第一章 静かの海 四
四
引っ越しの翌日、雪火は緋緒に同行して車で現場へ向かっていた。運転は夕龍。龍は目立つから、空を行ったりはしないそうだ。
龍というのはどうも、本質も見た目も獣の竜とは違うらしい。雪火は噂やお伽噺程度の話しか知らず、どう違うのか気になっていた。いずれ見ることにはなるだろうから、わざわざ聞く事もしないけれど。
「龍は出来る限り使ってはならん。力が強すぎて、建物を壊す」
緋緒の言葉に頷くだけの雪火とは対照的に、何も言われていないはずの夕龍がうっと呟いた。身に覚えがあるようだ。
火龍というのは元々気性が荒く、ひと度暴れれば周囲数百メートルは焦土と化すと聞く。仕方のない事とは思うが、夕龍がそんな存在とは到底思えない。どちらかと言うと彼の気は、暖炉に入れた火のように温かく穏やかだ。
それも確かに、燃え上がれば大火となるか。
助手席で暇そうに外を眺めていた黒龍がそんな彼を横目で見て、鼻で笑った。
「お前は一旦キレると止まらないから悪い。もう少し自制を覚えろ」
正面を見つめたまま、夕龍は軽い溜息を漏らした。
「そうは言っても……俺は火龍だからな」
「火のくせに気が弱いのは何故だ」
「うっ……」
緋緒の冷ややかな声に、彼は首をすくめた。本当に気が弱い。
まだ着かないのだろうかと、雪火は思う。緋緒の講釈もそろそろ終わったようで、時折夕龍をいじる以外はあまり口を利かない。それはそれでいいが、本当に討伐対象がいるのか不安になってきていた。
今日は子鬼の群れを祓ってから、また別の討伐に向かうのだと言う。子鬼は魍魎が霊気を吸って成長したもので、鬼になる手前の姿だ。ここまで成長すると、もう術を使うようになる。
竜と違い、人間は術を使う方法を知らない。大昔は術をもって術に対抗していたようだが、今では廃れてしまった。それも使う霊力の量が膨大で、割に合わないためだったと聞く。
そう考えれば、今は便利なのだろう。かなり高価ではあるもなの、質のいい呪具があれば子鬼程度は楽に倒せる。
「いきなり群れの討伐で、平気なのですか?」
シートの背もたれ越しの問いかけに、緋緒はくわえタバコの煙を吐くだけで返した。窓は開いているが、緋緒も黒龍も遠慮がないからさっきから煙い。
「平気も何も、紅の時とは違う。竜士を侮っては失礼だぞ」
「あ、すみませ……!」
甲高いブレーキ音が鳴り響き、急停車した衝撃で体が前へ持って行かれた。前のシートに頭をぶつけ、雪火は小さくうめく。
何が起きたのかと考えるより先に、今度は勢いよくドアを開ける音が聞こえる。慌てて緋緒を見ると、もう外へ出ていた。同じく、黒龍もドアを開けて外へ出ようとしている。急ブレーキをかけたはずの夕龍は、何故かおろおろしていた。
「雪火、出ろ!」
言われた時には、彼女も車から降りていた。車の前を見れば、少し離れた場所に鎮守の森が広がっている。近代化した住宅街の中に、その杜はなんとも不釣り合いだった。
いつの間にかここまで来ていたようだ。まさかあんな所に子鬼が出たのだろうか。
「夕龍、このグズ! さっさと来い!」
ひどい言いようだった。急ブレーキをかけた割に、彼はまろびながら車を降りてくる。
「も、申し訳ありませ……」
「ここは芙蓉様の方が良さそうでしたね」
黒龍を見ると、雪火を見下ろして前方を指差している。彼の指す方、森の上空には、細く黒煙が立ち上っていた。これを見たから、夕龍は急停車させたのだろう。
燃やされているなら、火鬼か。あれなら確かに水行の芙蓉と碧龍の方がよかったはずだ。しかしそうも言ってはいられない。緋緒も重々承知しているようで、黒龍のぼやきには反応しなかった。
「急ぐぞ、社が燃えたら面倒だ」
「は、走るんですか主……また足をひねっ」
「言うな阿呆!」
背中を思いきり叩かれ、夕龍はむせていた。若干の哀れみを覚えつつ、雪火は緋緒の後を追う。
火元が分かっているのか、緋緒には迷いがなかった。森へ分け入ると、とたんにきな臭さが鼻を突く。
「土地神の杜ですね。よくここまで放っておいたものだ」
独り言のように呟いた黒龍は、雪火のやや後ろを着いて来ていた。振り返って見た彼はふと立ち止まり、その場にしゃがむ。
