第二章 少女願望 五
五
芙蓉の悲鳴が、遠く聞こえる。
諦めて目を閉じたはいいが、少し待ってみても、衝撃はなかった。怪訝に目を開けると、そこには広い背がある。
思わず、目を丸くした。
「五百年ぶりに見たな、お前のソレ」
高くも低くもない癖のある声は、碧龍のものだった。呆れ半分嬉しさ半分といった微妙な表情を浮かべ、彼は黒龍を見ている。まだ自分に意識があることが、雪火には不思議だった。
「言いすぎだ。せいぜい三百年だろ」
応えた黒龍は、三メートルはあろうかという棒を持っていた。棍と言っただろうか。竜士も呪具として使うことはあるが、こうまで長いものは雪火も初めて見た。
漆を塗ったように黒光りする棍は、しっかりと竜の爪を受け止めていた。かばわれたのだと、雪火はそこでようやく理解する。
幽鬼のようにゆらりと動いた邪竜は、もう片方の前肢を黒龍の頭上に振り下ろす。しかしそれも、傾けられた棍に止められた。見るからに重量のありそうな棍棒をペンでも回すように軽々と回転させ、黒龍は爪を弾き返す。雪火を背にかばう形で立つ彼は、不意に肩越しに振り返った。
そこで雪火と目が合うと、黒龍はあいまいに微笑む。普段なら鋭いばかりのその目が、今は優しく細められていた。
どういった心境の変化だろう。一回転させた棍をきつく握り直す黒龍の背を眺めながら、雪火はぼんやりと思う。こんなこと、今までしたことがなかったのに。それに。
魂を食べるのでは、なかったのだろうか。
前肢を弾かれて一旦のけ反った竜が、更に起き上がろうとする。しかしそれよりも早く、黒龍は棍を立てて邪竜の首の傷口へ突き入れた。赤黒い血が噴出し、彼の顔を濡らす。そこで引き抜くかと思いきや、そのまま竜が刺さったままの棍を持ち上げる。
「返すぞ」
さざなみのようなざわめきが、かすかに聞こえる。黒龍は大きく棍を振り、竜の死骸を投げた。そう飛ぶこともなく落ちて、芙蓉が斬った竜の上に重なる。わざとやったように見えた。
「黒龍……黒龍だ」
呟いた声は、誰が発したものだったか。少なくとも、同僚達の声ではない。
いつしか、場は水を打ったように静まり返っていた。芙蓉も夕龍も、突然攻撃の手を止めた邪竜達に戸惑って立ち尽くしている。二人とも困惑したような面持ちだ。碧龍だけが、腕を組んで渋い顔をしていた。
「俺が何か?」
揶揄するような言い方だった。邪竜は動かないまま、黒龍を見つめている。
この反応は、なんなのか。
ふと緋緒を見ると、億劫そうにタバコに火をつけていた。唇をすぼめて煙を吐き出す姿が、いやに艶かしい。いや、何故今タバコに火をつけたのか。
「さっさとやれ。時間がもったいない」
誰も異を唱えなかった。その声で我に返ったように芙蓉が刀を構え、夕龍が拳を握る。今日まで全く動かなかったはずの黒龍までも、棍を握って駆け出した。
邪竜達は、他には目もくれなかった。どうしたわけか、一様に黒龍へ向かって殺到する。さすがに違和感を覚えて口を開きかけたが、緋緒の視線に制された。
「口を利くな。奴らは多分お前を狙ってくる」
狙われるなら緋緒の方ではないのかと思ったが、黙っていた。わざわざ逆らう意味もない。
邪竜が一斉に向かってきても、黒龍は動じなかった。薄ら笑いを浮かべたまま、唇を舐める。どこか愉しそうなそのしぐさを見る限り、今までも戦うのが面倒だったわけではないと思われる。
迫る四体のうち一体は追い付いた夕龍が尾を掴んで止めたが、三体はそのまま黒龍に牙を剥いた。三方から鋭い牙が迫ってきても、彼は余裕の表情を崩さない。
「けだものの貴様らとは格が違うんだよ」
低く呟いて、黒龍は大きく棍を振る。二体は避けたが一体はまともに打たれ、頭から吹っ飛んだ。その先で待ち構えていた碧龍が刀に手をかけると、気配を感じ取ったのか、竜は尾で地面を掻いて失速し、止まる。
