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第三章 明日死んでも 七

 七


 コットンに染み込ませた除光液がすぐに気化してしまうほど、空気の乾いた日だった。こんな日は大人しくしているに限る。今日は詰所に行くのはやめようと考えながら、緋緒はマニキュアをぬぐう。

 指先を滑った白いコットンの下から、真っ赤な爪が現れる。茶より明るく紅より暗い、血のような赤。爪の全面が赤いものだから、今でも切るのに苦労する。

 彼女の兆しは、爪の赤だった。目や髪に出るより目立たないが、色が色だから、学生時分はよく何も知らない教師に怒られたものだ。普通の爪と似た色のマニキュアで偽装してようやく何も言われなくなって、少しおかしかった。

 それからは、出かける時は爪の色を隠すようになった。仕事中も、少しでも人の目に触れる可能性のある時は、爪の赤を隠すように。人目に触れるのが嫌なわけではない。他人にとやかく言われるのが鬱陶しくなったのだ。

 左手のマニキュアを全て落としたところで、ドアがノックされた。あいまいな返事をすると、そっと夕龍が顔を出す。

「おはようござ……!」

「おはよう」

 ううとぼやいて、夕龍は視線をそらした。寝る時はいつも同じ格好なのだから、いい加減学習してくれないものだろうか。

 緋緒が穿いているのは学生時代に使っていたジャージだが、上はキャミソールに七分袖のカーディガンを羽織っただけだった。大きく開いた胸元からは、胸の深い谷間が覗く。肩紐を浮かせる鎖骨のラインまで、優美だった。

「主……またそんな」

「メシ」

 爪に視線を落としたままそれだけ言うと、夕龍は困ったように眉を寄せた。黙ったままでいる内に、仕方なさそうに微笑む一連の動きが視界の端に映る。

「只今」

 優しくしないで。

 怒鳴り付けて逃げ出したくなるのをこらえて、緋緒はうなずく。夕龍は彼女に視線を合わせないまま、廊下に引っ込んだ。

 彼はいつだって、休みの日でも緋緒の世話を焼きに来る。仕事なのかと聞いたら、趣味ですと答えた。あの時の笑顔がいまだに忘れられず、緋緒は今でも彼の顔をまともに見られない。たぶん、気付かれてはいないのだろうが。

 マニキュアを落としてから身支度を整え、ダイニングへ行く。朝はろくに食べない緋緒のために、彼はいつもジャムを塗ったトーストとホットミルクを用意してくれる。代わり映えしない朝食に文句を言わないのは、出されたものは全て食えとしつけられたせいではない。

 それにも彼は、気付かない。それでいいと、緋緒は思っている。

「いただきます」

「どうぞ」

 甘いジャムが、寝起きの頭に染みる。トーストをかじりながらソファーでテレビを見る夕龍に視線を移すと、かたわらに大きなカバンが置いてあるのが見えた。緋緒は気付かないふりをして、生ぬるいミルクでパンを流し込む。

