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第二章 少女願望 六

 六


 邪竜を相手取った騒動から一週間。詰所は、不気味なほど静かだった。今日は碧龍が留守番させられており、他には早々に朝一番の仕事を終えて戻った雪火と黒龍しかいない。

 てんでバラバラに座って、三人はぼんやりしていた。いや、碧龍と黒龍はさっきから無言で牽制し合っている。何がきっかけでこうなったか、雪火には分からない。

 一触即発の空気の中、雪火は茶をすすっていた。静かでいいと思う。空気は元々気にしない。

「先代は真面目だったのにな」

 くわえタバコのまま、碧龍が呟く。アームソファーに浅く腰かけた彼は、先ほどから動こうとしない。

「また昔のことか」

 小バカにしたような笑いと共に、黒龍が返した。碧龍を避けたのか、ダイニングに着いた雪火の正面で、彼もタバコを吹かしている。彼のうさんくさい笑みが視界に入り、雪火はうんざりした。

 この詰所はいつも煙い。空気清浄機を二台置いても、到底追い付かないほどに。

「いい奴だったよアイツは。お前さんとは似ても似つかん」

「だからなんだ」

「子供さえ産まれなきゃな」

 何が言いたいのか、雪火には分からなかった。しかし黒龍には意図するところが分かっているらしく、忌々しげに舌打ちする。

 子供が産まれなければ、なんだと言うのだろう。彼らのことは、分からないことばかりだ。あまり知りたくもないが、こんな話を目の前でされれば気になる。

 そもそも、寿命のない龍にも子供が出来るのかと意外に思う。考えてみれば彼らも普通は野生にいるから、争えば死ぬこともある。子孫を残せないと困るのかもしれない。

「お前らのせいで、俺は……」

「筆頭、らしくないな」

 口元に笑みを浮かべ、黒龍は頬杖をついて碧龍を見た。組んだ手を腹に置いたまま、碧龍は視線も合わせようとしない。

「恨み言か? 俺のせいじゃない事ぐらい分かっているだろう」

 碧龍は、応えない。確かに先代の子供云々は当代には関係ないことだろうが、それとはニュアンスが違うように聞こえた。

 あまり、聞いていたい話ではない。他人の事情など、聞きたくもなかった。だが空気を動かすのもためらわれて、雪火はぼんやりと窓の外を眺める。

「金がいない今、降りることは出来ない。だが、いなくても五行は巡る」

「……俺の眷属は今、小さく弱い」

 碧龍はくわえていたタバコをつまんで身を乗り出し、ローテーブルに置かれた灰皿に押し付けた。その手で新たに一本、火をつける。涼しげな横顔も、今は浮かない。

「ただでさえ不安定なんだ。任せられると思うのか?」

 そこで、黒龍は黙った。思案するように視線を流し、横を向いて紫煙を吐く。一応、正面に雪火がいることは忘れていないらしい。いっそ忘れられている方が良かった。

「……あんたが強すぎるからじゃないのか?」

 息を呑んで、碧龍はようやく黒龍を見た。雪火には一向に状況が読めないが、彼らは仲が悪いわけでもなかったのだろうと思う。

 虚を突かれたように目を丸くした碧龍を、黒龍が笑った。

「あんたの好きにすればいい。お幸せに」

 鼻白んだ様子で肩の力を抜き、碧龍は大きなため息をついた。それから、またソファーに背を預ける。

 タバコをつまんで煙を吐きながら、碧龍は細い眉を歪めて笑った。雪火には何一つ分からないまま、解決してしまったようだ。首を突っ込む必要性も感じられないし、別にいいかと思う。

「バレてたか」

「まあな」

 緊張していた空気がようやく和らいだその時、慌ただしい足音が聞こえた。誰かが帰って来たのだろう。それにしても、この慌てぶりは何事か。

 慌ただしいのは、大抵紅か芙蓉だ。どちらかかと考えたが、勢いよく開いたドアから飛び込んできたのは、予想だにしない人物だった。

「おい、いるか!」

「……緋緒ォ?」

 碧龍はどうも、雪火と同じ予想を立てていたらしい。緋緒が叫んだとたん、変な声を出した。

 振り返ってはいと返すと、緋緒は安堵したように息を吐く。何か、あったのだろうか。

「本部から手に負えないと連絡があった。この間の山だ、行くぞ」

「え……」

「なんだ、あそこの神さんやっぱマズイのか」

 碧龍は軽い調子で言ったが、山神がまずいというのがどれほど危険なことか、雪火には分かる。

 山には妖が集まる。別段彼らが進んで山にいるわけではなく、人に被害が及ばないよう、神が妖を集めてくれているからだ。山神の力が及ばなくなるほど増えてしまうと、妖は町へ降りてくる。

