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第四章 溶けない孤独 二

 二


 緋緒が見合いをすると宣言してから、早一週間。寒さは徐々に厳しくなり、コートがないと外へ出られない以外は、雪火は普段通りの日々を送っている。同僚達は表面上は平然としているが、時折思い悩むような表情を見せる事が増えてきた。

 何が変わる事もなかった冬の日、黒龍を名指しで仕事が回ってきた。滅多にあることではない、というより、雪火が入ってからは初めての事だ。

「騒がしいとは思ってたんだがな……」

 規制速度ギリギリで車を飛ばし、黒龍はタバコをくわえたまま吐き捨てた。助手席の雪火は、彼の焦りぶりに困惑している。

 場所は官僚宅。龍を警備員として雇うほどの地位らしいが、詳しくは聞かされていない。名字と住所だけ聞いたら、早く行けと詰所を追い出されてしまった。お陰で急がなくてはならないことも、官僚というのが結構な地位にあることも、推測できた。

「もう疲れたー、なんで私達も行くの? 雪火だってぜったい危ないのに。クロさんだけでいいじゃない」

 言葉通り疲れきった芙蓉の声に、碧龍が苦笑した。彼女は鬼の討伐から戻ってきて早々追い出されてしまったせいで、不満そうだった。寒くなって、一気に忙しくなったように思う。

 緋緒は緋緒で朝から三件ほど仕事をこなしていたし、紅は出ずっぱりだ。他に行ける者がいなかった事ぐらい、芙蓉も分かっているだろうに。

「詳しい状況が分からねえんだろ。翠龍じゃうっかり殺しちまうし、雪火と黒龍だけじゃ手に負えないかもしれんからな」

「やだよ私、エライ人きらーい。怖いもん」

「ガキかお前は」

 後部座席はのんきだが、前の二人は戦々恐々としていた。黒龍は単純に焦っているだけなのか怒っているのか判断がつかないが、雪火は緊張している。彼女でなくとも、警備員が邪龍になったかも知れないと聞けば、緊張ぐらいするだろう。

 個人宅の警備にあたる龍は、当然ながら実戦向きに鍛えたものばかりだ。五龍には遠く及ばないものの、ただでさえ強いのに更に邪龍ともなれば、一筋縄では行かないだろう。のんきな芙蓉と碧龍がおかしいのだ。

「しっかし……」

 細い顎を撫でながら、碧龍がぼやく。バックミラー越しに見ると、彼は難しい顔をしていた、

「おい。分かるのか?」

 問いかけられた黒龍は、正面を向いたままふんと鼻を鳴らす。一度怒られてから、彼は運転中によそ見をしなくなった。少なくとも、雪火が乗っている時は。

「当然だ。誰に聞いてる?」

 かーだかあーだかと妙な声でぼやき、碧龍はシートの背もたれに頭を乗せた。芙蓉は彼を見て首をかしげる。

「キザな奴」

「アオさんヒトのこと言えないと思うよ」

「お前いい加減その呼び方なんとかしろ」

 何が分かるのか雪火には分からなかったが、聞く隙もないままコインパーキングに入ってしまった。慌てて水筒からリードを取り出して、笛本体にはめる。茶渋の色に染まったリードは温かく、冷えた手に優しかった。

 水筒を閉めてドアに手をかけると、独りでに開いた。いつから自動ドアになったのかと考えている内に、黒龍が覗きこんでくる。彼が開けただけらしい。

「どうぞ、主」

 ドアに手を置いてもう片手を差し出す黒龍は、さっきまでの険しい表情はなんだったのか、いつもの笑みを浮かべていた。まつ毛が自分より濃くて、雪火は嫌になる。双天生まれのくせに、どうしてこう異国の人のような顔立ちなのだろう。