そこへ狙い済ましたかのように芙蓉が飛び込み、頭部めがけて突く。頭を下げて避けられ、鱗がわずかに剥がれただけだった。足止めを食らった竜に、碧龍が一歩で近づく。
姿勢を低くした彼を嘲笑うかのように、邪竜は跳ねる。刀が抜かれる前に舞い上がったはいいが、少し、早すぎた。
碧龍は助走もなしに、垂直に跳ぶ。普通の人間なら跳べそうにない高さだったが、竜を追うには低い。それでも、得物のリーチと相手の体長を考えれば充分だった。
目にも留まらぬ速度で抜かれた刀の刃が、邪竜の腹を裂く。身をよじって追撃こそ避けたものの、深手は深手だ。着地と共に納刀した碧龍の頭上に、竜の腹からこぼれた血が降り注ぐ。
「二人でかかるなら、片方持って行ってくれないか」
二体を相手取る黒龍は、言葉とは裏腹に余裕の笑みを浮かべていた。左右から迫る牙を後ろへ跳んで避けたかと思うと、次の瞬間には踏み込んで突く。また左右に分かれて回避されたが、彼はそこで更に一歩踏み出し、棍を回転させた。
「やなこった。しばらく働かなかったんだからお前がやれ」
「手厳しいな筆頭は」
竜共は逃げようとしたものの、さすがに間に合わない。双方顎と鼻先を引っ掛けられ、回転に任せて上下へ弾かれる。太い枝が砕けるような、嫌な音がした。見た目通り、あの棍はかなり重量がありそうだ。
頭から上方へ飛んだ方は無視し、黒龍は地面へ叩きつけた方へ視線を落とした。竜もすぐに起き上がろうとしたが、それより早く黒龍の足が頭を踏みつける。行動の支点となる頭を踏まれては、竜も抵抗できない。
回した棍を立てて握り直し、黒龍は邪竜の鼻めがけて先端を突き立てる。弾かれるかと思われたが、銅板を金槌で叩いたような音と共に、棍は鋼の鱗を突き抜けた。
「寝てろ。後で遊んでやる」
黒龍はもがく竜を縫い止めた棍を地面に深々と突き刺して、上空で宙返りして方向転換したもう一体へ向き直る。武器は手放してしまったというのに、彼は未だ笑みを崩さない。
「土龍は便利だな」
緋緒が呟いたその時、地に向けてかざされた黒龍の掌へ吸い寄せられるように大量の砂が集まる。上空の竜が降下を始めると同時、砂が彼の手の中で棍を形成した。地に伏した竜を縫い止めるものと、全く同じだ。あの棍の材料は土だったのだ。それも、不必要なほど大量の。
黒龍が棍を握った時にはもう、竜は彼に肉薄していた。黒龍は反射的に棍を立て、食らいつこうとする口を止める。竜はすぐさま首を引き、空中で上体を起こした体勢のまま尾を振った。黒龍は立てた棍をそのまま体の横へ持って行く。
頭に触れる寸前で尾も止めたかと思うと、竜が退くのを予想していたかのように棍を水平に傾け、横から首めがけて突く。紙一重で避けられたが即座に得物を左手で持ちかえ、一歩踏み込んで今度は大きく振った。
しかしそれも後退することで避けられ、黒龍は小さく舌打ちを漏らす。再び右手で得物を掴んだ時には、竜は上昇していた。
間合いの外まで逃げた竜は、空中で立ち上がったような体勢のまま、尾だけを軽く振った。二三枚の鱗が飛び、黒龍へ向かって行く途中、鋼の矢に変じる。竜も術の使用には途方もない力を必要とするらしく、あまり使おうとしない。それがああして使ってきたのだから、向こうも切羽詰まっているのだろう。
まっすぐに飛んだ矢は棍を振った風圧で失速し、落ちた。黒龍が大きく振った得物を構え直す前に、邪竜は降下する。彼はとっさに棍を立てて構え、突撃してきた竜を受け止めた。
開かれた口に対して斜めにした棍がつっかえて、竜は噛むことも出来なかった。黒龍は左手で棍の上方を掴み、さらに傾けようとする。双方力をこめると一瞬で邪竜の方が競り負け、棍が鼻先を引っかけたままねじるように回転した。獣の悲鳴が上がり、竜の首があらぬ方向を向く。
鬱陶しそうに濃い眉をひそめ、黒龍は地に落ちた竜の鼻先を踏みつける。棍を脳天に当てると、とたんに暴れ出した。もがく竜は、濁った目を見開いてなんとか逃げようとする。