 また、あまりに妖が増えすぎると、神はその瘴気に当てられて病むことがある。病状が進めば荒ぶる鬼神と化し、人に害をなす。

 あの山の神は、かなり力が強いはずだった。それこそ、妖が増えたぐらいで病むはずがないほど。弱体化していたというのは事実だったのだろう。

 鬼神は最も恐ろしい鬼とされ、討伐は困難を極めるという。思わず表情を強張らせると、緋緒は顎でドアを示した。まさか、鬼神の討伐に行くのだろうか。

「雪火、お前だけ来い。神相手ではそいつらは役に立たん」

 意味が分からなかったが、二匹が異を唱えなかったので、黙っていた。相手が鬼神であろうと、雪火は従うだけだ。

 立ち上がろうとした時、また足音が聞こえる。緋緒の足音より重い。

「主、待ってください主!」

 今にも泣き出しそうな情けない声で、リビングに飛び込んできた夕龍が叫んだ。緋緒は鬱陶しそうに顔をしかめ、小さく舌打ちする。心の底から嫌そうだ。

 夕龍は室内の二匹を見ると、一気に青ざめた。彼は碧龍が苦手だ。更に黒龍がいると、火の粉は彼に降りかかってくる。置いていかれるのは嫌だろう。

「あ、主……私も連れて行ってください、車の中にいますから」

「断る」

「お願いします、後生ですから……」

「くどい。雪火、行くぞ」

 迷子の子供のような目で、夕龍は緋緒を見ていた。しかし彼女はつれなく視線をそらし、部屋を出て行く。

 次に夕龍は、助けを求めるように雪火を見た。顔ごとそらして席を立つと、彼は悄然と肩を落とす。哀れだが、緋緒がダメだと言うなら連れて行くわけにもいくまい。

「お気をつけて行ってらっしゃいませ、主」

 奇妙なほどにこやかに、黒龍が手を振った。死ぬことを期待しているのではないかと、雪火は邪推する。それならそれで、別に構いはしない。

 そのまま部屋を出ると、背後で碧龍の笑い声が聞こえた。雪火は心の中で合掌する。

「何故、龍はいけないのですか?」

 緋緒の運転で目的地へ向かう車中、雪火は問いかける。助手席の彼女を一瞥して、緋緒は眉をひそめた。

「知らんのか?」

 うなずくと、彼女は力なくああとぼやく。片手でタバコを出して火をつけ、ウィンドウを下げてから、再び口を開いた。

「習わなかったのか。そういえば教育委員会がうるさいだの言っていたな……忌々しい」

 答えになっていなかった。雪火は困り果てて眉を歪め、緋緒から目をそらす。

 昔から、学校はさまざまなことを隠したがる。それは父兄のせいであり、社会的な理由でもあった。今では、知らなければならないはずの事情を知らない子供も増えている。

 意図的に隠されたことのほとんどを、雪火は恐らく知らない。きっと、隠されていることにすら気付いていない。老人はそれを示して最近の子供はと言うが、知りようがないのだから仕方がないのだ。