 差し出された手のひらを見つめたまま、雪火はしばらく黙り込んでいた。黒龍はその間ずっと彼女を見つめていたが、やがて肩を落として身を引く。

「負けました」

 雪火が車を降りるとあっさり敗北宣言して、黒龍はドアを閉めた。どうでも良かったので、雪火は芙蓉と碧龍を目で探す。

 しかし黒龍はしつこかった。また雪火の顔を覗きこみ、満面の笑みを浮かべる。雪火は眉をひそめた。

「してほしいこと、ありませんか?」

「何?」

「負けたらなんでも言うことを聞かなくてはいけませんから」

 どこのルールだと思ったが、雪火は聞かなかった。代わりに片側だけ口角を上げて鼻で笑う。俯き加減の彼女の顔に前髪の影が落ち、普段より暗く見えた。

「なんでもする?」

 何を想像したのか、黒龍は笑顔のまま青ざめた。答えない彼を置いて、雪火は車の後ろで何事か言い合う二人に歩み寄る。

「あ、ねぇねぇ雪火ー」

 ふいに顔を上げた芙蓉が雪火に気付き、声をかけてくる。首をかしげると、彼女は手にした模造刀を軽く持ち上げた。

「これ持ってったら通報されちゃうかな?」

「雪火に聞いてどうすんだよ」

 碧龍の呆れたぼやきに不満げに口を尖らせ、芙蓉は辺りを見回した。雪火もつられて周りを見る。

 場所は、双天でも有数の高級住宅街。そのど真ん中の一等地に、依頼人の自宅があるという。確かに通報されかねないが、しかし。

「スーツなら平気」

 端的に答えると、芙蓉は目を円くして首をかしげた。

「なんで?」

「竜士だって分かるから」

「そっかぁ」

 安堵の声を漏らし、芙蓉は笑みを浮かべた。いつもの華やかな笑顔が、今日も眩しい。

 軽く肩をすくめ、碧龍はスーツのポケットからネクタイを出しながら歩き出した。彼は既に帯刀している。

「行きましょう、主」

 もう立ち直ったらしい黒龍を見上げると、彼は促すように視線を流し、歩き出す。住所を書いた紙は彼が持っている。頷いて、後について行く。芙蓉は刀についた紐をベルト穴に通しつつ、碧龍はネクタイを締めつつ、雪火の背を追う。

 昼間の住宅街は、静かだった。建物が見えないほど背の高い塀に囲まれた家が多く、威圧感がある。どことなく落ち着かず、雪火は下を向いた。

「なんかやだなあ、ここ」

 ぼやく芙蓉を振り返ると、彼女は渋い顔をしていた。隣を歩く碧龍が苦笑する。

「お前の実家もこんなもんだろ」

「そうだけど、だからなんかやだ」

 旧家なら大きいのも当たり前なのだろう。しかし実家がこんなもんという碧龍の言葉に、雪火はうんざりした。羨ましいとは思わないが、何が嫌なのかよく分からない。

「もっとなんか、可愛いおうちがいいなあ。赤い屋根で」

「ならそんな家建てるか」

 さりげない言葉に、芙蓉は黙り込んだ。雪火は背後の二人を振り返ることも出来ず、顔だけしかめる。さっきより居心地が悪くなったのは、たぶん気のせいではない。

 早く着かないものか。考えた矢先、黒龍が一軒の家の前で足を止める。見上げた家は輸入住宅らしく、アイアンの門扉も瀟洒な西洋建築だった。

 白い建物は清潔感さえあり、見事なものだ。しかしどことなく陰鬱な空気が漂っているのは、何故なのだろうか。

「……ここだな」

 表札を確認する様子もないまま、黒龍は呟いた。碧龍が門扉に近付いて、おえ、とぼやく。

「なんだこりゃ。何したらこうなるんだ」

「龍ならこんなものだろう」

「え、なんか変なの?」

 雪火の肩口から顔を出して、芙蓉が問いかけた。正面にいた二人は、呆れたような表情を浮かべて振り返る。雪火でも分かったから、芙蓉も大概にして鈍い。彼女は実戦向きだ。

「……いいよお前さんはよ、黙っとけ」

「芙蓉様には分からなくて仕方ありませんよ」

「なにそ……きゃ!」

 耳元で叫ばれて、雪火がすくみ上がった。黒龍が慌てて雪火の顔を覗きこみ、碧龍は門扉へ向き直る。芙蓉は雪火の肩を掴んでしきりに謝っていた。

『お待ちしておりました。どうぞお入りください』

 機械を通した無機質な音声が、門の横のインターホンから聞こえた。耳の痛みをこらえて見てみれば、いつの間にか門扉が開いている。門が独りでに開いたから、芙蓉は驚いたのだろう。

