第三章 明日死んでも 一
一
その日は、静かだった。秋もだいぶ深まってきた頃で、少し肌寒い。仕事もあまりないらしく、朝一番の仕事を終えて早々に帰宅した五星達は、退屈そうに時間を潰していた。
深山雪火は部屋の中でもスーツの上着を着たまま、背中を丸めて茶をすすっていた。伏せたまつ毛が湯気で濡れ、つり目を黒々と縁取る。こちらも湯気のせいか、青白いはずの顔がほのかな桜色に染まっていた。
することがないと、茶ばかり飲んでしまう。いっそ、外で動いていた方が暖かいだろうに。雪火はどうせ動かないが。
「主、そんなに寒いのですか?」
隣から、涼しげな声が問いかけてくる。それでよけいに寒くなり、雪火は渋い顔をした。
暇そうにタバコを吹かしていた黒龍は、今は呆れた目で雪火を見ていた。彫りの深い顔立ちを、褐色の肌が更に濃く見せる。土だから黒いのだろうかと、雪火は常々思っている。
「さむい」
「何か持ってきましょうか?」
「お茶はある」
「クロさんがひとの心配をするとは」
どことなくつたない声に振り向くと、トランプで遊んでいたはずの古梅紅が綿毛布を持って立っていた。いつ持ってきたのだろう。
人形のように愛らしい顔立ちの少女は、目を丸くする雪火の肩に毛布をかけ、満足そうにうなずいた。三つ編みにされた白い髪が、体の前に落ちる。
「……ありがと」
ふふふと満足そうに笑って、紅はトランプに興じる輪の中へ戻った。伏せていた手札を拾い上げてから、翠龍の肩に頭を乗せる。
適当に撫で付けただけなせいで落ちかかってくる前髪を邪魔そうにかき上げ、彼は細い目を更に細くして主人を見下ろす。迷惑そうな表情だった。元々人相が悪いので輪をかけて怖い顔だが、紅は気にする様子もない。
「邪魔だ」
キセルを口元へ持って行きつつ、翠龍は鬱陶しそうに呟く。紅は彼を見上げて、首をかしげた。
「照れているのか?」
「なんでそうなるんだよ」
痩せぎすで無愛想で、顔も怖い彼の何がいいのか、雪火には分からない。紅が袖を引いたせいで片肌脱ぎの着流しがずれ、翠龍はキセルをくわえたまま襟を引っ張り上げる。彼が扇状にして差し出したままのカードの中から一枚を、長い指がつまんで行く。
「あ」
呟いたのは、夕龍だった。彼が場にカードを二枚捨てたのを見て、翠龍が舌打ちする。
「んだよ、またてめえか」
「す、すまん……」
大きな体を小さくして、夕龍は小声で謝った。なりは精悍な青年だが、彼は気が弱い。
傷んで赤茶けた頭を掻きながら、夕龍は一枚だけ残ったカードを見つめる。濃い眉は思案するようにひそめられ、垂れ気味の目尻も、更に下がっていた。
しばらく悩んだ後、彼は手のひらの上にカードを裏返し、おそるおそる主人に差し出した。白い指がそれを取り上げた後、鋭い舌打ちの音が聞こえる。夕龍が縮み上がった。
「申し訳ございません!」
「うるさい」
苛立ったように吐き捨て、一条緋緒は手札をいったん混ぜた。切れ長の目は不機嫌そうに細められ、タバコをくわえた唇も歪んでいる。顔立ちが過ぎるほど整っているだけに、鬼のような形相はよけいに怖かった。
ため息と一緒に煙を吐いた彼女は、カードを扇状に並べて紅につき出した。紅は真剣な表情で、カードを吟味する。
やがて、紅は一枚のカードをつまんで、勢いよく引き抜く。緋緒がにやりと笑った。
「あああ!」
「お前は単純でいいな」
勝ち誇ったように言いながら、緋緒は床にあぐらをかいたまま後ろに手をつく。豊かな胸が強調され、雪火はワイシャツのボタンが飛ぶのではないかといらぬ心配をする。
みんな、のんきだ。雪火が入ったばかりの頃はそれなりに忙しかったが、この時期はあまり仕事がないらしい。地上の神々が半数ずつ出雲に帰って会議をするから、残った神が代わりに頑張るからだそうだ。普段からもっと頑張ってほしい。
「主は混ざらないのですか?」
顔を覗きこむように首を傾け、黒龍が問いかけてくる。頭頂部に近い位置で結われた長い黒髪が、カップにかかっていた。
「いい」
