。赤い肉を飛び散らせて生えてきたのは、人間の首だ。あまりの姿に、普段動じない雪火も思わず眉をひそめる。
獣の首から生えてきた頭は、蓬髪の男の顔をしていた。生気のない顔には陰気な笑みが浮かび、紙のように白くひび割れた唇から、黄ばんだ歯を覗かせている。人型の方の顔とすげ変わっているのか、元々こういう姿なのか、雪火は知らなかった。
「気持ち悪いな」
呟いて、碧龍は一歩踏み出す。避けようとしたのか獣が跳躍したが、彼は着地するタイミングを見計らって抜刀する。雪火には、一瞬腕が消えたように見えた。
当たると思われたが、刃は馬の足をとらえる寸前で止まっていた。長く伸びた首が刃を噛んで止めたのだ。しかし碧龍は動じるふうもなく、腕を引く。
首は離すまいとしたようだったが、彼が手首を返すと、斬られると思ったのか口を開ける。離した途端逃げ出した馬の足を、白銀の刃が追う。しかし一瞬遅く、蹄に当たって硬い音を立てた。軽く舌打ちして、碧龍は得物を引く。
一方芙蓉は、人型の方と対峙していた。無造作に刀をぶら下げた彼女は、小首をかしげて微笑む。
「怖い?」
妖は、答えない。答えられないのかもしれなかった。雪火には、妖に話しかける芙蓉がよくわからない。何が合図だったのかも、分からなかった。
両者は同時に相手の方へ踏み出し、ほぼ同時に刀を振る。やや芙蓉の方が早かったらしく、彼女が押すような形で、二本の刀が止まった。
押し合いになる前に離したのは、芙蓉だけだった。妖はそのまま押しきろうと腕を振る。だが芙蓉も、そのまま斬られるほど鈍くない。
腰を落として迫る切っ先を避け、芙蓉は引いた刀で足をさらう。跳んで避けた妖が両手で握り直した得物を振り上げたのと、芙蓉が視線を上げたのは、ほぼ同時。姿勢を低くした彼女の脳天を狙った一撃は、左手の鞘に受け止められた。
彼女の顔に、いつもの柔らかな笑みはない。睨むような目で、妖を見つめている。その身のこなしも、普段のおっとりした様子からは想像もつかないほどだった。
芙蓉が右手首を返したのに気付いたのか、妖は再び跳び、やや後方へ逃げた。追うこともせず、彼女は起き上がりつつ鞘をベルトに納める。
妖の獣の顔から、感情はうかがえない。最初からそんなものはないのか、こちらに見てとれないだけなのか。ただ彼らは、話せなくとも人の言葉は解っているのだという。
「笛」
頭上から声が聞こえて見上げると、黒龍が微笑んでいた。うさんくさい笑みだと、雪火は鼻白む。
「試してみては?」
彼は何がしたいのか、いまだに分からない。討伐にはしっかりついてくる割に、自分は全く動こうとしない。口を出したのも、今回が初めてだったように思う。
試してみるのも、いいかもしれない。しかし、邪魔にならないだろうか。考えつつ、雪火は篳篥を取り出す。
煤けた竹で作られた笛は、よく手になじんだ。鬼相手に、使えるだろうか。ちゃんと作用するだろうか。考えるほど、ここで吹いてみたくなる。
好奇心ではない。この先この笛が通用するのかどうか、知っておきたかった。
「どうぞ」
うながされるように、雪火はリードに唇を当てる。その笛から音色が奏でられた瞬間、碧龍から逃げ回っていた獣の体が、ぐるりと方向転換した。
気付いた時には、長い首が目の前にあった。止めに来たということは、効くのだろう。それが分かっただけで良かった。
逃げる気力もなく、雪火は目を伏せる。黒龍は、もしかしたらこれを狙っていたのかもしれない。
「妖怪風情が調子に乗るな」
それは確かに碧龍の声だったが、ぞっとするほど冷たかった。いつもの軽い調子からは想像もつかない声に驚いて上げた視線の先で、妖に巨大な生き物が食らいつく。
紺碧の海のごとくに青く透き通る鱗を持った、今まで見たこともないほど巨大な龍だった。以前見た翠龍より、二回りは大きいだろうか。人型の時の癖毛をさらに巻いたようなたてがみは白く、渦潮を彷彿とさせる。不自然に短い角は真珠に似た光を放ち、海底に沈むと言われる玉のようだった。
最も静かで、最も荒々しい龍。その真珠色の角はあまりに美しく、誰でも目を奪われるという。碧龍の角は、この世に現れたその時に自ら双天へ半分捧げたがゆえに、他の龍のそれより短いのだと聞く。
妖をくわえたまま、龍はその鮮やかな金の目で黒龍を睨んだ。彼は動じることもなく、薄い笑みを浮かべている。
