第三章 明日死んでも 四
四
「つかれたー」
紅のこのセリフを聞くのはもう、何度目だろう。しかし、雪火も同じ心境だった。気取られないよう息を吐き、辺りを見回す。
場所は、川沿いに点々と広がる集落。住所は聞いたのだが現在地を確認しようにも電波が非常に悪く、携帯電話が役に立たない。車でうろつくにも道が細く一方通行も多かったために、足で探すことを余儀なくされている。
「こんなに広いとは思いませんでしたね」
「ボロだというから、すぐ見つかると思ったのに」
どこかイントネーションのおかしな声に、雪火は心中同意した。
この住宅地にぽつんと残った廃屋に、幽霊が出るのだそうだ。昨日今日からという話ではなく、以前からすすり泣きのような声は聞こえていたらしい。実害がないから、放置しておいたということだった。
だが最近になって、空き家を取り壊そうという話が持ち上がった。夜中に若者が立ち入って騒ぐため、近所迷惑だと住民からのクレームを受けて役所が動いたようだ。所有者は天涯孤独の身の上で、数年間に他界しているという。土地は既に国の持ち物になっている。
ところがいざ家屋を取り壊そうという段になって、無理だと判断された。廃屋についていた霊が、妖と混ざって悪霊と化していたためだ。
よくある案件だ。幽霊が元々霊力の強い人間だと、近付いてきた妖を逆に食ってしまうことがままある。そのため妖と融合して変質し、タチの悪い悪霊となる。融合した後、どちらの性質が勝っているかにもよるが。
「どうして悪霊が出たぐらいで五星が行かされるの?」
幽霊など、元々はただの人間だ。融合していたとしても、食われる程度の妖に大した力はない。つまり、五星にわざわざ頼むほど強いものではないはずだった。
疲れた声で問うと、目の前を歩く黒龍が苦笑した。
「それほど強力だということです。……もっともどんなに強くても、悪霊ごときなら竜士団に任せるべきなんですが」
「背後関係が複雑ってこともあるけどな」
後ろから聞こえた翠龍の言葉の意味が、よく分からなかった。しかし疲れていたので聞くこともせず、黙々と歩く。
「今何時だ?」
ため息と一緒に、翠龍が誰にともなく問いかける。雪火は腕時計を見ようとしたが、思い止まった。時間を見ても、目的地がわかるわけじゃない。
黒龍がひきつった笑みを浮かべて、翠龍を振り返る。彼は今日も、銀縁のメガネをかけていた。はまっているのはただのプラスチックなのに、不思議と目の色が目立たなくなっている。
「聞いても余計に疲れるだけだぞ」
つまりそれほどの時間を、現場を探すことだけに費やしている。そう考えるだけで、雪火は余計に疲れた。
「なんで見つからないのだ」
不満げにぼやく紅の顔は、歩き回ったせいか赤くなっていた。心なしか、息も上がっている。
問われても、誰も答えない。辺りを見回して、それらしき建物を探す。応えない三人に、紅は子供のように頬を膨らませた。
「なんでだ!」
「悪霊は人は引っ張り込むけど、竜は避ける。食われるから」
紅は応えた雪火の横へ行き、その手を取った。見ると、片手で腕を抱くようにして、首をかしげる。もっと詳しく説明しろと言うのだろう。
「……多分、向こうがこっちを避けさせてる。黒龍が先頭にいるのが悪い」
「早く言えよそういう事は」
うんざりとぼやいて、翠龍は額を撫で上げた。前髪が邪魔ならちゃんと整えてくればいいのにと、雪火は思う。
「今思い出した」
「お前の頭、色々繋がってねぇだろ」
「そうかも」
「肯定すんな」
雪火は少し笑った。紅は相変わらず、怪訝な顔をしている。ちゃんと理解できないのかもしれない。
ふいに黒龍が振り返って、後ろへ回る。話を聞いていたせいだろう。まだひきつった笑みを浮かべているのが気にかかるが、構っている暇はない。目的地に辿り着くのが先決だ。