言いながら、カップを指差す。黒龍は指された先を見て、髪を背中へ払った。伸ばしている割に、扱いがぞんざいだ。
雪火は毛布をかき合わせて、膝まですっぽりと収まる。だいぶ温かくなってきた。かぶった毛布から顔だけ出した彼女を、黒龍が笑う。
「雪火、暖房入れてやろうか?」
二枚のカードを投げながら、翠龍が問いかけてくる。終わったのかと様子をうかがってみれば、緋緒が頭を抱えていた。彼女はさっきから三連敗している。
「大丈夫です。……すみません」
「雪火は寒がりなのだな」
紅が今更言った時、リビングのドアが開いた。振り返ると、碧龍がいる。
「戻ったぞ」
気崩したスーツがやけに様になる、切れ長の目も涼やかな美丈夫だ。幅広で薄い唇に笑みを浮かべ、彼は片手を軽く挙げて見せる。軽そうな外見だが、齢は五百をゆうに超えるそうだ。生きすぎて逆に頭が軽くなったのだと、黒龍が陰口を叩いていた。
「おかえりー」
雪火は同じくおかえりと言ったが、紅の声にかき消された。彼女は声が高い上に大きい。しかし碧龍には聞こえたようで、雪火を見て笑った。いや、笑ったのは格好のせいかもしれない。
億劫そうに顔を上げ、翠龍が怪訝に眉をひそめた。
「芙蓉はどうした?」
「実家寄ってる」
何故かと思ったが、聞けなかった。碧龍の背中に張り付くものを見てしまったせいだ。黒龍も同じく、いつものようにアームソファーへ座ろうとする彼を見つめている。あり得ないものを見るような目をしていた。
碧龍の背中に張り付いた生き物が、彼の背と背もたれに潰されそうになって、慌てて頭へ移動する。髪の結び目へ小さな両手をかけ、その生き物はソファの背もたれに足を乗せた。そして、安堵したように肩の力を抜く。
なんだか可愛く思えて、雪火は真顔のまま頬を染めた。隣の黒龍は、顔をしかめたまま生き物を指差す。
「……筆頭、それはなんだ?」
タバコをくわえながらああと呟いて、碧龍は振り返る。毛むくじゃらの生き物、狸はびくりと震えて逃げようとしたが、あっけなく首根っこを掴まれた。
それを正面に持って行って、碧龍はクセのある前髪をかき上げる。ぶら下げられた狸は、膝を抱えて小さくなっていた。龍が大勢いるから、怖いのだろう。
「スマンな、忘れてた。なんか重いと思ってたが」
「忘れんなよそんなモン……」
呆れたように呟いた翠龍の横で、紅が目を輝かせていた。なにしろめったに見られない妖だ。彼女でなくとも、女子供ならああなるだろう。紅は一度会っていたはずなのだが。
「どうしたんだ、それは」
頬杖をついたまま黒龍が聞くと、碧龍はくわえタバコに火をつけてから、玄関の方を指差した。
「そこにいたから拾ってきた」
「捨ててこい」
苛立たしげに吐き捨て、緋緒は玄関を指差した。ちょうど碧龍の正面で背を向けている彼女には、おそらく狸の姿は見えていないのだろう。
八つ当たりとしか思えない言葉に、紅が過剰な反応を示した。同時に、狸も目をまん丸くして顔を上げる。
「なんとむごい!」
「そんな!」
甲高い声がかぶって、翠龍がうるさそうに耳に指を突っ込んだ。紅は狸と顔を見合わせて、首をかしげる。
その声に眉を寄せ、緋緒は膝に頬杖をついたままようやく碧龍を振り返った。狸の姿をみとめると、目を丸くして身を乗り出す。妖は彼女と目が合って、膝を曲げたまま尻尾を両手で掴んだ。照れるとああするようだ。
「なんだ……お前か」
言いながら、緋緒は狸に手を伸ばす。碧龍から妖を受け取って、あぐらをかいた膝の上に乗せた。狸はますます肩をすくめて、もじもじと尻尾を揉む。
いちいち可愛い。ちらりと紅を見ると、彼女もうっとりと狸を見つめている。一方黙ったままの夕龍は、複雑な表情を浮かべていた。何事だろう。
「よく来たな」
「お……お邪魔いたしております」
緋緒に撫でられながら、狸は消え入りそうな声で今更言った。うなずいた彼女は、優しい目で笑みを浮かべている。鉄の女だが、ああいう生き物は好きなようだ。
それよりも、雪火は様子のおかしい夕龍が気になっていた。何を考えているものか、あからさまに渋い顔をしている。彼なら、狸のことも歓待するような気がしていたのだが。
