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第一章 静かの海 五

 五


 緋緒の仕事に同行した翌日。研修期間は必要ないだろうと判断されたものの、今度は紅に同行するよう言われた。

 聞けばまた、妖の群れが出たという。数が数だから、さすがに二人では厳しいだろうとのことだった。なんだってそんなものをわざわざ五星が討伐するのか、理解に苦しむ。

 とはいえ、鬼でもない限り単体なら楽に狩れるものの、群れになれば話は別だ。昨日も緋緒が夕龍と二人で子鬼相手に時間をかけていたように、単純に手が追い付かない。雪火もまとめて動きを止めるなら得意だが、倒すのは竜に任せていた。

 竜士団は慢性的に、人手が足りていない。ひどいところではなり手がなく、常駐していない地域すらある。子鬼までの妖というのは実体がなく、物理的な攻撃は効かない。警察に任せるわけには行かないのだ。

「いけません! 絶対に駄目です!」

 珍しく必死の形相で車のキーを握りしめ、黒龍はとうとう叫んだ。彼が高くかかげた腕に手を伸ばし、紅は不満げに唇をとがらせている。その背には、大きなリュックが負われていた。

「なぜだ! 免許は持っている!」

「なんでお前が免許取れたのか不思議でしょうがねぇよ」

 ぼやいた翠龍は、退屈そうにあくびを噛み殺した。

 十分前からずっと、この調子だ。運転したいとわめく紅を、黒龍が必死で止めている。理由が分からない雪火は、勝手にさせればいいのにと思うのだが。

「緋緒様にも怒られたでしょう!」

「でも……」

 紅はなぜか、緋緒の名前を出すと大人しくなる。一瞬だけとはいえ、そんなに怖いのだろうか。それとも単純に、怒られるのが嫌なだけなのか。

 困惑して顔をしかめていると、肩を叩かれた。見れば、翠龍が車を指差している。乗れと言いたいのだろう。

 顔は怖いが、よく気がつくいい龍だ。自分が座りたかっただけかも知れないが。

「待たせて悪いな」

 全くそうは思っていなさそうな軽い口調で、翠龍は謝った。言いながらもドアを開け、雪火を目で促す。軽く会釈して乗り込むと、翠龍は反対側に回って、隣に腰を下ろした。

 彼からは、かすかにタバコのにおいがする。黒龍はどことなく土臭いし、夕龍はわずかにきな臭い。だからそれぞれ支配するもののにおいがするのだと思っていたが、違うようだ。いや、そういえば、タバコは元々葉っぱだ。

「紅は運転荒ぇんだ」

 唐突に呟いた翠龍は、窓の外を眺めていた。他の龍と比べると痩せぎすで、やけに喉仏が出ている。

「……そんなに?」

「セキが吐いた」

 龍というのは吐くのかと、場違いにも感心した。ものを食うのだから、当然といえば当然かもしれない。

 慣れた手つきで煙管に火を入れる翠龍から視線を外し、雪火は窓を開ける。空はすこし曇っており、晴れているより仕事はしやすいだろう。

「こりねぇなアイツも」

 頬杖をついて車外の二人を見ていた翠龍は、呆れたように呟いた。それから無精髭を生やした顎を撫で、窓を開ける。

「おい紅、雪火の隣に座るんだろ」

 なんのことかと、雪火は驚く。しかし紅は、おおと呟いた。

「そうだった! クロさん、あなたに運転させてやろう」

「それはどうも……」

 疲れきって肩を落とす黒龍は、ちらりと翠龍を見て睨んだ。本人は気にするふうもなく、煙管を吹かしている。

 やっと出かけられるようだ。安堵する雪火の横で翠龍が腰を浮かせ、助手席に移ろうと身を乗り出した。紅に遠慮したのだろうか。

 しかし。

「まあ待て」

 ドアを開けた紅に帯を掴まれ、翠龍は止まる。バックミラーに映ったその顔は、ニガヨモギの葉でも噛んだようだった。

「雪火の隣じゃなかったのかよ」

「私は翠と雪火の真ん中だ。だから翠はここ」

 ぐいぐいと帯を引っ張られ、翠龍は嫌々腰を下ろした。シートの上で片足を組んだ彼の膝を叩きながら、紅は雪火との間へ入ってくる。腰を落ち着けると、リュックを前に抱え直して、よし、と呟いた。

