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第四章 溶けない孤独 四

 四


 ダイダラボッチが消えた後も、二人はしばらくの間、立ち尽くしていた。何も言えず何を言ったらいいかも分からず、雪火は動く事すらためらう。知らず知らずひそめていた息をゆっくりと深く吸い込み、肩の力を抜いた。冷たい空気が肺にしみる。

 その内緋緒がため息をついて雪火を振り返った。思わず身を堅くすると、彼女は疲れたような苦笑いを浮かべる。

「腹が減ったな」

 ため息混じりのぼやきにつられて、時計を見る。来た時はまだ夕方だったはずなのに、もう七時を過ぎていた。目が慣れてしまったせいか気付かなかったが、辺りは闇に包まれている。

 思ったより時間がかかってしまった。明日が休みで良かったと考えながら、雪火は車のドアに手をかける。

 瞬間、視界が揺れた。

「う……」

 反射的にきつく目をつむり、そっと開ける。開けた視界には、灯りの消えた町並みが映った。

「……え」

「元に戻ったな。行くぞ」

 目を円くする雪火を横目に、緋緒は何事もなかったかのように車に乗り込んだ。エンジン音が聞こえ、雪火は慌てて掴んだままのドアを開けて助手席に座る。

 さっきまで山の中にいたはずなのに、何故町中にいるのだろう。ウィンドウの外を流れる景色は、そこが山であった痕跡など一切残ってはいなかった。元々町中だから当然だが。

 いや、それよりも。

「あの……筆頭」

「ダイダラボッチが元に戻したんだろう」

「いえ、そうではなく」

 視線だけを雪火に向け、緋緒は怪訝な表情を浮かべた。なんとなく気後れして、雪火は少し肩をすくめる。

「背中……大丈夫ですか?」

 何が意外だったのか、緋緒は目を見張って口をつぐんだ。何か変なことを言ったかと、雪火は不安を抱く。

 雪火の心配をよそに、緋緒はかすかに笑った。どこか嬉しそうなその表情に、雪火は肩の力を抜く。彼女といると肩がこる。

「平気だ。ありがとう」

「……いえ」

 無意味に恐縮してシートで小さくなる雪火を笑って、緋緒は腕時計を確認する。眉をひそめるその表情が、やけに艶っぽい。

「食べていたら遅くなるな。コンビニでいいか?」

「あ、いえ……はい」

「すまんな」

 言いながら、緋緒は窓の外へ視線を移す。それから向き直って、トレンチコートのポケットからタバコを取り出した。運転手がほぼ全員喫煙するせいで、運転席には焦げ跡がある。

「その前に少し付き合ってもらう。いいな?」

 はいとしか言えなかった。有無を言わさぬ彼女の口調は、拒否する事を許さない。問いかけの意味がないような気がする。

 少し走って町の灯りが見えてきたところで、緋緒は車を止めた。まだ立ち入り禁止区域の中で、当然コンビニは閉まっている。不思議には思ったが、懐中電灯を持って外へ出る彼女に黙って着いて行く。

 車を停めた場所は、古いビルの手前。老朽化した壁には亀裂が入り、今にも崩壊してしまいそうだ。それでも看板が出ているから、テナントは入っているらしい。

 緋緒はビル脇の路地に入り、懐中電灯で足下を照らしながら非常階段を上り始めた。閉口しつつも、雪火はついて行く。赤錆の浮いた階段は、一歩踏み出す度にきしむ音を立てた。

 低いビルではなかった。一仕事終えた後だというのにそれを淡々と上って行く緋緒の体力は、常人並ではない。背中を痛めたのに、大丈夫なのだろうか。考える雪火はすでに、息が上がっていた。

 五星がこんなに体力を必要とする仕事とは、思っていなかった。竜士時代も歩き回ることはあったが、移動は竜で行なっていたから、こんなに疲れることもなかった。

 公務員だった頃は町中に出た小物ばかり相手にしていた。つまらないと言うのも変だが、それに近い感情は抱いていたように思う。変わらない日々が退屈だったわけではない。

 命の危険に晒されれば晒されるほど、生きている実感が湧く。雪火は、それを求めていた。死んでいるのか生きているのか分からない人生では、竜が心配するから。

 命を奪うことを快感に思っていたのは、本能のままに生きる妖が羨ましかったから。命あるものすべてが憎かったこともあった。それは少なくとも、雪火よりはまともに生きていたはずだから。

