第一章 静かの海 七
七
寝込んだ翌日、幸いにも全快した雪火は少し早めに詰所へ行った。人がいるかいささか不安だったが、インターホンを押すとすぐに返答があり、緋緒が顔を出す。彼女が出たということは、芙蓉はまだ来ていないのだろう。
「おはようございます」
「おはよう。早いな」
言いながら、緋緒は雪火が入れる程度までドアを開けてくれる。雪火は重い扉を押さえつつ会釈して、玄関に入った。靴はまだ、三人分しかない。
この人は一体、いつも何時からここにいるのだろう。雪火も早めに顔を出すようにしているのに、来ると必ずいる。家に戻るのも一番後で、睡眠時間は足りているのか純粋に不思議だった。
「昨日はすみませんでした。ご迷惑おかけしました」
「いい。もう平気か?」
言いながら、緋緒は肩越しに雪火を振り返る。その顔を見て眉をひそめたのは、雪火の顔色が悪いせいだろうか。
「……平気か?」
「熱は下がりました。顔色が悪いのは元々です」
驚いたように目を円くした後、緋緒は切れ長の目を細くしてかすかに笑った。きれいな人だ。
「それならいいが、無理はするな。今日は留守番していてくれ」
「留守番?」
「不在時に客があっても困るからな。紅が腐っているから置いて行く。来客はあれに任せればいい」
どういう事かと怪訝に思いつつ、リビングに入る。正面にあるソファーでは、紅が三角座りで膝を抱いた腕に顔を埋めていた。彼女の前には、困り果てた様子の夕龍がしゃがみこんでいる。
何をしているのだろう。思わず眉をひそめると、夕龍がこちらに気付いて立ち上がった。笑顔が爽やかすぎて眩しい。いや、眩しいのはレースのカーテン越しに差し込む朝日のせいかもしれない。
「おはようございます。お加減は……」
「もう、なんとも」
ほっと息をつき、夕龍は笑みを深くした。どうも本気で心配していたらしい。ここの者はほとんど他人の自分にすら優しすぎて、雪火には居心地が悪かった。
「良かっ……あ、でも」
同じ事を言うのだなと、ぼんやりと思う。自覚はあっても複雑だ。
「顔色は元々です」
緋緒が喉を鳴らして笑っていた。夕龍は申し訳なさそうに眉尻を下げ、首をすくめる。
「も、申し訳ありません……」
「……紅は」
夕龍は困ったように眉を寄せ、再び紅の前にかがんだ。子供を相手にするような仕草に、雪火は懐かしさを覚えて目を細くする。
雪火は昔から、子供だけは好きだった。紅が気になるのは子供っぽいからだった。それも失礼なことだと自分で思う。
「紅様、雪火様が来ましたよ」
子供をなだめるように優しく声をかける夕龍が、雪火には少しおかしかった。大きな図体を丸めてかがむ姿は、保育士のようだ。彼はいい父親になるだろう。永遠を生きる龍が子供を持てるかどうかは、怪しいところだが。
声に反応して勢い良く顔を上げた紅は、雪火をみとめて目を輝かせた。何も言わなくても表情で大体分かる。本当に嬉しそうで、なんだかこそばゆかった。
「雪火! おはよう!」
「おはよう。……どうしたの」
輝いていた表情が見る間に曇り、紅は再び俯いた。何事かと考えて、ふと思い出す。
玄関には、靴が三足しかなかった。今日はまだこの三人しか来ていないということだ。つまり、いつも紅と一緒のはずの翠龍がいない。
「翠龍と、ケンカなさったそうなんです」
ややあって、問いかけには夕龍が答えた。ケンカしたぐらいで詰所にも来なくなるものだろうか。そんな私情を職場にまで持ち込んでいいとは思えない。
だが、ここの面子ならあり得そうなのは事実だ。
どうしたらいいか分からず立ち尽くしている内に、キッチンからコーヒーの香りが漂ってきた。見れば、緋緒がカップを持っている。
そんなものは新人の役目なのに、何故彼女は自分で作ってしまうのだろう。動けなかった雪火も悪いが。
「雪火、立っていないで座れ。紅は放っておけ」
「……でも」
「放っておけ。すねているだけだ」