 何がよしなのか分からない。漆塗りの下駄は脱いでいるものの、翠龍が片足を組んだままなせいで狭い。

「行くぞ!」

「はいはい」

 呆れた黒龍の声と共に、エンジンがかけられた。車はそのまま滑るように発進し、走り出す。どこへ向かうのか雪火は聞いていないが、黒龍は知っているのだろうか。

 紅はしばらく大人しくしていたが、やがて唐突に、雪火を見た。無言のまま大きな目に見つめられ、無意味に気後れする。

「雪火はどこから来た?」

 問いかけも、唐突だった。どういう意味で聞かれているのか分からず、雪火は困ったように眉根を寄せる。

「私、小さいころ島根にいた。翠が探しに来てくれた」

「探しに?」

 大きくうなずいて、紅は翠龍を見上げる。嫌そうに視線だけを返し、彼は顔をそむける。

「先代が旦那の実家で子供産むってんで、帰省しててな。帰りに見事に事故って、二人とも死んだ。アホ共、子供が産まれた事も俺らに隠して、自分らが五星になろうとしやがった」

「血の繋がりがなければ星は継げないと言ったら、怒って翠龍に当たっておられましたよ」

 それは、簡単に聞いていい話なのだろうか。世間話のように軽く話してしまう二人が、雪火には信じられない。しかしちらりと紅を見ると、彼女もなんでもなさそうな顔をしていた。

「翠はたいへんだったのだ」

「お前の相手しなきゃなんねぇ今の方が大変だよ」

 不思議そうに首をかしげ、紅はまた雪火を見る。とてもそんな複雑な家庭環境で育ったとは思えない、澄んだ目をしていた。首をひねりたいのはこちらだ。

「施設にいたのだが、緋緒様のお父さんが引き取ってくれた」

「あの頑固親父がそんな事するとはな……」

 黒龍が呟くと、紅は細い眉をつり上げて身を乗り出した。運転席をのぞきこむ彼女に、黒龍は身を引く。邪魔そうだった。

「お父さんの悪口を言うな! いい人だぞ!」

「はいはい……そうですね」

 投げやりな返答だったが紅は満足したらしく、大人しく引き下がった。

 黒龍と面識があるようだから、緋緒の先代は父親だったのだろう。なんとなく、夕龍の気が弱い理由が分かったような気がした。

「雪火は?」

 改めて振られ、彼女は顔をしかめる。自分の家庭の事情は、他人に軽々しく話したいことではなかった。

「生まれはこの辺り」

「そうか。都会のひとなのだな」

 それだけで、満足したようだった。自分でも、なんの答えにもなっていないような気がする。紅がいいならいいのだろうと、雪火は窓の外へ視線をやった。

 流れる景色は、徐々に街から遠ざかって行く。今日も山の方へ行くのかもしれない。場所ぐらい、事前に教えてくれてもいいのに。

 ふと思い出して水筒を開けると、紅が隣で首を傾げた。中からリードを取り出して拭いてから、掌に乗せて見せてやる。子供のように目を輝かせて、彼女は雪火の手の中を覗き込んだ。

「知っているぞ。お茶につけないとダメなのだ」

「うん。お茶は殺菌作用があるから」

 おおとつぶやいて、紅は何度かうなずいた。理由は知らなかったのかもしれない。そのしぐさが幼い子供のようで、雪火は思わず笑みをこぼす。雪火は基本的に他人が苦手で、話すのも不得手だが、子供は別だ。

