第三章 明日死んでも 五
五
仕事を終えて詰所に戻った頃には、もう三時を過ぎていた。出たのは朝の十時頃だったから、ずいぶん時間をかけてしまったものだ。ほとんどの時間は、現場を探すのに費やされていたが。
「それで私も翠に後ろから抱っこされたいと思いました」
「知るか」
言いながらも、緋緒はノートパソコンとにらみあっている。戻って早々に紅が報告をしていたが、彼女はどうでもよさそうだった。冷たいのはいつもの事だが、今日は輪をかけて冷ややかだ。
渋い表情で画面を睨む緋緒は、どうも機嫌が悪いようだった。雪火は首をかしげる紅と顔を見合わせてから、ソファーで紅茶をすする芙蓉を見る。彼女は苦笑していた。
「緋緒ー、イヤなら断ったら?」
「ダメだ」
雪火には、状況が全く読めなかった。少し落ち込んでしまっていたから、彼女たちがのんきなのは有難いことだが。
「だって断っていいって言ってくれてるじゃない」
「それがバカにしていると言うんだ。断っていいなら最初からこっちに回さんだろう」
仕事のことだと、雪火はやっと理解した。つまり緋緒は、仕事を請けるか請けないかで悩んでいるに違いない。
しかし、彼女が請けるのを悩む仕事とは何なのだろう。どんなに忙しくても、本部から回ってきた仕事は断らないと聞いたから、不思議だった。だからといって、不機嫌なところに理由を聞くのも憚られる。
「だから知らないフリして断っちゃえば……」
「ダメだ」
もう、と呟いて、芙蓉はため息をついた。アームソファーにだらしなく腰かけていた碧龍が、呆れたように勢いよく紫煙を吐く。彼の様子から察するに、長い事こうして言い合っていたのだろう。
「そういう仕事はこっちって昔から決まってる。お前さん考えすぎじゃないか?」
緋緒は碧龍を睨んだが、何も言わなかった。自覚があるのかもしれない。雪火には、彼女が何を考えすぎているのかよく分からないが。
険悪な空気を察したか、芙蓉の隣にいた夕龍が身を乗り出す。何か言いたげに口を開いたものの、少し悩んでやめた。何を言っても、緋緒に八つ当たりされるだけだと気付いたのだろう。彼もあれでよく不満を口にしないものだ。
とはいえ、竜士と竜というのは本来ああいう関係だ。主人の方にその気がなくても何かと世話を焼きたがるものだから、用事を言いつけていないと哀れな気さえしてしまう。
「まあ、分かるけどね。女だからってバカにされてるみたいでさ」
そういえば、と、雪火は思う。どうして今の五星は、女性しかいないのだろう。歴代五星は、男性が多かったと聞いたはずなのだが。偶然だろうか。
なんにせよ芙蓉にも、思うところがあるのかもしれない。男性に比べれば当然体力的に劣るから、バカにされるのもわかる。霊力が強いだけでは、立ち行かない仕事だ。
緋緒は黙り込んでいたが、碧龍はニヤリと笑った。彼は他人をからかうのが趣味だ。
「お前さんはバカだけどな」
「なにそれー!」
芙蓉は声を上げて身を乗り出したが、碧龍のニヤけた顔を見て嫌になったか、膨れっ面で首をすくめた。両手で持ったカップを睨む彼女を、碧龍は優しい目で見つめている。
あまり見てはいけないような気がして、雪火は目をそらした。隣に腰かけた紅は、眠そうにあくびをもらしている。彼女も疲れたのだろう。
「それで、何の仕事なんです?」
翠龍と向かい合わせで床に座っていた黒龍が、にこやかに問いかけた。彼は分かって言っているのではないかと、雪火は訝る。
緋緒は今にも火のついたタバコを投げそうな勢いで、彼を睨んだ。相変わらず仲が悪い。
「うるさい」
「私が行って差し上げましょうか?」
「だからうるさ……」
そこではっとして、緋緒は雪火を見た。首をかしげて見せると、彼女は身を乗り出す。
「雪火、行ってくれるか」
「……なんです?」
緋緒は更に身を乗り出して、雪火に顔を近づけた。テーブルの上にはちきれんばかりの胸が乗っているのを見て、雪火は思わず眉をひそめる。
「……虫だ」
「は?」
「虫が出た」
「たくさんですか?」
緋緒が真剣な面持ちで頷いたとたん、黒龍と翠龍が同時に笑い声を上げた。うとうとしていた紅がびくりと反応して、左右を見回す。半分寝ていたようだ。
