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第四章 溶けない孤独 五

 五


 雪火はもう何度目かも分からないあくびを噛み殺し、窓の外を睨んだ。ウィンドウ越しには海岸線が見える。冬の海は寒そうだとしか思えず、久々に山ではない場所に来たはいいが不満だった。

 何が出たわけでもないという。だが、何故か先方から雪火と紅が指名された。だからこうして休日返上で、真冬に海まで来るはめになってしまった。忌々しい。

「悪ィな雪火、紅が余計な事言うから」

 運転席の翠龍が、全く謝る気のなさそうな口調で言った。

 本当は二人で良かったのだが、雪火は運転出来ないし、紅は運転が荒いからと、翠龍が運転手としてついてきてくれた。黒龍も来たがったものの、鬱陶しかったし留守番がいなくなるから、断って置いてきた。

 黒龍は最近、鬼神の討伐だと言ってもついて来たがる。昨日もかなり留守番を渋っていた。雪火と一緒にいる必要もないのに。

「聞かれたから答えたのだ。私は悪くない」

「どうせまた余計な事まで言ったんだろうが。無駄話してねぇでさっさと帰ってこい」

 膝に置いたリュックを抱いて、紅は首をかしげた。少し考えて、おおと呟く。大きな目が輝いていた。

「そうか、寂しいのだな」

「なんでそうなるんだよ」

「素直になれ。私もさみしいのだが、これもしご」

「うるせぇ、気が散る」

 怒られて唇を尖らせ、紅は雪火を見上げる。不満を訴えるその目に、雪火は苦笑いしか返せなかった。

 翠龍は、否定しない。まつわりつかれるとはっきり邪魔だと言うくせに、寂しいのかと聞かれても違うとは言わない。実際その通りなのかもしれないと、雪火は思っている。

「せっかー。この間な、翠に誕生日はいつかと聞いたのだ」

「言うな」

「そしたらな、覚えてないから、私を迎えにきた日でいいと言うのだ」

「オイ聞いてんのか」

 紅は聞いていないようだった。雪火はいちいち頷いて、続きをうながす。

「だから今日が誕生日なのだ。祝ってあげよう」

「……おめでとう」

 バックミラーに映った翠龍の顔は、苦々しくしかめられていた。しかし耳が赤い。紅も鈍感だ。

 翠龍はもう諦めたようでそれ以上何も言わない。代わりに細い目を更に細くして、フロントガラスを睨んでいた。車に罪はないのに。

「私も誕生日を忘れたから、翠に名前をつけてもらった日にした。いいだろう」

 いつだったか、名前は翠龍がつけたのだと聞いた気がする。どうしてわざわざ彼女からは全く連想出来ない紅と名付けたのかは、想像に難くない。白い彼女に、紅色はよく似合う。

「いつ?」

 とりあえず、そう聞いた。紅は小首をかしげて、大きく瞬きする。それから身を乗り出して、運転席を覗きこんだ。

「いつ?」

 覚えていないようだった。翠龍は勢いよくタバコの煙を吐き出し、横目で紅を睨む。

「元々誕生日に名付けたんだろうが」

「そうだったか?」

「そのぐらいてめーで覚えてろ」

 ううんとうなって、紅はシートに倒れこんだ。頭が雪火の膝に半分乗っている。紅は枕にしたものを確認してから、頭を乗せ直した。どく気はないらしい。

 雪火は呆れたが、黙っていた。口を出したらややこしくなりそうな気がする。

「小さかったから、おぼえてないのだ」

 翠龍は何も言わなかった。あまり話したくないのかもしれない。

「翠が覚えていてくれるから、私はおぼえなくてもいい」

 な、と同意を求められ、雪火は曖昧に頷いた。見下ろすと大きな目が見上げていて、思わず視線をそらす。

 もう、だいぶ来た。指定の場所に行かなければいけないそうだが、まだ着かないのだろうか。早く終わらせて、帰って寝たい。

「翠」

 寝転んだまま、紅は感情の読めない声で言った。翠龍は海の方へ顔を向け、目をすがめる。

 何かいたのだろうか。雪火も海を見てみたが、肉眼では何も確認出来なかった。その内のろのろと紅が起き上がり、あくびをもらす。

「何も言ってなかったんだがなァ」

 ぼやく翠龍はウィンドウの枠でタバコの火を消して、吸い殻を外へ投げ捨てた。木行の長なのに、どうして彼はポイ捨てするのだろう。

「あのひとはニブいのだ。気付かなかったのだろう」

「竜神すらついてねえんだから気をつけろって言ってんのに……」

 竜神も龍神も、特定の神を守るものだ。神に師事して加護を得た竜と龍をこう呼び、竜神は師と仰いだ神だけを、龍神は行に属する神全体を、それぞれ守護する。

 これがいるのといないのとでは、神の格も力もかなり違うという。むろん、竜や龍とそりが合わず、妖を従えている神もいる。狸がいた山の神は龍が嫌いで、寄せ付けもしなかったと聞いた。