「猿鬼が出たって言うが、平気か?」

 翠龍は、紅の頭越しに雪火を見ていた。白髪の少女は龍の腕に頭をもたせかけ、ふうんと鼻を鳴らす。

「問題ありません」

 なんら問題はない。猿鬼も魍魎が霊気を吸って成長したもので、子鬼と比べると狂暴だ。群れになれば厄介だが、鬼まで成長する前ならば、そう手こずりはしない。

 しかし翠龍はふうんと呟いて、まばらに生えた髭の感触を確かめるように顎を撫でた。何やら含みのある仕草だ。

「こっちに回ってきたって事は、少ない数じゃねぇ。最初から侮ると痛い目見るぞ」

「覚悟の上で竜士になりました。臆しても侮っても、結果は変わりません」

 ますます渋い顔をして、翠龍はうなった。何が言いたいのかぐらい分かるが、あえて何も言わない。

「緋緒みてぇだな……ちょっと違うか」

 緋緒と自分は大きく違っている。たった数日の付き合いだが、それぐらいは分かる。だから雪火はやっぱり、黙っていた。

 ふと、運転席の黒龍を盗み見る。端正な横顔は、当然だがまっすぐに正面を見つめていた。芙蓉には緋緒のようだと言われたが、自分は多分、彼と似ている。

「雪火」

 愛らしい声に名前を呼ばれてはっとして、隣を見る。翠龍の肩に頭を預けたままの紅が、彼女を見つめていた。いつから見ていたのだろう。

「好きな人はいるか?」

 いきなり、何を言い出すのか。思わず口をつぐんで硬直すると、紅は不思議そうに首をかしげた。不思議なのはこっちだ。

 考えたこともなかったし、誰かを好きだと思ったこともなかった。恋でなくとも、特定の誰かに好意を持ったこともない。だから、首を横に振ることしか出来なかった。

「竜士にいい人、いなかったか?」

「いない」

「そうか。それでは仕方ないな」

 真顔の彼女が、妖怪のように見えた。少なくとも、今までこんな人間とは出会ったことがない。理解できないのだ。

 ふと見ると、翠龍があからさまに顔をしかめていた。見えているのかいないのか、渋い表情を気にとめるふうもなく、紅は彼の腕に手を回す。恋人に甘えるような仕草だったが、翠龍はやっぱり、嫌そうだった。

「私は翠が好きだ。できれば取らないようにしてくれ」

「いらない」

「そうか。良かった」

「お前らの会話おかしくねぇか……」

 ため息混じりの呟きに、黒龍が笑った。翠龍が睨んだが、彼は見ていない。代わりに、車が止まった。

「着きましたよ。この上です」

 フロントガラス越しに前方を見ると、石段があった。それも、生半可な数ではない。

 雪火は思わずゴールの見えない階段から目をそらしたが、紅はおおと呟いた。翠龍が車を降りると、跳ねるようにシートを移動して続く。しかし雪火は、ドアを開けようともしなかった。

 いやだ。絶対にいやだ。疲れることは、出来る限りしたくない。階段を上らなくて済む道があるなら、遠回りしてでもそちらを選びたい。

「主」

 眉をひそめたまま黒龍を見ると、彼はシートから身を乗り出して雪火を見ていた。背もたれを掴んだ手に頬を寄せるようにして、こちらをのぞき込んでいる。異国の彫像のように端正な顔は、さも愉快そうに笑っていた。

