第三章 明日死んでも 三
三
邪竜の大群を見た翌日、雪火は疲れていた。あの呪曲を実戦で吹いたのが初めてだったせいか、いつもの数倍の倦怠感が全身にまつわりついている。それでも、仕事だ。迎えに来た黒龍のうさんくさい笑顔がうっとうしい。
重い体を引きずって出勤すると、緋緒がいなかった。さすがに疲れたのかと思ったが、彼女がその程度で休むとも、遅刻するとも思えない。
留守番のためか、夕龍はソファーで暇そうにしていた。いつもなら向かいのアームソファーに碧龍がいるはずなのに、今日は彼の姿も見えない。夕龍は雪火がリビングに入るとあいさつしてきたが、どうも浮かない様子だ。
出迎えてくれた芙蓉は、さっさとキッチンに入ってしまった。茶を煎れるのは、大抵彼女の役目だ。声をかけるのも憚られて、雪火はダイニングに着いて彼女がキッチンから出て来るのを待つ。
「芙蓉、筆頭と碧龍様は……」
湯飲みを置いたところで声をかけると、彼女は首をかしげた。まさか知らないのだろうか。
「会議です。本部から招集があったので」
夕龍が代わりに答えると、芙蓉はああと呟いた。忘れていたのかもしれない。彼女も相変わらずだ。
「定期的に会議するんだけど、最近呼ばれなかったんだよね」
定期的なのに呼ばれないとはどういうことかと、雪火は顔をしかめた。夕龍が苦笑いする。
「筆頭がわざわざ行くような用事もありませんでしたから」
「本部は緋緒様も筆頭も苦手なだけじゃないのか?」
雪火の隣でタバコを吹かす黒龍は、からかうように言った。夕龍は渋い顔をしたが、否定しない。そんな私情を持ち出すのかと、雪火は呆れた。
人間的に苦手というより、一般的な意味で、上司が苦手ということなのかもしれない。言動から察するに、行かなくてもいいから行っていないだけだろう。今回は招集があったから参加する、というだけで。
つまり、それほどの何かが起きている。雪火は薄ら寒いものを感じたが、同僚達はなんでもないようなそぶりで、それぞれぼんやりしている。考えるのも面倒になって、あんまりにも会議に出ないせいで呼ばれた、と思うことにした。
「おはよう!」
ドアが勢いよく開き、紅が顔を出した。大きな目はまぶしいほどに輝き、表情はろくにないが元気そうだ。
跳ねるようにダイニングへ近づく紅の後ろには、いつもにまして疲れきった翠龍がいる。おはようと言っても、彼は片手を軽く挙げるだけで口を開かなかった。
また紅が朝から騒いでいたのだろう。彼らがいつも最後になるのは、紅がうるさいからだそうだ。翠龍も優しいから、無視できないらしい。
「おはよー。朝一仕事入ってるよー」
まっすぐ黒龍に近付いてどけとばかりに腕を引いていた紅は、目を見張って固まった。雪火は彼女を哀れに思う。
彼女は場数を踏んで経験を詰めと緋緒から言われているらしく、いつも忙しそうにしている。竜士だった経験もないなら、仕方ないのだろう。聞けば、学校は通信制だったらしい。
いくら五星といえど、未成年者を討伐に連れて行くことは許されない。竜士養成学校にいた雪火と違って、実務訓練もできなかったはずだ。
「いやだ!」
「うん、十一時に現場ね。ご飯食べてきた?」
芙蓉は全く聞いていないらしかった。雪火を向いて、にこやかに問いかけてくる。この人はある意味、緋緒よりタチが悪い。
はいと返すと、芙蓉は整えられた眉を残念そうに下げて、そっかと呟いた。何故残念そうにするのか、雪火にはよく分からない。
「何か作りましょうか?」
やおら立ち上がった黒龍を見て、芙蓉は青ざめた。彼女は知っているらしい。
「やめて! お砂糖もったいないからやめて!」
「また緋緒にキレられんぞ」
夕龍を避けたのか床にあぐらをかいて、翠龍は煙草盆を引き寄せる。彼は常々、夕龍が近くにいると暑いとぼやいている。着流し一枚なのに、床に直接座って冷えないのだろうか。
「たまにはいいでしょう。美味しいですよ、ホットケーキ」
「お前、いい加減にしないと糖尿病になるぞ」
「龍も糖尿になるの?」