 色あせたジーンズとTシャツと、薄手のパーカー。それが休日の彼の、見慣れた全てだった。いつもスーツで暑苦しいと緋緒が言ってから、やっと着るようになった私服だ。

 どこかへ出かけようか。緋緒が出かけないと、彼は買い物にも行かないから。

「いい天気ですね」

 一服しようと窓を開けると、そう声をかけられた。緋緒はああとだけ返して、ベランダへ出る。

 外はもう、乾いた冬の匂いがする。緋緒はタバコに火をつけて、薄手のセーターの袖を引っ張った。指先が冷えている。寒いくせに日差しは暖かいのが、不思議に思えた。

「寒くありませんか?」

 背中にかけられた声には、やっぱり生返事だけする。いちいち気を遣うのは、そういう性格だからだ。誰に対しても、彼は優しい。

 だから、諦めもつく。幼い頃から胸に抱いたまま離すことも出来なかった想いを、誰にも明かさず今日まで耐えてきた。そろそろ忘れなければと、最近はそればかり考えている。

 エアコンの室外機の上に置かれた灰皿にタバコを押し付け、緋緒は部屋へ戻る。少し外へ出ただけなのに、体が冷えていた。

「主……」

 カバンを避けるようにダイニングに着くと、夕龍はためらいがちに呟いた。何を言われるか、もう分かっている。

「なんだ」

「お父様から、預かってきました。……目を通すようにと」

 黙って手を出すと、夕龍はそっと書類の束を差し出した。なんでもないような素振りで受け取り、クリップを外す。

 一条家は、表向き官僚で通っている。五星が世襲制であるがゆえに、世間に説明のつく職ということにしておかないと、結婚の際ややこしくなるためだ。山のように来る縁談は全て断ってきていたが、最近は父も焦っているらしく、こうして見合いの相手を選べと書類を送ってくる。

 女は寿命自体は長いものの、働ける期間は短い。跡継ぎを産むなら産むで、早く結婚しないと後が厳しくなる。出来るなら結婚したくないところだが、そういうわけにも行かない。

「お見合いされる気に、なったのですか?」

「しないとまずいだろう」

 すげなく返し、書面を目で追う。さすがに華々しい経歴が並んでいたが、緋緒の心を動かすには至らなかった。

 写真はいらないと言ったら、父は履歴書のような書類を送ってくるようになった。小さな写真には、どれを見ても同じような顔が写っている。他人が見たら違うのだろうが、緋緒には同じ顔にしか見えなかった。

「お前は見たか?」

 視線は上げないまま、何の気なしに問いかける。夕龍ははいと答えて少し間を置き、再び口を開く。

「あまりお金持ちの方でない方がいいのでは?」

「いや、いい家の者がいい」

 予想していなかったのか、夕龍は目を円くした。緋緒は鼻で笑う。

「権力に慣れた者がいい。紅の実家のようになるぞ」

「ああ……いや、しかし」

 そこで夕龍は、言葉を濁した。何が言いたいのか、緋緒には分かっている。分かっているから、答えない。

 もう、文字が頭に入らない。小さくため息をつき、緋緒は書類の束を伏せて立ち上がる。夕龍は困ったように眉を寄せていた。

「飽きた。出かける」

「はい。……どちらへ?」

 どこへ行くと言っても、きっと彼はついてくる。それとも、叱るだろうか。昔はよく叱られた。

「どこでも」

 イスに引っかけてあったジャケットを取り、羽織りながら返す。ポケットに手を入れると、使い捨てライターと携帯灰皿が入っていた。

 タバコだけ無造作にポケットへ突っ込んで、緋緒は玄関へ向かう。苦笑していた夕龍は、何も言わずについてきた。彼のこういうところを、緋緒は切なく感じてしまう。

「昨日、夜に芙蓉が来てな」

 マンションを出て川辺への道を歩きながら、緋緒は唐突に切り出す。夕龍は視線だけ落として、聞く姿勢を取った。

「ごめんと言われた。謝るのは私に対してではないだろうに」

「芙蓉様は……」

「お前も聞いたんだろう。碧龍も生きすぎたのかも知れんな」

 彼が受け入れるとは、思っていなかった。浦辺の家も、跡絶えたら困るだろうに。

 紅は見る限りで、黒龍はやっと主を連れてきた。雪火は、少しずつだが変わってきている。置いていかれたのは、緋緒一人だ。

 自分も焦っているのかもしれないと、緋緒は思う。五星一長い歴史を誇る一条家を、自分の代で絶えさせてはならない。当主であるということは、彼女にとって感情よりも優先されるべき、見たくもない現実だった。

「筆頭なら、芙蓉様を不幸にはされないでしょう」

 夕龍の声は少し、嬉しそうだった。何が嬉しいものかと、緋緒は心中毒づく。

 芙蓉にとっては良かっただろう。彼女が幸せなら、緋緒も素直に祝福できる。実際、昨日もおめでとうと言った。

 だが家のことを考えると、浮かれてはいられない。碧龍を柱として長く保っていた水行が傾ぐとなれば、混乱は免れない。彼はそれを分かっていて芙蓉を受け入れたのだろうか。

「主、覚えておられますか」

 見上げると、夕龍はまっすぐに前を向いていた。遠くを見るようなその目は昔となんら変わらず、穏やかに凪いでいる。

 彼は五龍と政府で働く龍女官の間に生まれた、純血の龍だ。生まれながらにして夕龍となるさだめを負った、緋緒と同じ龍。迷う緋緒とは違い、彼はその視線のように、まっすぐに受け入れていた。何もかもを。