 見られていたのだろうか。それぞれ困惑したように眉を寄せ、顔を見合わせる。あのばかばかしいやり取りも、見られていたというのか。

「……行きましょう」

 少しの間の後、黒龍が門をくぐった。碧龍の視線を受けて、雪火は後に続く。

 庭はそう広くなかったが、建物自体は見事なものだった。比べるものも思い付かず、雪火はぼんやりと真っ白な邸宅を見上げる。黒龍が玄関扉の前に立つと、また独りでに開いた。

「ようこそおいで下さいました」

 さすがに自動ではなかったようで、ドアの内側には女性がいた。白いブラウスと黒のスラックスに、薄いブルーのサロンエプロンをつけている。ヘアピンで留めた前髪と一つに結んだ黒髪を見る限り、使用人だろう。まだ若そうだが、やけに表情に乏しい。雪火が言えたことではないが。

 五星として一般人と会ってはならないはずだが、いいのだろうか。怪訝に思って振り返ると、芙蓉と目が合う。使用人をちらりと見てから再び視線を合わせると、彼女は納得したようにああと呟いて、頷いた。

「偉い人だから、大丈夫」

 よく分からない理屈だったが、とりあえず頷いた。邪龍がそもそもあってはならないものとされているから、五星が来なければ逆におかしい。そういう事なのだと、自分を納得させる。

 使用人はドアを開け放ってから、慇懃に一礼した。雪火ほどではないが痩せぎすで、動きが機械的だ。

「ご足労をおかけ致しまして、申し訳ございませんでした」

「龍はどこだい?」

 靴を脱ぐ場所もない広い玄関ホールに圧倒されて黙り込んでいる内に、碧龍が背後から進み出た。芙蓉でさえ肩をすくめているのに、慣れたものだ。

「ご案内致します。土足のままでどうぞ」

 全員がのろのろとホールに入るのを見届けて、彼女は扉を閉めた。それを横目で見ながら、碧龍がうさんくさそうに鼻を鳴らす。

「その様子じゃ、手遅れなんだろうな」

 使用人は、答えなかった。何も言わずに会釈だけして、先導するように歩き出す。碧龍は鼻白んだように軽く肩をすくめた。

 雪火はどういう意味か聞こうとしたが、黒龍がさっさと使用人について行ってしまったために、後を追わざるを得なかった。妙に焦っているような彼の態度が、気になっている。

「主人は挨拶もナシかい?」

「申し訳ございません。数日前から体調が優れず、臥せっております」

「ヘェ、そこまでほっといたのか。それじゃどっちも死ぬな」

「ちょっとアオさん!」

 慌てて上げた声が響いたせいか、芙蓉はすぐに口をつぐんだ。一方雪火も、やけに喧嘩腰な碧龍を怪訝に思う。彼も黒龍も、様子がおかしい。

 困惑して芙蓉を振り返ると、彼女は苦笑して雪火の横へ並んだ。廊下は二人並んでもまだ壁との間を一人ずつ通れそうなほど広い。

「龍が病むのは、自分の中に恨みが溜まっちゃうせいなの」

 ひそめた声で、芙蓉は雪火に耳打ちした。足音しかしないのだから、どうせ聞こえてしまうだろうに。

「気を通じて他の竜の怨念が入り込んじゃうこともあるけど、族長が病まない限り龍はあんまり病まないの。でも、主人に恨みを持ってると邪龍になることがある。だから……」

「おええ」

 驚いて見ると、碧龍が嫌そうに顔をしかめていた。気になって黒龍を見上げてみたが、こちらは厳しい表情を浮かべている程度だ。碧龍が苦手な行のせいか、黒龍が同じ行のせいか。