更に困って、ちらりと紅を見る。肩を落とした彼女は、また顔を伏せていた。一目見ただけでかなり落ち込んでいると分かる。放っておいて、本当にいいのだろうか。
困惑しつつダイニングに着いた雪火の前に、緋緒が湯飲みを置いた。驚いて見上げるが、彼女は何事もなかったかのようにリビングセットの一人掛けに腰を下ろす。二つあるアームソファーに座るのは、彼女と碧龍だけだ。
「すみません……筆頭にやらせてしまって」
ふんと鼻を鳴らし、彼女は唇だけで笑った。唇どころか歯まで白い。
「私は上司ではない。気になるならお前がやってくれ」
上司というより女王のような気がしたが、雪火はさすがに言わなかった。代わりに、いれてもらったお茶をありがたく頂く。熱すぎずぬるすぎずちょうど良かったが、少し濃かった。何事もさじ加減を見誤る人らしい。
しばらく、無言の間が落ちる。テレビもないので、完全な無音だ。キッチンのコーヒーメーカーと空気清浄機だけが、かすかな音を立てている。
「……そういえば、黒龍はどうした?」
いかにも今気付いたと言うふうに、緋緒が問いかけてくる。本当に今更気付いたのだろう。以前は詰所にもろくに顔を出さなかったとは聞いていたが、どれだけ来なかったのだろうか。
とはいえ、雪火自身すっかり忘れていた。起き抜けに彼からのメールを見て部屋に寄り、とりあえず粥だけ作ってきた。その時点でまだ若干寝ぼけていたから、仕方がない。
「風邪だそうです」
緋緒がラテを噴き、夕龍が弾かれたように顔を上げた。二人の過剰な反応が予想外で、雪火は目を円くする。
何事か。内心動揺する雪火の目の前で、二人は顔を見合わせる。そして同時に、噴き出した。口に手を当ててこらえる夕龍とは対照的に、緋緒は隠すこともなく喉の奥で笑う。二人とも、肩が震えていた。
「か、風邪? 奴が風邪ですか?」
「……はい」
「黒龍が風邪とは……雪火、よくやった」
二人とも、声が笑っていた。
人が風邪をひいたら、この人たちは笑うのだろうか。いや、たぶん違う。彼らは黒龍が風邪をひいたことがおかしいのだ。そんなに嫌いなのだろうか。
気味の悪い笑い声が響く中、紅はまだしょぼくれて肩を落としていた。どうも耳に入っていないようだ。
放っておけと言われたが、あの叱られた子供のような姿は放っておくにはあまりに痛々しい。
声をかけようか。しかし、口下手な雪火にうまい言葉は見付けられない。こういう時だけは、無口な自分が恨めしかった。迷っているうちに、勢いよくリビングのドアが開く。
「おはよー!」
やたらと元気な声と共に、芙蓉が廊下から顔を出した。その頭の向こうには碧龍の顔もある。黒龍にうつったから心配していたが、芙蓉は元気そうだ。
「あれ、何笑ってるの?」
「気持ち悪いなお前ら」
緋緒と夕龍は、揃って笑いながらおはようと言った。彼らも大概しつこい。
「芙蓉、聞け。雪火がやってくれた」
「なに? あ、雪火もう大丈夫なんだ」
「おかげさまで。ありがとうございました」
バッグを肩から下ろしながら、芙蓉が近付いてくる。ダイニングに着いた雪火の側まで来て少し屈み、額に手を当てた。柔らかく温かい掌に、安堵感を覚える。
首を傾げて少し考え、芙蓉はうんと呟いた。輝く笑顔が眩しい。
「熱は下がったね。でもムリしちゃダメだよ」
「緋緒、黒龍はどうした?」
碧龍の問いに、緋緒は含み笑いした。まだニヤニヤしている。
「風邪だそうだ」
芙蓉も碧龍も、一瞬動きを止めた。そして、同時に声を上げて笑い出す。碧龍など腹を抱えていた。彼らはそんなに彼の不幸が楽しいのだろうか。
「風邪? あいつが風邪え?」
「よかったねぇ雪火、クロさんが持ってってくれたね!」
うつしてしまった罪悪感も吹き飛ぶほど、彼らは楽しそうだった。あんまりな反応だ。
下ろしかけたカバンを肩にかけ直し、芙蓉はいそいそと出て行こうとする。アームソファーに座ろうとしていた碧龍も、ニヤけながらそれに続いた。