「一発じゃ死なないか?」
子供にかけるような甘い声が、不気味だった。竜の頭頂部を棍の先で確かめるように軽くつついてから、彼は腕を振り上げる。そしてまた銅板を叩いたような音と共に、なんとも言いがたい鈍い音がした。
棍の先は、竜の頭を突き抜けていた。得物を抜くと、邪竜は陸揚げされた魚のように弱々しく動くばかりで、もう抵抗しない。黒龍は鼻白んだかのように肩をすくめ、止めを刺さないまま、縫い止めておいた竜に向き直った。
一方夕龍は、まず引っ張った竜の尾をたぐり寄せて腹に拳を入れた。元々ただれていた腹が更にえぐれ、血がしたたる。力以外に、火の気で焼かれたせいもあるだろう。
竜は咳き込みはしたものの、それだけだった。彼らは体長の割に内臓が一ヶ所に集まっており、うまく狙わないとさしたるダメージも与えられない。だから先ほどから、芙蓉も碧龍も喉ばかり狙っている。
尾を離した手が拳を握る間に、竜は一旦空中へ退避する。もう黒龍ではなく、夕龍に狙いを定めたようだった。ある程度の高さまで上昇すると、一気に降下する。
間に合わないわけでもないだろうに、夕龍は避けようともしなかった。降下する竜を見上げて、きつく拳を握る。
何をするかと思えば、夕龍は頭から丸呑みせんばかりに大きく開かれた竜の口に、拳を突き入れた。白濁した邪竜の目が大きく見開かれ、にわかに暴れだす。逃げようとしているようだったが、太い腕をくわえこんだまま、身をよじってのたうつばかりだ。
「もう退け。俺に勝てない事ぐらい分かるだろう」
夕龍の声は、落ち着いていた。邪竜は苦し紛れに彼の腕を噛んだが、皮膚に触れたとたんに牙が溶け出す。竜にとって気というのは、かくも肉体に影響するものなのだ。
竜の耳から、黒煙が立ち上る。夕龍は舌を掴んでいるのかもしれなかった。
「退けと言われて退くなら、お前に気付いた時点で逃げてただろうな」
夕龍に歩み寄った黒龍が担いだ棍の先には、事切れた邪竜が刺さっていた。死骸を無造作に放り投げる彼を見て、夕龍は眉をひそめる。
「お前、なにもそこまで……」
「甘すぎるんだよお前は。勝手にキレるくせに……ん?」
何かに気付いたように呟き、黒龍は空を見上げる。頭頂部に近い位置で結われた黒髪が振れ、風に乗ってなびいた。
「なんだ?」
「……いや。いいからさっさとそいつをなんとかしろ」
渋い表情を浮かべ、夕龍はほとんど動かなくなった邪竜を見る。腕を引き抜くと、その場に倒れこんで身じろぎ一つしない。生きてはいるだろうが、もう抵抗する力が残っていないのだろう。
残すところ、あと一体。だがこちらはさした進展もないまま、睨みあっていた。
そのうち、碧龍が怪訝な顔をする。黒龍と同じように空を見上げかけたが、そこで邪竜が動いたので、慌てて応戦した。
「まだ来るか。もう無理だな」
唐突に、緋緒が呟いた。何事かと考えた矢先、悲痛な絶叫が響き渡る。見れば、芙蓉の刃が竜の脳天を貫いていた。
これで終わりか。そう思った時、緋緒が銃を握った右手を高くかかげた。そして何もない上空に向かって、一発。こだました銃声は空気に拡散し、やがて消えた。
「避けろ!」
碧龍が怒鳴った。一歩で跳んで、黒龍は雪火の前に立つ。それから空を見上げ、腕を高くかかげて棍を回転させた。金属音と銃声が、断続的に鳴り響く。
「緋緒!」
何が起きたのか、雪火には分からなかった。碧龍は反応の遅れた芙蓉を片腕で抱え込んで、刀を握ったまま凍りついたように緋緒を見ている。黒龍は棍を握ったまま、同じく愕然と緋緒に視線を注いでいた。
周囲には、鉄製の矢がいくつも散らばっている。皆、あれを払い落としたのだろう。雪火が見上げた時には何もなかったように見えたから、かなりの速度で飛んできていたようだ。龍達は当然ながら、緋緒の反応速度は人間業とは思えない。
