第一章 静かの海 三
三
竜士団のトラックが運んできた家財は、本来家にあったものより遥かに多かった。聞けばこのマンション自体が国の持ち物で、他の階に住むのは全て役人。新しい五星が来たとなると、こぞって家財道具を送ってくるのだと言う。
当然住居自体は非公開で、部屋を訪ねてくることはまずないし直接何かを渡される事もない。彼らは竜士団本部宛に物を送って五星に届けさせ、少しでも取り入っておきたいようだ。どうせ誰が贈ったかなど、確認出来ないというのに。
とりあえず家具や電化製品を設置してもらったら、残ったのは三つの段ボール箱だけだった。当然だ。寮は風呂もトイレも共用だったし、食堂があったから食器も必要なかった。洗濯も、コインランドリーか共用の古い洗濯機を使っていた。
加えて、雪火の私物は必要最低限にも満たないほど少ない。衣類よりも、仕事に使う呪具の方が多いほどだ。
「……ん」
段ボールを開けようとした時、インターホンが鳴る。訝りつつ応対してみれば、芙蓉だった。
また何か説明に来たのだろうか。考えながら、雪火は玄関へ向かう。
「お疲れさまー。どう?」
ドアを開けて早々、芙蓉は満面の笑みでビニール袋を差し出してきた。なにがどうなのか判断に苦しむ。
「どうもこうも……広すぎて」
「落ち着かない? 紅もそう言ってたなあ。緋緒は狭いって怒ってたけど」
一体どんな家に住んでいたのだろう。緋緒と芙蓉は幼い頃から五星として家で修行してきたと言うから、立場的にそう狭い家ではなさそうだ。
ビニール袋を受け取って中へ通すと、芙蓉は律儀にお邪魔しますと言った。敬語を嫌がる割に、こういうところはしっかりしている。
段ボール箱の置いてあるリビングへ向かいつつ、袋の中を覗く。ペットボトルの紅茶とみたらし団子が入っていた。彼女も大概変わっている。というか茶色い。
「あ、荷ほどき終わったら食べよう。おだんご好き?」
「ん……荷ほどき?」
曖昧に返答してから、ふと問い返す。肩越しに振り返った雪火に、芙蓉はうんと朗らかに言って頷いた。
「大変でしょ?」
「……いや」
もらったものを袋ごと冷蔵庫に入れてからリビングに入り、雪火はそこに積まれた段ボール箱を指差す。芙蓉はしばらくそれを見つめてから首を傾げ、雪火を見た。
「これだけ?」
「だけ」
はあ、となぜか感心したふうに呟いて、芙蓉は肩を落とした。どういう反応なのか分からず、雪火は困った顔をする。
「緋緒みたい」
「筆頭?」
すぐには答えず含み笑いだけして、芙蓉は段ボール箱の横に屈んだ。
「緋緒もね、すごく私物が少ないの。呪具とか本とかはたくさん持ってるけど」
「……越してきた時?」
「口数少ないとこも似てるねぇ。緋緒も必要最低限しか喋らないんだよね」
ぐっと言葉に詰まった。
何しろ少女時分は育て親の祖父とほとんど口を利かず、飼われていた竜ぐらいしか話し相手もいなかった。周りに友人もなく喋る事さえない時期があったから、これが普通だと思っていた節もある。
しかし芙蓉は気にした様子もなく、段ボール箱を二つ重ねて持ち上げた。はっとしたが、彼女は重そうな素振りも見せない。家は広いとはいえ二人で同じ箱を運べるほどでもなく、雪火は諦めて一つ残された荷物に手をかける。
「軽いねぇ。どこに運ぶの?」
「いや……そちらに」
残った段ボールを持ち上げたら、腰に来た。長年の運動不足が祟っている。
少しよろけながら、芙蓉に続いて寝室へ向かう。室内にはタンスと貰い物のベッドと、最近買い替えた文机しかなかった。セミダブルのベッドがなければ、相当に殺風景な部屋となっていた事だろう。芙蓉は片腕に段ボール箱を抱えたまま、部屋の前で立ち止まる。
「なんにもないねぇ。寮にいたんだっけ? あったのこれだけ?」
「タンスと文机だけ」
「竜士って意外と質素なんだね」
芙蓉は言いながらやっと部屋に入り、段ボールを床に置いた。
竜士すべてが雪火のようではない。同僚の部屋を見たことはないが、概ねテレビやらパソコンやらで寝る場所がほとんどなく、ロフトを使っていたようだ。一人一人部屋が割り当てられる代わりに狭かったせいかもしれない。
自分が変わっているという自覚はあった。だから、緋緒に似ているという言葉が気になる。彼女も、こうだったのだろうか。