「星を継ぐのが怖いと、仰った時の事です」

「記憶にないな」

 視線を合わせないまま困ったように笑う彼は、話をやめる気がないようだった。そんな昔のこと、緋緒は思い出したくない。ましてや、最後に泣いた時の事など。

「泣いて嫌だと言うあなたをこうして火星にしてしまった事、今でも申し訳ないと思っています」

「子供の戯言だ。何を今更」

「あなたはお強くなられた」

 怒鳴り付けてやめさせる事もできた。でも緋緒は、そうしなかった。彼がどうして昔の話を始めたのか、分かってしまったからだ。

 代々受け継いできた重荷を背負うのは、怖かった。だから泣いた。そうして忘れ得ない記憶を作ってしまったことを、今は後悔している。

 思い出せるのは喉の痛みと、夏の香り。頬が濡れる感覚と、扇風機の音。それから。

「でもどうか、これ以上ご無理はなさらないで下さい。水が傾ぐなら、他が支えられますから」

 それから抱きしめてくれた体の、こもったような熱さ。

「……しない。私が死んだら困るだろうからな」

 あの熱をまだ、覚えている。忘れないように大事に閉じ込めて、ずっと抱えてきた。でもそれも、今日で全て捨てるつもりでいる。どんなにあがいても彼は龍で、緋緒は人間だから。

 だから今だけは、肩が触れる距離にいたい。全て忘れるために。忘れたふりをするために。

「そういう、意味では」

 口ごもりつつ下を向いた夕龍はふと足元を見て、次に緋緒を見る。もう、川はすぐそこだった。

 草むらが広がる土手の手前で、夕龍は緋緒の目の前に片手を差し出した。緋緒はさも当然のように、浅黒い手の上へ自分の手を乗せる。白い指と毒々しいまでに赤い爪のコントラストは、いつ見ても慣れない。自分の手なのに。

 乗せられた白い手をそっと指先で包んで、夕龍は土手を下りる。緋緒がついてこられるように、ゆっくりと。

 大きな手のひらはあの夏の日と同じ、火傷しそうなほどの熱を帯びていた。幼い頃はよく手を引かれて歩いた。当時はなんとも思わなかった手のひらの感触が、その体温が、今は胸の傷を深くする。