 廊下の突き当たりには、鉄扉があった。そこだけやけに真新しく、最近作られたものであろう事が分かる。それ以上に、雪火は隙間もないほどぴったりと閉じられた扉の向こうの気配に、ぞっとした。

 屋敷を覆っていた気配の根源が、確かにこの扉の向こうにいる。気配に疎い雪火にすらそう確信付かせるほど、嫌な空気が漂っていた。臭いはしないが、不気味なほど重い。

「土龍様。……失礼致します」

 使用人はノックこそしたものの、返答を待たずに鍵を開け、鉄扉を押し開けた。返事がないことが、最初から分かっていたかのように。

「名前も……ないのか」

 呟いた黒龍の声から、感情は読めなかった。

 使役される竜や龍の名は、ふつう二つある。一つは産まれた時に、親からもらった名前。こちらは主人にも明かさず、親と配偶者だけが知るもの。

 もう一つは、主人からもらう名前。竜士の最初の仕事は、相棒に名前をつけることだ。そうする事で絆を深め、完全に主従となる。五龍が仕えるのは実際のところ双天だから、五星が名前を決めることはない。主人のいない竜は、先ほどのように種族名で呼ばれる。

 主人から名前をもらえない事が竜にとってどれほどの屈辱か、雪火は学校で散々聞かされた。呼ぶための名前がないということは、呼ぶ必要すらないということ。ただ一人の主人の下で働いているのに、一個としてすら認めてもらえないということ。

 それがどれほど切ないことか、雪火には分かる。だから彼女は、名前が変だと言われてもなんとも思わない。呼ばれるだけで、認めてもらえているような気がするから。

「芙蓉、黒龍と先入れ。雪火は待ってろ」

 開かれた扉から、異様な空気が流れ出す。芙蓉は気付いていないのか、言われるまま黒龍に続いて入って行った。とたん、激しい金属音が響き渡る。

 とっさに足を踏み出すが、碧龍に止められた。肩を掴んだ彼は、雪火を見下ろして首を横に振る。

「まだ興奮してる。落ち着くまで待……」

「土龍様!」

 悲鳴じみた声は、部屋に駆け込んだ使用人のものだった。碧龍は目を見開いて固まったが、ドアが閉まりかけて慌てて押さえる。

「落ち着いて、落ち着いて下さいませ……ほら」

 荒い息遣いと耳障りな金属音が、徐々に聞こえなくなる。雪火は室内を覗こうとしたが、碧龍の背に阻まれて叶わなかった。

「なるほどな……」

 呟いて、碧龍は雪火を振り返る。少し視線を上げて見上げた彼は、厳しい表情を浮かべていた。

「獣の竜は邪竜になっても、てめえの星の言うことは聞く。土龍も普通なら、お前さんの言うことは聞くだろう」

「族長は聞かないんですか?」

「元々反抗的な奴は邪竜じゃなくても聞かんぜ。だが星には逆らっちゃならん。星は族長を通じて行を統べる者だからだ」

 部屋からは、もうかすかに話し声が聞こえてくるばかりだ。中は広いのだろう。小声なのに、やけに響いて聞こえた。

「逆に逆らったら、そいつはもう手遅れだ。殺処分する」

「元には戻らないのですか?」

 意外そうに眉を上げて、碧龍は大きく瞬きした。何か変な事を言っただろうかと、雪火は眉をひそめて視線をそらす。彼の目の金は黒龍より少し明るく、眩しくてあまり長くは見ていられない。

 ああとぼやく声が聞こえてそっと視線を戻すと、碧龍は困ったように片眉を寄せていた。鮮やかな金の目も、雪火からそらされている。

「出来ん事はないが……とりあえず、入るぞ」

 はぐらかされた気がした。しかし文句を言えるはずもなく、雪火は黙って彼の背を追う。

 部屋に足を踏み入れると、碧龍はあからさまに渋い顔をした。雪火はまつわりつくような空気が嫌で、自然と息を殺す。

 思った通り、部屋は広かった。普通の学校の教室が二つは丸々入ってしまうだろうか。奇妙なのは、壁一面に鉄板が張り巡らされていること。

 等間隔に並んだ窓は全てに鉄格子が取り付けられ、隙間から風が吹き込んでいる。天井と床には鉄錆の浮いた鎖が溶接されており、その先には、龍がいる。

 鉄の輪を口と首にはめられた龍は、暗がりで見ると体色が判別出来ず、本当に土龍なのかどうかすら分からない。だがその喉から腹にかけてが赤く変色している事から、確かに病み始めているのだと分かる。聞こえていた金属音は、四肢を繋ぐ鎖が立てたものだろう。