「そうだな……まだ少しかかる。話そう」

 無意識に、雪火は姿勢を正した。緋緒はそんな彼女を横目で見て、かすかに笑う。いっそ嫌味なほど、綺麗な笑みだ。

「悠久の昔、この島で龍と神の争いが起こった。双天が統治する前のことで、島はまだ混乱の内にあったと言う。神と龍と妖の三竦みという言葉は、この時代を指して言う」

 これは神話だろうかと、雪火はぼんやりと考える。それとも、実話か。

「島の所有権を巡る争いは長く続き、双方にも島自体にも甚大な被害が出た。それでも彼らは、争いをやめない。土地は荒れ、島には天災が続いた」

 神と龍が本当に争ったのなら、それも当然だろう。一呼吸置いた緋緒に頷いて見せると、彼女は続ける。

「困ったのは人間だ。人は太古の昔、加護もなく卑小な存在だった。荒れる島から逃げる術もなく、早く戦争が終わることを祈るしかなかった」

「獣の方の、竜は……」

「存在していたが、人が使役することは出来なかった」

 そんな時代があったのかと、雪火は意外に思う。昔から、竜と人は共存してきたものとばかり思っていた。実際のところ、竜が何故人に使役されるのかは分かっていないのだが。

「争いが起こって百年目。荒れ果てた大地を憂い、島を荒らす神と龍に怒り、終らぬ戦争に業を煮やし、とうとう人は立ち上がった。さて、どうしたと思う?」

 唐突に振られ、雪火は目を丸くする。緋緒は返答をうながすように、少し首を傾けた。

 何の力も持たない人間に、何が出来ただろう。まさか戦争に参加したわけでもあるまい。しばし悩んで、雪火は顔をしかめたまま返す。

「……説得?」

「反対だ」

 あっさり否定して、緋緒は口元に笑みを浮かべた。

「人は神へ供物を捧げるのをやめ、龍を村から閉め出した。どちらとも戦う体勢を取ったんだな」

「それが……効くんですか?」

「効いた。神は人からの供物を兵糧としていたからだ。平地のほとんどに住み着いていた人間達に追い出されては、龍は行き場をなくす」

 当時から、人の数が一番多かったのだろう。しかし、ないがしろにされていた。神や龍のような力を持たなかったがゆえに。

「結果、人に譲歩する形で終戦を迎えた。数の暴力だな」

 それとは違うような気がした。渋い顔をすると、緋緒は愉快そうに喉の奥で笑う。

「この一件で、人間というのはただのバカではないと、神も龍も気が付いた。優勢だった神は半分が天へ上り、半分は島に残って人を見守る事とした。龍は人と共に島に残り、人を守ることを約束した。それから、争いを止めるべく最初に立ち上がった人間を王と定めた。現在の天龍は、当時の龍達の長だとされている」

「双天は、二人で一つの頂では?」

「いや、実際は天王の方が位が高い」

 それも知らなかった。むしろ、そんな大事なことを隠しておいて問題ないのだろうか。

「神は己の力を律するため、人の信心を糧とするようになった。また龍も、人に使役されることで自制するようになった」

 龍の長達が五星に使役されるのは、そのためなのかと納得した。どんな竜でも、長の言うことは聞く。そう考えると、人はずいぶんと重い責任を負っているものだ。

「鬼神であっても龍を神と争わせてはならないのは、天の法に触れるからだ。戦争以降、龍と神はどんな些細ないさかいでも起こしてはならぬことと定められた。島に被害が出るからな」

 つまり、人はいいのだろう。神も龍も、島を人間に任せた形になる。確かに現在、島の政治を実質的に任されているのは人間だ。それにしても。

「何故……人にそんな」

 何故、人にそこまでの重責を負わせたのだろう。神や龍と比べてしまえば、人はあまりに弱い。寿命は竜と比べても短く、あまりにも卑小だ。

 問いかけを口にすると、緋緒は鼻で笑った。バカにしたようなものではなく、どこか楽しそうな笑みだ。

「さてな」

 この島には、戦争が起きたことがないと言われていた。先の話を神話と解釈するなら、その通りなのだろう。建国以来の平和を保っていることが、この島の国としての誇りだ。

 他国と開戦寸前の冷戦状態に陥ったことも、なくはない。竜をよこせと、端的に言えばそう要求されて。だがこれは、どういったわけか相手側が退いて終結したという。果たして相手に何が起きたかは、推して知るべしといったところか。

