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第四章 溶けない孤独 六

 夢だと思いたかった。悪い夢なのだと。その内全てが夢の中のことのように思えて、何も感じなくなった。自分にとって幸福だったことさえ、夢だったかのように。

 それでも全ては現実で、何も見たくなくて、鏡を直視することをやめた。そこに映る全てが、何もかもが現実だと嘲笑う。

 一人でいいわけじゃなかった。ただ、自分でも直視出来ない傷跡を見られるのが嫌だった。だから。


 六


「主!」

 夢うつつに泳いでいた思考が、急激に現実へと引き戻された。驚いて開けた目に、壁と長い黒髪が映る。自分の髪かとも思ったが、それより太い。

「お目覚めですか?」

 耳元から聞こえた声に顔をしかめ、雪火は視線だけで横を見た。もう見慣れた濃い顔が、すぐ近くにある。寝起きには暑苦しい。

「……何してるの」

「うなされておられたので」

 そんな事は聞いていない。思いはしたが疲れてしまって、雪火は無言で片手を布団から出す。邪魔だと言わんばかりに額に手をついて押し返すと、黒龍は思いの外素直にどいた。

 のっそりと起き上がって、彼女はあくびをもらす。黒龍は小さく笑った。

「悪い夢でも見ておられたのですか?」

「起き抜けにおまえの顔見る方が悪い夢」

「そんなに私がお嫌いですか?」

 困ったような笑みを浮かべた黒龍は、やっぱり出て行く気配も見せない。分かっているから聞くのだろうと、雪火は心中毒づく。

 彼も多分、臆病なのだ。知らないふりをして、欲しい言葉だけを望む。今更迎えに来たのは、寂しかったからなのだろうと考えている。

 でもたぶんその孤独を埋めることは、雪火には出来ない。したくもなかった。

「人が来るの。出てって」

 問いかけには答えず、雪火はそれだけ言う。黒龍はまだ微笑んでいたが、まとう空気がわずかに変わった。

「どなたが?」

「碧龍様」

 黒龍の目が、すっと細められた。何を怒っているのかと、雪火は呆れる。

 勝手に怒るのなら、どうでもいい。それは怒られるのとは違う。そもそも非は雪火にはない。何も言わない黒龍が悪いのだ。

「何故です?」

 ベッドから足を下ろして視線だけで見上げると、黒龍は眉をひそめて身を引いた。近付くと逃げるくせに。

「相談」

「私では駄目ですか?」

「おまえはマトモに話を聞かない」

 渋い表情を浮かべ、黒龍はやっと部屋を出て行った。ごまかせたと、内心安堵する。

 彼に聞かれたくないことを聞くのに、話せるはずもない。そもそもまだ憶測の段階で、確信したわけでもないのだ。相談なら水神が言った通り、碧龍の方が適している。

 身支度を整えて入ったリビングには、焼魚の匂いが充満していた。焼くのはいいが、換気扇ぐらい付けてほしい。

「何故スーツなんです?」

 窓を開けたところで、背後から声をかけられた。振り返れば、茶碗と魚の乗った皿を持った黒龍がいる。今日は黒いハイネックのセーターとジーンズという出で立ちだった。

 似合わない。服ではなく、茶碗と魚が。

「臭い。換気扇回して」

「今日は甘くないのにしましたよ」

 会話が全く噛み合っていない。しかし黒龍は気にするふうもなく、テーブルに皿を並べ始めた。

 甘くないのはいいが、朝からこんなに食べられない。眉をひそめる雪火に気付いているのかいないのか、黒龍は鼻歌混じりに小鉢を並べている。嫌いなものはないが、雪火は少食だ。