緋緒は腹を抱えて笑う二体を睨んで、あからさまに舌打ちした。夕龍だけはおろおろと視線を泳がせているが、碧龍もニヤニヤしている。彼らは性格が悪い。
「お前が虫嫌いなんてなァ」
「女性だったんですね緋緒様」
「うるさい!」
嫌いだったのかと、雪火は思う。何が嫌なのかよく分からないが、女性はおおむね虫を嫌う。魍魎が小さくなっただけなのに。
ふと夕龍を見ると、彼は複雑な表情を浮かべていた。助けたいが口を挟むのも嫌、といったところだろうか。彼もわが身は可愛いようだ。
「そんなだからバカにされるんだろ。なあセキ?」
ソファーのアームに頬杖をついて、碧龍はニヤけたまま問いかける。夕龍は困ったように眉を寄せるだけで、応えなかった。
緋緒は不機嫌そうに眉をつり上げて、パソコンの画面を睨んでいた。仕事を請けるならそろそろ出ないと遅くなってしまうのではないかと、雪火は思う。たとえ虫でも、悠長に構えているとすぐに成長してしまう。
「虫なんか踏み殺しそうなのにな」
「するかそんな事」
碧龍はしつこい。自分が有利だと分かると尚更だ。雪火はほのかに顔を赤らめる緋緒を見て、いい加減止めた方がいいのではないかと思う。
「似合わな……」
「可愛いからいいんです」
全員の視線が夕龍を向き、一瞬、空気が凍った。紅など、イスから転げ落ちんばかりの勢いで身を乗り出している。言った本人は少しの間の後、大きく目を見開いて息を呑み、驚愕を示した。自分で言ったのに。
無言の間に、夕龍の顔は赤くなったり青くなったりと忙しかった。元々が浅黒いから、信号機とは呼べないが。
気になって緋緒を見ると、彼女はキーボードに両手を置いたまま画面を睨んでいた。いや、固まっているのかもしれない。パソコンではなく、彼女が。
「セキさんは緋緒様が好きなのだな」
紅の声に、止まっていた空気が更に凍った。またぞろからかい始めるのではないかと思われた碧龍は、半笑いで顔をひきつらせている。翠龍が頭を抱えているのは紅のせいだろう。
「私も好きだぞ。お姉ちゃんだからな」
雪火には意味がよく分からなかったが、それで幾分、空気が和らいだ。緋緒は何事もなかったかのようにキーボードを叩き、芙蓉は口に手を当てて笑いをこらえている。
一方龍達は、揃ってニヤニヤと夕龍を見ていた。彼はいつの間にか膝を抱えて、下を向いている。相変わらずだ。
「雪火、地図を携帯に送る。行ってくれ」
緋緒の声は、普段となんら変わりなかった。虫ぐらいなら、どんなに大量発生しても篳篥一本で事足りる。一人で充分だろう。
「は……」
「私も行く!」
はいと返そうとした矢先、紅が大声で宣言した。手まで挙げている。
「好きにしろ」
「緋緒様も一緒に」
「断る」
すげなく拒否されたが、その程度で紅はめげない。イスから降りて緋緒に歩み寄り、その腕を掴む。彼女は嫌そうだった。
「一緒に!」
「嫌だ」
「苦手は克服せねばとお父さんも言っておられた」
腕を引っ張られてイスから転げ落ちそうになり、緋緒は嫌々立ち上がった。ふと見ると、翠龍と黒龍は既にジャケットをはおっている。彼らも行くつもりらしい。
しかし夕龍は、おろおろと見回すばかりだった。止めるべきか一緒に行くべきか、悩んでいるのだろう。
「セキさんは別に来なくていいぞ」
「えっ……」
緋緒に似たのか、紅はたまに冷たい。夕龍は驚愕の表情で紅を見上げた後、悲しそうに肩を落とした。それでも行くと言わない辺り、失言を引きずっているらしい。
ぼんやりと立っていた雪火は、ふいに肩を叩かれて振り向く。目線の高さにはネクタイの結び目があり、見上げてやっと、濃い顔が見えた。
黒龍は雪火と目が合うと深く笑んで見せ、玄関を指差した。車を回してくれるのだろう。うなずいて、廊下へ去って行く広い背を見送る。
「みんな行くなら私も行こうかなぁ」
上機嫌にやり取りを眺めていた芙蓉が、唐突に言った。遠足にでも行くような調子の彼女に、雪火はげんなりする。廊下へ出ようとしていた翠龍が振り向いて、嫌そうな顔をした。
「お前どうせキャーキャー言ってるだけだろが。うるせぇからくんな」
「芙蓉は虫に勝てそうにないからダメだ」
「なんでー紅のケチ! 緋緒だって勝てないのに!」