「あ、開けて平気?」
「ああ……すみません」
「いいんだよー、お手伝いしに来たんだから」
爪でガムテープを剥がす芙蓉の隣に箱を置き、雪火も荷ほどきを始めた。
単調な作業をしていると無言になるのは誰でも同じようで、話好きの芙蓉も黙って箱を開けている。いや、雪火がハサミでテープを切って箱を開けたのに対し、彼女はまだ紙テープと格闘している。
剥がすより破った方が早いと、教えた方がいいだろうか。思いはしたが、芙蓉の横顔があまりに真剣で声をかけるのも憚られた。少し悩んで、結局諦める。
雪火が開けた箱の中には、冬物のコートとスーツが入っていた。更に、買ってきた日用品の入ったビニール袋。急かされて適当に詰め込んだから中身がめちゃくちゃだ。外側に何も書かなかった事を後悔しつつ、雪火は段ボールを引きずってクローゼットの扉を開ける。
さすがというか当然というか、ウォークインクローゼットになっていた。これが自分の家なのかと思うと、どうにも妙な気分になる。
「取れたー!」
驚いて見ると、芙蓉が嬉しそうにこちらを見ていた。手には剥がしたガムテープを持っている。
「綺麗に取れたよー」
「……おめでとう」 なにが嬉しいのか、雪火には分からなかった。この先輩は彼女の理解の範疇を超えている。
「あ、これ仕事道具だね。見ていい?」
「どうぞ」
妙に楽しそうな芙蓉を横目に、雪火は冬物の衣類をポールに引っ掛ける。それもそんなに数がないから、寒々しく見えた。コートは就職した年に買ったもので、そろそろくたびれてきている。
真新しい部屋の中で、よれたコートは寮で見るよりみすぼらしく見えた。少し恥ずかしくなって、隠すようにクローゼットの扉を閉める。
「篳篥使うんだね。紅は笙が得意なんだよ」
何気ない言葉に驚いて、雪火は目を見張る。あれは他に比べて扱いが難しく、使う者はほとんどいない。
何故、笙なのだろう。縦笛の篳篥と違って笙は作りが繊細すぎるし、いちいち楽器自体を温めなければならないから持ち歩くのに向かない。どうして笙を選んだのか不思議だった。
雅楽器を使う竜士達は、概ね龍笛を好む。雪火は篳篥の音量がゆえの威力を取ったが、龍笛は単純に龍と名につく。力は劣るが縁起がいいからと、こぞって龍笛を習いたがる。
だから雪火は篳篥を選んだ。他に比べるとやや高価な楽器だが、龍笛使いばかりでは倒せるものも倒せない。お陰で入団試験もすんなり通った。
「笙の音色も綺麗だけど、私は篳篥が好きだなぁ」
「そう?」
「うるさいって言う人もいるけど、力強くていいと思うんだ。私は楽器出来ないから、羨ましいなぁ」
楽器が出来ないで、どうやって今日までやってきたのだろう。何もかも竜に任せることは出来ないし、札があっても当たらなければ意味がなく、動きを止める為に笛は必要だ。ある程度の妖なら笛の音だけで殺せる。
或いは、必要がないのかも知れない。相手が強すぎるから、笛が役に立たない可能性もある。そうだとしたら、自分はどうすればいいのだろう。
「緋緒は龍笛が得意でね、綺麗だよ。満月の夜は、緋緒の笛の音で飲むの」
それはさぞかし、美しいだろう。飲むという単語は聞かなかったふりをする。
この島の人は諸外国に比べて平均寿命が短く、十五歳で成人として認められる。飲酒、喫煙は十八で解禁されるが、守っていない者がほとんどだ。十五で就職する人が多いから、付き合いもあって守れないと言った方が正しいだろう。
挙句、竜士たちは酒好きだ。雪火はタバコは興味ないし、酒も好まない。飲み会は本当に辛かった。
とはいえ、あんな仕事は飲まないとやっていられないのかもしれない。命の危険があるくせに市民からは嫌われるだけ嫌われて、やりがいはあると言えたが精神的に辛い仕事だった。
「これ、いい篳篥だね」
煤けた竹で作られた笛をしげしげと眺めながら、芙蓉は感嘆の声を漏らす。篳篥は材料が材料なだけに稀少性が高く、笛にするにも大変な技術を要する。だから良いものを探そうとすると、かなり高価になる。
良いものを持っていても、吹き手の力が伴わなければ意味がない。奏者の心が凪ぎ、静まっていなければ、いい音は出ない。そう教えてくれたのは、雅楽の教師だった。
「卒業祝いに、雅楽の先生がくださった。苦労するだろうと」