 今日だけ。今日で最後。自分にそう言い聞かせながら、緋緒は離れようとした手の指先を掴む。一瞬震えた指は、何事もなかったかのように手の中に落ち着いた。

 黙ったまま並んで腰を下ろし、見るでもなく川を眺める。平日の昼間からこんな所には、誰も来ない。だから、ここへ来た。

「結婚相手を選ぶというのは、妙な気分だな」

 呟いてみても、夕龍は答えなかった。応えようもないだろう。

「どんな相手がいいか、よく分からん」

「恋をした方は……いらっしゃらなかったんですか?」

 夕龍の声から、感情は読めない。どう思ってほしかったのか、緋緒は自分でも分からなかった。

「いたら見合いなんぞしない」

「……そう、ですね」

 たっぷりと、無言の間が落ちた。緋緒は手を離さないまま片手でタバコをくわえ、火をつける。

 苦い煙を深く吸い込むと、少し落ち着いた。握り込んだ熱も、今は気にならない。こうして忘れてしまえれば、それでいい。何を伝えられる立場でもないのだから。

「私は、あなたが幸せになれる方なら、いいと」

「バカかお前は」

 う、とうめいて、夕龍は肩をすくめた。鼻で笑って、緋緒は続ける。

「無理に選ぶ相手に幸せになれるなれないもない。家の為だ、バカは選びたくない」

「そんな……あなたは」

「私がなんだ」

 小さなため息が聞こえた。緋緒は返答を急かさず、気取られないようそっと深呼吸する。青い草の香りが、喉を突いた。

「あなたが良いと思う方を、選んで下さい」

「分かるかそんなもの」

 握られるに任せていた手が、きつく握り込まれた。伝わる熱が腕を通って肩を震わせ、喉を焼く。

 意識しないようにしていた手の感触が、緋緒の胸を詰まらせる。何を忘れてもこの温度だけは覚えておこうと、彼女は心に決めた。それぐらいは、許されるはずだ。

「あなたには、幸せになってほしい」

 妙に熱のこもった声に驚いて、顔を上げる。そして深く、後悔した。

 夕龍はいつになく真剣な表情で、彼女を見つめていた。その目は揺らぎ、濃い眉は何かをこらえるように寄せられている。

 もう、泣きたかった。嫌だと泣いて逃げ出したかった。他の誰かと結婚するなんて、考えたくもないと。それこそ、あの夏の日のように。

「……何故?」

 でもそれが出来ないから、緋緒は問い返した。整った顔には、疲れたような笑みが浮かんでいる。

 夕龍は、すぐに返答しなかった。戸惑ったように少し身を引いて、口をつぐむ。緋緒は少し、期待していた。

 これで望む答えが返ってきたら、何もかも捨てる。嫌だと泣いてすがれば、きっともう誰もとがめない。甘えた考えであることも、自覚していた。

 でも、いつも通りに返されたら。

「主……ですから」

 緋緒は黙って手を離し、吐き捨てたタバコを踏み消して立ち上がった。期待など、するだけ無駄だ。

 弾かれたように顔を上げ、夕龍は土手を上る緋緒の背を追った。何か言いたげに口を開いたが、結局何も言わずに唇を噛む。悔しげなその表情は、緋緒には見えていなかった。

「主……」

「冷えたな」

 繋いでいた右手が、ひどく冷たい。全身が冷えたような気がして、緋緒は小さく身震いする。もう、冬が来る。

 もう何度、同じ秋を過ごしただろう。あと何度、同じ冬を迎えられるだろう。なんでもない日々が、永遠に続くと思っていた。彼といられるなら、重すぎる荷も負えると信じてきた。

 いつかは全てが、変わってしまう。芙蓉と碧龍も、雪火も、変わった。夕龍が大切にすべき主人も、いずれは緋緒ではなくなる。

 だから緋緒は、死にたかった。叶わないのなら、自分の望む未来が永遠に来ないのなら、彼がいつかは自分以外を守るようになるのなら。でも死ぬわけには行かないから、死にたかった。いつ死んでもいいように、部屋には必要最小限のものしか置いていない。

 他の誰かなんて、本当はいらない。好きにもなれない男の子供なんて、産みたくもない。そうまでして、家を継がせたいとも思わない。

 でも、緋緒にはそうする道しかない。一条の誰もが、そうしてきたように。

 だから、明日死んでも後悔しない。後悔だらけの日々が、そこで終わるのだから。負いたくない荷を、投げ捨ててしまえるから。

「主……」

 黙りこんだまま帰宅して、緋緒は真っ先にダイニングへ着いた。ヤケになったような自分が滑稽で、情けない夕龍の声をバカにするふりで、嘲笑する。

「なんだ」

「無理に選ばなくとも……いいのでは」

「うるさい」

 乱暴に突っぱねて、タバコに火をつける。嗅ぎ慣れたメンソールの香りすら、今は煩わしい。

 夕龍はしばらく黙って緋緒を見つめていたが、やがて小さくため息をついた。ため息をつきたいのはこっちだと、緋緒は思う。昼食の支度なんてもういいから、早く帰ってくれないだろうか。