雪火は振り返りもせず歩いていたが、紅は黒龍を目で追った。ややあって、翠龍のくぐもった悲鳴が聞こえる。何事かと思ったが、角を曲がった先に建っていたアパートに気をとられ、すぐに頭から抜けた。
「クロさんも妬くのだな」
紅の呟きが、遠く聞こえた。
そのアパートは見るからに古く、外壁も朽ちかけていた。長いこと人が住んでいないのだろう。外側に設えられた階段にも、赤錆が浮いている。この辺りは駅から遠く、交通の便が悪い。加えて駅二つほど離れた場所に新興住宅地が出来たせいで、人が出て行ってしまっているのだろう。
奇妙な感覚が、雪火の肩を冷やす。見覚えがあるような気がするのに、何も思い出せない。後頭部が痛くて、思わず顔をしかめた。思い出すことを、頭が拒否している。
こんな所には、来たことがないはずなのに。どうしてか、足が進むことを拒否している。これ以上あそこに、近付きたくない。
「せっかー」
能天気な紅の声が、雪火を現実に引き戻した。腕に触れる温かな感触が戻り、少し落ち着く。
「三つ編みしていいか?」
意味が分からなかった。何故今そんなことを聞くのか。
「……うん」
「やめとけ、髪ぐちゃぐちゃにされんぞ」
言いながら、翠龍が二人を追い越して行った。後頭部を撫でているのは、黒龍に叩かれでもしたせいだろうか。八つ当たりで叩かれても怒らないあたり、彼も案外優しい。
現場が人目につく場所だからか、今日は翠龍もスーツを着ていた。さすがに着流しでいたら怪しまれるから気を使ったのだろうが、雪火はそれより目を隠した方がいいような気がしている。
「ああ、あれだな。なんで気付かなかったんだ」
紅に腕を引っ張られて角を曲がり、T字路に出た。正面のアパートを見ないようにして、翠龍が指差した先に視線を移す。
朽ちかけたアパートの三軒ほど先に、ブロック塀に囲まれた家が見えた。庭には家屋を隠すように背の高い木々が生い茂り、二階部分の瓦屋根が覗くばかりだ。
遠くから見ているだけで、異様な気配を肌で感じる。確かに何かいるのだと確信付かせるような佇まいに、雪火はアパートのことも一瞬忘れた。
「いかにも出そうな家だな」
「そっちのアパートの方が出そうじゃねぇか?」
雪火は思わず拳を握り、俯いた。せっかく忘れかけていたのに。
早くここから離れたい。だが、一人で進むのも妙だ。もう、立ち止まって話す紅と翠龍の声すら聞こえない。
「主」
黙り込んでいた黒龍が、唐突に雪火を呼んだ。おそるおそる振り返ると、彼は眉をひそめて彼女の顔を覗きこんでいる。
とっさに身を引いてしまって、雪火は自分に驚く。彼には慣れたと思っていたのに。
でも多分、慣れの問題ではないのだろう。
「お加減が良くなさそうですが……」
「顔色はいつも悪い」
とっさに返すと、黒龍は苦笑した。
「そうではなく」
気取られるのは、嫌だった。弱いところを見せるのが嫌と言うほど、雪火はプライドが高いわけでもない。ただ、自分でも見たくない自分を見られるのが、嫌だった。
他人に深入りされたくないし、したくもない。一人で生きてきた雪火にとって、心の内を見せるのは怖いことだ。
「あなたの事なら、分かりますよ」
瞬間的に、頭に血が上った。めったにないせいで、ひどい耳鳴りがする。腹の底から冷たいものがこみ上げるが、それが何なのか、雪火には分からない。分かるのは、うなじに虫が這い上がってくるような、気味の悪い感覚。
お前に何がわかる。
「まだ具合が悪いのか?」
我に返って見下ろすと、紅が足下にかがんでいた。小首をかしげて覗きこんでくる彼女は、不安そうに眉尻を下げている。
大きな目と目を合わせられなくて、視線をそらして首を横に振った。頭に上っていた血は、いつしか引いている。狂ったように胸を打つ心臓の音が、一瞬の激情をしつこく体に残す。
「……大丈夫。ありがとう」
「そうか? 無理したらダメだぞ」