「いい先生だったんだね」
篳篥を袋にしまってそっとベッドに置き、芙蓉はようやく片付けを始めた。
いい教師だった。無口な雪火にも根気よく話しかけてくれて、よく目をかけてくれた。あの人がいたから、雪火は今、充分でなくとも他人と話せる。
祖父は屑だったが、師には恵まれていた。そういう意味では自分は幸運だったのだと、雪火は思っている。
「これでおしまいかな?」
我に返ると、芙蓉はタンスに衣類をしまっていた。段ボール箱はもう全て空になっている。ぼんやりしている間に片付いてしまったようだ。
「すみません……」
「なにが? さ、お茶にしよう」
任せきりになっていたような気がしたが、芙蓉は気に留める様子もなくさっさと立ち上がった。足取りも軽くリビングに向かう彼女は、早く団子が食べたかっただけなのかも知れない。
冷蔵庫を開けてリビングに入ると、芙蓉はダイニングに座って待っていた。これも貰い物で、白木の木目が美しい国産のダイニングセットだ。流行りの海外製の高級家具を、竜士は嫌う。案外考えて贈ってきているようだ。
「コンビニのお団子、おいしいんだよ。私、ちょっと硬いのがいいんだ」
「変わってるね」
「紅の方が変なんだよー。にぼしの頭とかゴーヤとか、苦いの大好きなの」
にぼしの頭は確かに変だが、ゴーヤは好きな人に失礼なのではないかと思う。芙蓉が団子にかぶりついたのでつられてかじると、確かに歯ごたえがある。冷蔵庫に入れなければよかった。
しかしこの甘いものに甘い紅茶とは、やはり芙蓉も変わっている。変わり者でなければ、こんな仕事は勤まらない部分もあるのかもしれない。
日々体を張り、言葉通り仕事に命をかける。見返りは税金で賄われる給金と、同僚からの賛辞だけ。守っているはずの市民からは後ろ指を差され、動物虐待と責められる。雪火はどうでもいいが、他の竜士たちは何故あんな仕事をしていたのだろうと思う。
「そういえば、クロさんは?」
誰の事かと怪訝な顔をすると、芙蓉はもごもごと口を動かしながら腕をくねらせた。黒龍のことかと、雪火は納得する。龍の姿を見たことがないから、少々違和感がある。
「食器を買いに」
「へぇ、クロさんてちゃんと働くんだ」
どういう意味かと思ったが、芙蓉が団子を口に運んでしまったので聞けなかった。雪火は複雑な表情のまま団子の串を折る。食べるのは早いのだ。
「食器、なかったの? 私の時は、調理器具とか食材とかも入ってたよ。アオさんが全部食べちゃったけど」
「……使うには、高そうだった」
雪火は貧乏性だ。渋い顔をすると、芙蓉は快活に笑った。
「使わないならちょうだい。詰所の食器、緋緒が何枚か割っちゃって」
雪火は我が耳を疑った。あの人は、うっかり食器を割ってしまったりする人なのだろうか。とてもそうは見えなかった。
「もったいないよね、せっかくもらったのに。あ、雪火は料理できる?」
「一応」
出来るというより、やらなければいけなかった。竜士になってからはあまり作らなくなったが。
わあと子供のように声を上げ、芙蓉は目を輝かせた。
「じゃあお昼ごはん作ろう。当番なんだけど、緋緒の代わりにずっとユウちゃんがやってたの」
「……ユウ?」
「うん、夕龍。緋緒変なものばっかり作るんだよ」
セキなのにユウちゃんと言われても分からない。そういえば昨日も、碧龍をアオさんと呼んで怒られていた。彼女はどうも、変なアダ名をつけたがるようだ。
「緋緒ね、卵かけご飯とかお茶漬けとか好きなの。そういうのしか作ってくれなくて」
聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がした。とりあえず聞かなかったふりをして、心の中に留めておく。
「実際ご飯作れないだけなんだけどねー」
無邪気に笑いながら、芙蓉は事もなげに言う。雪火はにわかに焦りを覚え、彼女から視線を外す。 これは確実に、聞いてはいけないことだ。緋緒の名誉のためにも、これ以上余計なことを暴露される前に話題を変えなければ。
しかし元来口下手な雪火には、話のネタも浮かばない。どうするかと考えた時、ふと思い出す。
「……龍は、人の魂を食べる?」