 だから、隠すのだろう。優れた国でありたいがために。孕んだ危険すらもひた隠して。

「雪火、無知は罪だ」

 心を読まれたような気がして、どきりとした。視線だけで見上げると、緋緒は正面を見つめている。冷たくも見える横顔は、一切の感情を覗かせない。

「知らない事ではなく、知ろうとしない事がな。何かあったら私に聞け、分かる事なら答えよう」

 この人は、どんなふうに生きてきたのだろう。ふとそう思ったが、聞かなかった。代わりに、彼女に分かるようにゆっくりと頷く。

 車窓から見える風景は、もう森林の様相を呈している。そろそろかと水筒を開けたところで、疑問が湧いた。

「筆頭、篳篥は神に効くのですか?」

 緋緒は正面を向いたまま、難しい顔をした。知らないのだろうかと、一瞬不安になる。

「……度合いによるだろうな。完全に鬼神と化していればそれはもう妖だ、効く。不完全ならば効かない」

「完全に変容していて……効くのですか」

 困惑して問い返すと、緋緒は鼻で笑った。この人は誰にでもこうなのだ。

「それはお前次第だ」

 全くその通りだ。納得してうなずき、雪火はリードを篳篥にはめる。

 篳篥は、神には効かない。妖相手なら恐ろしいほどの破壊力を誇る笙も、神に対してはただの笛でしかないという。天からの光を表す音色だから、当然といえば当然だが。

 鬼神が妖と同列に語られる存在なら、篳篥は効くだろう。龍達がいたから試さなかったが、実際、邪竜にも効くのではないかと踏んでいる。元々、竜は篳篥の音色に弱い。

 あの山の神が中途半端に神のままだったら、雪火はまた傍観者となる。鬼神であってほしいと、不謹慎にもそう思った。

「芙蓉がいるな。止めるぞ」

 山道の途中、少し傾斜が緩やかになった辺りで、緋緒は横向きに停車させた。むろん、場所も山道のど真ん中だ。

 いつも思うのだが、彼らは本当に教習所に通ったのだろうか。通っていたとしても免許を持っているのかどうか怪しい。人が入ってこられないようにとの配慮かもしれないが。

 緋緒に続いて外へ出ると、芙蓉が木の幹にもたれて手を振っているのが見える。腰には長刀が提げられており、紐をベルト穴に通しているようだった。

「お疲れ」

「お疲れさまー」

 芙蓉の声は、普段よりトーンが一つ低かった。雪火は怪訝に眉をひそめるも、緋緒は気にする様子もなく彼女に歩み寄る。

 芙蓉しかいないのだろうか。考えながら視線を落とすと、リュックを背負った紅がこちらに背を向けてしゃがんでいた。どうも地面を見ているようで、頭が下がっている。

「……紅?」

 問いかけると、彼女は勢いよく顔を上げた。背後にいた雪火をみとめると、大きな目を輝かせる。子供のようだ。

「雪火! お疲れさま!」

「お疲れ様。なにしてるの」

 紅は雪火を見上げたまま、地面を指差した。子供のような指が示した先を見ると、小さな虫がいた。体をすっぽりおおうほど大きな羽は涙型で、虹色に光っている。頭は、もう少し近付かないとよく見えない。

 これは魍魎になる前の姿で、一般人でも殺せる妖だ。姿はそれぞれ違い、こんなにきれいなものは珍しい。虫は見つけ次第全て殺すのが決まりだが、もったいないような気がした。

「きれいだね」

 思ったまま呟くと、紅は嬉しそうに頬を染めた。そして大きく何度もうなずく。

「でも殺さないとならぬ。もったいないな」

 紅は相変わらず舌ったらずに、そうぼやいた。肩を落としてため息をついた彼女は、ひょいと虫をつまむ。そして、嫌な顔をした。

 覗き込んでみると、その頭部は猿鬼に似ていた。生えた手足も、魍魎の粘土細工のようなそれと大差ない。あれより小さくて、きれいな羽が生えているだけだ。

 やっぱり虫は虫か。少し落胆した雪火は紅と顔を見合わせ、肩を落とす。

「やっぱり気持ち悪かったな」

 虫をぱちんと両手で潰し、紅は立ち上がった。緋緒と芙蓉は、遠巻きに二人を眺めている。あからさまに嫌な顔をしていた。

「雪火も虫……平気なの?」

 おずおずと問いかけてきた芙蓉にうなずいて見せると、彼女は渋い顔をした。虫が苦手な女性は多い。掌より小さくて羽が生えて飛ぶだけで、何故嫌なのか雪火には理解出来ない。

 小さくため息をつき、緋緒はタバコに火をつけながら山道を登り始めた。傾斜は緩やかで、体力のない雪火でも普通に歩けそうだ。出来る限り歩きたくはないが。

「来たはいいが……社がどこにあるか分からんな」

 緋緒の呟きに、雪火は絶望した。まさかこの山の中を歩き回らなければいけないのだろうか。

 山道以外に、車が通れる道はない。元々誰かが山頂で祈るためだけに作った道だから、他には必要ないのだ。人の出入りも、当然そうそうない。

 少しでも天に近い場所で祈った方が、神によく届く。昔の人はそう考え、山に道を作って頂を目指した。土地神は島にいるが、高位の神は天にいる。昔は土地神ではどうにもならない天災が起きた時には、天に祈ったようだ。今は全て人が自力でなんとかするようになってしまったが。