どうしてこうも、優しいのか。泣きたくなるのをこらえて、雪火は手を引かれるまま歩き出す。繋いだ手の温かな感触までも、優しかった。
「近所の奴らもよくほっといたな」
呟いて、翠龍は廃屋を見上げる。二階部分の窓ガラスは割れ、漆喰の壁もこそげ落ちている。門には真新しい南京錠が取り付けられているものの、雪火の胸の高さまでしかなく、簡単に乗り越えられてしまいそうだ。
紅と並んで覗いた敷地内から、冷えた空気が漂ってくる。手入れされた様子のない庭に、しぼんだボールが置き去りにされていた。
「やなところだな。ここに入るのか?」
「いかにもいますって感じだなァ」
これから仕事するというのに、彼らはのんきだ。しかし呆れている場合でもない。
雪火は肩越しに黒龍を振り返り、視線で促す。複雑な表情で廃屋を眺めていた彼は、スーツのポケットから小さな鍵を取り出して門の前に進み出た。事前に緋緒から受け取っていた、南京錠の鍵だ。紅や翠龍に渡すとなくすからと、彼が預かっていた。
黒龍は南京錠を外して、取っ手に絡んでいた鎖を外す。門が開くと、とたんに冷えた空気が流れ出した。それを厭うように顔をしかめ、黒龍は一足先に敷地内へ入る。翠龍が続き、雪火は紅と一緒に足を踏み入れた。
濃い土の香りと、全身にまつわりつく何者かの気配。住宅街の中とは到底思えないほど静かで、寒気さえする。玄関まで並んだ石畳を一歩ずつ確かめるように踏みしめ、彼らはゆっくりと家屋に近付いて行く。
あまり、入りたくない。考えながら、雪火は玄関扉についた南京錠を外す黒龍の背を眺める。彼は最近、どこへ行くにも雪火の前に立つようになっていた。
黒龍が玄関扉を開けると、紅が嫌そうな顔をした。先を行く二匹の後について室内に入ると、まずすえた臭いが鼻をつく。カビとホコリと生ゴミの混じった臭いに、雪火はむせる。紅はくしゃみしていた。
「カビ臭いな……」
ぼやきながら、黒龍は土足のまま部屋に上がった。紅はお邪魔しますと呟いている。
目の前は廊下で、突き当たりが台所のようだった。立ち入っていたという誰かが捨てたものか、タバコの吸い殻や酎ハイの空き缶が散乱している。果たしてここに来た若者達は、無事に帰れたのだろうか。
板張りの床は腐っているようで、踏み出すたびに嫌な音がする。窓から吹き込んできたのか、廊下は砂だらけだった。黒龍は全員いるのを確認して、廊下を歩きだす。
「あ」
左手側の部屋を見て、黒龍が呟く。紅が雪火の手を引いたまま、小走りで室内が見える位置まで進む。廊下とは本来襖でしきられているようだが、四面あるうちの半分が部屋の方へ倒れていた。
畳張りの室内には、サマーセーターを着た女性が佇んでいた。こちらに背を向けて立つ彼女のスカートから伸びる足は、異様に白い。ショートカットの後ろ姿に、雪火は奇妙な胸騒ぎを覚えた。
カンの鈍い雪火が胸騒ぎを覚えるほど、強いのか。それとも、また何か、別の。
「今日は私がやりますよ、主」
言いながら、黒龍は雪火を振り返って微笑んだ。その手には、いつの間にか棍が握られている。外したメガネを差し出されたので、黙って受け取った。
「預かっていてください」
「私はメガネ置きじゃない」
「あーあ」
ぼやいた翠龍の視線の先で、女の霊がこちらを見ている。顔の半分は血色が悪いだけで普通に見えたが、もう半分は皮膚が硬化したように茶色く変色し、ひび割れていた。こちら側を見る左目は虚ろなものの、生前と変わりないように思える。右目は、前髪の影に隠れて見えない。
女はこちらに気付きはしたようだが、ぼんやりと立ち尽くしたままだった。動く気配もない霊を、黒龍は棍を離さないまま見つめている。
「ありゃ木霊を食ったな。完全には同化してなさそうだが……」