「抱えて行って差し上げましょうか?」

 雪火は無言でドアを開け、車外へ出た。引き留める声が聞こえたが、無視する。

 階段の前では、紅と翠龍がじゃんけんしていた。何事かと思った矢先、能天気な紅の声がする。

「ぱ、い、な、つ、ぷ、る!」

 言いながら、紅は階段を一段飛ばしで単語の文字と同じ数だけかけ上がった。

 懐かしい。実に懐かしい。昔から友達がいなかった雪火にも、うんと小さい頃、ああして遊んだ記憶がある。

 雪火が目の前の光景に呆然と立ち尽くしていると、車から降りてきた黒龍が横に立った。そして雪火と同じく、動きを止める。

「……紅様と、翠龍は」

「見れば分かるでしょう」

 黒龍は、信じたくなかったのかもしれない。気持ちは分かるが、あれが現実だ。これから仕事をするのだというのに。

「おっさんも止めろよ……」

 疲れきった声で呟きながら、黒龍はのろのろと階段へ向かう。やや遅れてその背を追い、ふと思う。

 黒龍は、彼らと仕事に出たことがないのだろうか。

「あっ、クロさん! 一緒にや」

「お断りします」

 即答だった。紅は不満そうに唇を尖らせたが、黒龍は気にもとめず、階段を登り始める。翠龍がため息をついてそれに続いたので、紅は眉をつり上げた。

「翠! ずるいぞ!」

「うるせぇ、仕事中なんだから真面目にやれ」

 はっと息を呑み、紅は神妙な面持ちでうなずいた。まさか今更気付いたのだろうか。

「お前も付き合うなよ」

 ぼやく黒龍は石段を五つばかり上ったところで、雪火を振り返った。一段目に足をかけてから止まった黒龍の足に気付き、彼女は篳篥にリードをはめ込みながら視線だけ上げる。

 見れば、彼はこちらに片手を差し伸べていた。満面の笑みで。

「さ、主」

 鳥肌が立ったので無視した。横を通りすぎると、彼は残念そうに肩をすくめる。この男とは、気が合いそうにない。

 更に数段上ると、紅の足が見えた。避けようと顔を上げると、彼女は何故だか目を輝かせている。

「それはいいな」

「は?」

 紅は答えず、雪火に手を差し出した。何事だろう。まさか引っ張って行ってくれるわけでもあるまい。

 困惑して手と顔を交互に見ると、紅は唇の端をわずかに上げた。妙に不器用な笑顔に、何故だか泣きたくなる。

「一緒に行こう!」

 小さい頃、一緒に遊んだ少年がいた。向こうは病弱であまり家から出られず、友達がいなかったのだという。一方雪火は、無口すぎて友達が出来なかった。彼女は九つで全寮制の竜士学校に入ったから、その後のことは知らない。

 あの子は。

 あの子は、どうしただろう。

「……ん」

 つぶやいて手を取ると、紅は大きな目を輝かせて、跳ねるように階段を上り始めた。その足取りは軽く、体力のない雪火ではついて行くのがやっとだ。でも、不思議と嫌ではなかった。

 途方もなく長い石段を半分も上ると、みな口数が少なくなってきた。元気だった紅も眉をひそめているし、背後からは、断続的に翠龍のため息が聞こえる。黒龍の気配は、希薄だった。

「まだ、あるのか……」

 うんざりとぼやく紅に答えられる余裕など、雪火にはなかった。黒龍に担いで行ってもらう方が、幾分マシだったろう。

 休みたい。心の底から。それでも、惰性で階段を上り続ける。

「なぁ……ちょっと休まねぇか」

 翠龍の息は、明らかに上がっていた。情けない声を出した彼を、黒龍が笑う。

「だらしないな。筆頭なら楽に上るぞ」

「あのジジィ無駄に元気すぎなんだよ……」

 碧龍のことだろうか。見た目は翠龍の方が上に見えるから、彼らの会話に違和感を覚えた。

 ふと、紅が立ち止まった。つられて止まると、彼女はじっと石段の上を見つめている。雪火も見上げてみたが、何も見えなかった。何か見えたのだろうか。

「なんだ……向こうから来たか」

 疲れた声が呟き、通りすぎる。並んで立つ二人の前に、翠龍が立った。

「何か?」

 問いかけると、彼は億劫そうに振り返る。声と同じく、疲れた顔をしていた。

「紅が反応したら何かいる。そいつの霊力は特殊でな」

 意味がよくわからなかった。怪訝な顔をすると、彼は力なく笑う。

「笙を完璧に扱えるってこった。お前なら分かるだろ」

 笙は三管の中で、最も扱いが難しいとされる。演奏自体でなく、それを呪具として使う事が難しい。天より射し込む光を表すその音色は、ふつう魔を祓うものとしては使われない。