「今日はどうした?」
はっと顔を上げ、狸は緋緒の膝から降りた。夕龍の表情が、ようやく緩む。
彼は、まさか。
「た、大変なのです!」
「何がだ」
「山に、山に邪竜が……」
言いきらない内に、緋緒と碧龍が立ち上がった。それぞれ灰皿にタバコを押し付け、無言のまま支度を始める。あまりの変わり身の早さに、雪火はついて行けなかった。
あの山には神が手ずから邪竜を留めていたようだが、不在の今となってはそうも行かないのだろう。山神がいない今、邪竜が出たとあっては山が穢れてしまう。
「紅、翠龍と留守番していろ。狸は置いて行く」
「わかりました」
「碧龍、芙蓉は?」
壁に立てかけてあった刀を取りつつ、碧龍は携帯電話を操作していた。狸はおろおろと彼らを交互に見ている。
緋緒は邪険に扱う割に、芙蓉を信頼しているらしい。大きな討伐があると、いつも彼女を指名する。そういう関係を他人と築けることが、雪火には不思議でならなかった。
「もうすぐだな。下で落ち合える」
「よし。狸、数は?」
呼ばれて小さく震え、狸は指を折り始めた。どうも数えているようだ。緋緒は返答を待たず、雪火を見下ろす。
「雪火、お前も来い」
驚いた。雪火が行っても、何も出来ないのに。
「……私ですか?」
「黒龍が必要だ。余裕があれば笛を試せ」
龍だけ行かせるわけにいかないと聞いていたから、納得した。しかし、余裕などあるものだろうか。
考えながら、雪火は毛布を外してトレンチコートを持った。テーブルの上に置いてあった水筒を掴むと、自然と気が引き締まる。寒ささえ、感じなくなったような気がする。
黒龍は億劫そうに、しかし不平を述べるでもなく席を立った。態度はいつものことだ。
雪火が初めて邪竜の討伐に同行してから、彼はまともに働くようになった。群れの討伐ぐらいしか行っていないものの、一歩も動かないことはない。果たして彼の心境にどんな変化があったかは、雪火には知り得ない。
竜は手足として動くだけで、身を守るのは札だった。だから誰かに守られるのは、初めてのことだ。驚きはしたが、それだけだった。申し訳ないと思いこそすれ、雪火が変わるわけでもない。
ただ、今はそれが少し、むなしい。
「おい、もたもたするな」
ぼんやりしていた雪火は、その声で我に返る。自分が怒られたのだと思ったのだ。怒られるのは慣れているが、過剰に反応してしまうのは昔から変わらない。
「申し訳ございません!」
しかし応えたのは、夕龍だった。まだ座り込んでいたらしく、慌てた様子で立ち上がる。緋緒は小さく舌打ちして、スーツのジャケットを羽織った。
「行くぞ」
その時夕龍がどんな顔をしていたのか、雪火は見ることが出来なかった。見てはいけないような、気がしたから。
代わりに黒龍を見上げると、彼は微笑んで雪火の肩を軽く叩き、やんわりと先に行くよう促した。彼はいつも、雪火の少し後ろをついてくる。気配に鈍いことを自覚しているからありがたくはあるが、後ろに誰かがいるのは慣れなかった。
「お疲れさま!」
マンションの外玄関で、周囲を囲む植え込みに腰かけて、浦辺芙蓉が待っていた。先頭で出てきた緋緒を見るなり、華やかな美貌に満面の笑みを浮かべる。邪竜が出たと、碧龍から聞かなかったのだろうか。
「お疲れ」
「あれ、狸ちゃんは?」
緋緒の向こうを覗きこんだところで雪火と目が合い、芙蓉は笑顔で手を振ってきた。今日はスーツの下にドレープの入ったカットソーを着ているが、相変わらず胸元が開いている。わずかに覗く谷間を意識的に見ないようにしつつ、雪火はお疲れさまと言った。
「危ないから置いてきた。それよりお前、実家で何をしてきた」
応えるでもなく、んーと呟き、芙蓉は碧龍の隣へ行った。どちらからともなく笑みを交わす彼らの様子に違和感を覚え、雪火は緋緒を見た。
彼女は、眉間にシワを寄せていた。渋いと言うよりは、厳しい表情だ。
「お前……」
「緋緒様、早く行った方がいいのでは?」