 血走った目を見開いて、土龍は族長を見つめていた。肩で息をする彼の角は、半ばで折れている。意図的に折られたのかどこかにぶつけたのか、それだけでは分からなかった。

「主。こちらへ」

 雪火は龍の痛々しい姿よりも、彼の背を撫で続ける使用人の方に気をとられていた。窓から差し込む光に照らされた彼女の顔は、辛そうに歪んでいる。邪推するわけではないが、それで彼女だけが屋敷に残された理由が、分かった気がした。

 大きく肩を上下させて呼吸する龍は、まだ雪火に気付いていないようだった。黒龍の声に答えられず黙り込んでいると、彼は龍の正面に立ったまま、雪火を見て目を細くする。それから、使用人を見た。

「すみませんが、口のそれを外して頂けませんか?」

 使用人は戸惑ったように視線を泳がせ、龍を見上げた。龍はその視線に気付いたのか、目だけを動かして彼女を見下ろす。伏せた目は、優しかった。

 目と目が合ってようやく落ち着いたのか、使用人ははいと答え、エプロンのポケットから鍵の束を取り出す。鼻先をそっと撫でてから、彼女は鉄の輪を掴んで鍵を差し込んだ。外した輪を持ったまま、ゆっくりと龍から離れる。

「……黒龍様」

 呟く声は、土龍のものだったのだろう。ゆっくりと頷いて見せ、黒龍は雪火を見る。微笑む彼の目が使用人を見た時の龍の目とひどく似ていて、雪火は視線を落とした。

「雪火様、こちらへ」

 碧龍に背を押され、雪火は戸惑いながらも黒龍に歩み寄る。土龍の視線が、痛かった。

 黒龍の横に立つと、彼は笑みを深くして雪火の背を軽く押し、前へ出るよう促した。土龍の正面に立ってやっと、その鱗が濃い茶色をしている事が分かる。竜とは体色も違うのだと、ぼんやりと思った。

 相棒だった竜には、祖父の家で飼っていた竜と同じ名前をつけた。どちらも土竜で、鱗は同じ色をしていた。

 忘れたかったのに、何故だかあの竜のことは、頭の片隅に残っていた。今となっては、その理由もわかる。

「どうした。頭が高いぞ」

 土龍は黒龍には答えず、雪火を見つめていた。黙り込む彼は何を思うのか、かすかに震えている。

 そこで初めて、雪火は五星という地位を理解した。今さら何かとんでもないものにされてしまったような気がして、彼女は視線を泳がせる。以前なら、それすらどうでもいいと思っただろうに。

 雪火の動揺が、土龍に伝わってしまったようだった。大きく口を開き、彼は咆哮する。思わず身を引いた雪火を右手で抱き寄せ、黒龍は左腕を頭上にかかげた。

 その腕に、土龍が食らいつく。小さく揺れたが、それ以上押されることはなかった。

「主、向こうへ。芙蓉様といて下さい」

 スーツに包まれた腕に、太い牙が食い込む。膜が張ったように濁った龍の目を見て雪火は声を上げかけたが、腕を掴まれて呑み込んだ。振り返ると芙蓉が立っている。戦う時のように、真剣な表情を浮かべていた。

 促されるまま立ち上がり、腕を引かれて小走りで壁際へ逃げる。途中肩越しに振り返ると、黒龍はすぐに気付いて、雪火を見て微笑む。彼にしか向けられた事のないその目に、胸が痛んだ。