翠龍がぼやいた時、黒龍が勢いよく振り返った。何事かと身を引くと同時、彼の足が雪火の足下を踏みつける。視線を落としてみれば、床板を突き破って生えた木の根が、独りでにうごめいていた。
木霊は古木に取り付いた魍魎が霊気を吸って成長したもので、小鬼と似たような妖だ。あちらより大人しいものの、主に霊を糧とし、浮かばれない魂を取って喰う。食われた者は、文字通り消滅する。
だから本来生きている者に危害を加えるような事はないが、霊と融合した今は別だ。霊というのは、概ね生者に敵意を持っている。命あるものが羨ましいのだと言うが、実際のところ何故なのかよく解っていない。
「俺じゃキツいかも知れないな」
呟いて、黒龍は踏みつけた根に棍を突き立てる。逃げようとするかにのたうっていた根は、床板ごと音を立てて割れた。
「家壊すなよ」
「どうせ壊すだろう」
のんきな会話だ。呆れながら黙りこんだままの紅を見ると、彼女はじっと女を見つめていた。その無表情からは、何を思うのか判じがたい。ただ違和感を覚えて、雪火は眉をひそめる。
「紅……」
「どこ?」
か細い、女の声だった。驚いて視線を移すと、女の手足がうごめいたように見え、目を見張る。
「どこ?」
「……何が」
翠龍の声は、いささか戸惑っていた。霊に向き直った黒龍の横顔は、いつになく険しい。
女を見つめたまま動かなかった紅が、リュックから笙を取り出した。両手で包むように持って、口元へ近付ける。雪火は迷ったが、一歩下がった。
「私がやる。かわいそうだ」
彼女には、何か分かったのだろうか。考える雪火の耳に、細い笙の音が届く。同時に、黒龍が動いた。
足を踏み出した彼は、大きく棍を振った。何事かと見てみれば、鞭のようにしなる何かが弾かれる。それをたどった先にあるのは、女の肩。
「どこなの?」
サマーセーターの袖から、絡み合った木の根が生えている。体ごとこちらを振り返った女は、顔の半分を根に覆われていた。木霊と融合するとああなるのかと、雪火はぼんやりと思う。
彼女はさっきから、何を捜しているのだろう。霊は正常な判断能力を失っていると聞くが、意味のない言葉は発しない。霊の言葉は、生前の記憶の中で一番強く残っているものが繰り返される。
優しい紅が、何かしてやりたくなる気持ちは分かる。しかし、どうやって。
「アイツやめた方がいいんじゃねぇかなァ」
ぼやく翠龍は、困ったように眉を寄せていた。雪火は何故かと聞こうとして、はっとする。
木剋土。当たり前だ。土行は木行に弱い。黒龍がそれを承知で飛び出して行ったのか、単純に弱いと踏んだのか、定かではない。しかし無謀だと、雪火は思う。
弾かれた方はそのままに、女は反対側の腕を振る。鞭のようにしなる根の腕は、黒龍に軽々避けられた。彼は横へ退くと同時に、大きく棍を振る。
女の頭部に迫った棍は、目前で腕に止められた。叩いた拍子にみし、と音がしたが、彼女のうつろな表情は変わらない。絡み付こうとする根を払いのけ、黒龍は更に女に近付く。
さすがに土で出来た棍で殴っても養分にされるだけだと気付いたか、彼は女の顔に手を伸ばす。しかし畳を突き破って飛び出した根に驚き、身を引いた。
「ほぼ全身やられてんじゃねぇか。よく喋れんな」
本来木霊は他人の言葉を復唱するだけで自ら口を利くことはないし、悲鳴すら上げない。霊本人の言葉を話したのは、食われてはいないという事だろう。しかし、霊体は侵食されている。
妖に食われたはいいが霊の方が力が強いせいで、ああして融合した状態となることはままある。だが時間が経てば霊力は薄れるから、妖の力が勝ってくる。どちらにせよ徐々に侵食され、最後には霊の方が消えてしまう。あれを霊と呼ぶか妖と呼ぶかは、判断に苦しむところだ。
「げ」
呟いた黒龍の腕には、根が絡み付いていた。翠龍が動かないところを見る限り、あれで危なくなることはないのかもしれない。しかし雪火の胸を、一抹の不安がよぎる。