「何かいるの?」

 問いかけを口にすると、紅が雪火を見て頷いた。

「邪竜がいる」

 雪火が言葉を失っている間にも、翠龍が窓から顔を出して鼻を鳴らした。匂いをかいでいるようだ。あれで何か分かるのだろうか。

 やがて頭を引っ込めた翠龍は、苦い顔をしていた。

「金気じゃねぇな。水竜か」

「珍しいな」

「ジジィも万能じゃねぇからな。いる所にはいるだろうよ」

 長が安定していれば、その行に邪竜は生まれにくくなる。当然全く生まれないというわけではないから、珍しくはあっても有り得ない事ではない。

「その辺だな。停めるか」

 言いながら、碧龍は駐車禁止と書かれた看板の立つ海の家の駐車場に車を入れた。いいんだろうかと、雪火は心配になる。龍達は夕龍以外、社会のルールを守る気すらないらしい。

 邪竜がいるなら自分も仕事だ。雪火は水筒を開けようとしたが、紅にフタへ手を乗せて止められた。

「土気は水神さまによくない。翠がなんとかしてくれる」

「……いいの?」

 問いかけたが、翠龍は既に外へ出てしまっていた。雪火はためらいつつも水筒を置いて車を降りる。

 潮の香りがつんと鼻を突く。風は冷たいが、そう強くはなかった。それなのに波の音はやけに大きく聞こえる。

「海が荒れてんな。あのボケジジィ仕事しろよ」

「水神さまは悪くないぞ。あんまり強くないからかわいそうだ」

 あんまりな言いようだ。雪火は水神に若干の哀れみを覚えつつ、浜へ出る二人について行く。

 海の家の横を抜けると、すぐに浜辺に出た。砂を濡らす波しぶきの中に、ちらちらと暗緑色の生き物が見える。目をこらすとわずかに透けた鱗が見えるから、水竜だろう。

 それよりも、雪火の目は波間に浮かぶ物体に釘付けになった。直径一メートルほどあるだろうか。楕円形のそれは灰色をしており、粘土を固めたようだ。そこから同じ色をした蔦のようなものが伸び、水竜の体に絡み付いている。暴れる竜を留めておけるのだから、粘土のようでも強度はあるらしい。

 何をしているのか、はた目には全く分からなかった。邪竜を捕らえているのであろうことは辛うじて分かるが、それだけだ。

「……何、あれ」

「邪竜だぞ」

「そっちじゃなくて」

 ふうんと鼻を鳴らして、紅は首をかしげた。彼女とは会話が噛み合わない。

「ジィさん珍しく仕事してんな」

 爺さんとは、誰の事だ。碧龍のことはジジィと呼ぶから、あちらではないだろう。そもそも彼は翠龍よりは仕事熱心だ。混乱する雪火の耳に、ああと納得したような紅の声が届く。

「あれは水神さまだぞ。雪火は見たことないのだな」

「あれが?」

「神は無形なんだよ。だから見えねぇって言われてる」

 付け加えた翠龍は、眉をひそめて小さくうなった。

「……しかしどうすっかねェ」

「あれじゃ倒せないぞ。手伝ってあげよう」

「手伝うってもジィさんが邪魔なんだよ。ヘタに手出すと当たりかねねぇし」

 ふうむ、と紅がぼやいた。思案している風だが、どうせ何も考えていないのだろう。声をかけてみようかと思ったが、雪火が口を出したところで何が解決するわけでもない。さすがにやめた。

 翠龍はしばらく暴れる邪竜を眺めた後、小さくため息をついた。諦めたようだ。

「まァ、やるか」

 呟いたかと思うと、彼は瞬く間に龍へと姿を変えた。碧龍を見た後では小さく見えるが、その春の陽射しに透ける木の葉のような新緑は健在だ。長い髭を潮風にたなびかせ、翠龍は何を思ったか、突然咆哮した。