緋緒はまだ、空を見上げたまま立っていた。銃声が聞こえたから撃ち落としたのだろうに、彼女の左肩には一本だけ、矢が刺さっている。そう深い傷ではないようで、緋緒はあっさりと矢を抜いて無造作に放り投げた。
しかし、全員緋緒を見つめたまま凍りついたように動かなかった。彼女が怪我をしたことがそんなに意外だったのだろうか。龍士である限り、傷を負うことはあるだろうに。
怪訝に眉をひそめる雪火の頭上に、影が落ちる。見上げれば、上空に赤くただれた腹が見えた。五体ほどいるだろうか。邪竜たちは、旋回しながらゆっくりと降下する。
「……おい、てめえ何してやがる!」
突然怒鳴ったのは、碧龍だった。彼の腕に抱えられたままの芙蓉がその声で我に返り、身を乗り出す。彼女は涙目だった。雪火はますます混乱する。
「なんで? 絶対避けられたよね、全部撃ち落とせたよね? なんで?」
「緋緒様、あなたという方は……」
呆れ果てた様子で、黒龍がため息混じりに呟く。彼は多分、雪火と同じことを考えているはずだ。緋緒は鼻で笑うだけだった。
それにしても、真っ先に心配しそうな夕龍が黙りこんでいるのは何故なのだろう。訝しく思って見てみれば、彼は数本の矢を握りしめて硬直していた。まさか、あの速度で飛んできた矢を掴んだのだろうか。
目を見張ったまま微動だにしない夕龍は、かすかに唇をわななかせていた。何事か。意見を求めようと黒龍を見上げるが、彼は乾いた笑いを漏らして目をそらす。
「おい、お前ら乗れ。早くしねえと死ぬぞ」
見ると、いつの間にか龍へ姿を変えた碧龍がいた。背には芙蓉が横座りしており、雪火に片手を差し出している。その表情は戦っている時と同じく、真剣なものだった。
戸惑っていると、緋緒が悠々と歩いてきて龍の背にまたがった。視線で促されたので、雪火もおそるおそる芙蓉の手を取る。透き通るように碧い鱗はひんやりとして、少し湿っているように感じた。
「すみませんね筆頭」
「ふざけんな、てめえは降りろ」
「アオさん早く上って!」
ちゃっかり雪火の後ろに腰を落ち着けた黒龍は、満面の笑みを浮かべていた。こんな時でも仲は悪い。
それにしても。
「あの……何が」
邪竜達と入れ違いに碧龍が舞い上がってから問いかけると、緋緒の傷を見ていた芙蓉が振り返って、苦笑いした。避難して落ち着いたのか、もういつもの笑顔だ。
「ユウちゃんはねー、緋緒のことでしか怒らないの」
「……ええと」
意味が分からなかった。戸惑う雪火の耳に、碧龍のため息が聞こえる。視線を落とすと、舞い降りた邪竜達がひとり残った夕龍を囲んでいた。あのままにしておいて、いいのだろうか。
足下が、やけにぬるい。上空は寒いはずなのに。
「セキがキレる」
碧龍が呟くと同時、足下から熱風が吹き上げる。目を円くして見た先には、もう一体の龍がいた。
あまりに鮮やかな橙色の鱗は、燃えているように見えた。たなびく長いたてがみは漆黒で、禍々しくさえある。鈍色の太い角は内側に湾曲し、コールタールのように光る。碧龍より一回り小さいその姿は、噂にしか聞かなかった夕龍そのものだった。
竜の中でも、火竜は抜きん出て気性が荒い。使役は厳しく制限され、まともに命令を聞くものはめったにいないと言われている。その長は最も好戦的で、猛々しいものと聞いていた。
夕龍の名には、天王がその性質を厭うて赤を避け、鱗の色を夕陽に例えて夕の字を使ったという。あまりに凶暴で、強力であったがゆえに。
「何代にも渡って一系の主に使役される内にあそこまで大人しくなったが、キレちまえば夕龍は夕龍だ。俺にも止められん」
足が熱い。熱いのに、爪先から寒気が這い上がってくる。思わず身震いすると、前にいた芙蓉が雪火を見て、微笑んだ。
柔らかな微笑に、少し落ち着く。しかし眼下から聞こえた咆哮に、また身を硬くした。
天地を揺るがす咆哮はあの夕龍が放ったとは思えないほどの大音声で、木々の間に長くこだまする。一瞬にして総毛立ち、雪火はこらえるように拳を握った。