ずっと気になっていた。妖ならまだしも、竜は人を食ったりしない。食わないものなのかと聞いたら人はまずいから食わないのだと言っていた。食うのではないかと思ったものだ。その後嘘だと言われたが。つまり彼らは草食らしい。
だから単純な興味から聞いたのだが、芙蓉の表情は一変した。さっきまで浮かべられていた笑顔が嘘のように目を見張り、凍りついたように動かない。驚愕を示す彼女に、雪火も驚いた。
まずいことを、言ってしまったのだろうか。不安を抱く雪火の目の前で、芙蓉は困ったように笑う。
「誰から聞いたの?」
答えてはいけないような気がした。おそらく、答えるべきではない。だがどうごまかしたらいいか、雪火には分からない。
結局、黙り込むしかなかった。まるで子供だ。自分に都合の悪いことは答えないとは。
芙蓉はしばらく微笑を浮かべたまま待っていたが、やがてまた表情を変えた。眉をつり上げて真剣な表情になった彼女は、小さくため息をつく。
「黒龍に聞いたの?」
芙蓉の目は、雪火を答えなければならないような気にさせた。責めるようでも、急かすふうでもない。ただ真摯なだけの目に、嘘をついてはいけないような気がした。
誰に嫌われてもいいと思っている。それは今もそうだ。でも今は、彼女と向き合わなければいけない気がする。本当に気がするだけだったけれど、そんな自分が不思議だった。
「……はい」
「そっか……」
溜息まじりに呟いて、芙蓉はペットボトルのキャップを開ける。そのまま口をつけて、一気に三分の一ほど飲み下した。
何を言われるのだろう。いっそ怒られるだけならどんなに楽だったろう。怒られるのなら、苦手だが慣れている。
「……昨日、緋緒が話しそびれたこと、言いに来たの」
数分の間のあと芙蓉が放ったのは、意外な言葉だった。身構えていた雪火は拍子抜けして、肩の力を抜く。
「何か?」
「五星は、獣の方の竜士とは全然違う仕事だって」
怪訝に眉根を寄せると、芙蓉は淡く微笑んだ。少し寂しそうに見えるのは、何故なのだろう。
「竜の本性は獣だけど、龍は龍という生き物なんだ。人と似てるけど、ちょっと違う」
初耳だった。龍は竜の上位に位置する、亜種のような生き物なのだと思っていた。だとしたらこの国に存在する生き物は、ほんとうは四種だったのか。
「五龍は五行の長たるものとして最も尊く、人の上にあって天の下にある。私達は主人だけど、地位は五龍の下になるの」
「ややこしい……ね」
「うん。普段は天のために五星の手足となって働くけど、その身を脅かす危険が迫った時は、立場が逆転する」
どういう意味だろう。
竜はふつう、主を守るものだ。人間の方が弱いのだからそれが当然で、そもそもそのために、人は竜を飼っている。立場が逆転するなら、龍の方が主人になるのだろうか。
考える雪火に、芙蓉は微笑んで見せた。
「危なかったら、龍を逃がして私たちが盾になるってことだよ」
そうなのかと、納得した。戦死したものもいるという割に長命なのは、そのせいなのだろう。
「そう」
それだけ返すと、芙蓉は変な顔をした。驚いたような複雑なような、なんとも言いがたい表情だ。
「うん……そっか、竜士だったもんね」
変な納得のしかたで頷き、芙蓉はちらりと廊下へ続くガラス戸を見やる。誰もいないことを確認するような動作だった。
何を気にしているのだろう。さっきも黒龍の所在を気にしていたから、彼に聞かれてはいけない話なのだろうか。
「……皆優しいから守ってくれるけど、本当は私達が先に立って戦わなきゃいけないの。お母さん……先代からも、口を酸っぱくして言われてた」
「戦えるの?」
「私と緋緒はね。紅はちょっと厳しいから、翠さんが頑張ってる。大体皆、決まりは無視してるかな」
家で五星を継ぐのに、紅は違うのだろうか。雪火が知らなかったから、同じようなものなのかもしれない。
「でも、黒龍は違う」
ひそめた声で呟いた彼女の表情は、険しいものだった。黒龍が帰ってくることを懸念しているのだろう。テーブルの上へ身を乗り出し、雪火に顔を近づける。
「黒龍はもともと大地を現す龍だから、静かなようで気性が荒い。普通にしてるけど、今は主不在の状態が続いてたせいで、余計に不安定なの」
主に使役されることで自制しているのだと、緋緒は言っていた。長といえど龍一体が荒れたところで自然に影響はないようだが、竜の方には影響する。だから五龍は、主を持って自制しなければならない。
