第二章 少女願望 七
七
「そうか、あそこの神さんとうとう交代するか」
感慨深げに呟いて、碧龍は芙蓉の荷物を担ぎ直す。いつもいいと言うのだが、気付くと取られているので、彼女はもう諦めている。
グレーのロングカーディガンのポケットに手を突っ込む碧龍は、もうすっかり秋の装いだ。趣味のヴィンテージジーンズも、秋用にと買ったものに変わっている。
出かける時だけかける黒いセルフレームの伊達メガネは、金の目を隠すため。それがやけに似合っているから、芙蓉はふとした拍子にどきりとする。大学生のようにも見えて、複雑な心境にもなるけれど。
長生きしている割に、碧龍は流行りものを好む。一方芙蓉は自分が気に入ったものを着るから、彼とは趣味が合わない。でもそれでいいと、彼女は思っている。
いつだってちぐはぐで、彼との会話は、第三者が聞くと噛みあっていないらしい。それでも、そんなろくでもない言葉を交わせることが、芙蓉にとっては嬉しい。
「とうとう?」
問い返すと、碧龍は頷く。ひょうしに分けた前髪が落ちて、彼は邪魔そうに軽くかき上げた。
人型の時の髪は伸びないから、切れないそうだ。代わりにたてがみはよく切ってやっている。どうせすぐ伸びてしまうが、どうも気持ちがいいらしい。切るだけで一日かかるから、正味な話、芙蓉は迷惑している。
「だいぶ弱ってたからな。本当はもっと早く交代してておかしくなかったはずなんだが」
「実家に帰る暇もなかったから、代行立てて帰っちゃったって言ってたよ?」
「何言ってんだ、普通代わりが来てから帰るもんだぞ。後継が来るまで待たなかったのか?」
そうなのかと思いつつ、芙蓉はうなずいた。碧龍は信じられないものを見るような目で、彼女を見ている。別に芙蓉がしたことではないのに。
「でも、狸ちゃんが代わりに頑張ってたんだよ。エライねえ」
「狸ィ?」
裏返った声を上げる碧龍に、芙蓉はまたうなずいて見せた。彼は呆れたように肩を落とし、向き直る。
「妖怪に代わりが務まるかよ。ズイブン切羽詰まってたんだな」
「でもすごかったよ。足ケガしたんだけど、もらった葉っぱ貼ったらすぐに治ったもん」
「そりゃレアなプレゼントもらったもんだな」
狸は神がケガをした時のために、いつでも妙薬を持ち歩いているという。それがあの葉のことだとは思わなかったが、使ってみて理解した。それほど、効果があったのだ。
一口に妖と言っても、様々なタイプがいる。人に害をなす妖が圧倒的に多いものの、狸のように神に付き従って身の回りの世話をするものもある。時には、人に幸福をもたらすものまでいる。
有史以前には既にいたあの異形たちは、どのようにして生まれたのか、いまだに解明されていない。そこにロマンを見いだして真実を追い求める学者もいるが、大抵が志半ばにして妖に食われてしまうようだ。緋緒がバカだと言っていた。芙蓉は夢があっていいと思う。
「向こうで一騒動あったとは聞いてたが……そのせいかねえ」
なんのことか、芙蓉には分からなかった。でも、聞いても教えてくれないから何も聞かない。
「あっちも色々あるんだね」
「あるさ。こっちより色々ある。特に今は」
何があるというのだろう。天の事情は人間が知ってはいけないことのようだから、あえて聞くこともしない。それでも、口に出されると気になる。
しばし、無言の間が落ちた。休みの日に気が向くとこうして二人で買い物に出るから、今はもう無言でもあまり気にならない。芙蓉には、それが嬉しい。
ふいに、鉤編みのニットを引かれた。呼び止める時の、彼の癖だ。だから芙蓉はいつも、ゆるいラインの服を着る。
「寄って行かんか?」
指された先を見れば、芙蓉の好きな喫茶店だった。サンダル履きの彼女を気遣ったのだろう。
こういうさりげないところが、芙蓉は好きだった。反面、複雑な心境にもなる。扱い慣れているような気がしてしまうから。結局、主人だから優しいのではないかとも思う。
平日なせいか、店内に入るとすぐに席へ通された。ガラス戸の中、喫煙席を迷わず選ぶのは、空いているからだ。そちらが混んでいれば、どこでもいいと碧龍は言う。タバコがないと貧乏揺すりするくせに。