何かと思った矢先、彼は地面に手を着いた。何かを確かめるように地を撫でた後、にやりと笑って軽く叩く。
「そこは俺の領域だ。出て行け」
地面が揺らいだ。雪火はとっさに顔を上げ、緋緒の背を探す。もう、だいぶ先へ行ってしまっていた。
龍は行を操ると聞く。霊力と引き換えに奇跡を起こす術とは違い生まれた時から備わっている力で、特技とでも言おうか。土行を統べる黒龍なら、地中に隠れた小鬼を追い出す程度は造作もない事だろう。
しかし、どこに追い出されたのだろう。追うか留まるか迷っていると、黒龍が顔を上げて立ち上がった。
「緋緒様! 火元に集めました、後は頼みます!」
「頼むな馬鹿者、お前もやれ!」
怒鳴り声に肩をすくめた彼は、渋い表情の主を見て微笑んだ。雪火には彼がよく分からない。
「行きますか?」
「当然」
「息が上がっておられますが」
言われて初めて、自分が肩で息をしていることに気がついた。そういえばさっきからどうも息苦しいと思っていた。
痛いのも苦しいのも、一過性のものだ。今を過ぎればすぐに終わる。
「追う」
吐き捨てて走り出すと、黒龍は眉間にシワを寄せた。しばらくそのまま立ち尽くし、やがて小さく息をついて、雪火を追う。相手が読めないのは、彼も同じことだった。
前方から、甲高い破裂音がする。小さな風船を踏んだような、おしぼりの袋を叩いたような。あるいは学校で、徒競走の時に聞いたような。
「銃です」
背後で、黒龍が呟いた。
「遅い!」
一瞬自分が怒られたのかと思ったが、まだ緋緒の姿は見えない。訝って先を見れば、木々の間で何かがちらちらと動いていた。そして唐突に、開けた場所に出る。
緋緒も夕龍も、そこにいた。周囲には火の玉となった子鬼が飛び回り、破裂音が継続的に聞こえる。この数は確かに異常だ。人気のない山中ならともかく、こんな住宅街の只中の杜に出るような群れではない。
緋緒の手には、真っ黒な銃が握られていた。彼女の白い手には不釣り合いなほど大きく、重たそうだ。
あれも呪具だ。使用者の霊力を吸わせて弾とするが、入れすぎれば暴発する。数ある武器の中でも極めて扱いが難しいとされ、使える者はほとんどいない。雪火も使い方こそ習ったものの、加減が分からず持つのはやめた。
それを軽々と撃ち続けるのだから、緋緒は確かにすごいのだろう。高々二十そこそこであそこまで力を制御出来る者はそうそういない。しかしスーツで動き回るのはどうかと思う。足を捻って当然だ。
「火元が見えませんね。もう消したか」
呟いた声が消える前に、最後の一匹が夕龍に捕まった。いや、その手に足を捕まれた瞬間、消え失せた。
吸収したのだろうか。普通はありえないが、彼は火龍だ。性質は同じだし、存在からして特殊だから、可能性はある。
考える雪火の耳に、あ、と何かに気付いたような緋緒の声が届いた。
「しまった。終わった」
この人はもしかしたら、案外抜けているのかもしれない。呆れ半分慰め半分で苦笑して見せると、緋緒は肩を落とす。その肩を、夕龍がそっと叩いた。
「主、次がありま」
「やかましい。車に戻るぞ」
緋緒に睨まれて、今度は夕龍が肩を落とした。しかしその足は、主に言われるまま車へ向かっている。下僕根性が染み着いているらしい。
彼らが早すぎたせいとはいえ、間に合わなかったのは雪火だ。謝ろうかと思った矢先、緋緒が携帯端末を取り出してしまった。結局声をかけられずに開きかけた口をつぐむ。
どこかへ電話をかけ始めた彼女は、雪火に目配せしてから夕龍を顎で示した。ついて行けと言うのだろう。迷ったが、通話の邪魔になっても申し訳ない。会釈だけして、夕龍を追う。
「お前も大変だな」
どことなく悲しげな背中に、黒龍は軽い調子で声をかける。肩越しに振り返った夕龍は渋い顔をしていた。しかし雪火と目が合うと、取り繕うでもなく苦笑して見せる。
「これが、私の仕事ですから」
「真面目だな」
揶揄されると、彼は黒龍に呆れた目を向けた。
「お前が不真面目なだけだ。久々に見たぞ、お前が手伝うのは」
「主の御前とあらば」
夕龍はそう嘯いた彼を胡散臭そうに見て、ふいと向き直ってしまった。雪火には、龍共の力関係がよく分からない。