単純に不思議だったので問いかけると、翠龍が茶を噴き出した。言った夕龍は苦笑いし、紅は不思議そうに首をかしげている。
それぞれの反応に困惑していると、キッチンから芙蓉の笑い声が聞こえた。
「龍は病気はしないんだよー。風邪はひくけど」
「……そうなの?」
「可能性はありま……いたたた!」
夕龍は雪火を見ようと視線を移したところで、黒龍に頭を押さえつけられて叫んだ。黒龍はひきつった笑みを浮かべて、彼の髪をかき回す。
「俺の主に変な事を教えるな」
ただでさえ寝癖がついたような髪を更に乱され、夕龍は渋い表情で頭を振る。彼も、よく怒らないものだ。緋緒が理不尽すぎて慣れてしまったのだろうか。
「別に変なことでは……」
「そういえば、雪火は龍のことよく知らないんだね」
芙蓉がプリンを持ってダイニングに戻ってきて、雪火の正面に腰を下ろした。うなずくと、紅がまた首をかしげる。雪火には、彼女がよく分からない。
学校で習いはしたが、関係がないからと、あまり突っ込んだことは教わっていない。人間と比べて賢く誠実なため、多くは政府に官僚として雇われているとは聞いている。黒龍や碧龍を見ていると、誠実かどうかは疑わしいが。
「龍は竜に似てるけど、本質は人間に近いんだって。在野の龍なんかも人間と同じように暮らしてて、同じように結婚するの」
「……同じように?」
「寿命はねぇが、龍は死にやすいからな」
変な言い方だと、雪火は思う。首をひねると、夕龍が笑った。
「龍も獣の竜と同じく、尽くしていた主人が亡くなると死ぬことがあります」
「五龍はすぐ次の主につきますから、心配いりませんよ」
別に心配していなかったので、黒龍には応えなかった。
竜は情に厚い生き物で、寿命が残っていても主人が死んだ悲しみで病み、死に至る。死を予期した時点で病み始め、主人が死ぬと同時に逝ったものもいるという。竜士団の宿舎脇にも、そんな竜たちのための墓地がある。遺体は全て精肉業者に売られてしまうが。
「龍って獣の竜とは結婚できるけど、人間はダメなんだって。差別だよねー」
「人間側の問題だろ。竜の雌は俺らの好みじゃねぇんだよな」
「私は?」
翠龍は紅を無視した。
幸せそうにプリンを食べていた芙蓉が、きょとんと目を円くした。彼女は何故かいつも朝食をとってこない。しかも忙しいから、車の中で食べている。よく酔わないものだ。
「好みじゃないの?」
「好み云々というより、竜しか産まれな痛っ」
芙蓉の問いに答えようとした夕龍は、黒龍の肘を腹に食らって黙り込んだ。腹を抱えて背中を丸める彼は、涙ぐんでいる。痛かったのだろう。
翠龍はそんな二人を呆れたように見て、ため息をついた。
「……まァ、龍は増えづらいってこった」
「女の子少ないんだよね」
日常会話のような芙蓉の言葉に、雪火は驚く。それでよく絶滅しないものだ。
「めったに産まれねぇな。在野にいると取り合いになるから、今は皆政府にいるか」
政府にいて、どうなるのだろう。出来る限り優秀な遺伝子を残すということだろうか。それもなんとなく、哀れな気がした。
龍は人より強いが、種としては弱いのだと、いつだったか聞いたことがある。その意味が、ようやく分かった。妖のように自然発生する方が、幾分マシだったろうに。
「アオさんが、龍の女の子は苦手だって言ってたなぁ」
「真面目だからな、アイツらは」
「筆頭はちゃらんぽらんですからね」
黒龍の言葉に、雪火は年齢を感じた。久しく聞かない単語だ。
「モテねぇしなアイツ」
「え、そうなの?」
プリンの容器をゴミ箱に捨てて、芙蓉は身を乗り出す。翠龍は薄い唇を歪めてニヤニヤしていたが、黒龍は何故か渋い顔をした。
「アイツは角が半分しかねぇだろ?」
「ツノ?」
「オウ。角が立派な方がモテる」
ほう、と紅が呟いた。嫌な予感がして、雪火は握った両手で頬杖をついた彼女を見下ろす。
「つまり人間でいうとち」
雪火はその先を予想して、紅の口をふさいだ。翠龍がスマンと呟く。彼らはどっちが主人だか分からない。
手を離すと、紅は不思議そうに首をかしげた。放っておくと何を言い出すか分からないから、油断も隙もない。