「探すのです?」

「ああ。探すだけでも夕龍を連れてくれば良かったな」

 夕龍が雑用係のような言いぐさだった。緋緒も探し回るのは嫌なようだ。紅はふうんと鼻を鳴らし、辺りを見回す。

「あっちだ」

 ん、と返して、緋緒は紅が指差した方へ足を向ける。彼女は感覚が鋭いらしく、昔からどこに妖がいるか分かったそうだ。

 緋緒の後について歩いていると、不意に違和感を覚えた。しかし、雪火に鬼神の気配など、わかるはずもない。隣を歩く紅は、しきりに辺りの様子をうかがっていて、大人しい。

 そうだ、静かすぎるのだ。ようやく思い至って歩きながら振り向くと、芙蓉は下を向いていた。普段なら何かと喋っている彼女が静かだったから、違和感を覚えたのだ。

 思い悩むような表情を浮かべる彼女に、普段の明るさは見えない。少し厚く幅の広い唇も、心なしか青ざめて見えた。

 この間から、芙蓉は元気がない。何かあったのだろうかと訝っていると、彼女は不意に顔を上げた。雪火と目が合って、あいまいに微苦笑する。

「ダメだね、私」

 小声の呟きは、先頭を歩く緋緒には聞こえなかっただろう。紅は落ち込んだ声に芙蓉を振り返ったが、首をひねっただけで、すぐに向き直る。

「龍士じゃなかったら、なんて……考えちゃうの」

 彼女はやっぱり、嫌なのだろう。おそらくそれ自体ではなく、戦うことが。ひいては、女性らしく生きられないことが。

「夢でしかないの。好きな人と結婚して、ふつうの家族みたいに、ふつうに暮らすって」

 彼女がどんなに望んでも、彼女が恋する誰かとは、絶対に結ばれない。それが誰なのかも気付いていたから、雪火は口を挟まなかった。

「ふつうの女の子に、なりたかった」

 あまりにも切ないその響きに、雪火は思わず芙蓉から視線をそらした。緋緒なら多分、叱るだろう。それとも、慰めるだろうか。

 緋緒と芙蓉は、幼なじみなのだそうだ。小さい頃から一緒にいても、性格はずいぶん違う。それはまさしく、明るい辰輝と陰気な雪火に似ていた。

 黙り込んでいると、芙蓉は小さく声をもらして笑った。笑顔を浮かべてはいるが、いつものような明るさはない。

「君は黙って聞いてくれるから、つい話しちゃうな……ごめんね」

 黙っているわけではなく何も言えないだけなのだが、雪火はやっぱり、黙っていた。否定するのも、妙な気がしたから。

「緋緒様、そこ」

 紅が緋緒様と呼ぶのは、夕龍が年中呼んでいたせいでうつったからだそうだ。そのわりに、たまにお姉ちゃんと呼んで渋い顔をされている。

 紅が指した先、木々の間に、光が見えた。注意深く見ていなければ気付かないほど淡く、気付けば無視できないほどはっきりと見える。蛍光灯の光のようでもあったがほのかに赤く、いびつな人型を形成していた。

 あれが、神なのだろうか。隣の紅を見ると、かたい表情を浮かべていた。緋緒も懐から銃を取り出し、安全装置に指をかける。緊張した気配を見せながらも、ためらいなく近付いて行く緋緒がさすがだと、雪火は思う。

 背後にいた芙蓉が小走りで緋緒の隣へ行き、刀を抜いた。瞬間、光がまたたく。

 驚いて身を引いた時にはもう、光は芙蓉の目の前にいた。彼女は刀を横にしており、止めているようだ。光が淡すぎて、よく分からない。これが、鬼神なのだろうか。

「……ん?」

 緋緒が怪訝な声をもらした。気付いたのか気付かなかったのか、芙蓉は刀を振って光を押し返す。

 鬼神は重さを感じさせない動きで大きく飛び退いて、離れたところへふわりと降り立った。息を吐いたのだろう、力のこもっていた芙蓉の肩が、少し落ちた。そこを見計らったかのように、鬼神の周囲に無数の光の玉が現れる。