土の気を吸うなら、彼の気を吸って肥大してしまうのではないだろうか。
「雪火、紅頼む」
黒龍が根を引きちぎるのを横目に、翠龍がようやく言った。それでも、まだ動かない。期をうかがっているようだった。
女の全身が、脈打つように不気味にうごめく。元は人間だとは思えない、奇妙な動きだった。笙の音色に紛れて、黒龍が舌打ちするのが聞こえる。
「あんまり殴りたくないんだがな……」
呟いて、黒龍は伸ばされた根を左手で掴む。それを思いきり引くと、女の体がついてきた。反対側の腕が手に絡んだが、彼は構わない。むしろそちらに引き付けたように見えた。
何をするかと思えば、短く持った棍で女の胴を殴り付けた。衝撃で体は揺れたが、その場から動かない。
見れば、彼女の足は畳に深く突き刺さっていた。足というよりやはり根で、こちらも蠕動している。
あれはむしろ、これ以上黒龍が触れたら悪化するだけのような気がする。雪火は苦い表情を浮かべて女から離れる黒龍から目をそらし、紅を見る。旋律はいまだ静かで、何の予兆もない。
「紅は……」
呟くと、正面にいた翠龍が肩越しに振り返った。まだだと言うようにゆるく首を振り、ふいに視線を落とす。つられて見た瞬間、床板を突き破って根が飛び出した。
驚いて身を引いたが、その先端は紅に向かっていた。彼女は気付いているのかいないのか、目を伏せて笙を奏で続ける。
白い手に根が触れる寸前、大きな手がそれを掴んだ。振り向くと、翠龍が厳しい表情を浮かべている。彼は黙ったまま掴んだ根を思いきり引っ張り、半ばからちぎった。床板から生えたままの根元は、苦悶するかにのたうつ。
「大人しくしてろ」
翠龍の言葉に反応したのか、根は床板の穴の中へ引っ込んだ。そういえば木行の長なのだと、雪火は今更ながらに思い出す。
「どこ?」
か細い声が、また呟く。あまりに悲痛なその響きに、雪火は眉をひそめた。
彼女は、何を捜しているのだろう。この家に根を張って、どこへも行けないまま。ただ、呼ぶだけで。
「黒龍、もうほっとけ。そろそろだ」
女の呟きのせいか攻撃するだけ無駄だと判断したか、翠龍はそう声をかけた。黒龍は立ち尽くすだけで微動もしない女と彼を交互に見て、渋々といった様子で戻ってくる。
彼は何をしようとしていたのだろうと、雪火はふと思う。単純に、倒そうとしていたようには見えなかった。やりづらかっただけかもしれないが。
彼女は、自分からは何もしてこない。どこなのかと問いかけるだけで、彼女自身はこちらを見もしない。それがどうにも、雪火を切なくさせる。
深く息を吐いて、雪火は下を向く。自分でも何故なのかわからない胸の痛みが、喉を詰まらせる。
「ねぇ」
思いの外近くから、声が聞こえた。驚いて顔を上げると、目の前に女の顔がある。思えば、初めてまともに彼女の顔を見たような気がした。
向かって右半分は木の根に覆われ、何も見えない。だが左半分は、優しい笑みを浮かべていた。その顔を見て、雪火はようやくここがどこなのか思い出す。
「どこなの?」
子供に話しかけるような、柔らかい声音。思わず息を詰まらせた時、女が一気に遠ざかる。
「油断も隙もねぇな」
女の首根っこを掴んで、黒龍が呟いた。彼が引き離したのだろう。女は木の根と化した両腕をぶら下げたまま、雪火を見つめて微笑んでいる。そんな彼女を、翠龍が怪訝な面持ちで眺めていた。
きっと、彼女自身に敵意はない。悪霊とは言うが、彼らが生きている人間を襲うのは、妖と融合して変質したせいだとも言われている。幽霊になってしまうと自我は残らず、会話も成立せず、何も感じない。
だから、助けないといけない。雪火は今初めて、そう思った。
「……消さないで」
呟いた声は、笙の音にかき消された。この曲調を、雪火は知っている。猿鬼の群れを倒した時と、同じものだ。