森を出て、雪火はふと見上げてみる。黒龍が反応して立ち止まったが、別段何があるわけでもない。首を横に振って、また向き直る。
何の説明もされないまま終わってしまったが、ここに何が起きていたのだろう。鎮守の森は神域であるから、普通は妖など寄り付こうともしないはずだ。強い妖ならまだしも、あんな小鬼が神を喰うはずもない。神の力が薄れるほど社がないがしろにされていたのだろうか。
めったにない事だと思っていた。子鬼の群れも、神域に妖が出る事も。だから本当にいるのかと疑ったし、鎮守の森から火の手が上がっているのを見て少なからず驚いた。
だが多分、隠されていただけなのだろう。子鬼程度、ただの竜士でも五年ばかり経験を積めばどんな馬鹿でも倒せる。神域に妖が出るなどあってはならないし、取りこぼした魍魎があんなにいる事も、またしかり。
「忘れられていたんだ、ここは」
ちらちらと背後を気にしていた雪火は、その声に慌てて横を見た。軍からの支給品であろう旧式の携帯電話を閉じながら、緋緒は続ける。
「必要とされなければ、神は弱体化する。地域を護る土地神の力が弱まれば、妖共も容易に成長する」
「あまつさえ、子鬼風情が神を喰う事もある」
黒龍の声に息を呑んで、視線を移した。微笑む彼を緋緒が睨み付ける。しかし彼女は何を言うでもなく、雪火を追い越して行った。
そんなことが、本当にあるのだろうか。学校でも竜士団でも習わなかった。神には何者も敵わないはずではなかったのか。それは、元からあったことなのか。
それとも。
「あそこの神は、ご無事だったようです。緋緒様が管轄の竜士団を叱っておられましたから、もう大丈夫でしょう」
仕事で詣でるのでは、神はお喜びにはならない。自分の意思で詣でて心からお願いして、初めて願いを叶えてくれる。人間の信心を糧とする彼らは、それなしには存在出来ない。
だから竜士が義務感で参拝しても、根本的な解決にはならない。この地に住む人々が思い出し、頼ってようやく神は救われる。雪火はそのように、学校で聞かされた。どこもそう習うのかは怪しいところだが。
「お前が何を言いたいのか、私にはわからない」
黒龍は虚を突かれたように目を丸くして、立ち止まった。雪火はそれきり何も言わず、車に乗り込む。
車内では、緋緒が窓越しに黒龍を見ていた。先の会話も聞いていただろうか。タバコに火をつける彼女から目を逸らし、雪火は窓を開ける。
「奴は思っていたより重症のようだな、夕龍」
緋緒の呟きに、夕龍は答えなかった。無言のままエンジンをかけた彼の目は、バックミラー越しに何かを見ている。緋緒の言葉に対して何か反応したのかもしれないが、真後ろにいる雪火には見えなかった。
遅れて黒龍が戻って、車はようやく発進した。辺りは閑静な住宅街で、この時間はさすがに出歩いている人も少ない。車を停めっぱなしで邪魔になる事はないにしろ、そのぶん人に見られる可能性は増えるだろう。仕事は出来る限り手早く済ませて、さっさと移動するに限る。
五年も経験を積めば、その地域の土地神がどんな状態なのかは地に立つだけで分かると言う。それなのに、竜士達は何故放っておいたのだろう。相手が危険な妖なら分かるが、子鬼程度、群れになっていても新人でない限りは祓えるはずだ。
名誉にならない仕事はしない。竜士はよく、そうして税金泥棒と謗られる。そういう事なのだろうか。
雪火は名誉には興味がない。だからといって、進んでああいった場所を祓おうとするほど正義感が強くもない。だが、土地神が弱まっていたら仕事が忙しくなる。土地自体の加護が薄れ、昼間でも妖が現れるようになる。それは流石に面倒だろうから、結局悪化する前に自ら祓いに行くかもしれない。
目に見える妖を退治して、人に仕事ぶりを見せつける。そういうことなのかもしれない。放置しておいただけだとしても、下らない事だ。
「ここでお前がどの程度動けるか見ようと思ったが、アテが外れたな」
独り言のように呟いて、緋緒は携帯灰皿に火のついたままのタバコをねじこんだ。
「次は少し厳しい。直視するのも酷だろう」
「何が出ましたか?」
聞いたのは黒龍だった。どこか愉しそうな声に、緋緒は顔をしかめる。
「作りかけの蟲毒だ。犬の方のな」