「紅、雪火、木の裏にいろ。笛は効かん」

 言われて、慌てて手近な木に身を隠した。橙色に輝きながら鬼神の周囲を浮遊する玉は、一瞬その光を増す。かと思うと、対峙する二人に向かって飛んだ。

 雪火なら、避けることも出来なかっただろう。しかし緋緒は瞬きの内にその殆どを撃った。霊力もさることながら、射撃の腕自体も洗練されている。

 一方芙蓉に、いつものような速さはなかった。いくつかは切り捨てたものの取り零して、慌てて避ける。その足を玉がかすめ、彼女は小さくうめいた。

「……いたい」

 芙蓉の呟きに、緋緒が舌打ちした。雪火はわけもなくはらはらする。

「下がっていろ」

「えっ……」

 芙蓉が驚いた声を上げる。緋緒は再び鬼神の周囲に現れた球体へ視線を注いだまま、重ねて言う。

「下がれ、離れていろ。邪魔だ」

 あんまりな言いぐさだった。絶句する芙蓉を無視して、緋緒は一歩踏み出す。

 光の玉が、一斉に彼女を襲う。緋緒は慌てるでもなくほとんどを撃ち落とし、間に合わなかった分は左肩を引いて避けた。いや、避けられない分だけ撃ったのか。

 あの銃をあれほど連射するのに、どれほどの霊力と集中力がいるだろう。緋緒は軽く使いこなしてしまうが、本来は三発以上連続して射ってはならないと指導される。

 それも、あまり続けて使用すると、霊力が足りなくなって倒れることもあるためだ。莫大な量の力を有する緋緒だからこそ、出来る芸当だろう。

 右腕を伸ばし、緋緒は続けて鬼神を撃つ。しかしどこを狙っても、陽炎のように揺らいで避けられてしまう。彼女が食い止めている内に、芙蓉は二人の方へ走ってきた。

「ヘンだな」

 紅の呟きに芙蓉は頷いたが、雪火には何が変なのか分からなかった。

「なんで避けるんだろう……霊力は吸っちゃうはずなのに」

 鬼神であっても、神は神らしい。そうなるとむしろ、緋緒が撃っていることが変に思える。

 緋緒はしばらく撃ち続けていたが、やがて苛立たしげに舌打ちして、銃撃をやめた。とたんに、鬼神の周囲に光の玉が浮かぶ。避けながらは攻撃出来ないらしい。

「耳を塞げ」

 言いながら、緋緒は銃をベルトに挟んで懐を探った。その間に玉が飛ぶが、彼女は横へ跳んで避ける。撃たなくても全部避けられるのではないかと、雪火は呆れた。

 しかし、何をするのだろう。言われるまま耳を塞ぎながら芙蓉を見ると、渋い顔をしていた。紅など、人差し指を耳の穴に突っ込んで目までつむっている。

 改めて見た緋緒は、横笛を口元に当てていた。考えるまでもなく、龍笛だ。

 しかしあれも、使用には霊力を必要とする。銃撃で消耗しただろうに、大丈夫なのだろうか。考えると不安になって、芙蓉に視線を移す。

「あの……筆頭は、平気?」

 一瞬怪訝な顔をした彼女は、少し考えてから微笑んだ。それもやっぱり、どこか浮かない。

「大丈夫。緋緒だもん」

 その一言で、大丈夫なのだと納得してしまった。しかし芙蓉も、よく雪火の意図が分かるものだ。

 感心したその時、内側から鼓膜を破らんばかりの強い耳鳴りがした。とっさに目を閉じて耳をふさいだ手を押し付けるも、大して変わらない。だが、しばらく待つと慣れてくる。耳鳴りは止まないが、痛みは徐々に治まった。

 おそるおそる目を開けると、龍笛を吹く緋緒が視界に入った。長い黒髪が風になびいており、スーツでなければ絵になっただろうと思う。

 名のとおり、天地を自在に駆け巡る龍を表すのが、龍笛の音だ。その音域は三管の内でもっとも広く、篳篥の主旋律を華やかに彩る。本来の用途として使えば、だが。

 しかしこの耳鳴りは、なんだ。

 自在に変化する音程から、確かに龍笛の音なのであろうことは分かる。だが、人にまで効くとは聞いていない。竜士のほとんどは龍笛を使うのに、これで大丈夫なのだろうか。そもそも、吹いている緋緒は何故無事なのだろう。