「年が明けたら、順に見合いの席を設けてもらう。お前は留守番していろ」

 星たちが代々やってきたことのはずなのに、夕龍の顔が一気に青ざめた。緋緒は書類をめくりながら、灰皿を引き寄せる。

「本当に……決めるのですか」

 震える声に驚いて見上げると、夕龍は顔をしかめて下を向いていた。ああと生返事だけして、緋緒は灰皿の上でタバコを弾く。

 一条の血を絶やすことは許されない。それは誰よりも、緋緒が一番よく分かっている。だから、望んでもいない道を選んだ。最初から、この道しかなかったのかもしれない。

「考え直して、頂けませんか」

「は?」

 視線だけで睨んでみたが、夕龍は下を向いたままだった。きつく拳を握って、何かをこらえるように眉間にシワを寄せている。

「お願いします……考え直して下さい」

「何を言ってる」

 吐き捨てるように返すと、夕龍はその場に膝をついた。さすがに困惑して、緋緒は眉をひそめる。

 答えないまま、夕龍はフローリングの床に手をついて頭を下げる。土下座すれば思い通りになるのなら、緋緒だっていくらでもした。

「申し訳ございません、主」

「だから何だ」

 すっと顔を上げ、夕龍は緋緒を見上げた。十五の誕生日に彼がしもべとなった時のことが、脳裏をよぎる。あの時もこんなふうに、真剣な顔をしていた。

 本当は、別の形で出会いたかった。星を継ぐのが嫌だったのは、それが重かったからではない。自分が主人になったら、彼が僕になってしまうのだと知っていたから。望んだ関係ではない名前が、ついてしまうから。

 昔と変わらない真摯な眼差しに、緋緒は続く言葉を予想する。薄々感づいてはいたものの認めるのが怖くて、知らないふりをしていた。認めてしまったら、緋緒はきっと諦めきれなくなる。とっくに決意してしまったのに。

 だからもう、そんな目で見ないで。

「お慕い申し上げております」

 泣きたいのか嬉しいのか、緋緒はもう、自分でも分からなかった。込み上げる熱い塊を押し留め、顔をしかめる。頭が熱くて、溶け出してしまいそうだった。

 今更遅すぎる。緋緒にはもう、他の道がないのだから。

「帰れ!」

 込み上げた激情を吐き出すように、怒鳴りつけた。夕龍は目を見開いて顔を上げ、立ち上がる。

「主、違うんです! 話を」

「うるさい、帰れ!」

 頭皮の下を虫が這うような嫌な感覚に、緋緒は大きく頭を振る。長い黒髪は、それでも絡まることさえなかった。

 泣くのをこらえているせいなのか、怒りのためか、呼吸がままならない。自分がいつ立ち上がったのか、緋緒はもう覚えていなかった。振った首が痛くて、下を向いて拳を握る。

「……もう来るな。鍵を置いて行け」

 夕龍の顔が、見られなかった。こういう時だけは、彼の背が高くて良かったと思う。

 少しの沈黙の後、夕龍はジーンズのポケットからキーケースを取り出した。そこから一本鍵を抜いて、そっとテーブルに置く。会釈したのが、気配で分かった。

 夕龍が出て行った後も、緋緒はしばらくがらんとした部屋に立ち尽くしていた。何をする気力も起きなくて、テーブルの上を見る。

 見たくもない書類の束の上に、夕龍が置いて行った合鍵が乗っていた。それが彼の精一杯の反抗のように思えて、緋緒は力なく笑う。気が緩んだ一瞬の隙に、こらえていた涙が一気にこぼれ出した。

 際限なく流れる涙が頬を濡らし、顎を伝って床へ落ちる。鼻が詰まって、息もできない。喉が熱くて、しびれるように痛かった。泣くというのはこんなにも苦しい事だったかと、頭の片隅で考える。

 本当は、家のことなんてどうでもよかった。ただ、代々築き上げてきた砂の城を壊すのが怖かっただけで。壊したって別に構わないけれど、罪悪感は残る。五星の家というのは、そういうものだった。

 知っていたのに、怖かった。彼が人間でないことが。自分が禁忌を犯すことが。結局、緋緒が臆病だっただけだ。

 今更泣いても仕方ない。わかっているのに、止まらなかった。とうとう座り込んで肩を震わせる自分が情けなくて、緋緒は手のひらで顔を覆う。

 好きだった。

 ずっと、好きだった。

 だから今だけは、泣けるだけ泣きたい。全部出しきったら、きっと忘れられるから。

 忘れるから。


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