 死にたいと思ったことはない。死んでもいいとは思っていたし、生きていたいとも思っていなかった。だがこうしてひたすら階段を上っていると、死んだ方がマシだと思う。

 疲労困憊の雪火を尻目に、緋緒はさっさと行き止まりまで上りきる。屋上へ出るドアに手をかけ、ノブを回す。

「よし、開いて……」

 言いながら振り返った彼女は、ぐったりと壁にもたれる雪火を見て呆れた顔をした。体力のない雪火が悪いものの、女性竜士とは本来体力がなくても勤まるものだ。緋緒や芙蓉がおかしいのだ。

「……大丈夫か?」

 いつしか苦しいのが嫌になっていた。今の今まで、そんな事にも気付かなかった。

 答えようとはしたが声が出ず、雪火は頷いた。緋緒は小さく息をつき、ドアを開けて横にずれる。

 促されるまま屋上へ出ると、冷たい風が全身に吹き付けた。汗ばんだ肌には冷たすぎて、雪火は身をすくめる。緋緒はなびく髪を押さえて、屋上の柵へ歩み寄る。

 まだ息の整わない雪火は、柵の向こうを覗きこむ緋緒の背を眺めていた。少し動きがぎこちないのは、やはり痛むせいだろう。彼女も無茶をする。

 どうしてそこまでするのか。抱いていた疑問は、苦しむ龍を見た時に払拭された。

 彼女達が助けようとしていたのは、見ず知らずの他人ではない。自分のため、或いは使命感。

 五星として生まれ、膨大な力を持った者の役目だから。苦しむ人を見ていたくないから。好きな人と、対等でありたいから。みんなそれぞれ、自分を納得させるに足る理由を持っていた。

 ならば自分は、何のために役目を務めるのだろう。

「落ち着いたか?」

 ぼんやりしていた雪火は、その声に驚いて目を円くした。緋緒は肩越しに振り返って、微笑んでいる。最近はいつも刺々しかったのに、今日は機嫌がいいようだった。

 頷いて見せると、緋緒は懐中電灯を消して空を指差した。つられて見上げれば、満天のとは言えないものの都会よりはまともに星が見える。

 澄んだ冬の夜空にちりばめられた星がちかちかと瞬く。都会で生まれ育った雪火にとっては、初めて見る光景だった。そうでなくとも、下を向いて歩く癖のある彼女には見る機会もなかっただろう。趣味で山を登る人の気持ちが分かった気がした。

「相手が正しくても、戦わなければならないこともある」

 呟いた緋緒はトレンチコートの下から龍笛を取り出して、柵を向いて横座りした。少し低く落ち着いた声は、耳に心地よい。

「神は島を人に明け渡した。多くの人が困るのなら、そちらが正しい。神がなんと言っても正さねばならん」

 何をしようとしているのかそれで理解して、雪火は彼女の横に正座した。肩に掛けたカバンから篳篥を取り出し、リードを確認する。乾いていないか心配だったが、まだ平気そうだ。

 隣から、誘うような笛の音が聞こえてくる。タイミングを合わせて主旋律を乗せると、龍笛は舞うように高音を奏でる。

 お手本のような音色は流麗ではあったが、龍笛の音としては形式張りすぎている。一方雪火は、霊力が足りるなら笙を吹いた方がいいとさえ言われたほど息が弱い。それぞれ奏者自身を表しているかのようで、少しおかしかった。

 紅の優美な笙の音があれば、もっと格好もついたろうに。残念にも思いながら、雪火は龍笛の音を追う。静かな冬の空に、笛の高音はよく通った。

 緋緒は頭が堅い。軟らかすぎる芙蓉と足して二で割ればちょうどいいのに。今は今で、バランスが取れているのかも知れないが。

 ろくでもないことを考えている内に、一曲終わってしまった。横笛を膝に置いた緋緒が黙り込んだままなのを、訝しく想う。

 総意に従うべきなら、彼女はどうして見合いをすると言うのだろう。芙蓉の言うように意地を張っているだけなのか、使命感からなのか、雪火には判断しかねた。ここ最近の彼女の様子を見る限り、本人も自分の下した決断に納得していないのではないかと思える。