「龍にとって、角は権威の象徴です。角が美しく長いほど、いい龍とされています」
眉尻を下げて苦笑いを浮かべ、夕龍はそう補足した。隣の黒龍は、むっつりと黙り込んでいる。彼は自信がないのだろうか。
どうしてこんな話になったのかと、雪火はぼんやりと考える。龍のことは聞くべきだろうと思っていたが、こんなことはどうでもいい。聞いたところで得もなさそうだ。
「初代碧龍が双天へ角を捧げたのは、宝物とする以外に忠誠を誓うためもありました」
「忠誠?」
芙蓉の問いかけにうなずいて、夕龍は続ける。
「妻を持たず、永遠に天と主のためだけに尽くすと」
「つまりきょせ」
雪火はまた、紅の口をふさいだ。翠龍が頭痛をこらえるように額を抑える。芙蓉はきょとんとしていた。
そういえば、と、雪火は思う。碧龍と龍型を見たことのない黒龍以外は、確かに立派な角を持っていた。あれは昔でいう冠のようなものなのだろう。
「……そういえば、なんの話でしたか?」
黒龍の声に、芙蓉があっと呟く。雪火には、彼がわざと話をそらしたように思えた。
しかし翠龍は、許してくれなかった。ニヤけた笑みを浮かべて、ソファーに座る黒龍を見上げる。彼はどうも翠龍が苦手らしく、碧龍を相手にするように突っかかったりしない。相剋から見て弱いせいだろうか。
「お前は可哀想になァ」
黒龍は濃い眉をゆがめて顔をしかめはしたが、言い返せずに目をそらした。言われっぱなしの黒龍とは、なかなか珍しい。
「……俺はどうでもいいんだ」
「強がるねぇ」
「なにが?」
芙蓉に問われ、翠龍はニヤけたまま黒龍を指差す。視線がそれている隙に、彼はそろりとソファーの上を移動する。
「こいつ……」
ぐえ、と喉が潰れたような声をもらし、翠龍が前のめりになった。彼の頭を、ソファーから伸びた黒龍の長い足が押している。汚い。
「お前はよくもぬけぬけと人のコンプレックスを……」
「そうだぞ翠、ひとが嫌がることはしたらいけない」
翠龍に味方しない紅も意外だったが、雪火はむしろ、黒龍に驚いた。自信過剰な彼に、そんなものがあったとは。
蹴られた頭をさすりながら、翠龍はちぇ、とぼやく。一応紅に怒られるとやめるらしい。
「あ、どうしよ紅、時間」
時計を見上げた紅は、ああと声を上げた。もう、十時半を回っている。彼女が慌ててイスから降りたのはわかるが、芙蓉まで焦っているのが不思議だった。
妖は、それぞれ活動時間が違う。人が決まった時間に食事をするのと一緒で、彼らも毎日大体同じような時間に動き出す。動き始める時間を狙って行くだけだから、遅刻しても特に問題ない。誰かと待ち合わせしているわけでもないのだ。
「翠、行こう!」
「めんどくせぇなァ毎日毎日……」
億劫そうに立ち上がって、翠龍はキセルを手にしたままぼやいた。紅は子供のように小さな手を振って、行ってきますと言う。しかし翠龍に背を押され、返答を待たずに出て行った。
跳ねる白い三つ編みと猫背が消えてから、芙蓉はテーブルの上で腕を組んで身を乗り出した。寄せられた胸が強調され、ブラウスの胸元から深い谷間が覗く。雪火はうんざりした。
「ねえ、体調悪いんでしょ」
驚いて目を円くすると、芙蓉は微笑んだ。紅を引いたように赤い唇に、目眩すら覚える。いや、本当に目眩だった。
「無茶するから。吹き慣れてなかったんじゃないの? あの曲」
「……どうして」
ふふ、と笑って、芙蓉は首を左右に振った。
「いつもより、たどたどしかったから。篳篥が好きだって言ったでしょ」
竜が嫌がる、うるさすぎる、力が強すぎる。そう言われて、篳篥は嫌煙されていた。だから雪火は、篳篥を選んだ。自分に少し、似ていたから。
思わず視線を落とすと、芙蓉はやさしく微笑んだ。彼女はたぶん本当に笛を吹きたくて、でも、吹けなかったのだろう。霊力が足りなかったから。
「無理しないで、休んでいいんだよ。緋緒には言っておくから」
篳篥がどれほどの霊力を食うか、彼女は知っているのだ。なら大丈夫だと言っても無駄だろう。
「……ごめん」