席に着いて注文を済ませてから、碧龍はタバコに火をつける。通りに面した席はガラス張りになっており、外の様子が見渡せた。向こうからも見えるから、芙蓉は少し落ち着かない。
「天王も……世襲制なんだよね」
ああと返して、碧龍はタバコをつまむ。骨っぽい指が灰を落とすのを見るのが、芙蓉は好きだった。
「成人するまでは普通に暮らしてる。身分を隠して一般人と結婚することもある」
「バレないの?」
「公務員てことにしときゃいいのさ。王が五星に恋しちまった時は一騒動だったな」
懐かしそうに目を細め、碧龍はテーブルに頬杖をついた。彼の言うのが何百年前のことなのか、芙蓉は気になっている。
彼は昨日のことのように大昔の話をしたかと思えば、芙蓉が小さい頃の話を懐かしそうにしたりする。よく翠龍が言うように、ボケてきているのではないかと心配だ。
「それ、どうしたの?」
「五星が降りて結婚したな。あん時の翠龍は落ち込んでたよ」
五龍は、今まで付いたどの主のことも平等に想っている。他と比べたりはせず、先代の話もあまりしない。
だから芙蓉は、それに少し妬いていた。主人は男が多かったと碧龍は言っていたが、彼の在位は途方もなく長い。女性だったことも少なくないだろう。
その人にも、自分にするのと同じように接したのだろうか。守ってやったのだろうか。誰を守るために、剣術を覚えたのだろうか。長い時間の中で、恋をすることはなかったのだろうか。
気になっても、聞くことは出来なかった。芙蓉は臆病だ。どう答えられたとしても、きっと落ち込んでしまう。
「その翠龍は……主のこと」
「好きだったんじゃねえかな。面食いだったからな、あいつは」
でも、と呟いて、彼はタバコの火を消した。運ばれてきたアイスティーをストローでかき混ぜながら、芙蓉は首をかしげる。
「その後の主をかばって、死んだ。次代が今の翠龍だ。あいつはバカ強いくせにフラフラしてた、在野の龍だった」
神妙な面持ちになって、芙蓉は視線を落とした。なんと言ったらいいのか、分からない。碧龍は小さく笑って、新しいタバコに火をつける。
「翠さんは……恋とか、しなさそうだね」
「俺には分からんな」
言外にあり得ると言われているようで、少しほっとした。紅があんなに一所懸命なのに、振り向いてもらえないのはかわいそうだ。
紅は昔から、翠龍になついていた。一条家に引き取られたばかりの頃は芙蓉と目も合わせてくれなかったから、ずいぶんと変わったものだ。変化の兆しが見えたのは、翠龍が彼女に紅と名付けた頃だったように思う。
冷たく見えても、彼は彼なりに主を気遣っている。それが少し、芙蓉には嬉しい。
「ユウちゃんは、緋緒のこと好きなのかな」
コーヒーカップに口をつけていた碧龍が、噴き出した。芙蓉は驚いて目を円くする。
しばらくむせた後、碧龍はごまかすように苦笑いした。何か変なことを言っただろうかと、芙蓉は眉根を寄せる。知らないうちに地雷を踏んで、緋緒を怒らせることがままある。
「や……どうだろうな」
やっぱり、ごまかすような返答だった。
芙蓉には、人の気持ちがよく分からない。やけに聡い緋緒が羨ましいとさえ思う。分からないからこそ気を遣って、結局嫌がられることもある。
そういえば、と、彼女は思う。雪火は、どうなのだろう。
「雪火、私のこと嫌がってないかなぁ」
カップに口をつけていた碧龍が、怪訝な顔をした。いきなり話が変われば、誰でもこういう反応をするだろう。
「なんでまた」
ついて行けるだけ、碧龍は彼女の取り止めのない話に慣れているのだ。
「なんか……目合わせてくれないし」
「それはアレ、あー……」
言いながら、彼は視線を流す。返答に困っているようだった。
当然だろう。聞かれても、彼は雪火のことなど分からないはずだ。まだ彼女が入って、一月しか経っていないのだから。
「……紅と同じようなモンじゃねえかな」
「え、大丈夫なの?」
「知らんよ。ああいうのは周りがどうこうしたって無駄だ」
意味が分からず、芙蓉は首をひねった。碧龍は苦笑する。