翠龍と紅に立て続けに言われ、芙蓉は憤慨した様子で立ち上がりかけた。しかしまあまあと言いながら、先に碧龍が席を立つ。
「緋緒様はいるだけで虫が死ぬからいいのだ」
「殺虫剤か私は」
ぼやく緋緒は、紅にしっかりと腕を掴まれて諦めたようだった。
碧龍は夕龍の肩を掴んでどかし、中腰の芙蓉の隣へむりやり腰を下ろした。狭いのか、夕龍が渋い顔をしている。
きょとんとして腰を浮かせた体勢で止まった芙蓉に、碧龍は微笑みかけた。今からナンパでもするような顔だ。あながち間違ってはいないかもしれない。
「たまには二人で留守番もいいだろ?」
「留守番なら一人でできるじゃない」
「私もいるんで、いだっ」
主張しかけた夕龍は、碧龍にカカトで向こう脛を蹴られてうめいた。彼は空気が読めない。
「うっせ、どっか行け」
「ユウちゃんいじめちゃダメだよー」
芙蓉はのんきだった。若干の哀れみを覚えつつ、雪火はテーブルの上の水筒を取る。中身は戻った時に入れ替えてある。
袖を引かれて振り返ると、紅が目を輝かせていた。その胸には、緋緒の腕が抱かれている。よく手入れされた爪は、無機質に光っていた。気付いてはいたが、彼女がマニキュアというのも、なかなか意外だ。
見上げれば、緋緒はこの世の終わりでも来たかのような顔をしていた。誰も紅には逆らえないらしい。
「よし、行こう!」
一人でいいと言おうかとも思ったが、やめた。紅があんまりにも楽しそうだったから。緋緒は見ないようにした。
うなずいて見せると、紅は意気揚々と歩き出す。腕を掴まれたまま、その後ろをのろのろと緋緒がついて行く。雪火は翠龍と顔を見合わせ、揃って力なく苦笑した。
「笛吹いてりゃ死ぬのか?」
助手席でキセルを吹かしていた翠龍が、驚いたように振り返った。うなずいて見せると、彼はふうんと鼻を鳴らして首をひねる。いまいち理解出来ないようだった。
「篳篥を通すと気が変質します。音が通る範囲にいる虫は全て死にますから、任せてくださって構いません」
「噴射式の殺虫剤みてぇなモンか」
似たようなものなので、頷いた。あんな本当に殺せるのか怪しい代物ではないが。
「こんな人数で来る必要があったのか?」
緋緒はウィンドウの枠に頬杖をついて、不機嫌そうに吐き捨てた。どうやら本当に行きたくないらしい。
「みんなで行けば怖くないのだ!」
「中で待ってろよ。悪ィな」
「だったら紅を止めろ」
ため息混じりに言って、緋緒はタバコに火をつける。それから、視線だけで雪火を見た。流し目がいやに艶っぽく見えて、同性なのにどきりとする。
「篳篥は案外万能なんだな」
「ご存知なかったのですか?」
ああと返し、緋緒は唇をすぼめて煙を吐く。
「篳篥は龍に効くからな。私は龍笛の事しか分からん。紅が教わる時、一緒に笙のことは勉強したが」
「篳篥使いは五星では珍しいんですよ。私が見てきた中でも、主が初めてです」
守るべき龍に影響してしまうのに、篳篥を使う者もいないだろう。雪火は今更になって、篳篥を選んだことを後悔している。
言い訳ではないが、龍笛は雪火が使ったところで、緋緒が使うほどの威力は出ないのだ。そもそも、龍笛が神を止めるほどの力を秘めている事も知らなかった。
妖の動きを止めるぐらいで充分だから、竜士は龍笛を使う。動かないようにしてしまえば、後は竜が食ってくれる。だが、雪火はそれだけで満足出来なかった。
できるだけ、頼らないように。そうやって、雪火は生きてきた。だから自分を守ろうとする龍達が不思議だし、嫌がるくせに他人のために戦う芙蓉が理解出来ない。
人は結局、最初から最期まで独り。女一人でも生きて行けるように、雪火は竜士になった。老いても働けるように、最近は習う者も少ない笛と札を使うことを選んだ。それが今になって役立っていることを、少し複雑に思う。
「龍笛も篳篥も、使い手によっては一長一短だな。有象無象が吹いたところで、こちらに影響はないが」
緋緒の言葉に、慰められたような気がした。同時にそれが甘えのような気もして、雪火はまた、複雑な心境になる。
「緋緒様の笛は痛いから嫌いだ」
「死にはしないから文句を言うな」
紅の言う通り、あれは痛かった。その後支障が出るわけでもないし、耳をふさいでしまえば和らぐから、いいと言えばいいのだろうが。