「筆頭」

 だから、声をかけた。緋緒はタバコを取り出しながら、雪火に視線を落とす。黒目がちな切れ長の目は、どこか寂しそうに見えた。

「どうして皆反対しているのに、無理に結婚なさろうとするのですか」

 緋緒の目が大きく見開かれ、息を呑む音が聞こえた。くわえタバコの火だけが、彼女の白い顔を照らしている。長いまつ毛の影が、指先に落ちた。

 しばらく、緋緒は答えなかった。困ったように眉を寄せ、雪火を見つめたまま黙り込んでいる。気まずかったがここで目をそらすのも失礼な気がして、そのまま見つめあう。

 妙な案配だ。ぼんやりと考えた時、緋緒が表情を緩めた。疲れたような、でもどこか嬉しそうな、複雑な笑み。

「お前に言われるとはな」

 言って、緋緒は柵の外を見やった。タバコをくわえたまま唇の隙間から煙を吐くのは、彼女の癖だ。

「芙蓉が言うように、ムキになっていたのかも知れん」

 風にあおられて、タバコの先から灰が落ちる。床にこぼれる前にさらわれて行った。

 体の中から温まったお陰か、寒さは感じなかった。雪火は冷たいコンクリートの床に正座したまま、見るでもなく星空を眺める。あの点の一つ一つが巨大な星なのだと思うと、気が遠くなりそうだった。

「だが、それ以外の選択肢は許されない」

 どうでもいいではないかと、雪火は思う。あの星の大きさと比べる気はないが、些末な問題なのだ。

 生まれ変われるとはいえ人生は一度だけで、あまりに短い。そんな人生なのにろくでもない道を歩んできてしまったから、雪火は世を恨んでいた。疎まれるさだめを持って、生まれてしまったがゆえに。