「紅はまだ子供だったから良かったが、雪火は違う。本人の問題だな」
「話とか、聞いた方がいいかな」
「やめとけ。自分から話すまでほっとけよ」
そう言われても、芙蓉は気になる。自分に何か出来ることはないかと、そう考えてしまう。
雪火は、何があったのだろう。天涯孤独のようだし、何があったもなにもないかもしれない。もし自分に両親がいなかったら、と思うと。もし緋緒が、幼なじみじゃなかったら。彼女と同じ、異質な者だったら。
やっぱり、考えられない。しょせん、境遇の違う者には何も出来ないのかもしれない。
芙蓉はうつむいて、じっとスカートの柄を見つめる。エスニック柄のロングスカートは、よく見れば見るほどなんだか分からなくなってくる。
人の気持ちが見えないなら見ようとするなと、いつだったか緋緒が言っていた。そういうことなのだろうか。何も出来ないということだろうか。
「お前さんは誰かの事ばっかり考えてるな」
思いの外近くで声が聞こえ、芙蓉は驚いて視線を上げた。テーブルの上へ身を乗り出した碧龍の顔が、すぐ近くにある。
フレームの上から覗く切れ長の目に、その金色に、目眩がした。目をそらすことも出来ず、芙蓉は口をつぐむ。尖った顎のせいで、自分より顔が小さく見えるのが嫌だった。
「昔はそんなじゃなかったんだがな。どうした?」
優しい声が、じんと胸にしみる。擦り傷に水がかかってしまったような、後を引く痛み。
芙蓉はずっと、こんな痛みにさいなまれている。本当に悩んでいるのは、他人のことではない。そう言ったら、彼は軽蔑するだろうか。
「緋緒がしてくれたこと、誰かに返したいの」
「ああ……」
呟いて、碧龍は身を起こす。見慣れた癖毛が遠ざかるのを、芙蓉は残念に思った。
芙蓉は昔、丸かった。丸かったなどというものではない。丸々としていた。そのせいでからかわれるのをずっと助けてくれていたのが、同級生の緋緒だった。
彼女は小さい頃から、今とあまり変わらない。容姿も性格も、居丈高な態度も。
「お前も頑張ったんだから、もう気にしなくていいと思うがな」
芙蓉が痩せたのは、剣術を習い始めてからだ。それも碧龍が教えてくれていたからという不純な理由であって、本人が頑張ったわけではない。
思えばそんな昔から、碧龍を目で追っていたのだ。痩せたら異性から好かれるようになったものの、告白を受けたことは一度もない。心苦しかったが、芙蓉はずっと、初恋を引きずっていた。
そう考えると、確かに普段考えているのは他人のことばかりだ。一番たくさん想うのは、たぶん。
「むつかしい」
思考を打ち消すように、そう呟いた。碧龍は愉快そうに笑って、ちらりと腕時計を見る。そのしぐさに、何故か焦った。
「お前さんのそういうとこが好きなんだ」
一瞬にして、心拍数がはね上がった。何と言われたのかと考えている間に、碧龍は伝票と荷物を取り上げて席を立ってしまう。追うように身を乗り出しかけて、我に返る。
「そろそろ行くか。夕飯の買い物は?」
「え、うん……大丈夫」
まだ、鼓動が落ち着かない。足が震えてうまく立てず、テーブルに手をついてなんとか席を立った。クラス全員の前でスピーチした時も、こんなに緊張しなかっただろう。
さっさと会計を済ませて先に店を出た碧龍は、訝しげに芙蓉を振り返っていた。また少し焦って、ごまかすように小走りで近付く。
サンダルが、痛いから。心中言い訳して、芙蓉は彼の隣へ並んだ。普段は何も感じないのに、肩を並べていることさえ、今は意識してしまう。
右肩が、ちりちりと痺れる。彼がいつもさりげなく車道側に立つことも、少しゆっくり歩いてペースを合わせてくれていることも、芙蓉は知っている。だから。
でも。
「日が落ちるの、早くなったな」
駐車場に着くと、碧龍は空を見上げて独り言のように言った。うんとだけ返して、彼が開けたドアから車に乗り込む。助手席側のドアを閉めてから、碧龍は車の前を通って運転席側に回った。
本当はこんなこと、しないでほしい。嬉しいのに、嫌だと思ってしまう。この車が、芙蓉が可愛いと言った軽自動車なことも。彼が軽は嫌いなことを、知っているから。