「くろ……」

 どうしてそんな呼び方をしたのか、自分でも分からなかった。黒龍は驚いたように目を円くしてから、どこか嬉しそうに笑う。しかしすぐに、土龍へ向き直った。

「俺に逆らうのか?」

 土龍は答えない。ただ、顎に力をこめようとする。

「甘ったれだな」

 呟いて、黒龍は右手を龍の鼻先に伸ばす。上顎を掴むのかと思えば、彼はあろうことか鱗を一枚つまんでひっぺがした。

 痛いわけではなかったようだが驚いたようで、土龍は腕に噛みついたまま身を引いた。その間に黒龍の手の中で鱗が変形し、漆黒の棍を形成する。棍が完全に形を成すと同時、黒龍は左腕を大きく振った。

 龍の首が横を向き、牙が離れた。袖に空いた穴から、血に染まったシャツが覗く。傷みはあるだろうに、黒龍はそんなそぶり一つ見せなかった。

「おいムダだろうよ、吸っちまえ」

 沈黙していた碧龍が、黒龍が棍を構えてようやく声をかけた。しかし彼は鼻で笑い、身を起こした土龍と向き合う。

「まだ救える」

 自分に言い聞かせるような声だった。あるいは、土龍に聞かせたのかも知れない。

 黒龍を見下ろす土龍の目に、光は見えない。あれはもう言い聞かせても駄目なのだろうと、雪火は思う。それでも、胸を刺す傷みが消えない。

「来い、小僧」

 低い声に反応し、土龍は長にその牙を剥く。横からさらうように迫る頭を後ろへ跳んで避け、黒龍は棍を振った。頭をもたげて避けた土龍は、巨大な口を開けて彼の頭上へ迫る。

 身を低くして棍で受け止めた頭を、黒龍はすぐさま払いのける。振った棍を力をこめて止め、弾いた頭部に向かって、もう一撃。

 体を曲げて避けた龍は、長の胴めがけて尾を振った。四肢は捕らえられているが、体は自由なのだ。さすがに反応出来ず苦い顔をした黒龍をかばうように、碧龍が立つ。

 太い尾は、碧龍の刀に止められた。切れ味鋭いはずの刃は、しかしその鱗を傷つける事もない。龍がまとう強い土気のせいだろう。土行は水行を剋する。

「俺はキツイぜ、こいつは」

「セキを借りた方が良かったかも知れないな」

 黒龍がいったん離れた隙に、土龍は尾を残したまま頭をもたげた。押し返そうとする尾を止めていた碧龍は頭上から迫る牙を見て、げ、と呟く。黒龍が慌てて距離を詰めるが、もう間に合わない。

 牙はかろうじて鞘で受けたものの、意識がそちらへ向いたがために、右腕の力が緩んだ。刀ごと手が弾かれ、太い尾が腰にめり込む。軽々と吹っ飛ばされた碧龍を見て、芙蓉が悲鳴を上げた。

「ってえなクソ」

 壁に当たる前に腰を落として止まった碧龍は、腹を押さえて唸るように吐き捨てた。追おうとする龍の前に立ちはだかり、黒龍はまた棍を振る。止める為だけの動きだったらしく、土龍が退くと再び距離を取った。

「すみませんね筆頭。老体に鞭打ってかばって頂いて」

「この野郎……貸しだからな」

 自覚を持て。いつだったか、緋緒にそう言われた。五星たる自覚を、行の上に立つ覚悟を。なくても五龍は従うが、土龍は違った。だから確かに黒龍が言うように、手遅れではないのだ。

 ただ、雪火が弱いだけで。

「止めて……」

 震える声が、一瞬の静寂に響く。再び黒龍に狙いを定めた土龍が頭を引く前に、彼は一歩で間合いに入って棍を振っていた。勢い付いていたせいか避けられず、土龍は真っ向から棍に激突する。