 外野の心配をよそに、緋緒は慣れた手つきで横笛を奏でる。そこで雪火は気付く。鬼神はどうしたろうと。

 耳の痛みをこらえて見てみれば、淡い朱色の光は大きく揺れていた。豆粒ほど小さくなってはまた膨らみ、陽炎のように揺らぐ。その動きは、苦しんでいるように見えた。

 龍笛は、神に効くのだ。そして、人にも。

 ふいに、光の色が白く変わった。そこでやっと、耳鳴りが止む。緋緒が吹くのをやめたのだ。

「愚か者、最初からバレバレだ。さっさと正体を現せ」

 雪火は我が耳を疑った。彼女は一体、何を言っているのだろう。正体も何も、鬼神ではないのだろうか。

 意見を求めようと紅を見るも、彼女もぽかんと口を開けていた。諦めて芙蓉を見たが、彼女は複雑な表情を浮かべている。とても話しかけられる雰囲気ではない。

「緋緒は昔から、一番だった」

 ぽつりと、芙蓉が呟く。

「成績もクラスで一番だったし、かけっこで負けたの見たことなかった。笛を吹いても射撃の腕も一番だし、霊力なんか、今じゃ双天一って言われてる」

 感情の読めない無表情で、芙蓉は続ける。雪火には、彼女も緋緒も近くにいるのに、どちらも遠い人のように思えた。

「ずっと、キレイだった。私、緋緒みたいになりたかったの。助けられてばっかりだったけど」

 いつの間にか、紅も芙蓉を見上げていた。困ったような表情だが、眉尻が下がっている。彼女も、声をかけられないのだろう。芙蓉の悩みを、紅は知っているだろうか。

「だから私、強くなったの。でも、そうじゃなかったの。私がもっとちゃんとしてたら……緋緒みたいだったら」

 そこで、芙蓉は唇を引き結んだ。その後にどんな言葉が続くのか、雪火にはなんとなくわかる。

 芙蓉はじゅうぶん、しっかりしていると思う。でも多分、彼女が言いたいのはそんな事ではないのだろう。ただ、好きな人と対等でありたいと、それだけで。

「名乗れ」

 しゃがれた、老人の声だった。息も絶え絶えにやっと出したような、そんな声。

 見れば、緋緒の膝下程度まで小さくなった光が揺らいでいた。あれが口を利いたのだろうか。神の声は、耳に直接聞こえるものではないはずなのだが。

「山を荒らす者よ。名乗れ」

「誰が荒らしたか馬鹿者が」

「名乗れ!」

 神相手にバカだの愚かだの言う緋緒が、雪火には信じられなかった。怒鳴られても動じる様子さえなく、呆れたため息をつく。

 しばらく、緋緒は答えなかった。龍笛をしまい、入れ違いに懐からタバコを取り出して火をつける。あれだから怒るのではないだろうか。

「五星筆頭、一条緋緒」

 揺らいでいた光が、ぴたりと止まった。一瞬、場に水を打ったような静寂が落ちる。

 やがてまた、光が揺れ始める。いや、違う。あれは震えているのだ。五星と言って分かるものなのだろうか。そもそも神が定めたことだから、知らないわけもないか。

「申し訳ございませんでした!」

「まあ待て」

 言いながら、緋緒はベルトから銃を抜きざまに地面を撃った。跳んで逃げようとしていた光の動きが、ぴたりと止まる。

 タバコをくわえたまま悠々と光に近付く緋緒を見つめたまま、三人は唖然としていた。紅など、さっきから口を半開きにしたまま閉じる気配もない。彼女は傍若無人にも程がある。

「私は正体を現せと言った。三つ数える前に……」

 緋緒が言い終わる前に、光が煙に包まれた。目を円くして見ていると、煙の下から毛むくじゃらの生き物が現れる。

「狸……?」

 ずんぐりむっくりした体と、体長と同じほどある大きな尻尾。くりっとした目は愛嬌があり、全体を見ると不恰好でもある。

 それはまさしく、狸と呼ばれる妖だった。これは魍魎が神の気を吸って成長したもので、悪意をもたず、人の言葉を解する知能もある。多く、地上におわす神に付き従っているようだ。時折気まぐれに人里に現れ、姿を見たものには幸運が舞い込んでくると伝えられている。