走り出した車の窓から、流れる景色を眺める。隣からは、いつものタバコの匂いが漂ってきた。夕陽に染まる町は、心なしか忙しなく見える。
もう、夜がくる。誰もが妖の時間として厭う、夜が。けれど芙蓉が夜を嫌う理由は、他とは違う。
運転席の碧龍の横顔はいつものように、少し笑っているように見えた。最近、横顔を盗み見ることが多くなったように思う。昔のようにまっすぐに見つめることが、恥ずかしくなってしまった。あまり見つめすぎてバレるのが嫌で、視線を落とす。
オーバーサイズのジーンズ越しに見ても、彼の足は細く見える。自分より細いのではないかと、芙蓉はいつも不安に思う。
でもそんな事はどうでもよくて、単純に、釣り合わない。主人と龍としても、人として見た器量も。千年近くを生きてきた彼は、歴代五龍の内でも最高の力を持つ。それも今は、宝の持ち腐れでしかない。
芙蓉が、主人だから。力の半分も出せないという邪竜の言葉が、脳裏をよぎる。
芙蓉の霊力は、緋緒の半分にも満たない。歴代最高の五星とまで言われる彼女と比べるのが間違っているが、彼女のように強かったらと、そう考えてしまう。なまじ、近くにいたばっかりに。
「緋緒は昔から……可愛かったよね」
呟くと、碧龍は変な顔をした。何の脈絡もなくそんな事を言われて、変に思わない方が変だろう。だがそんなことは、今の芙蓉にはどうでも良かった。
「昔から、お人形さんみたいだった」
「なんだよ……いきなり」
困惑した声には答えず、芙蓉は首を横に振った。
「あんなふうになれたらいいなって、ずっと思ってた」
芙蓉はずっと、緋緒に憧れていた。それは本来、友達に抱く感情ではないかもしれない。でも羨ましくて、たまらなかった。
むろん、彼女が常人には抱き得ない悩みを持っているのも、知っている。それでも羨んでしまうから、芙蓉は自分が嫌になる。
「俺は緋緒みてえなのは好みじゃないからなあ」
なにげない一言で、芙蓉の目が覚めた。自分は今まで何を考えていたのだろうと、恥ずかしくもなる。好みだとか好みじゃないとか、そういうことは別にして。
「他人の真似してどうする? お前はお前らしくいろよ」
それだけで胸のつかえが取れたような気がしてしまうから、現金なものだ。芙蓉は小さくうなずいて、ふと笑みを浮かべる。碧龍は横目で彼女を見て、つられたように笑った。
「お前さんは笑ってな。笑ってる顔が一番可愛いから」
どうして今日は、こんなことばかり言うのだろう。そんな言葉、本当は欲しくないのに。それでも嬉しいと思ってしまう自分が、悲しかった。
思いとは裏腹に、芙蓉は首まで赤く染める。彼にこんな事を言われたのは、初めてだった。
優しい言葉ばかりかけられたら、今までのようにいられなくなってしまう。なんでもないかのように。主人と龍でなくとも、対等な関係で。本当はそんなことを望んでいないのも、自覚している。
「私、普通の女の子なら良かったのに」
思わず口を突いて出た言葉に、碧龍が息を呑んだ。
こんな子供じみた事を言って、困らせたかったわけではない。彼が甘いことばかり言うからいけないのだ。そんな事を考えて自己弁護してしまう自分が嫌で、芙蓉は泣きたくなる。
「普通の女の子なら、こんなに苦しくなかったのに。普通に過ごせたのに」
戦うのは、好きではない。緋緒のように仕事と割りきれない。それでも、それが自分の役目だからやる。
自分しか出来ないことが、芙蓉にとってどれほど重かっただろう。小さな頃から、五星として扱われた。学校では隠していたが、事情を知る教師達の芙蓉を見る目は、他と違っていた。
羨望と、憧憬と、嫉妬。家系だからと、嫌味を言われたこともある。芙蓉は言い返すことも出来ず、黙って耐えていた。確かにその通りだったから。それよりも友人に隠し事をすることの、辛かったことと言ったら。
「普通で良かったのに。普通に生きて、普通に好きな人と結婚して、普通に……」
「好きな男がいたのか?」
はっとして碧龍を見ると、彼はハンドルに片手を置いたまま芙蓉を見ていた。ウィンドウからは、コンクリート打ちっぱなしの壁が見える。もう、マンションの駐車場まで戻ってきていたようだ。