「さ、どうぞ」

 ご飯と焼魚とみそ汁と、煮浸し。雪火は竜士団の寮の食堂を思い出した。量はあちらの方が多かったが。

 それにしても、甲斐甲斐しいものだ。考えながら、雪火はダイニングに着く。してもらってばかりで申し訳ないとは思うが、頼みもしないのに勝手に世話を焼くのも悪い。

「いただきます」

 まず箸をつけたご飯は、当たり前だが普通に炊けていた。茶碗に半分も食べれば腹はいっぱいになってしまうから、切り身の鮭を見てげんなりする。

 一通り食べてみたが、甘いものはなかった。このメニューで甘かったら問題だが。

「本当はコンデンスミルクを入れて炊くんですがね」

「え……」

 思わず呟くと、黒龍は愉快そうに笑った。それで騙されたのだと気付き、雪火は顔をしかめる。

「嘘です」

 何が楽しいのか、よく分からない。雪火は渋い表情のまま、黙々と箸を進める。案の定半分で満腹になったが、それでも食べる。

 少し、味つけが濃い。やっぱり気が合わないのだ。

「昨日はお疲れさまでした」

 食器を片付けながら、黒龍は笑顔で言う。含みがあるように思えて、そう思ってしまう自分が嫌で、雪火は答えられなかった。

 言い訳ではないが、そもそも彼の態度はいつも怪しい。何か隠しているような、バカにされているような気がする。被害妄想ならそれはそれでいい。

 簡単には信用出来ないというのが本音だ。それというのも、数年間音沙汰のなかった彼が最初に放った言葉が未だに気になっているから。そうそうあれを忘れられるはずもない。

「……ごちそうさま」

 言いながら手を合わせ、食器を重ねて立ち上がる。時刻は十一時を回っている。そろそろ来る頃だろう。

 食器を洗っていると、黒龍も皿を持って台所へ入ってきた。皿を受け取っても、出ていく気配を見せない。

「帰って」

 しばし、間があった。シンクに視線を落とした雪火に、黒龍の顔は見えない。今は見たくもなかった。どんな顔をしているのか、なんとなく分かるから。

「私がいてはいけませんか?」

「おまえはすぐケンカするから」

 黒龍は黙り込んだ。事実なのだから、反論できるはずもない。しかしそれでも彼は、出て行かない。

「黙っていますから」

「なんでうちにいたいの?」

 問いかけても、黒龍は答えない。雪火は小バカにしたように鼻を鳴らし、台所を出た。そこで、インターホンが鳴る。

 雪火が動く前に、黒龍が玄関へ向かった。嫌な予感がしたので、雪火は玄関に行かず茶を煎れる。

「よう、おはようさん」

 見上げると、キッチンの入り口に碧龍が立っていた。黒龍はどうしたのかと思ったが聞かず、あいさつの言葉を口にする。

「すみません、忙しいのに」

「いいんだよ、芙蓉は一人で仕事出来るから。……なんか、魚くせえな」

 雪火は心中、黒龍を呪った。換気扇を回さなかったのは碧龍への嫌がらせだったのではないかと勘繰る。

 まっすぐ窓際のソファーに近付いて腰を下ろした碧龍は、懐を探ろうとしてやめた。代わりに、スーツの上着を脱ぐ。タバコを出そうとしたのだろうが、彼も案外気を遣う。灰皿を置いていなかったせいかもしれないが。

 クローゼットにしまいこまれていた灰皿を取り出してローテーブルに置くと、碧龍は目を円くした。雪火はタバコを吸わない。あるとは思わないだろう。

「もらいものです」

「ああ……いいのか?」

「どうせ魚臭いですから」

 喉を鳴らして笑いながら、碧龍は上着を探ってタバコを取り出す。湯飲みを置くと、軽い礼の言葉が返ってきた。

「黒龍はいつも来るのか?」

 正面のアームソファーに腰を下ろすと、さりげなく問いかけられた。いいえと返して、雪火は湯飲みに口をつける。

「休みの日は、たまに」

「ほー……ああいや、いいんだが」

 怪訝な顔をすると、彼は苦笑いした。食えない上に、読めない男だ。歳のせいだろうか。

「鬱陶しいだろうが、あんまり邪険にしなさんな」

 タバコに火をつけながら、碧龍は言う。薄い唇に浮かべた笑みはいつもより淡い。

「寂しいんだよ、アイツも」

 邪険にしているつもりもないが、第三者が見ればそう思うのかもしれない。雪火は元々反応が薄いし、他人が自分のスペースに入り込むのを嫌う。それでも、むやみに追い返さないだけいいはずだ。今日は追い返してしまったが。