「申しわ……きゃー!」

 子供のように甲高い声に、また耳が痛くなった。緋緒は狸の首根っこを左手で掴み、目線の高さまで持ち上げる。逃げようともがく妖に、苛立たしげに紫煙を吹きかけた。

 止めなくていいのかと芙蓉を見ると、彼女は雪火に視線を合わせてひきつった笑みを浮かべた。いつものんきな彼女も、さすがに呆れている。

「緋緒に逆らったら……人生終わるから」

「人ではないぞ」

 紅の声に答える気力もなかった。呆れる三人に気付いているのかいないのか、緋緒は銃底で狸の額を小突き、上を向かせる。ようやくまともに彼女を見た妖の目には、涙が浮かんでいた。

「何があったか話せ。内容如何では許してやる」

「は、話します! なんでも話します!」

 よしと呟いて、緋緒は手を離した。狸はそのまま地面に落ちて、尻餅をつく。緋緒に言われたら、なんでも話すどころかなんでもやりそうな勢いだった。

 そこでやっと、緋緒は三人を振り返った。来いと言うのだろう。雪火は二人と並んで、おそるおそる彼女に近付く。

「こんなことをしておりましたのは、ここの山神様が実家にお帰りになっておられるからでございます」

 しょぼくれて肩を落としたまま、狸は話し始めた。

「山神様は近頃お体の調子がすぐれず、しかしお忙しくていらっしゃったので出雲に帰ることも出来ず」

「妖が増えたのは、神が弱っていたからではないのか?」

「違います。何年前からだったか、ここいらに邪竜が増えてきまして……そいつらをとどめておくのに、お力を、使いすぎて……」

 狸の目に、みるみるうちに涙が浮かぶ。彼は、山神に付き従っていたのだろう。

 ふいに、緋緒が腰を落とした。座り込んだ妖の正面にしゃがむと、その頭に手を乗せる。狸は驚いたように顔を上げてから、はっとして両手でごしごしと目をこすった。

「わ、わたくし、しがない狸でございますが……一応、この山一番の古株でして。療養されてる間、代わりの神様がいらっしゃるまで山を守るようにと神通力をお貸し頂いて、こうして務めて参りました」

「だから神気があったのか」

「はい。ただ、やはりわたくしには荷が重すぎましたようで……山に立ち入る者がみな敵に見えてしまっておりました。みなさまにご迷惑をおかけしました」

 言って、狸は深々と頭を下げた。緋緒はその頭をまたぽんと撫で、彼が顔を上げると、微笑んで見せる。

「重かったろうな。ありがとう」

「そ、そんな……!」

 微笑む緋緒と目が会うと、狸は自分の尻尾を掴んで肩をすくめた。子供が照れたようなしぐさだ。

「そんな……わたくしは」

「代わりの神がおいでになるまで、山は我らが守ろう」

 もじもじと尻尾を両手で持ったまま、狸は視線だけを上げた。うかがうようなしぐさが、妙に人間じみている。

「何かあったら知らせてくれ。いいな?」

「そんな……五星様のお手を煩わせるわけには……」

 言ってからはっとして、狸は尻尾をまさぐった。何かと見ていると、いびつな形の葉を取り出す。てのひらと同じほどの大きさで、暗い緑色をしていた。

 それを両手で持って、狸は芙蓉の足下へ進み出る。彼女はきょとんとしたまま、妖を見下ろした。

「これ……足、すみませんでした」

「え、何?」

「貼っておくとすぐ治ります。すぐです」

 首をひねりつつ、芙蓉は差し出された葉を受け取る。それから、やっといつもの顔で笑った。

「ありがと!」

 妖は何度も頷いて、次に雪火を見上げた。思わずどきりとする。

 真っ黒な目は、探るように彼女を見つめる。居心地の悪さを覚えて視線をそらすと、視界の端で妖が肩を落とす。悲しげなしぐさだった。

「あなた様の傷は……治せませんね」

 ケガはしていない。だから彼の言う傷というのがなんのことなのか、すぐに分かった。

 分かってしまったから、雪火はうつむく。自分自身見ないように、気付かないようにしてきた傷でも、ばれてしまうのだ。指摘されたところで、癒してほしいとも思わない。

 でも、きっと、そう思うこと自体が。

「……気にしないで」

 ほうっておいてほしかった。狸はしゅんと肩を落としたが、緋緒は眉をひそめている。たぶん、気付かれている。彼女にも。

 だから、緋緒が怖い。芙蓉が眩しくて見られない。紅にうまい言葉がかけられない。他人の目にはさらしたくない傷口を、覗かれてしまうような気がするから。


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