 にわかに邪竜の動きが止まり、その頭が翠龍を向いた。波間に見えるその腹には血が滲んで、赤くただれている。

 邪竜の意識が龍に向いた時、絡み付いていた粘土のヒモがするするとほどけ始めた。水神もこちらに気付いたらしい。しかし捕まえたとしても、あの姿で何をどうするつもりだったのだろう。

「おじいちゃーん、翠がなんとかするからどいてくれー」

 丸めた粘土に似た物体が、ゼリーのように小刻みに震えた。了解の意を示したのだろうがそのさまが不気味に思えて、雪火は身を引く。しかし紅も他人任せだ。

 紅が声をかけたせいか雪火の動揺が伝わったか、睨み合っていた二頭が動いた。真っ直ぐ互いに向かって行き、頭から激突する寸前で避け、振り向きざまに噛みつこうとする。竜は人間から見ると充分大きいが、翠龍と並ぶと小さく見えた。

 牙が迫ると翠龍は引き、邪竜は宙を噛んだ。一瞬動きが止まった隙に牙を剥くが、邪竜も鈍くはなく、横から尾が迫る。予想していたのか、翠龍はそちらに噛みついて止めた。

 龍の牙が鱗を砕き、肉に食い込む。にじみ出た血が白い牙を赤く染め、砂浜に滴り落ちた。邪竜は苦しげにのたうち、翠龍の体を叩く。しかし彼は、離れなかった。かなりの強さで叩かれているのに、龍の体には傷一つつかない。

 翠龍の顎に力がこめられ、邪竜が悲痛な声を上げる。みし、と嫌な音がした。逃れようとやみくもに暴れる邪竜は、頭を振ったところで、翠龍の前肢に捕まった。

 竜の首に爪を立て、翠龍はその頭を砂浜に叩き付ける。まともに砂をかぶった邪竜の動きが鈍くなったところを見計らい、翠龍は尾を離した。動き出す前に、竜の頭に食らい付く。