「それだけじゃなくて……なんていうか、当代はよけいに気が強くて」
「気性が違うこともある?」
「あるよ。ユウちゃんなんか、火龍なのに気が弱いし。先代黒龍は物静かで優しかったって聞いたけど、当代は……」
雪火がふと視線を上げると、芙蓉は口をつぐんだ。何か来たような気がしたのだが、特に足音がするわけでもない。
気のせいだろうか。ドアに向けていた視線を戻した先で、芙蓉が複雑な顔をしていた。
「分かるんだ」
「は……?」
怪訝に声を漏らした時、唐突にドアが開く音がした。見れば、小脇に箱を抱えた黒龍が立っている。
彼は芙蓉を見て一瞬驚いたような顔をしたものの、すぐに微笑んだ。芙蓉も先ほどまでの緊張した面持ちはどこへやら、柔らかな笑みを返す。笑みを交わす二人に、雪火は違和感を覚えた。二人がお互いに、ごまかしているような気がしたのだ。
「ただいま戻りました。棚に入れますか?」
「洗ってから入れる」
「なら、出しておきます」
龍というのは、使いっぱしりのような事もするのだろうか。気性が荒いという割に、彼は自分から買い物に行くと言い出した。雪火と居たくなかったのかもしれないが、それなら自分の部屋へ帰ればいいだろうに。
正面の芙蓉は、段ボールを片付ける黒龍を無表情で見ていた。彼が顔を上げたところで眉をひそめる雪火に気付き、にこりと笑んで席を立つ。
「長居しちゃってごめんね。戻るね」
「え?……ああ、ありがとうございました」
「いいったら。……あ」
ダイニングから離れかけた彼女はふと立ち止まり、雪火を見下ろした。見送ろうと浮かせかけた腰はそのまま、雪火も止まる。
「緋緒が、明日九時に詰所に来いって言ってたよ。仕事に同行してもらうからって」
「ん……わかった」
「動きづらかったら私服でいいけど、たまに詰所に偉い人来るから、着替えるの面倒ならスーツがいいかな。また明日」
見送ろうとしたがその場で手を振られ、ついて行くのも憚られてやめた。芙蓉はさっさと出て行ってしまう。
自分の家なのに所在なげに視線を巡らせると、キッチンから出てくる黒龍がいた。両手に湯飲みを持っている。
「お疲れ様でした。片付きましたか?」
「ほとんど芙蓉がやってくれた」
ふ、と笑って、黒龍は湯飲みを一つ雪火の前に置いた。中身は冷蔵庫に入っていたペットボトルのお茶のようだ。あの短時間で湯が沸くはずもない。
「黒龍」
湯飲みに手を伸ばしていた彼は、その手を止めて雪火を見た。
「あれはどういう意味?」
金色の目が、すっと細められた。それから改めて浮かんだ微笑がどうにも胡散臭い。取り繕ったようにも見えた。
黒龍とは古来より邪悪の化身とされている。彼がその龍と同一とは限らないが、怪しいところだ。それほど彼の気配は、他の龍たちの中で異質だった。
それも芙蓉が言うように、不安定なせいなのだろうか。それとも、元々のものなのだろうか。
「あれ……とは?」
「魂を寄越せと言った」
ほうと呟いて、彼は目を細めた。
「覚えておいでか」
まあと返すと、今度は表情を消した。自分から言ったくせに、覚えているのかとは何事だろう。喧嘩腰だったり丁寧だったり、忙しい男だ。
「龍は魂を食ってはならない。だが食らえば、途方もない力を手にすることが出来る」
「今取る?」
今度は妙な顔をした。雪火のこの反応は予想していなかったのだろう。
魂を取られれば死ぬ。それは当然のことだ。面と向かって殺すと言われているようなものなのだから、むしろ動じない雪火がおかしい。
「……いいえ。五星になったとあれば、殉職することもあります」
死ぬのを待つ、ということか。ずいぶん気の長い話だ。
「その時に?」
「ええ」
自然死でない場合、その者が持っていた霊力が魂に宿って幽霊となる。魂そのものでなく霊力を食うのだと考えれば、それでいいのだろう。
魂を食われれば、天には昇れない。新たな輪廻の輪に組み込まれることなく、消滅する。
「好きなように」
どうでもよかった。生まれ変わりは大抵前世と似たような人生を歩むと言う。こんな人生なら、二度はない方がいい。そう思ってしまうほど、雪火が歩んできた道程はろくでもないものだった。
黒龍は黙っていた。無言のまま、静かに頭を下げた。