碧龍は今まで見たこともないほど、まっすぐな目をしていた。元が美形だからか、真顔になると威圧感さえある。
どう答えればいいのか、芙蓉には分からなかった。好きな人は、ずっといた。いたが、彼に言えるはずもない。それは、人ではなかったから。
人と龍に、未来はない。あいつにだけは惚れてくれるなと、母からもきつく言われていた。一条家ほどではないにしろ、長く続いた五星の血が絶えたら、混乱は免れないからと。惚れたところで、結ばれる道はないからと。
その先には、何もない。法を破って添ったとしても、芙蓉だけが老いて行く。そもそも、彼の心が自分にあるかどうかさえ分からない。
だから芙蓉は、問いに答えられなかった。本当に伝えたいことは、口にすることも許されない。だから。
「私が普通の女の子なら、あなたに会わなくて、済んだのに」
車のシートにもたれて、芙蓉は呟いた。見るでもなく、フロントガラス越しに低い天井を眺める。
碧龍は火の消えたタバコをくわえたまま、ハンドルの上で腕を組んでいた。その無表情から、彼の感情は見えない。芙蓉には、見えない方がよかった。
「俺はお前さんが主で、良かったと思ってる」
また。
芙蓉は唇を引き結び、下を向いた。何も言えない。何も考えたくなかった。悪い考えばかりが、浮かんでしまう。
「そうでなきゃ、会えなかったからな」
「前の主にも、そんなこと言った?」
碧龍は目を見張って、芙蓉を見た。しかし彼女はうつむいたまま、視線を合わせない。
「あなたは私が主人だから優しいの? 気を遣ってるの?」
「お前にしか言ったことはない」
大きく目を見開き、弾かれたように顔を上げる。碧龍は組んだ腕に頬を寄せたまま、メガネ越しに芙蓉を見ていた。まだ、笑っていない。
そこでやっと、嘘ではないのだと分かった。頬が熱くなって行くのを知覚して、芙蓉はまた視線を落とす。
「お前だけだ」
羞恥で、目に涙が浮かぶ。あるいは、嬉しいのかも知れなかった。碧龍が小さく笑う声が聞こえる。
ふいに、顔に影が落ちた。驚いて見上げると、すぐそこに碧龍の顔がある。身を乗り出して助手席側の窓に手をつき、芙蓉の顔を覗きこむ彼は、口元に笑みを浮かべていた。もう、タバコはくわえていない。
その距離は、芙蓉には近すぎた。痛いほど胸を叩く鼓動が、指先までも震わせる。
赤い顔のまま硬直する彼女を笑って、碧龍はシートの背もたれに左腕を乗せた。芙蓉にとっては、逃げ場がなくなった。その左手でメガネをつまんで外す彼を見て、思わずごくりと喉を鳴らす。
「あの、アオさ……」
「しつけえよ、ヘキだって言ってんだろ」
言いながらも、彼は笑みを絶やさない。いつもより優しい眼差しが、呑まれそうなほど近くにある。さっきより、近付いているような気がする。目を細くした彼の顔を見ていられず、芙蓉は瞼を落とした。
そのとき唇に、柔らかいものが触れた。タバコに混じって、水の匂いが漂う。碧龍の匂いだと考えた時、頬に呼気がかかった。
軽い音を立てて唇を吸われ、芙蓉は身を硬くした。すぐに離れた感触を追うように目を開けると、彼の顔は、まだ近くにある。
「何か言うことは?」
芙蓉は混乱していた。何をされたのか分かってはいたが、認めるのが怖い。
いいのだろうか。本当に。
「……好き。です」
顔をほころばせ、碧龍は芙蓉の頬へ鼻先を寄せた。龍になった時、たまにやるしぐさだ。あちらはなんとも思わなかったが、人型の時にやられると、おそろしく緊張する。
あれは、こういう意味だったのか。ぼんやりと考えながら、冷たい頬の柔らかさだけを知覚する。
本当に、いいのか。いいはずがない。これは天が定めた法に触れるのだ。
「ねえ……」
「帰るぞ。うち来い」
は、と呟いている間に、碧龍は助手席のドアを押し開けていた。運転席側のドアに手をかけたところで、呆然とする芙蓉を振り返る。
「本当のこと、教えるから。俺のことも、全部」
その言葉に、芙蓉は何故か顔を赤らめてしまった。碧龍は、やさしく笑った。