 雪火は答えないまま、首だけ縦に振った。碧龍は困ったように微笑んで、彼女を見ている。

「……金行の長は、何故行方が分からないのですか?」

 悩んだ末に単刀直入に問うと、碧龍は面食らったように口をつぐんだ。くわえたタバコから灰が落ちそうになって、慌てて灰皿に落とす。

「お前さん案外……はっきり言うね」

「言葉が足りなくて申し訳ありません」

「や、そうじゃなくてな」

 ああとぼやいて、碧龍はソファーに浅く座り直した。背もたれに頭を乗せ、目をそらす。

「……近々、全員にみんな話そうとは思ってた」

「隠しておられたのに、いいんですか?」

「お前さんよ……そりゃ黒龍も手焼くわな」

 タバコをくわえたまま細い顎を撫で、碧龍はうなった。少し開けた窓から風が吹き込み、彼の癖毛を揺らす。たてがみがうねっているから髪もああなのだろうかと、雪火はぼんやりと考える。

「……まあ、お前さんに先に話した方がいいか」

 自己解決したらしい。碧龍はやっと雪火と目を合わせ、にやりと笑った。明るい金の目は、そこだけ別の生き物のように光る。

 窓から射し込む陽光を受けて光る目が眩しくて、雪火は反対に目をそらした。金色の目というのは、いつ見ても慣れない。毎朝見ているのに。

「よう、どこまで気付いた?」

 どこまでと聞かれても、分からない。気付いたことは確かにあるが、それが彼の言うどの辺りなのかが、よく分からないのだ。

「……金星」

「は?」

「金星が、誰なのか」

 息を呑んで身を乗り出した碧龍の表情は、驚愕を示していた。雪火はその反応に驚く。

「ウソだろ……」

「すぐバレるような嘘はつきません」

 短くなったタバコを灰皿に押し付け、碧龍は前髪をかき上げた。疲れた顔をしている。

「こっちが散々探してたってのに、お前って奴はよ」

「黒龍も知っていると思いますが」

 タバコを出そうとしていた碧龍の動きが、ぴたりと止まった。言わない方が良かったらしい。

「……いや、知ってたら言うはずだ」

「そうですか?」

「そりゃ……多分」

 ううんとうなって、碧龍はタバコに火をつける。黒龍はそうでもないが、彼と翠龍はチェーンスモーカーだ。窓を開けておいて良かったと思う。

「まあなんだ、黒龍が隠してんなら誰とは聞かんが……お前さんは何が聞きたい?」

「先に申し上げた通りです」

 碧龍は小さく舌打ちした。言わないつもりだったのかもしれないが、察したところで聞かないでおくほど雪火は優しくない。

「黒龍に聞いた方がいいと思うんだがな」

「だからあなたに聞いているんです」

 またああとぼやいて、碧龍は膝に頬杖をついた。雪火はさっきから動かないのに、落ち着かない様子だ。

「お前さんは緋緒よりタチ悪いな」

「なんとでも。私に話すべきでないのなら聞きませんが」

 見上げてくる目は、探るようなものだった。彼の本性を見たような気がして、尻の座りが悪い。

 何をここまで隠したがるのか、不思議だった。言うべきでないのなら、匂わすようなことも言わないはずだ。だからこそ、聞いてみたくなる。

 以前は、他人の秘密など聞きたくもなかったのに。

「前提は、龍と人間の間にも子供は出来るって事だ」

「そうですか」

「……だがこれは禁じられてる。理由は神話の時代にまで遡る、今日は省くぜ」

 彼の言う神話の時代というのがどの辺りに当たるのか、雪火にはよく分からなかった。聞いても話が逸れるだけだろうから、あえて聞かない。