 傷ついた竜を癒す音色。人には竜の加護があり、竜には天の加護がある。だから笙は、竜を癒す。

 それも普通に使えば、というだけの事で、呪具として使えば篳篥よりも高い威力を発揮する。だが、使いこなすには大変な修練と、途方もない力が必要になる。

 だから雪火は、竜にも作用するリスクに目をつむっても、篳篥を選ばざるを得なかった。単純に、霊力が足りなかったのだ。

「本当に多いな。雪火、がんばろう」

 あまり頑張る気のなさそうな、軽い口調だった。

 紅から、笙を扱えるような霊力は感じない。そもそも特殊とは、どういう意味なのだろう。

 左右に並んだ木々は、さらさらと優しい音を立てている。とても何かが来ているようには見えなかった。半信半疑のまま篳篥を握り直すと、紅も背負っていたリュックを下ろす。

 中から出てきたのは、やっぱり笙だった。十七本の管が環状に並んだ楽器で、使う者がほとんどいないため、なかなかお目にかかれない。本当に、これを使うのだろうか。

「温めなくていいの?」

 笙はその構造上、内部が結露しやすく、演奏の前や間に温める必要がある。だからそう聞いたが、紅は事もなげにうなずいた。

「リュックにホッカイロが入っている。だいじょうぶ」

 なるほど。納得した時、横の木ががさがさと音を立てた。反射的に逃げようとしたが、階段にいる事を思い出して踏みとどまる。結果、反応が遅れた。

 木々の間から、赤い毛並みの妖が飛び出す。爛々と光る真っ赤な目と、皺の寄った額。その顔は、人間の老人か赤ん坊に似ている。長い五指から伸びる爪は鋭く、一掻きで人の首さえ落としてしまいそうだった。

 これは死ぬかもしれない。ぼんやりと思う雪火の目の前に、新緑の木の葉が舞った。

 いや、ちがう。

「……龍」

 目の前にいたのは、龍だった。頭部は竜とそう変わらないが、その体長は十メートルをゆうに超え、胴も丸太のように太い。枝分かれした角は長く真っ直ぐで、大樹の幹に似てひび割れている。黄金色の稲穂のようなたてがみは、風に吹かれて揺らいでいた。

 木竜は多く茶褐色の鱗を持っているが、これは光に透かした春の若葉のような、鮮やかな緑色をしていた。或いは、翡翠のような。

 木竜の長は、最も美しいと言われている。その鱗の色が名前の由来で、名付けたのは天王とされているが、真偽のほどは定かではない。ただ目の前にしてみて、最も美しいというのは嘘ではないのだと悟った。

「てめぇ……」

 翠龍の声だった。人型の時と同じ深い緑色の目が、黒龍を睨んでいる。振り返ると、彼は薄い笑みを浮かべて新緑の龍を見ていた。

「御前で龍に戻れるほど、俺は恥を捨てていない」

 龍の鼻っ面に、深いシワが寄る。怒っているようだった。

「雪火、それは翠に任せていい。篳篥を」

 それと言われて見てみれば、翠龍の前肢の爪は猿鬼を捕らえていた。何かわめいているが、言葉を発しない彼らの叫びは、誰にも届かない。

 ざわざわと、木々が鳴いている。あるいはそれは、いつの間にか周囲を取り囲んでいた妖の声か。

「私は少し、時間かかる」

 雪火は無言のまま笛を口に当て、呼気を吹き込む。音色は風に乗って拡散し、猿鬼達がにわかに騒ぎ出す。数が多いせいか、さすがにまだ効かない。音はどこまでも通るが、それに乗せた霊力を広げるとなると、時間がかかる。

 篳篥の強い主旋律に、笙の優美な音が重なる。同時に、妖の群れが動いた。

 猿共は一斉に、紅めがけて跳ぶ。足場が狭いせいで動けない紅は、その場に立ち尽くしたまま、笙を奏でるばかりだ。動揺もしなければ、視線を動かすこともない。

 横目で見ている雪火が焦り、音を外す。普段は誰が襲われようと動じないのに、何故だか紅のことは気になった。

 しかし雪火の心配は、杞憂に終わった。

 掴んだ猿を握り潰し、翠龍がぐるりと方向転換する。頭をこちらに向けた彼の長い尾は、反対に妖の群れの中へ突っ込む。大半は避けたが、何体かはしなる尾にまともに当たり、吹っ飛んで木に激突する。

 だがその程度で、妖は止まらない。逃げたものもぶつかったものも、即座に体勢を立て直し、またも紅に向かって行く。あの笛がどれほど恐ろしいものか、彼らは分かっているのだろう。