 太い枝を折ったような鈍い音がして、邪竜の目がひっくり返った。酸素を求めるように開かれた口から、砂が混じった血の泡が吐き出される。

「……ねえ、紅」

 下を向いて黙りこんでいた紅は、雪火を見て首をかしげた。雪火は頭を噛み砕かれて痙攣する邪竜を見つめたまま、再び口を開く。

「邪竜になったら、もう元に戻らないの?」

 紅は眉尻を下げて、困ったような顔をした。ふっくらとした小さな唇をすぼめ、目をそらす。すねたようなしぐさだった。

「あまりもどれぬ。なりたてなら戻ることもあるが、あんまり悪化したら殺すしかない」

「……そう」

 呟いて、雪火は目を伏せた。視界の端で、翠龍が邪竜の死骸を海に投げ捨てる。還したのだろう。

 死んだ竜は、それぞれの行へ還る。人が食べて糧とするか還すかは、生前の竜の意思が尊重される。

「あーまっず」

 人型に戻った翠龍は、不満そうにぼやきながら手の甲で乱暴に口元を拭った。それから、血の混じった唾を吐き捨てる。

――いやいや、ご苦労さん。

 頭の中から鼓膜を震わせた声に、雪火は驚いて身をすくめた。見回しても、声の主は見当たらない。老人の声だったような気がしたのだが。

「ご苦労さんじゃねェよ、たまには自分でやれ」

――おお翠龍。お前さんは呼んどらんぞ。

 気が付けば、紅の足元にあの粘土の塊があった。声はこれが発しているようで、声に合わせて震えている。雪火は顔を強張らせた。

「水神さま、雪火がこわがっている」

 すまんすまんと、軽い調子で謝る声が聞こえた。かと思うと粘土の塊が陽炎のように揺らぎ、人の形を成す。

 瞬きしている内に、それが粘土であった痕跡はなくなっていた。現れたのは正絹の着物を着た、痩身の青年だ。白い肌と金髪が、北欧系の外国人を思わせる。

「何のマネだよジィさん」

「可愛いお嬢さんが二人もおるんだ、オシャレしてもバチは当たるまい」

「バチはあんたらが当てるモンだろ」

 呆れた様子の翠龍に、水神は満面の笑みを返した。楽しそうだ。

「そうだったかのォ」

「おじいちゃん、あの竜はどうしたのだ?」

 問いかける紅を見下ろす水神の青い目は、子供を見るそれのように優しい。人間嫌いの神も多いが、彼は人好きなのだろう。そういう神は大抵、竜と仲が悪い。

「うろついとったから捕まえた」

「あんた捕まえるぐらいしか出来ねぇんだからほっとけよ」

「お前さんらが来たらなんとかしてくれるだろうと思ってなぁ」

 他人任せだ。雪火は呆れたが、神とはそもそもそういうものだと習ってもいた。

 神々は自らの意思が島に影響を及ぼさないよう、力を封じた。その事実しか習わなかったが、今は理由も分かる。島の支配権を人間に譲ったから、むやみに手を出さないようにしたのだろう。

 神は万能にして、無力。人の祈りなしには、島の事に手は出せない。人々の祈りが届いて初めて、神はその力を使うことが出来る。

「お嬢ちゃん、いい目だねぇ」

 唐突に声をかけられて、雪火は身をすくめた。見下ろしてくる水神の目はやっぱり、子供に向けるそれのように優しい。時折黒龍が向ける視線とも、少し違っていた。

「そんな目は珍しいよ」

「……はあ」

「ワシも見たのは、前の土星が最後だったねぇ」

 気になって翠龍を見るが、彼は視線をそらしていた。何を言うでもなく、睨むような目で砂浜を見つめている。あるいは考え込んでいるのかもしれなかった。

 前の土星には、何かあったのだろう。思いはしたが、聞く気にはなれなかった。

「おじいちゃん、私は?」

 袖を引いて首をかしげる紅に、水神はとろけそうな笑顔を浮かべた。本当に人間好きなのだろう。珍しいことだ。

「紅ちゃんも珍しいなぁ。贈り物だからね、それは」

「贈り物?」

 紅は問い返すだけだったが、雪火は苦い表情で下を向いた。贈り物とは、いいものだと信じていた。それなのにこれが贈り物とは、どういう事か。

 これのせいで、雪火は孤独なのだと思っていた。メガネもコンタクトも、視界に入ると妖が見づらくなるからと、禁止されていた。この目があるせいで、嫌われるのだと思っていた。

 なのに、どうして。

「数奇な運命を辿るから贈られるのか、贈られるからなのか、ワシにもわからんのだ。血のせいかもしれんがねぇ」

 言いながら、水神は雪火の頭に手を伸ばす。反射的に身を引くと、彼は苦笑した。若い姿なのに、浮かべる表情は口調と同じく老人めいている。彼も、永くこの海を見守ってきたのだろう。

「お嬢ちゃんはいらないと思っとるんだね」

 水神は目を円くする雪火の頭を、そっと撫でた。その手は温かく、頭から首筋へじんわりと温度が伝わって行く。何故だか、泣きたくなった。

「もらったからには、いらないものはないんだよ。必要だからあげるんだよ」

 頷くことしか、出来なかった。彼は確かに神なのだと、ぼんやりと思う。

 ここに黒龍がいたら、なんと言っただろう。黙り込んだだろうか。それとも水神を止めただろうか。雪火を慰めただろうか。どちらも、必要としてはいない。

 優しい言葉はいらない。自分でも薄々感付いていた。兆しなど珍しくもない竜士の中で、自分が異質だった理由を。

 でも、認めたくなかった。認められなかった。だから尚更、自己嫌悪に陥る。

「でも、傷ついたね」

 驚いて見上げた水神は、困ったように微笑んでいた。透き通るように青い目は、凪の海に似ている。

「誰も守ってやれんかったね。すまんなぁ」

 そんなこと、望んでいなかった。いや、助けは求めていただろうか。甘えてばかりで誰も助けてくれるはずはないと、分かっていたのに。

 一人で逃げたと思っていた。そうして拗ねていた。可哀想な自分でいたかったのかもしれない。

 だからきっと、雪火が嫌われていたことに、目は関係ないのだ。

「そんな事よかジィさんよ」

「おう、お前さんまだおったんか」

「うっせ。あんた灰龍知らねぇか?」

 灰龍は、金竜の長。数百年間行方不明だという龍だ。聞く理由は分かるが、今更な感が強い。

 唐突な問いかけに、水神は渋い表情を浮かべた。何事かと訝る雪火をちらりと見て、彼は頭を左右に振りながらわざとらしく大きなため息をつく。雪火は一瞬自分が何かしたのかと思ったが、よくよく考えなくても灰龍など知らない。