それは滅多に表には出ることのない、呪術に使う道具だ。正確には犬神と言うが、竜士はまとめて蟲毒と呼ぶ。威力は高いが製作に金も時間もかかるのと、下手を踏めば呪いが跳ね返ってくる可能性もあるため、今はほとんど作られないと聞く。
犬神自体は人間の目には見えない。だが、たまに作りかけのものが穴から這い出してくることがある。完全に呪物と化しているわけではないものの、怨嗟の念を蓄えて妖となってしまっているものがほとんどだ。
黒龍は若干目を見張ったが、雪火は驚かなかった。あれにはいつだったか、出会ったことがある。確かに気味の悪い代物だった。
「あなたは、そんなものの討伐に付き合わせようとしておられたのか」
「ついでだ。芙蓉は嫌がるし、紅では上手く祓えないかも知れん」
「構いません」
水筒を開けながら口を挟むと、緋緒は驚いたように雪火を見た。予想していなかったのか言葉自体が意外だったのか、定かではない。
どちらでもいい。心中そう結論付け、雪火は水筒に篳篥のリードを入れる。中には、まだ温かいお茶が入っている。吹く前に浸けないと、吹口が閉じたままになってしまう。
「私がやります」
重ねて言う雪火をまじまじと見て、緋緒は笑った。何の嫌味もない、どこか愉快そうな笑みだ。
「任せよう」
誰も止めなかった。その方がいいと、雪火は思っている。
ただ、昔とは少し違う。厄介者に処理を押し付けて見てみぬふりをしていた同級生達と、緋緒は違う。それが少し、雪火には重い。
期待されない方がいい。なんとも思われない方がいい。その方が、気が楽だった。
「この辺りですね」
夕龍の声に外を見れば、山道に入っていた。どうりで揺れるわけだ。
思えば、あれが初めて独力で倒した妖だった。あの時は媒体にされた獣がだいぶ弱っていたからまだ良かったが、今度はどうだろうか。
確認するでもなく腰に触れると、篳篥の硬い感触があった。綿入りの袋に入れてはあるが、時折割れていないか不安になる。そっとその形をなぞって、ようやく安堵した。
竜士をしていた頃はまだ三年目だった事もあり、弱い妖しか担当しなかった。だが今はそういうわけにも行かない。逆に言えば、誰に遠慮する事もなく戦える。
「くっせえな」
黒龍のぼやきに、雪火はすんと鼻を鳴らす。窓は開いているが、彼女の鼻には土の香りしか届かなかった。胸いっぱいに吸い込むと、すこし落ち着く。
車が止まる前に、雪火は水筒からリードを取り出す。湿り気を帯びてぬるくなった葦舌は、茶渋の色に染まっていた。リードは昔から、湯ではなく茶に浸けることになっている。
「止めろ」
今度は、ゆっくりと停車した。雪火は手になじんだ笛を握り直し、車内から辺りを見回す。特に変わったところもなく、鬱蒼と茂る木々が揺れるばかりだった。
すこし、風が強くなっただろうか。色づきはじめた木の葉が舞い、車の前を横切る。
「車は……」
「人払いさせてある。ここに置いておけ」
言いながらドアを開け、緋緒は車外へ出た。雪火もそれに続く。
外の空気は、タバコの臭いがしない以外車内と変わらない。秋口とはいえ、日中はまだスーツでは暑いほどだ。雪火が小さく息を吐く間に、緋緒はワイシャツごと袖をまくって登山道を歩き始める。
人の気配すらない山の中は、物悲しくさえ感じられた。小走りで緋緒の後に続いた夕龍の後ろを歩きながら、雪火は気配をたどる。
さすがにまだ、気は読めない。慣れれば一キロ離れた場所の魍魎の気配すら感じられると言うが、本当かどうかは疑わしい。
ふと背後を見ると、黒龍が口元を掌で覆ったままのろのろとついて来ていた。車に残っているものと思っていたが、一応弁えてはいるらしい。或いは、雪火が死ぬ場に立ち会おうとしているのか。
いっそここで死んだ方が、彼の為なのかもしれない。自分のような人間が主人では、彼もやりづらいだろうに。ぼんやりと思う雪火の鼻に、風に乗って嫌な臭いが届く。
血生臭いような、排泄物のそれのような、胸の悪くなる臭いだった。こんな臭いだっただろうか。
「あれだ」
呟く緋緒の視線の先に、黒い毛並が見えた。雪火はそれを犬毒だと認識したが、海外の人間なら単純に犬だと思っただろう。毛皮が所々禿げて、赤黒い肉を晒してさえいなければ。