篳篥は、痛みは続くが龍の体自体に影響はない。一時的に動きがにぶるだけらしく、結局効いているのは妖に対してだけだ。恩師に聞いた話では、竜に効いているのは音の方だけだとのことだった。そこでふと気になって、雪火は窓の外を眺める緋緒へ視線を移す。
「龍笛も、音の方が効いているのですか?」
「ああ。篳篥と同じだ」
目も合わせないままのそっけない返答だが、雪火にはそれで充分だった。
妖や邪竜に効くのは、笛を通して音に乗せた気。竜や人に効くのは、音そのもの。だから当然、効果も違う。楽器として鳴らす場合はどこにも影響が出ないから、不思議なものだ。
そもそも普通の曲と退魔の呪曲とでは、旋律そのものが違う。それが理由だとも言われているが、明確な答えは出ていない。人と竜とが協力してこの地を護るようになって、千年以上。何もかもが、未だ解明されないままだ。
「龍には笙の加護があるのに、なんで人には龍笛の加護がないのだ。不公平だ」
「龍に作用しているのは気だと教えただろう。傷が気で治ったら人間じゃない」
「気合いとは違うのか」
「気合いで治しているのかお前は」
言いながら、緋緒は行く手を見て目を円くした。慌ててウィンドウを上げる彼女につられ、雪火は座席の間から前方をうかがう。
マンションや一戸建てが並ぶ住宅街の中、申し訳程度の木々に囲まれた公園があった。園内の様子はまだ見えないが、木々の周りを囲む柵に、点々と札が貼られているのが見える。公園内に集めたはいいが、その後の処置に悩んだ末、五星を呼んだといったところだろうか。
こんな住宅街のど真ん中では、札で焼くことも出来ないだろう。笛や殺虫剤を使おうにも、数によっては羽ばたきで気流が起きて効かなくなることもある。竜に食わせるにも限度があるから、普通の竜士には酷な仕事だ。
妖は大量発生しない、というのが常識だった。確かに、めったにある事ではないのだろう。だが目の前にすれば、常識など容易に覆される。
「おお、大量だな。旗を揚げよう」
のんきな紅の言葉に反応する気力もなくなるほど、園内にはおびただしい虫が飛び交っていた。
公園の中とその上空だけ、砂塵が舞ったようだった。竜巻が起きたら、こうなるのかもしれない。傾き始めた陽の光を反射してちかちかと光っているおかげで、かろうじて砂ではないと分かる。
大量の虫はノイズのように、視界を遮る。遠目にも目立つビビッドカラーの滑り台さえ、霞がかったようによく見えない。車の中からでは砂嵐のようにしか見えないものの、あれが全て虫だと思うと、さすがに目眩がした。
「さすがに大漁旗はねぇよ」
「ところで紅様」
公園の脇に車を停め、黒龍が後部座席を覗き込む。濃い眉が寄せられ、目との間がなくなっていた。
「ずっと気になっていたのですが……それはどうするおつもりですか?」
隣を見ると、紅は片手にタモを持っていた。ふつう、水中のゴミをさらうのに使うものだ。
「捕まえるのだ」
黒龍の目が、呆れたように細められた。下を向いて息をひそめていた緋緒は、弾かれたように顔を上げる。まさかタモに気付いていなかったのだろうか。
「捕まえて……どうなさるおつもりです」
「飼う!」
「やめろ!」
悲鳴じみた声が誰が発したものか、雪火には一瞬分からなかった。無反応だった翠龍が煙を噴き出したことで、緋緒の声だと気付く。
「ちゃんと面倒見ます!」
「ダメだ」
「おねーちゃん……」
「駄目」
しゅんと肩を落として、紅はそれきり黙りこんだ。雪火は軽くその背を叩いてから、水筒を開けてリードを取り出す。黒龍が出ようとしたが、目で制した。
「いい。行ってくる」
「いいのですか? お一人で」
「平気」
どうせ吹くだけで死ぬ。わざわざ彼に痛い思いをさせる必要はない。
ドアに手をかけると、緋緒があっと呟いた。振り向いて見た彼女は、青い顔をしている。
「何か?」
問い返すと、緋緒は息を呑んで首を横に振った。
「い、いや……頼む」
「ではみんなで一緒に」
「嫌だ!」
緋緒のものとは思えない、甲高い声だった。翠龍が耳に指をつっこみ、顔をしかめる。そんなに嫌なのかと、雪火はドアを開けるのをためらった。
「これだから女は……」
呟いた翠龍の声に、雪火の胸が痛んだ。