「お前さんなぁ……何度目だいそれ聞いてきたの」

「俺は今日初めて聞いたぞ」

「じゃあお前さんの前の奴らだな。あのなぁ、ワシだって万能じゃないんだ」

 言いながら、水神はふと海を見る。つられて見たが、何がいるわけでもなかった。

「……何度聞かれても、ワシは分からん。神は万能じゃない」

「あんたな……そんなに何回も聞かれるほど五星にちょっかい出してんのか」

 もっともだが、自分で聞いたのに混ぜ返すのはどうかと思う。呆れる雪火とは正反対に、水神は朗らかに笑った。

「構ってくれるのは星だけだからのー」

「あんたが姿見せねぇだけだろ」

「見せちゃならんのよ。こっちは寂しいんだがなぁ」

「だからっていちいちうちの主人呼び出すんじゃねぇよ」

 ほほうと呟いて、水神はにやりと笑った。その表情は、少し碧龍に似ている。

「そうかそうか、そんなに紅ちゃんと離れたくないか」

「それは仕方ないな」

「仕方なくねぇよ納得すんな。違う」

「嘘をつくな、素直になれ」

 また始まってしまった。水神は楽しそうに茶々を入れるし、これはしばらく収まりそうにない。

 うんざりと肩を落とし、雪火は視線を流す。その先、岩場の陰に、子供の姿を見つけた。心臓が大きく鳴る。

 青白い肌と、幼い顔立ち。大きな目と目が合うと、少年は困ったような顔をした。表情だけが、やけに大人びている。

 言い合う二人を一度振り返り、終わる気配がないのを確認してから、そっとその場を離れる。近付いても、少年は逃げる気配もなかった。

 どうして、逃げると思うのだろう。

「雪火ちゃん……」

 不安そうな声は、記憶の中のそれと大差ない。何かを思い出してしまいそうで、雪火は眉根を寄せた。

「辰輝、どうしたの?」

「雪火ちゃんは……」

 どうしてここにいるのかと聞きたいのだろうか。竜士だと言ったから、分かりそうなものなのだが。

「雪火ちゃんは、星なの?」

 大きく目を見開き、雪火は黙り込んだ。潮騒に似た心臓の音が、煩わしい。

 何を、知っている。こんな幼い子が、分かるはずがない。竜士達にすら都市伝説としてひた隠しにされてきた事を、彼が知っているわけがない。

 なのに、どうして。

「……たっちゃん」

 昔は、そう呼んでいた。飼っていた竜が辰輝様と呼んでいたから、かろうじて名前を覚えていた。

 思えばどうして彼は、主人の孫の友人でしかない辰輝をそう呼んでいたのだろう。どうして辰輝は、星を知っているのだろう。答えはすぐに出るような気がしているのに、認めたくなかった。認めるのが、怖かった。

「たっちゃんは……たっちゃんの、お母さんは」

「雪火ー!」

 ぎょっとして振り返ると、紅が手を振っていた。翠龍は疲れたように肩を落としている。不毛な言い合いは終わったらしい。

「なにかいたか?」

 正直に話すのもためらわれて向き直ると、そこにはもう、誰もいなかった。いつの間に逃げたのか、隠れたのか。昔から、人見知りの激しい少年だった。

 でもたぶん、そうじゃない。そのせいなんかじゃ、なくて。

「せっかー、帰るぞー」

 紅の能天気な声に、焦った。このままにしておいていいとは思えなかったから。

 後ろ髪を引かれつつ、雪火は手招きする紅の下へ戻る。誰かに話すべきだろうか。でも、誰に話したら。

「碧龍と話した事はあるかい?」

 一瞬、水神が誰に聞いたのか分からなかった。左右を見ると、紅も翠龍も雪火を見ている。

「……あまり」

「何かあったら聞いてみなさい。あれはなんでもよく知っとるから」

 あなたはと聞こうとしたが、やめた。水神に聞くのは、違うような気がしたから。

 だから何も聞かずに頭だけ下げて、翠龍を見上げる。彼は困惑したように眉をひそめていたが、やがて踵を返した。

 今の雪火に必要なのは、真実ではない。だからこそ、聞かなければと思う。この先何があったとしても、投げ出さないために。

 どうでもいいなんて、思わないために。


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