「呪術に使うためだけに輸入された獣だ。製作中に逃げたらしいが、妖を喰って犬神ではなく毒と成り果てたな」
「どなたのご依頼ですか?」
緋緒は聞いた黒龍を睨み、懐から銃を取り出した。弾として霊力を打ち出すように改造されているから多少は軽くなっているのかもしれないが、普通の銃はあそこまで大きければ反動も大きい。緋緒が軽く使いこなしているのが不思議だ。
「邪推はよせ。地元の竜士が製作中のあれを発見しただけだ。物が物だから、こちらに回って来たがな」
あんなものが未だに作られているとなれば、混乱は免れないだろう。元は大陸の呪術師から伝えられたものらしく、海外への渡航が規制された頃に製作も禁じられた。今では正しい製作法を知る者もないと思われていはずで、雪火が在学中にあれが出た時もたいへんな騒ぎとなった。ともあれ、悠長に話していては何も始まらない。
雪火は硬い表情の緋緒から視線を外し、一歩前に出る。なりそこないの蟲毒はこちらに尻を向け、一心不乱に何かを喰っていた。獣は耳がいいとはいえ、風は向こうからこちらへ向かって吹いている。ここから笛の音が届くだろうか。
しかし、懸念は不要だった。獣の禿げた尾がぴくりと振れ、頭が上がる。完全に上がりきらないのは、首が折れているせいだろうか。頂点の欠けた耳が動き、奇妙な角度に傾いた頭が勢いよく振り返る。
その顔は、もはや異形と化していた。眼球は揃っているが瞳がなく、黄色く濁って見えているのかどうか分からない。耳の下まで裂けた口はだらしなく開き、青紫色に変色して膨れた舌が牙の上からだらりと垂れ下がっていた。その首には体毛がほとんどなく、赤黒い肉の奥に頸椎さえ見える。
死んでいるのに、動いている。これはもう獣の死体ですらない。妖だ。
「哀れな」
感情の読めない緋緒の独白が消える前に、妖が跳んだ。前肢は削れて骨が見え、後肢も歪に折れ曲がっているというのに。
緋緒の足下に着地しようとした妖は、地面を撃たれて後ずさった。穿たれた穴から、焦げた土の臭いが漂う。案外動きが機敏だ。
銃で狙いを定めるのも難しいだろう。
妖は次に、雪火にその崩れた顔を向けた。一応見えているのか、においで判別しているのか。龍に目もくれないのは、あれが対人用の呪具だからだろう。
骨の飛び出た前肢が地を掻いたのを見て、雪火はゆるりと右手を上げる。妖がふたたび跳躍すると同時、葦舌を唇に当てた。
「おい、悠長に何を……」
咎める緋緒に構わず、雪火は篳篥に呼気を吹き込んだ。よく響く強い音が大気を震わせた瞬間、夕龍は呻き、黒龍も顔をしかめて耳を塞ぐ。妖は、空中で静止していた。
篳篥は呼気に霊気を乗せて本気で吹くと、弱い竜なら同じように影響する。だから今まで動きを止める以外には使わなかったし、せっかく恩師に頂いたにも関わらず、この笛自体を持て余していた。龍も耳は痛そうだが、それ以上はないだろう。天地中空のうち地である人を表すこの笛は、今では失われかけた底知れない力を秘めている。
奏でられる音色は強くも美しいものだったが、その旋律は不気味でさえあった。重力を無視して空中で停止した妖を見つめたまま、緋緒は目を丸くしている。龍達は揃って顔をしかめ、強く耳を塞いでいた。
雪火は長く同じ音を吹き続けたまま、片手をスーツのポケットに入れる。そこに入っていた短刀を指で抜き、妖の頭上に振りかぶる。刃までもが木で出来た、妖専用の呪具だ。
いつしか彼女の唇には、笑みが浮かんでいた。
この瞬間だけが、雪火に生を実感させた。妖を屠るこの瞬間だけが彼女の感情を呼び覚まし、生きているのだと教えてくれた。まだ、生きていると。
「還れ」
短刀を突き立てられた獣の眉間から、いやな音がする。妖の四肢から一気に力が抜け、刃を抜くまでもなくその体が地に落ちた。瞬間、煙のようにかき消える。
黒龍が溜息をついて耳から手を離す。その顔は未だ、しかめられたままだった。
「……成る程」
緋緒が何に納得したのか、雪火には分からなかった。ただ彼女は、渋い表情を浮かべている。呆れられただろうか。軽蔑されただろうか。彼女には見えていたはずだ。獣の頭を刃で貫いた時の、雪火の顔が。
でも、これでいい。何の後腐れもなく、いつでも死ねる。
その日それ以降、雪火は一言も口を利かなかった。