「そもそもの原因は隠しすぎた事でな。五星にも龍にも何もかも隠して、婚姻だけ禁止してたんだ」

「何故隠していたんです?」

「説明する必要がないと思われてた。五星も五龍も、元々は神の手足でな。逆らうはずがないってな」

「その頃、双天は?」

 碧龍は湯飲みを持ち上げたところで、渋い顔をした。

「……鋭いな」

「どうも」

 少し考えれば分かる事だ。あえて聞いたのは、長々話をされて本題から逸れることを懸念したからだった。

「いなかった。この島で争いが起きる前の事だ」

 反応をうかがうように一瞥されたので、黙っていた。碧龍は茶を一口すすってから、また口を開く。

「神の僕だろうがなんだろうが、龍も人も一個の生物として生きてる。うっかり恋に落ちたはいいが、禁止されてるモンだから駆け落ちしちまった」

「その子供が……当代灰龍?」

「そうだ。で、こいつがまた曲者でな」

 浮かべていた笑みを消し、碧龍は視線を落とした。

「所在はおろか、性別も分かっとらん。だが雌なんじゃねえかって見解は一致してる」

「何故?」

「龍と竜の間には、獣の方の竜しか生まれない。金ばっか邪竜が異常に増えてるとこ見る限り、産んでるとしか思えん」

 背筋を寒気が這い上がる。どういう意味なのか、分かったが理解したくなかった。

「……意味がよく」

「片方が邪竜なら、生まれついての邪竜しか出来ねえんだよ。説得出来ん奴がいるのはそのせいだ」

 先天的な邪竜も、いるという事か。探して見つからなかったのは分かるし、探す方法がないのも分かる。土龍を説得した時、戻らないのかという問いに答えを濁した理由も分かった。

 雪火はどっと疲れて、ため息をついた。碧龍は苦笑する。

「スマンがこっからが本題でな。どうせだから話しとく」

「……なんですか?」

「まあそう嫌な顔しなさんな。お前さんの先代の事だ」

 初めて詰所へ行った日のことが、脳裏をよぎる。あの時彼は、まだ深山なのかと言った。気になってはいたものの、今まで聞かずに来ていた。

「先代土星は多分、お前さんの何代か前の爺さんだ。黒龍にとっては、三人目の主人だった」

「……それが」

「土星は黒龍と討伐に出た所を狙われた。俺らが駆けつけた頃には、もう死んでたよ」

 誰にとは、聞けなかった。ただ出来る限り音を立てないように、そっと唾を飲み込む。

「黒龍が灰龍と顔合わせたのかは分からん。土星が奴を守って死んだ事だけは確かだが」

「食べられたんですか」

 碧龍が目を円くした。いつだったか芙蓉に言ったはずだから伝わっていると思ったのだが、違ったらしい。

「……灰龍にな」

 何も問い返さない碧龍が何を思うのか、雪火には分からない。ただ、黒龍が何を思って雪火の魂を食うと言ったのかは、分かった気がした。

 単純に力を手にしようとしていたわけではないのだろう。彼には彼なりの葛藤があったのだと、今は分かる。だからこそ、このままでいいのだろうかと思う。

「アイツがなんで主人探さなかったか、実際のとこは俺にもよく分からん。知りたくもねえが」

 それが本音でないのは、なんとなく分かった。知るべきではないと、思っているのだろうが。

 誰かのために、何か出来るだろうか。名前も知らない他人ではなく、見知った誰かのために。一番辛い時期に雪火が世話になった人はもう、皆この世にいない。だから今こうして近くにいてくれている人達のために、何かしたかった。