緋緒のまとう剣呑な空気を察したか、黒龍が促した。緋緒は渋い顔をして、道路を覗く。夕龍が車を回してきてくれるはずだ。
「……あれ、そういえば雪火も行くの? だいじょぶ?」
緩やかにウェーブした髪を結びながら、芙蓉は今更問いかけてくる。うなずいて見せると、怪訝に首をひねった。
「この間は結局、篳篥を試せなかったからな」
緋緒が答えたところで、マンションの正面に一台の車が止まる。運転席の窓から顔を出した夕龍は、芙蓉に軽く会釈した。
「試すの? 危ないんじゃ……」
「危なかったら黒龍が守るだろう」
車の後ろを回って助手席のドアを開け、緋緒は黒龍に向かって笑いかける。含みのある笑みに、黒龍はいつもの笑顔で返した。両者の間に漂う刺々しい空気は、気のせいだろうか。
牽制し合う両者を、夕龍が微妙な表情で見ていた。彼は何か勘違いしているのではないかと、雪火は思う。
その後は全員無言のまま車に乗り込んで、目的地へ向かう。芙蓉が乗ってきた軽自動車には結局碧龍だけが乗り、四人は夕龍の運転する車に同乗した。この間も、こうすれば良かったのに。
「最近、多いですね」
夕龍の声には、緋緒がああとぼやいて返した。
「以前から増えているとは聞いていたが、近頃は異常だな」
「困ったものですね」
全く困っていなさそうな軽い調子で、黒龍が口を挟む。バックミラーに、鬱陶しそうな表情の緋緒が映っていた。実際のところ、本当に仲が悪いのはこの二人のような気がする。
邪竜というのはなんなのだろうと、雪火は思う。最初から邪竜として生まれたものなのか。それとも、鬼神のように何かに影響されてそうなってしまったのか。
「邪竜とは……増えるものなのですか?」
うまく聞けずに誰にともなく問いかけると、緋緒が肯定の言葉を返した。
「奴らは気に影響されやすい。自らの怨念で邪竜と化すこともあるが、多くは環境のせいでそうなる。増えることもあるな」
後天的なものなのか。納得して、雪火は更に問う。
「金が多いというのは?」
「長の不在で五行自体が傾いているせいだろう。金の長自体が邪龍に堕ちた説もあるが」
緋緒はあっさり言ったが、それは非常にまずい事なのではないだろうかと、雪火は不安を抱く。金だから目に見える形で影響は出ないだろうが、龍の長は五行そのもの。必ずどこかに、ひずみが生じる。
前者の理由であったとしても、それなら何故龍を探そうとしないのか疑問だ。天は、何故放置しておくのだろう。
「龍は情に厚い。それこそ感情が身体に影響を及ぼすほど」
呟いた黒龍を見上げたが、彼は雪火を見ていなかった。無表情のまま、窓枠に頬杖をついて正面を向いている。
「恨みは行を通じて広がり、蔓延していずれ末端にまで至る。長を探し出さない限り、連鎖は止まらない」
言外に、金の長を捜すべきだと言っているように思えた。
緋緒も夕龍も聞こえていただろうに、応えない。雪火は探してどうするのだろうと。ぼんやりと考える。彼の口振りは、長を知っているかのようにも思えた。
しばし、沈黙が落ちる。車は山道に入ったようで、大きく揺れていた。
「見つからないから、手をこまねいているんだろう」
夕龍がやっと、それだけ言った。探してはいたのだろう。
「せめて、主人の方だけでも見つかればいいんだがな」
緋緒が続けた。黒龍は、何も言わない。ただのカンではあるが、雪火には、彼が何がしか知っているように思えてならなかった。
どことなく、尻の座りが悪い。着く前に準備しておこうと水筒を開け、リードを取り出した。温かいそれを手の上に乗せると、忘れていた緊張感がよみがえる。
前回邪竜と対峙した時の事が、頭の片隅に引っ掛かっていた。今日の発言といい、黒龍はどうも怪しい。よもや彼がとも思ったが、メリットなどないはずだ。
「さて……どこだ」
呟きながら、緋緒は夕龍に目配せする。彼はすぐに車を止め、シートベルトを外した。雪火は龍達の様子に異常がないのを確認してから、ドアを開けて外へ出る。
ざわざわと鳴く木々の隙間から、木漏れ日が射している。山の中はさすがに肌寒いが、歩いていれば暖まるだろう。