黒龍が手を離すと、女の体が震え始める。木霊に侵食されている以外は生きているのと何らか変わりないその姿が、雪火には痛々しく思えた。
「消さないで!」
胸の奥から出た言葉に突き動かされるように、雪火は身を乗り出す。人が奏でているとは思えない笙の音色に、ひどく焦った。興奮のせいか視野が狭まり、苦しげに歪む女の顔しか見えない。
彼女は誰なのか。何を捜しているのか。そんなことは知らないし、考えられない。ただ、助けたかった。
「落ち着け、違う!」
焦ったような怒鳴り声が聞こえ、雪火の体は動かなくなった。彼女は大きく首を振り、更に進もうとする。けれど、そこから一歩も動けなかった。
歯がゆさに唇を噛み、顔をしかめる。いまだかつてこんな激情に突き動かされたことが、あっただろうか。あるはずもない。雪火は、無感動な女だった。
彼らと、出会うまで。
「ありがとう」
柔らかな、女性の声だった。狭まっていた視野が急に広がり、世界が戻ってくる。
それは多分、この場の誰に向けられた言葉でもなかった。しかし、確かに雪火に対してかけられた言葉だった。
彼女を、この言葉を。彼女が捜しているものを、この場所でさえも。
雪火は、知っている。
「……あ」
やっと口から出たのは、なんの意味もなさない声だった。開けた視界で、女の体が窓から射し込む光に包まれる。淡くも、強い光だった。
「笙は竜にも人にも危害は加えない。天に代わって、悪しきものにだけ罰を与える」
すぐ後ろに、翠龍の少しかすれた声が聞こえた。羽交いじめされていたのだと、雪火はようやく気付く。
女の全身を包んだ真っ白な光は、一際強く光った後、何事もなかったかのように消えた。後には、生前となんら変わりない姿の女性が残される。笙が消したのは、木霊の方だけだったようだ。
全身の力が一気に抜け、雪火はぐらりと揺れる。しかしまだ後ろから支えられていたために、倒れることはなかった。
天の笛は、まだ鳴くことを止めない。その音はいつしか母の手のような、やさしい響きへと変わっていた。笙が奏でる慈雨を浴び、女性はぼんやりと立ち尽くしている。
どのくらい経っただろう。女の体が、足から徐々に透けて行く。ぼんやりしていた彼女は首が透けたところで、ふいに雪火を見た。
目と目が合うと、彼女は微笑んだ。忘れていた懐かしさが込み上げ、雪火はわずかに眉を歪める。
「星は優しいのね」
その言葉の意味を考える間もなく、女は消えた。同時に、笙の音も止む。
しばらく呆けて、雪火はようやく顔を上げた。見上げた翠龍の顔は、驚愕を示している。そこでやっと現実に引き戻され、雪火は怪訝に首をひねる。
黒龍を見ると、彼も唖然としていた。さすがにおかしい。
「……何で、知ってんだ」
呟いた翠龍の声に、雪火はようやく気付いた。星とは、五星のことだ。一般人なら知るはずもない。
嫌な胸騒ぎがした。思わず下を向くと、そこには紅の顔がある。驚いて身を引こうとしたが、翠龍が背後にいたせいで、叶わなかった。
「だいじょうぶか?」
舌足らずな口調が、何故だか懐かしかった。眉尻を下げると、紅は雪火の頭に手を伸ばして、そっと撫でる。子供のような、熱い手だ。
「帰ろう。遅くなってしまった」
「……うん」
彼女が誰だったのか、雪火は薄々気付いていた。ここがどこなのかも、彼女が誰を捜していたのかも。
でも、認めたくなかった。それは雪火にとって何よりも大事で、何よりも忌まわしい過去だった。彼女を助けたいと思ったのは、だから。
だから。
「翠ー私も抱っこー」
能天気な紅の声に、我に返る。翠龍は顔をしかめて玄関へ逃げ、彼女は小走りでそれを追った。しつこくわめいている。
「主」
顔を上げると、黒龍は微笑んでいた。もう、見慣れた表情だ。
「行きましょう」
彼は何も聞かない。何を聞いて欲しいわけでもない。それが今は、心地よかった。
でもやっぱり、差し出された手は無視した。