「ちょっと見てくる。そのまま出るね」
「ああ、行ってこい」
「え……行くの?」
思わず聞くと、芙蓉はきょとんとして振り返った。何を言っているのかと言わんばかりの反応だ。こっちが聞きたい。
「行かないの?」
「もう行った。……嫌がりそうだけど」
彼の性格なら、弱っているところは見られたくないだろう。だからそう言ったのだが、芙蓉と碧龍は顔を見合わせて首を捻った。それから再び雪火を見る。
「だから楽しいんじゃない」
「だから楽しいんだろ」
声が被っていた。呆れて黙り込む雪火に手を振って、二人は部屋を出て行く。
黒龍は案外、好かれているのかもしれない。引っ越しの日に芙蓉と話した時は、もしかしたら扱いに困っているのではないかとも考えていた。そもそも人懐こい芙蓉は誰かを嫌ったりしないだろう。他は怪しいところだが。
初日はどうなる事かと思ったが、案外馴染んでいる自分に気が付いた。ここにいることに、あまり違和感もない。それがどうにも不思議だった。
「さて、行くか」
声につられて見上げた時には、緋緒はもう立ち上がっていた。彼女は来るのも早ければ出るのも早い。
「夕龍、行くぞ。紅はいい、そのうち来る」
「……はい」
彼は気にしているようで、何度か紅を振り返りながらも緋緒について行く。紅は微動もしなかった。
「行ってらっしゃい」
「行ってまいります」
「留守は任せた」
二人が出て行くと、また室内に静寂が落ちる。人がいないとやけに広く感じた。ここは最上階の一番いい部屋だから、雪火の家より全体的に広い。
物音を立てないようにそっと立ち上がり、ソファーに近付く。紅は気付いているのかいないのか、俯いたままだった。華奢な肩が寒々しい。
「紅」
ためらいがちに呼びかけてやっと、彼女はゆっくり顔を上げた。大きな目が濡れているのを見て、胸の痛みを覚える。泣いている子供は苦手だ。
ふっくらした小さな唇は、わずかに噛まれていた。色が白くなって痛々しい。なんと声をかけたらいいか、余計に分からなくなった。
「ケンカしたの?」
少し迷って、結局そう聞いた。小さく頷き、紅はまたうなだれる。けれど今度は顔を伏せたりしなかった。
「翠、今日は迎えにきてくれなかった。いつもは寄ってくれるのだ」
少女のような声が、たどたどしく訴える。どう答えたらいいかわからない雪火は、頷くことしか出来なかった。それでも紅は続ける。
「私のこと、嫌いになっただろうか」
むしろ雪火は、紅を嫌いになれる人がいるのかと思う。少しうるさいし空気は読まないが、厭うほどではない。どちらかというと芙蓉の方がよく喋る。
嫌っていないと、言ってやるべきなのだろうか。それも雪火が言うのは変だ。翠龍のことはよく知らない。
「みんな、私が嫌いだった」
背筋が寒くなった。心臓がどくんと大きな音を立て、耳鳴りが襲う。
皆、雪火が嫌いだった。嫉妬もあったし、異質なものに対する嫌悪もあった。それをなんとも思っていなかったが、紅の口からそんな言葉が出たことで動揺する。
違う。紅が嫌われるはずがない。紅は自分とは違う。
「……どうして」
やっと、それだけ言った。言ってから、とんでもないことを聞いてしまったと後悔する。
けれど紅は、怒りも泣きもしなかった。ただほんの少しだけ寂しそうに、眉尻を下げる。紅は誰かに嫌われることを嫌だと思えるのだ。
「髪が白いから」
何故だか、絶望的な気分だった。
そんなくだらないことで、嫌いになれるのか。そんなどうでもいいことで、彼女を悲しませるのだろうか。
「祖父母も施設の人も、私が嫌いだった。私もみんな、嫌いだった。シロなんて、ペットのような名前だった」
「……そんな」
「でも、翠が迎えにきてくれた。翠は初めて私を好きだと言ってくれた。名前もくれた」
どういう流れで、そんな会話になったのだろう。でも彼がどんな気持ちで紅にそう言ってやったのかは、分かるような気がした。