「どこにいるの?」
芙蓉の声に振り返ると、彼女だけ小走りに寄ってきた。碧龍は怪訝な表情を浮かべ、しきりに辺りを見回している。
改めて黒龍を見上げると、彼は雪火のすぐ後ろで空を睨んでいた。何か見えたのだろうかと視線を移してみたものの、何が飛んでいるわけでもない。薄雲にかすんだ、高い秋の空が見えるばかりだ。
「聞いていなかったが……この間の所まで行くか。すぐそこだ」
「緋緒ってそういうとこ適当だよね」
指摘されて渋い顔をしたが、緋緒は言い返すでもなくさっさと山道を登って行く。雪火はいつの間にか隣にいた芙蓉と顔を見合わせて、彼女の後を追った。
龍達が、妙にそわそわしている。緋緒は案外、適当に言ったわけでもないのかもしれない。
歩きながら背後を盗み見ると、黒龍と碧龍が珍しく並んで歩いていた。彼らの視線は、お互いを向いている。また始まるのはないかとげんなりする雪火は、次に黒龍の口から出た言葉に驚いた。
「変わるものだな」
碧龍は、鼻で笑う。視線を足下に落とした彼は、薄い唇に笑みを浮かべていた。
「俺がかい?」
「いや。……どちらだろうな」
含みのある言葉と共に、黒龍は行く手へ視線を移す。そこで、雪火と目が合った。深い金の目とまともにかち合って、雪火は内心動揺する。
黒龍は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに微笑んだ。相変わらず目だけがやけに鋭いせいで、気味が悪い。
雪火は何も言わずに、向き直った。並んで歩く芙蓉は少しでも楽しようという魂胆か、片手で夕龍のスーツの裾を掴んでいる。彼は気付いているのかいないのか、普通に進んでいた。
「主」
なんだと返した緋緒は、懐から取り出した銃を確認する。銃底が少し、欠けていた。
「今日は、ご無理をなさらないでください」
背後にいる雪火に、緋緒の表情は見えなかった。鼻を鳴らしたのだけは分かったから、またいつものように笑っているのだろう。見下すような、あの目で。
どちらが本当の彼女なのだろうと、雪火は時折考える。冷徹でとりつく島もない彼女か、少し抜けたところのある彼女か。
「しない。私が星でなければな」
その返答は、すると言っているようなものだった。雪火は呆れたが、夕龍は拳を握る。何かをこらえるような仕草だった。
「主……」
「うるさい。黙って歩け」
緋緒は働きすぎだと、いつだったか芙蓉がぼやいていた。確かに、緋緒が詰所に来ない日はなかったように記憶している。
龍は一晩寝れば回復するそうだから気にしなくていいらしいが、緋緒はただのとは言えないまでも人間だ。休みをとらなければ、体調を崩すこともあるだろう。心配する気持ちは分かる。
「いつもああなんだから……」
ため息混じりに呟いて、芙蓉は前髪をかき上げつつ空を見上げる。眩しそうに目を細くした彼女の横顔に、もう憂いは見えない。
「おい」
碧龍が、誰にともなく呟いた。瞬間、緋緒が走り出す。芙蓉が驚いたようにのけぞって、左右を見回した。
「え、なに?」
「後ろだ!」
緋緒が怒鳴ると同時、木々が激しく音を立てる。彼女に続いて少し走ると、ようやく平地に出た。全くすぐそこではなかった。
平地には、何もいない。だが何かが近付いてくるような音だけは、継続して聞こえていた。少ない数ではない。
息をひそめて身構える雪火の前に、黒龍が立った。見上げてみれば、彼は振り返って微笑む。子供を見るような、優しい目をしていた。
「主」
雪火は、答えなかった。答えられなかったと言った方が正しいだろう。いつもの鋭さもなりを潜めた彼の目は、どこかせつなそうに、細められている。
けれど雪火は、その目は自分を見ているわけではないような気がした。視線ではなく、彼の意識が。
「私が、守ります」
どうして。
やっぱり、何も言えなかった。言えないまま、目を伏せる。雪火が守られたいわけでないことぐらい、彼は分かっているだろうに。
ただ、その口調が自分に言い聞かせるようなものだったことが、引っ掛かっていた。