 鼻先に当たった鈍器は、怯んだ隙を突いて頭上へ降り下ろされる。後ろへ弾かれていた為に頭へは当たらなかったが、背を強か打たれ、土龍は床に叩き付けられる。

「とめて、止めてください……」

 いつの間にか、傍らに使用人がいた。すがるようなその目は、涙に濡れている。

 答えられないでいる内に、彼女はゆっくりと両膝を折り、その場にひざまずく。雪火は黙り込んだまま、見下ろす事しか出来なかった。ひどい耳鳴りがして、何も聞こえない。

「お願いします、五星様……彼は本当は、あんな事をする方ではないんです」

 懇願するかすれた声だけは、やけにクリアに聞こえた。

 そんな事を言われても、雪火には何もできない。それが歯がゆくて、ぎゅっと唇を引き結ぶ。以前なら、それでいいと思っていたのに。

 出来ないのだから、仕方がない。出来ないから、やらなくていい。そう思って、たぶん、諦めていた。

 でも今は、それがもどかしい。自分のせいで誰かが傷つくなんて、考えたこともなかったから。

「止めろったって……」

「止めますよ」

 困惑したような碧龍の声を遮って、黒龍が答えた。土龍はと見れば、よろけながらもまだ起き上がろうとしている。

「止めて見せます。……黒龍の名にかけて」

 真摯なばかりの横顔とその声に、心臓が雪火の胸を一際強く叩いた。どくどくとこめかみに鼓動が響き、全身が心臓になったように指先が震える。

 それがなんなのか、雪火には分からなかった。ただこのままにしておいても何も終わらないと、確信めいた予感だけが頭の片隅に浮かぶ。だったらどうすればいいのかと拳を握った時、ようやく右手に何を持っていたのかを思い出した。

 篳篥の音は、人を表す。古くは人の願いを天に届けるために使われたもので、だからこの笛は音が大きい。古代の巫女は、この笛一本でどんな奇跡も起こしたという。

 信じているわけではない。ただ竜を傷つけるとして今は嫌われるこの笛を選んだのは、そんな与太話を聞いたからだ。

「……雪火?」

 使用人の肩を抱く芙蓉の怪訝な声には、答えなかった。リードは乾いていないか、ちゃんと音が出るか、そればかりが気になって。

 まだ笙がなく、神が直接手を下していた頃の巫女は、みな鬼子だったと言う。篳篥を使ったのは、特に霊力の強い者。そんな話をされた時、だからなんだと言うのかと、雪火は苛立ちすら覚えたものだ。

 でも今は、思う。答えのなかった問いが、ずっと頭の片隅に引っかかっていた疑問が、脳裏を巡る。

 この笛は、誰も傷付けずにいられるだろうか。この笛に、何が出来るのだろうか。

 答えを期待していなかった問いかけに、恩師は答えなかった。多分あの人は、それを見抜いていたから答えなかったのだろう。雪火が、自分で答えを見つけると信じて。

 師はもう、この世にいない。でも今更になって、答えが聞きたい。考えても出なかった自問への答えが。呪いだと思っていたこの目に、何の意味があるのか。

 この目に、何が出来るのか。

「ばっ……え?」

 リードを唇に当てた雪火を見て、碧龍が身を乗り出した。しかし奏でられた音を聞いて、怪訝な声を漏らす。

「何これ……普通の曲じゃ」

 芙蓉が呆然と呟いた。

 巫女の笛は、音楽家が奏でる雅楽と変わらない。しかしその音には力が乗っている。人の願いを乗せて、確かに誰かへ届ける力が。

 今の人は、ほとんどが忘れている。だから篳篥は、竜を傷つけるやかましいだけの笛と謗られるようになった。篳篥だけではない。龍笛も笙も、本当は戦いの道具ではないのに。

「……主」

 子供を撫でるような黒龍の声が、雪火の胸を叩いた。

 静寂に響く篳篥の音は、確かにやかましかったかも知れない。耳障りなのかもしれない。でもそれこそが、この笛が確かに天へ届く証だった。

 力強い笛の音だけが響く中、土龍が緩慢な動作で身を起こした。もはや人型を取る力すら残されていなかったのであろう彼は、その金の目で、まっすぐに雪火を見つめている。竜の目が怖かった理由を、雪火は自覚していた。