 緋緒は雪火より、不器用なのかもしれない。狭い世界の理にとらわれて、先を見ることが出来なくなっている。感情がないふりをすることが器用とは思わないけれど。

「あなた自身は、どうされたいんです」

 我ながら、暗い声だと思う。気になるようになったのは、つい最近のことだ。

 視界の端で、緋緒はうつむいた。端正なその横顔は憂いを帯びている。憂う選択ならするべきではないと、雪火は思う。

 誰のことも、どうでもよかった。でも今は同僚達に笑っていてほしいと思う。拗ねた自分でも、気にかけてくれる人なら。

「……私」

 呟いた声は冷たい夜風に溶ける。明日は彼女に会えない。明後日になったら、彼女は多分いつも通りなのだろう。毅然として凛々しい、五星の長として。

 冬の風がすべてさらって行く。長い黒髪も、タバコの煙も。全ての憂いを、持って行ってくれればいいのに。

「私は……」

 その時、雪火は何かの気配に気付いた。しかし振り返ってみても、何がいるわけでもない。何の気配なのかも分からない。気のせいだろうか。

 横を見ると、緋緒は呆れた表情で空を見ていた。その視線の先に、橙の光が見える。あんな星があっただろうか。

「何をしてるんだ奴らは……」

 その一言で、雪火は近付いてくる光の正体に気付いた。周囲が暗いせいで眩しくてよく見えないが、うねっているからかろうじて龍であることは分かる。

「主ー!」

 情けない叫び声は、聞き慣れたものだった。瞬く間に近付いて屋上に降り立った龍の鱗は、橙色に淡く光っている。夕龍だ。

「主!」

「うるさい。何しに来た」

 睨まれて起こした上体を引いた夕龍の背から、黒い影が飛び降りた。黒い三つ揃いのスーツと褐色の肌の中で、金色の目だけが際立って見える。

「……くろ」

 呟くと、人型に変じた夕龍が目を円くした。そういえば彼の前で黒龍を呼んだことはなかったように思う。

「はい、主」

 どこかうれしそうに微笑んで、黒龍は答える。雪火は眉間にシワを寄せて、彼を見上げた。

「何してるの」

「緋緒様がお怪我されたとセキが騒ぐので、一緒に参りました」

 つられて見ると、夕龍は緋緒の横にひざまずいていた。緋緒は嫌そうに横目で彼を見ている。

 主人がケガをしたら、分かるものなのだろうか。気で通じ合う龍だから、そういうものなのかもしれない。彼らはやっぱりよく分からない。

「お迎えに上がりました」

「誰が来いと言った」

「……申し訳ございません」

 片膝をついたままうなだれて、夕龍はうなるように謝った。彼は一日一回は緋緒に謝っている。

 彼らはここ最近、口を利くのも妙にぎこちなかった。だから皆心配していたのだが、今日はいつも通りに見える。少なくとも、緋緒の態度は。

「飛んで来たのではなかろうな」

「く、車で参りました」

「なら何故龍の姿で来た」

「笛の音が聞こえたので……気が急いてしまって」

 ふんと鼻を鳴らし、緋緒はとうに火の消えたタバコを吐き捨てた。吸いがらは風に吹かれ、転がって行く。

「帰るぞ」

 言いながら、緋緒は立ち上がる。雪火もつられて立とうとしたが、目の前に差し出された手に驚いて動きを止めた。

「さ、どうぞ」

 黒龍は相変わらずだ。冷めた目で見上げると、満面の笑みが歪む。更に鼻で笑ったところで、彼は渋い表情を浮かべた。

「……その目、やめてください」

 言葉も手も無視して立ち上がり、雪火は非常階段に続くドアを開ける。踊り場へ出て振り返ると、うろたえる夕龍が視界に入った。

「あ、主、お怪我は……」

「上ってきたんだ、なんともない」

「しかし……」

 雪火の側まで来てやっと肩越しに振り向き、緋緒は鼻で笑った。夕龍は困ったように眉を歪めて身を引く。

「ケガしたら、抱えて行ってくれるのか?」

 夕龍が目を円くした。黒龍がふうんと呟き、微笑んで雪火を見下ろす。雪火はすぐに目をそらした。緋緒はもしかしたら、今の表情を見られたくないから側まで来たのではないかと邪推する。

 背中を痛めたら下りは辛いだろう。抱えて行ってもらったほうがいいだろうが、果たして緋緒は運ばせてやるだろうか。

「違う」

「いたたたた」

 驚いて見ると、緋緒は夕龍の手の甲をつねっていた。彼の手は緋緒の背に添えられている。横抱きにしようとしたのだろう。

「背中が痛いと言っただろうが」

「き、聞いてませいたたたた!」

 つまんだ手の皮を更にひねってから、緋緒はやっと手を離した。夕龍の目に涙が浮かんでいる。見ていて哀れみさえ覚えるが、これがいつもの彼らだ。

 夕龍はしょぼくれて肩を落としたまま、緋緒の足元で背を向けてしゃがんだ。下僕根性が染み付いている。

 その時、夕龍の背を見下ろした瞬間、緋緒が微笑した。しかしすぐに元の無表情に戻り、夕龍の背におぶさる。実際、背中は痛かったのだろう。

「主」

 雪火が開けたドアから、会釈しつつ夕龍が出て行く。そこで声をかけられ、雪火は後を追うタイミングを見失った。

 見上げれば、黒龍はやっぱり微笑んでいた。うさんくさいと思わないのは、辺りが暗いせいだろうか。しかし次にかけられる言葉を予想して、雪火は顔をしかめる。

「おぶって行っ」

「いや」

 それだけ言って、雪火は階段を降りる。頭上から黒龍のため息が聞こえた。

 足下がよく見えない。緋緒に懐中電灯を借りれば良かったと、雪火は今さら後悔した。

 背中に視線を感じる。先に行ってもらえば、落ちても下敷きにするのは黒龍だけで済んだのに。それよりも何故だか落ち着かなくて、雪火は足早に階段を降りる。

「あんまり急ぐと落ちますよ」

「落ちない」

「違う意味では」

「誰に?」

 やっとの思いで階段を下りきり、雪火は黒龍を振り返る。彼は輝くような笑顔で雪火を見ていた。

「私ではないんですか?」

「どうして」

 黒龍は渋い表情を浮かべた。悲しそうにも見えて、雪火は笑う。鼻で、だが。

「車はどこに置いてきた?」

 声のした方を見ると、緋緒はまだ夕龍におぶさっていた。あのまま車まで行くつもりだろうか。

「緋緒様はそちらにお乗りください。セキ、鍵をくれ」

 緋緒が運転してきた車を指差してから、黒龍は片手を軽く挙げた。夕龍は緋緒を下ろして、その手に車のリモコンキーを投げよこす。受け取ったその手で道を指差す黒龍がキザだと思う。