苛立ったように首を振って妖を地面に叩き付け、龍は陽炎のように人型へ戻った。うまく立ち上がれずにあがく異形の前に立ち、のたうつ首めがけて刀を振り下ろす。
首を落とされた妖は、あっけなく消えた。碧龍は露を払うように刀を振り、ベルトに差した鞘に刀身を納めながら黒龍に歩み寄る。睨む目が、長身の彼を見上げた。
「……っ!」
黒龍の胸ぐらを掴んで手近な木に押し付け、碧龍は鼻っ面にシワを寄せる。雪火は止めようかとも考えたが、知ったことではないと思い直す。それよりこのまま笛で動きを止めた方が、芙蓉もやりやすいだろう。
睨み合ったまま微動もしない龍達は、黒龍が笑った事でようやく動いた。
「俺は決まりは守っている。何を怒ることが?」
憎々しげに舌打ちし、碧龍は突き放すようにして彼を解放した。少し咳き込み、黒龍は息をつく。
「雪火」
意識は笛に向けたまま視線だけ上げると、碧龍は渋い顔をしていた。
「守れと命じろ。どうせ逆らえん」
雪火には、どうでもよかった。そもそも翠龍や彼が何故そこまで怒るのか、他の主を守ろうとするのか、理解できない。
何の反応も見せないまま視線を落とすと、碧龍は苦々しく表情を歪めた。ちらりと黒龍を見て、浅い溜息をつく。
「なるほどな……」
感情の読めない声だった。その時、悲鳴にも似た獣の声が大気を震わせる。
何事かと見てみれば、芙蓉の刀が妖の腹を刺し貫いていた。彼女はそのまま手首を返して斬ってしまおうとしたが、太刀が振り上げられたので諦め、その場から退く。
だが、妖は退かなかった。逃げた彼女を追って一歩踏み込み、掲げた得物を振り下ろす。逃げるには間に合わず、芙蓉は腰から抜いた鞘で受け止める。
しかし重かったか疲れていたか、彼女の腕は大きく揺れた。苦い表情を見せた芙蓉は右手を鞘に添え、力いっぱい押し返す。
「加勢しなくていいのか?」
黒龍の問いに振り返り、碧龍は鼻で笑う。
「俺の主を見くびるな。俺より強い」
しかし、と呟き、碧龍は雪火を見た。
「焦ってるな。……効いてるのか」
呟く声には、聞こえなかったふりをした。
一旦離れた芙蓉と妖は、馬頭の男が踏み出したことで再び動く。芙蓉は迎え撃とうとしたようだが、叶わなかった。
「えっ……」
瞬く間に眼前へ迫った馬の顔を見て、芙蓉は目を見開く。それでも硬直することなく、突かれる寸前で左肩を引いて避けた。そのままの勢いで後ろを向き、通り過ぎて行った背を突く。
妖の腹から、刃が生えるのが見えた。ほっと息をついて腕を引いた瞬間、敵の姿が霞む。
「うそ」
気付いた時には、妖は芙蓉の後ろにいた。あれでやったと思っていたのだろう。傍観に徹していた碧龍が慌てて動いたが、もう間に合わない。
太刀の刃が、芙蓉の首めがけて突き出される。同時に、腹の底から呼気を吹き込んだ笛が、高らかな音を立てた。
龍達が反射的に耳をふさぎ、芙蓉が目を円くする。切っ先は彼女の首の後ろすれすれで、止まっていた。間に合ったことに、雪火は安堵する。
だが、長くはもたないだろう。雪火の思考が通じたのか、芙蓉はすぐさま向き直って得物を振り上げ、妖の肩にうち下ろす。袈裟懸けに斬られた妖は、ようやく消えた。
どうしてあれと戦う気になるのだろう。放置しておけば街に害をなすが、そんなことは雪火が知ったことではない。彼女は、死ぬのも嫌だろうに。
「雪火ー!」
我に返った時には、芙蓉が目の前にいた。衝撃とともに全身が温かく柔らかいものに包まれ、雪火は混乱する。
「ありがとう! すごいね!」
芙蓉が抱きついてきたのだと気付いた時、雪火の顔はもう、赤らんでいた。何も言えずに黙り込む彼女から離れ、芙蓉は満面の笑みを浮かべる。いつもの、まぶしいまでの笑顔だった。
碧龍が笑う声が聞こえた。振り返ると、彼も普段の笑みを取り戻している。
「やるね。お疲れさん」
言って、彼は背を向ける。もう戻るのだろう。
やったのは芙蓉だ。困惑して眉をひそめ、雪火は彼女を見る。そこで、息を呑んだ。
碧龍の背を見つめる芙蓉は、今まで見たことのないような表情を浮かべていた。寂しそうな、でもどこか、違うような。
これは切なそうだと言うのだと思い直した時にはもう、芙蓉は歩き出していた。彼女が何を思うのか分かったような気がして、雪火は罪悪感に駆られる。けれど何を言うこともできないまま、彼らの後に続くしかなかった。