 やがて曲が終わる頃、土龍はゆっくりとこうべを垂れる。竜士だった頃の唯一の友を想い、雪火は目を伏せた。短くない月日の中で、彼には何をしてやれただろう。

 笛の音も消えた静寂の中、誰かの嗚咽がかすかに聞こえる。誰一人として一言も発しないまま、時間だけが過ぎて行く。雪火は篳篥をそっと握り、土龍を見下ろしていた。

 どれほどの時間が経ったか。途方もなく長く感じられたが、恐らく五分も経っていなかっただろう。額づいていた土龍の姿が一瞬霞み、片膝を立てた青年に変わる。

 よれたスーツ姿の、痩せた男だった。栗色の髪は肩より長く、背中で結ばれている。それもずいぶんと乱れており、痛々しく思えた。

「申し訳ございませんでした」

 謝罪の言葉を口にする彼の声は、震えていた。立てていた膝を下ろした彼は、更に深く腰を折り、額が床に着くほどまで頭を下げる。

「申し訳、ございません」

 嗚咽の音は、彼の喉から漏れたものだった。両の目からこぼれる涙が落ち、鉄板の敷かれた床の上で玉となる。

 雪火には何も言えなかった。自分に謝罪するより先に、傷つけた黒龍に謝ればいいのにとさえ思う。それはたぶん、彼らの礼儀に反するのだろうが。

「もういい。落ち着いたな?」

 黒龍が声をかけると、土龍は顔を上げて彼を見てから、もう一度頭を下げた。碧龍のため息が聞こえる。

「筆頭、後の処理は?」

 腹を撫でながらおうと返して、碧龍は片手にぶら下げていた刀を鞘に納めた。

「歯向かった事は不問とする。だが主人の下からは離れてもらう。いいな?」

 土龍は答えず、ただ額を床に擦りつけるのみだった。肯定と取ったのか頷いて、碧龍は次に使用人へ顔を向ける。

 呆然と土龍を見つめていた彼女は、視線に気付くと反射的に姿勢を正した。貼りつけたような無表情に戻った彼女が何を思うのか、雪火には分からない。だが、救われていてくれたらいいと思う。

「残念だが、お前さんの主人は近い内にくたばる。早めに次の仕事探しな」

「そっ……」

 言いかけてやめ、彼女は口をつぐんだ。碧龍は鼻で笑う。

「職ぐらい斡旋してやらんでもないが、その前に決めなきゃならん覚悟がある」

 下を向いていた使用人は、顔を上げて大きく瞬きした。黒龍は苦笑いして、雪火に歩み寄る。棍はもう、持っていなかった。

「まあじっくり二人で話しな、結論が出たら連絡くれ。……おい、帰んぞ」

「はーい」

 一人元気な芙蓉だけが、朗らかに返事をして碧龍について行く。ここで帰っていいのかと困惑する雪火の目の前に、唐突に手が差し伸べられた。もう、何度も見た手のひらだ。

 見上げれば、やっぱり笑顔の黒龍がいる。目だけが鋭いいつもの笑みでなく、優しい微笑だった。

「さ、ある……」

「腕」

 言葉を遮られて面食らったように口をつぐみ、黒龍は笑みを消した。雪火は構わず、彼の左腕を指さす。

「腕。浅くないでしょう」

「……いえ、これは」

「どうしてそこまでするの」

 龍が主人を守るのは、当然のこと。その当然が当然でないのが、彼ら五龍だ。ずっと聞きたかったが、今日まで聞けずじまいだった。

 黒龍はしばらく困ったように眉根を寄せていたが、やがてまた、微笑んだ。金の目がそっと細められるのを見て、雪火は視線をそらす。

「なんでもします。あなたの為なら」

 答えになっていなかった。でも雪火は、納得した。納得せざるを得なかった。

 背中を軽く叩かれ、雪火はのろのろと歩き出す。帰って、彼の傷を看てやろう。初めて彼に命じた日、そうしてくれたように。

 いつもと同じ距離感で、歩いている。それなのに鈍い痛みを訴える胸が、不思議だった。


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