紅は救われた。雪火は自力で逃げた。それだけの違いが、なぜだかひどく、羨ましく感じられる。
「紅」
おずおずと視線だけ上げて、紅は小首を傾げた。
「嫌っていないよ。きっと」
紅はゆっくりと瞬きした後、ゆっくりと顔をほころばせた。素直なのだろう。でもともだってとも言わず、彼女は大きく頷く。
「うん」
言って、紅はソファーを叩いた。そこで自分が立ったままだった事に気付き、雪火はようやく腰を下ろす。
どうしてケンカしたのか気になってはいたが、聞くのは憚られた。それはたぶん紅の問題で、雪火が口を挟むべきではないように思えたから。
「風邪はもういいのか?」
「熱は下がった。今日は留守番」
「一緒に?」
頷くと、紅は嬉しそうに目を輝かせた。誰かと一緒がいいのだろう。まるで子供だ。
でも多分、翠龍が好きだと言うのは子供だからではない。そうでもなければ、軽々しく異種族を好きだなどと言えるはずがない。
竜は獣であって人の形をとることはないが、龍は基本的に人型でいるという。考え方も心も人間と変わらないから、時には恋に落ちることもある。だが、異種間の婚姻は認められていない。
龍は人より強く、主人と認めた者には我が身を顧みず尽くす。恋をする人は少なくない。だが、異種間に子供は産まれない。
ただでさえ少子化が危ぶまれている中、それを認めてしまったら、この島は危機に瀕する。紅も分かっているだろう。叶うはずのない恋だと。
「あ」
唐突に声を上げた紅の、視線の先。リビングの扉が開き、壮年の男性が顔を出す。いつもの着流しではなかったから一瞬誰かと思ったが、顔を見てみれば翠龍だった。
今日はよれたジーンズとシャツを着ており、いつもよりだらしなく見える。何事かと目を見張る雪火の耳に、翠、と消え入りそうな声が届いた。
紅は翠龍を見上げたまま、黙り込んでいた。大きな目が戸惑ったように揺れている。
「雪火、具合はいいのか」
弾かれたように顔を上げた雪火に、翠龍は怪訝な顔をした。それからジーンズに突っ込んでいた手を抜いてくわえタバコをつまみ、悠々と煙を吐く。
翠龍の様子があまりにも普段通りで、雪火は動揺した。紅とケンカしたのではなかったのだろうか。
「……はい。もう」
「そうか。他は?」
「もう、出ました」
黒龍のことは、彼の名誉のために言わなかった。今頃は、芙蓉と碧龍に散々遊ばれていることだろう。
ふうんと生返事して、翠龍はようやく紅へ視線を落とす。つられて見れば、彼女はこわごわと上目遣いで龍を見上げていた。
「翠……」
「ほれ」
ぞんざいに差し出されたのは、取っ手のついた四角い箱だった。外出も外食もしない雪火にも、一目でケーキの箱だと分かる。
紅はこぼれ落ちんばかりに目を見開いて、しばらく固まっていた。雪火は箱と紅を交互に見て、怪訝に首を捻る。
「……ケーキか?」
「見りゃわかるだろ」
外国の文字が踊る白い箱が、紅の目の前につき出された。それと翠龍を見比べてから、彼女は恐る恐る手を出す。
小さな掌の上に箱を置き、翠龍は眉を寄せて唇の端で笑った。仕方なさそうな笑顔だったが、紅を見る彼の目は優しい。
四ピースぴったり入る程度の小さな箱が、彼の人の良さを象徴するかのようだった。紅はケーキの箱をじっと見つめている。
「悪かったな」
勢いよく顔を上げ、紅は左右に大きく首を振った。三つ編みにされた髪が背中を滑る。
「ありがとう!」
「ん。雪火も食え、早くしねぇと全部芙蓉に取られるぞ」
芙蓉にあげても良かったが、せっかくの厚意だ。むげにするのも申し訳ないと、雪火は頷く。
ふと隣を見れば、紅はまだケーキの箱に視線を注いでいた。そんなにケーキが好きなのだろうか。考える雪火を唐突に見て、紅は輝かんばかりの笑顔を浮かべる。
「いっしょに食べよう!」
彼女はやっぱり、一緒がいいのだ。
つられて笑みを漏らし、雪火は立ち上がる。彼女の好きな苦いコーヒーを淹れてやろうと、そう思った。