「遠い?」

「はい。おぶってい」

「いや」

 軽く突っぱね、雪火は指差された方へ向かって歩き出す。早足のつもりだったが、すぐに横へ並ばれた。

「夕食はお済みですか?」

 問いかけながら、黒龍は車のキーについていた小さなペンライトで足下を照らした。町の明かりは見えるものの、辺りはまだ暗い。

「食べてない」

「どこかに寄りますか?」

「いい。眠い」

 喉を鳴らして笑い、黒龍は雪火を見下ろした。何がおかしいのかと、雪火は眉をひそめる。

「歩きたくないのでしょうに。向こうには乗らないんですね」

 雪火だって空気ぐらい読む。いやむしろ、向こうに乗った方が良かったのかもしれない。緋緒はまだ、決めかねているような気がしたから。

 以降無言のまましばらく歩くと、社用車が見えた。案外近かったことに、雪火は安堵する。笛の音が聞こえたと言っていたから、そう考えると遠いけれど。

 リモコンキーでロックを解除し、黒龍はまず助手席のドアを開けた。眠いと言っているのに、後ろには座らせてくれないらしい。

「おまえは?」

 車に乗り込んでエンジンをかけたところで、そう聞いた。黒龍はウィンドウを下げてタバコに火をつけながら、怪訝に片眉を寄せる。

「私ですか?」

「食べた?」

 ああと納得したように呟いて、黒龍は頷いた。それから少し来た道を戻り、バックで歩道の切れ目に乗り上げて、車の向きを変える。どうして窓に手をつくのか、免許を持っていない雪火にはよく分からなかった。

 後ろを向くだけなら、シートを掴めばいいのに。つくづくキザな男だと思う。

「芙蓉様と紅様がおにぎりを作って下さったので、食べながら来ました」

「中身は?」

「しゃけとチョコレートです」

 紅の仕業か、芙蓉がふざけてやったのか。いつだったかロシアンおにぎりと言って、一つだけコーヒー豆を入れたものを間食に出された。当たった紅はうまいと言っていた。彼女の味覚は黒龍と同じぐらいおかしい。

 聞くだけ聞いたが食べたいと思うほど腹が減っているわけでもなく、雪火はコートを脱ぐ。車内の空気はまだ冷たかったが、コートをかぶってしまえば気にならない。

「意外とおいしかったですよ」

 しゃけの方かチョコレートの方かは、推して知るべしといったところか。彼は甘党な上に悪食だ。そういう点では、紅と気が合うのかもしれない。

 寝る体勢になったはいいが目を閉じるでもなく、ウィンドウの向こうを流れる景色をぼんやりと追う。灯りのない町並みは真っ暗で、よく見えない。それに少し、安堵を覚える。

 明るいところも、人の多い場所も苦手だ。自分でも見たくないものを、他人に見られてしまうから。

「倒しますよ」

 声がかかる前にシートが傾いた。非難がましい目を向ける雪火を、黒龍は笑う。

「私が何かするとは思わないんですね」

「何を?」

 やさしく細められる目を見ていられず、雪火は瞼を落とした。ちりちりと、視線を感じる。

「……何も」

 小さく呟く声と共に、額に冷えた手が乗せられた。撫でるでもなく添えるだけの手のひらの感触を、雪火は知っている。どうして知っているのかも、もうとっくに思い出していた。あの静かな浜辺で聞いた声に、聞き覚えがあったわけも。

 もっと早く連れて行ってくれていれば、こんなふうにはならなかったのに。それが無理だったことも、大人になった今は分かる。彼は何度も迎えに来ては怒鳴られて、追い返されていた。

 昔のことなんて、もうどうでもいい。思考を止めたところで眠気に襲われ、雪火は小さくあくびを漏らした。遠く聞こえる笑い声が、何故だか心地よかった。


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