「何で謝るのー? 君が疲れたのは昨日頑張ったからじゃない」
頑張った。頑張ったのだろうか。
芙蓉の言葉がどうにも不思議で、雪火は細い眉をゆがめる。今まで、なにかを頑張ったことがあっただろうか。それも、他人のために。
「主」
見上げると、黒龍が微笑んでいた。その目は、優しい。
「送ります。お疲れならそうと言ってくださればいいのに……」
「クロさんは働きなくないだけでしょ」
顔を思いきりしかめて渋い表情になった黒龍が、おかしかった。自然に笑みをもらし、立ち上がる。
「ありがとう。……忙しくなったら教えて」
「どうせ今はヒマだから大丈夫だよー。ちゃんと休んでね、お疲れさま」
「ゆっくり休んでくださいね」
喉が詰まって、芙蓉にも夕龍にも答えられなかった。こみ上げるものがこぼれないようにそっとうなずくだけで返し、雪火はリビングを出る。黒龍も、ついてきた。
ここでなら、やって行けそうな気がする。うまくなくとも、普通の人間らしく。一月以上も過ごしてやっと、雪火はそう思えた。
がらんとした室内で、芙蓉が鼻歌を歌っている。彼女がよく口ずさむ、もう耳慣れたフレーズだ。家にテレビのない夕龍には、それがなんという曲なのか分からない。ただなんとなく、旋律から考えて童謡ではないかと思っている。
彼の主人は、芙蓉のこのどこか懐かしい鼻歌をやけに好む。始まると黙って聞いて、終わるとごまかすように何かしら始める。素直でない人なのだ。
「彼女、怖いんだろうね」
一瞬どういう意味なのか分からず、夕龍は眉を寄せた。そこで、ここで話すのは失礼だと気付き、立ち上がってダイニングに着く。雪火が飲んでいた茶が、すっかり冷めて残っていた。
「私も怖いだろうと思うもの。知らない力が、体にしまいこまれてるなんて」
その事かと、夕龍は納得した。
紅のように体の一部の色が生まれつき変わっている者は、鬼子と呼ばれて差別される。一方でその変化を兆しといい、単独で鬼を殺す力を持つと言われている。だから鬼子と言うのだが、今では差別用語として使われるようになってしまった。
彼らは、人間が本来持ち得ない力を持っているという。それは体から放出されている霊力と違い、普段は体内に溜まっている。それなりに修行すれば使えるようになるというが、紅はまだ、笙を通して無理矢理引っ張り出すことでしか使えない。単純に、経験が足りないのだ。
「紅は白、緋緒は赤……」
「雪火様は本来、あの程度でお疲れになるような方ではありませんね」
芙蓉はまた、身を乗り出した。わざとやっているのではないかと疑いたくなるほど胸を強調する彼女から目をそらし、夕龍は眉をひそめる。
「やっぱり珍しい?」
「ええ。……本当なら、緋緒様にも匹敵するでしょう」
緋緒は元々霊力が高かった上に、兆しがあった。双天一とうたわれ、体内に巡る気も今や自在に使いこなせる。
化け物と、心ない言葉を吐く人もいる。それをものともしない心の強さがあったからこそ、緋緒は強い。だがそれが、夕龍が心配している部分でもある。
「私にはなかったからなー。怖いんだろうなと思うだけで」
「主も、昔は嫌がっておられました」
もう、何年前のことだったか。自分の力が怖いと、緋緒は夕龍にもらしたことがある。まだ五星となる覚悟すら決められない、不安定な時期だった。
「私にはそんなこと、言ったことなかったなぁ」
思わずどきりとして外していた視線を戻すと、芙蓉は淡い笑みを浮かべていた。どこか悲しげなその表情に、夕龍はうつむく。
それきり、会話が止まった。何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。芙蓉に同情したせいではない。緋緒に泣き言を言ってもらえるのが自分だけという事実が、嬉しいと思ってしまったからだ。
「あ、その、筆頭とは……」
なんとか話をそらそうと言ってしまってから、深く後悔した。夕龍はそういう話が苦手だ。
芙蓉は怒るでも動じるでもなく、楽しそうに笑った。快活な彼女を見るたびに、昔とは違うのだと思う。