 だから、真実を聞こうと思った。ろくでもない命に、使い道があるのならと。

「だがまあ……分かるっちゃ分かる」

 黙り込む雪火をどう思ったのか、碧龍はそう付け足した。そちらはどうでもいい事だ。

 沈黙が落ちた時、碧龍の携帯電話が鳴った。メールだったようでちらりと見るだけで返信せず、彼は立ち上がる。

「スマンな、芙蓉が呼んでる」

「お時間とらせてすみません」

「気にすんな。ゆっくり休めよ」

 一応見送ろうと玄関まで着いて行き、雪火は怪訝に眉をひそめた。外に、何かいる。

 しかし碧龍は気付いていないようで、ためらうこともなくドアを開けた。ごちそうさんと肩越しに言った彼は、外を見たところで立ち止まる。やはりいたらしい。

「……何してんだお前さんは」

 呆れたような声だった。彼が支えるドアに、褐色の手が添えられる。それだけで、誰がいたのか分かった。

「あなたがいると、主が入れてくださらないので」

「なんだそりゃ……おい」

 碧龍の横を抜け、黒龍は玄関に滑り込む。雪火と目があうといつものように微笑んで、後ろ手でドアを閉めた。その笑顔が、やけに気味悪い。

 靴を脱いで上がり込む彼の表情は、普段と代わりない。だがまとう空気が、やけに刺々しかった。

 逃げたかった。人らしい感情を取り戻した彼女に、今の黒龍は恐ろしい。リビングへ行く様子もなく近付いてくる彼に気圧され、雪火は後退りする。

「筆頭と」

 気がつけば、背中が壁に着いていた。逃げ場がないことに、絶望にも似た落胆が襲う。

「何を話しておられたんですか?」

 彼の笑顔は、いつもと何ら代わりない。それがなおのこと、恐ろしかった。

 この感情を、雪火は覚えている。嫌になるほどよく知っている。もうずっと昔。彼が生きてきた年数を考えると短いのだろうが、雪火にとっては、思い出せないほど昔。

 思い出したくないだけ、だったけれど。

「……おまえに言う義理はない」

「私に言えない話ですか?」

 視線を落とした足下に、影が落ちる。視界の端には、壁に着いた腕が映った。くぐれば逃げられるのに、それすら出来ない。

「違う」

「なら、何故話してくださらないのですか?」

 声が近付き、呼気が額にかかる。雪火は更に下を向いて、拳を握った。耐える事しか出来なかった。いつだって。

「……おまえの事、聞いてた」

 土の匂いがする。

 古いアパートの一階には、雪火と祖父以外住んでいなかった。よく外へ放り出されて、こんな匂いを嗅いだ。泥まみれになって、公園の水道で体を洗うことも、少なくなかった。

 誰も助けてくれなかった。彼だけが一緒に泣いて、小さな絆創膏をくれた。主人に逆らえない竜は、謝るばかりだった。

「本当に?」

 視線を上げて見たその目は、深い金色をしていた。その目で見るなと何度も殴った、祖父と同じ。

 何も考えられなかった。両手で耳をふさいで、雪火はずるずるとその場にしゃがみこむ。息を呑む音が聞こえたが、きつく目をつむった彼女に、黒龍の表情は見えない。それが祖父でない事さえ、忘れていた。

「……ごめん、なさい」

 か細い声が、喉を震わせる。痛いのは嫌だった。苦しいのも嫌だった。出来る限り小さくなって、耐えるしかなかった。やがてそれにも疲れて、何も感じないふりをするようになっていた。

「ごめんなさい……」

 謝れば終わるわけじゃない。でもそうすれば早く終わる気がして、謝る癖がついていた。

 喉が痛い。きつく閉じた瞼が痛い。殴られるのは、もっと痛かった。もう思い出したくもないぐらい。

「……知らなかったんです」

 優しい声だった。そっと目を開けると、すぐそこにセーターの生地が見える。これは何かと考えるより先に、頭上からまた声が聞こえる。

「気付かなかったんです。あなたはいつも、おられなかったから」

 やけに暑かった。日の入らない廊下は、寒いはずなのに。

「助けられなくて、すみませんでした」

 おまえが謝ることじゃない。思っても、言葉が出なかった。暑いとぼんやり考えながら、雪火は黙り込む。

 そこでやっと腕の中にいることに気付き、雪火は眉をひそめた。彼は心配してくれているのだろうに顔を赤らめている自分が、ひどく滑稽に思えてならない。

 だからやっぱり何も言わず、雪火は目を伏せる。同情されたいわけじゃない。でも体温が心地いいと、初めて思った。


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