 妖共は、今度はバラバラに向かって来た。さっさと効いてくれと、雪火は心中祈る。

 龍というのは神獣で、殺生は好まない。竜の本性は獣だから易々と妖を食い殺すが、龍は本来、直接戦ったりしない。必要なら戦うものの、普通は術を使うだけだ。

 何より、龍は本来護らなくてはならないものなのだと、芙蓉から聞いている。だから、少し焦っていた。

「雪火」

 呼ばれて、視線だけを翠龍に向ける。猿共は彼の体に食らいついていたが、その翡翠の鱗には傷がついた様子もない。笙の音のせいだろうか。

「固められるか?」

 うなずくと、翠龍はいったん空中へ舞い上がり、跳ねるように全身を振る。取り付いていた妖が石段に叩き付けられ、耳障りな声を上げた。

 かと思えば龍は何の前触れもなく急降下し、紅に迫っていた二三体を、その大きな口でさらう。噛み砕くようなことはせず、大きく頭を振って放った。

「少し向こうにやってくれ」

 龍の声は、耳ではなく頭の中に直接聞こえていた。頷きながらも、雪火は脳裏に浮かぶ譜面をたどる。もう、何百回と吹いた旋律だ。間違えようはずもない。

 翠龍にはね飛ばされた一体が、よろよろと近付いてくる。妖は雪火を見て憎々しげに顔を歪め、金切り声を上げた。それでようやく翠龍が気付いたが、もう間に合わない。

「雪火!」

 猿鬼が大きく跳躍し、雪火めがけて降下する。鋭い爪が目前まで迫った時、篳篥の音色が変わった。

 ゆっくりと、誘うような。強く、命令するような。不可思議な旋律だった。

 今まさに雪火の顔に爪を降り下ろさんとしていた妖は、空中で静止していた。彼女が顎で示すと両手を上げたまま着地し、おぼつかない足取りで石段を上って行く。

 同じく他の猿鬼達も、動きを止めていた。しばらく瞬きをしたり声を上げたりと様々だったが、やがて完全に大人しくなり、石段を上っている。見えない糸で頭を引っ張られているような、奇妙な歩き方だった。

「流石だ。紅もそろそろだな」

 翠龍は空中で宙返りしたかと思うと、地面に降り立った時には人の姿に戻っていた。全く不思議な生き物だ。

 妖共はゆっくりと、しかし確実に階段を上って行って、ある程度離れた所で固まって止まる。ぼんやりと立ち尽くす彼らは、もう何も考えられないまま、笛の音を聞くばかりだ。

 ふと、翠龍が空を見上げた。立ち込めていた暗雲が薄れ、一ヶ所だけ切れ目が出来る。笙の音が徐々に細くなり、高らかに響く。聞いているだけで落ち着くような、穏やかな音色だった。

 曇天の切れ目から、細い光が射し込む。天から伸びた一条の光は徐々にその濃さを増し、石段を照らす。

「雪火、止めろ」

 篳篥の音色が止むと同時に、紅が落としていた視線を上げた。感情の見えない目が、猿鬼の群れをとらえる。

 風もない静寂に、笙の音だけが響く。天からの光は確実に、その強さを増して行く。妙だと雪火が思った瞬間、笙の音が、ぷっつりと途絶えた。

「射せ」

 一瞬、何が起きたのか分からなかった。光の輪が妖共を囲んだとたん、その姿が忽然と消え失せたのだ。視線を巡らせてみても、もう何もいない。痕跡すらも、残されていなかった。

 比べものにならない。驕っていたわけではないものの、天と比べた人の力が、これほどまでに卑小とは。

 唖然とする雪火へ向き直り、紅は小首を傾げた。雪火は彼女の手を見て、大きく瞬きする。

「終わった。帰ろう」

 手を差し出す彼女に、何を聞く気も起きなかった。たぶん彼女自身、何故自分の奏でる笙の音があれほどの威力を有するか知らないはずだ。だから黙って小さな手を握り、振り返る。

 黒龍は、思いの外近くにいた。彫りの深いその顔を見て、紅が顔をしかめる。結局彼は、何もしなかった。

 どうでもいい。雪火は彼から視線を外し、空を見上げる。切れ間など最初からなかったかのように、暗い雲がそこを覆っていた。


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