芙蓉のことも紅のことも、幼い頃から知っている。つい昨日まで子供だと思っていた彼女たちが今恋をしているのだと思うと、どうにも不思議な気分になる。
そして、緋緒のことも。
「悩んでたのがバカみたいに思えちゃうよね。今は」
悩んでいたことにすら、夕龍は気付かなかった。彼は気を遣う割に、女心が分からない。
「でもやっぱり、ちょっと怖いよ。私から見たら、違法だから」
「そう……ですね」
「だから今でも、普通の女の子だったらよかったのにって、思っちゃうの」
寂しそうに微笑んで、芙蓉は身を起こす。コーヒーを口に含んで、つめたいとぼやいた。
碧龍は全ては話さなかったのだろうと、夕龍はぼんやりと思う。自分ならどうするかと考えた時、やっぱり全部は話さないだろうと思った。でも多分、彼はいずれ全て話さなければならなくなる。過去の五龍が犯した罪も、全て。
「ユウちゃんは緋緒のこと好き?」
心臓が口から出るかと思った。声を上げそうになるもなんとかこらえ、夕龍は恐る恐る芙蓉を見る。
彼女は優しく微笑んでいた。からかう意図はないのだろうが、返答に窮する。否定は出来ないし、肯定するのもためらう。
「私は緋緒のこと好きだよ」
そっちの意味かと、夕龍は内心安堵した。そこでやっと、うなずいて見せる。芙蓉は嬉しそうに笑った。
「私昔ね、なんでタバコ吸うのって聞いたの」
「どうしてまた?」
「緋緒苦いのあんまり好きじゃないから。そしたら、タバコを吸う女が好きな男はいないだろうって」
そこで芙蓉は、視線を落とす。夕龍も眉間にシワを寄せ、再びうつむいた。
「その時は意味わかんなかったけど、今は分かる気がするの」
緋緒は、他人に好かれないように生きている。いつだったか、先代、緋緒の父親がそう言っていた。彼の苦悩が、今は分かる。
明日死んでもいいように。彼女は、いつでも部屋を整頓している。一見生活感のないあの部屋に入るたび、夕龍はなんともいえない複雑な感情に襲われる。そして、間違っていても思うのだ。
死なせるまいと。
「私も最近お婆ちゃんに跡取り跡取りって言われて、なんか嫌になってきちゃった」
「昨日……ご実家に行かれたのでは」
「お母さんしかいなかった。話したけど、そっかって言ってた」
そっけない返答だ。だがあの人なら、言いそうでもある。良くも悪くも達観していて、そのくせ能天気な、よく分からない人だった。碧龍を何故かあんちゃんと呼んでいた。
せっつかれるのは分かる。人間の寿命は夕龍から見れば哀れなほど短く、龍士ともなれば尚更だ。
特に女性は、歳をとればとるほど体力的に仕事が厳しくなる。今跡継ぎを産んだとしても、五星から解放されるのは十五年後。芙蓉や緋緒なら、四十近くなる。
できるだけ早く、体力的に厳しくなる前に、次の代へ。代々の五星達はそうして、役目を務めてきた。
「ユウちゃん、緋緒のこと好きでしょ」
何も考えずにうなずいて、夕龍ははっとした。芙蓉はニヤニヤしている。
はめられた。
「まっ、ちが……」
「緋緒はねー」
頬杖をついて、芙蓉は視線を落とす。相変わらず人の話を聞かない。
「お母さん早くに亡くなって、おじさんもああでしょ? 紅もいたし、誰にも甘えられなかったんだよね」
彼女の話について行けるのは、母親か碧龍ぐらいのものだろう。順序だてて理路整然と話す緋緒と姉妹同然に育ったとは、到底思えない。
「だからワガママ言えるの、ユウちゃんだけだったんだよね」
そういうことかと、納得した。
緋緒は甘えているのだろうとは、ずっと思っていた。父親は厳しかったし、母親はおらず、芙蓉も昔は頼りなかった。今から考えると別人のように。
彼女は泣くのも癇癪を起こすのも、夕龍の前だった。誰にも弱音は吐かなかったし、そんな素振りも見せなかった。親兄弟のように思われているなら、それはそれでいい。
ただ。
「私が言うのヘンだけど……私じゃムリみたいだから。支えてあげて。あの子のこと」
はいと言う以外、何が出来ただろう。言われなくても、そうするつもりだった。ずっと。出来るなら、ずっと。
次の主人が、現れるまでは。