――御身を傷つけた罪、断じて許さん。
地獄の底から響くような声は、頭の中に直接聞こえた。夕龍を囲んだ邪竜達が、怖じ気付いたように身を引く。
瞬間、夕龍が一体に踊りかかった。首に食らい付いて骨ごと鋼の鱗を噛み砕き、吐き捨てる。邪竜は熔けてただれた首から先が動かなくなっても、まだ生きているようだった。
しかし夕龍はそちらにはもう目をくれず、一回転して、上空へ逃げようとしたものに向かって尾を振る。太い尾に胴を叩かれ、竜は悲痛な声を上げた。強い火気を帯びた体に触れただけで、鋼の鱗がその下の肉ごとごっそりえぐれる。真っ赤な肉の覗いた背は、その奥の脊椎までも焦げていた。
龍は回転した先で後肢の爪に一体の腹を引っかけ、蹴飛ばすようにして裂く。ちぎれた肉片と血が飛び、竜の腹からぞろりと臓物がこぼれた。芙蓉が小さくうめき、顔をしかめて目をそらす。
「おいアレ……止めなくていいのかよ」
碧龍の声は、ひきつっていた。緋緒は小バカにしたように鼻を鳴らすだけで、応えない。やっぱり緋緒はわざと矢に当たったのだと、雪火は確信した。
上空の凍った空気とは対照的に、下界では淡々と一方的な虐殺が繰り広げられていた。腹を裂いた竜の動きが鈍ったのを認め、夕龍はその首に食らい付く。一噛みで喉を潰された邪竜は断末魔さえ上げられないまま、力なくうなだれた。
「しかし、失敗したな……あそこまでやるとは」
呟いた緋緒は、苦い表情を浮かべていた。さすがに予想していなかったようだ。しかし、今更止めることも出来ないだろう。
夕龍はくわえた死骸を、大きく首を振って無傷の二体に向かって放り投げる。弛緩した体がそれぞれの頭部と胴に激突し、一瞬動きが止まった。その隙に近付いた龍は、体をひねるようにして尾を叩きつける。
一体は辛うじて逃げたが、もう一体は弾き飛ばされて木に激突した。そちらは追わず、夕龍は空へ逃げた方に追いすがる。悪夢のような速さで行く手に先回りし、大きく口を開けて威嚇した。その鋭い目の奥で、漆黒の炎が揺れる。
怯んだ邪竜が方向転換しようと地上を向いた瞬間、夕龍は無情にもその牙を剥く。後頭部に噛みついて押さえつけ、一つ一つが子供の腕ほどはある前肢の爪を、鋼色の背に立てる。獣の悲鳴が上がったが、夕龍は慈悲のかけらも見せず、背中を引き裂いた。
邪竜の背がぱっくりと割れ、おびただしい血が地面を黒く染め上げる。もう興味をなくしたようにまだわずかに息を残した竜を投げ捨て、夕龍は最後の一体に近付く。上体を起こして龍を見つめる邪竜は、低いうなり声を上げていた。
それをかき消す咆哮と共に、夕龍が竜に飛びかかる。舞い上がって逃げた邪竜は、即座に方向転換して龍の首へ牙を突き立てる。
だが、その牙は橙の鱗の一枚も通さないまま熔け落ちた。禍々しい炎を映す双眸が竜を向き、巨大な口が開かれる。諦める間も覚悟を決める間もなく、邪竜は地面に叩き付けられた。
主の敵を鋭い爪で地面に縫いとめ、夕龍は覗き込むようにして竜の首に牙を立てる。邪竜は暴れて逃れようとするも、もがけばもがくほど、爪が深く食い込んだ。
夕龍が下げていた頭を勢いよく上げると、聞いたこともないような、嫌な音が響いた。胴から無理矢理引きちぎった首を投げ捨て、彼は空へ舞い上がる。返り血にまみれた龍は、益々赤く燃えているように見えた。
ある程度まで上昇すると、夕龍は地上に向かって口を開く。何をするのかと雪火が怪訝に思った時、緋緒が身を乗り出した。
「まずい。ダメだ、降りろ」
「今降りたら俺が死……おい何やってんだ!」
間に合わないと悟ったか、緋緒は履いていた靴を放り投げて、碧龍の背から飛び降りた。むろん低い高さではない。無謀だ。
しかし彼女は着地の瞬間膝を折って衝撃を和らげ、即座に走った。行く先は、夕龍の真下。
「あいつ本当に人間か……」
碧龍が呆然と呟いた。芙蓉はまだ目をつむっていたが、その声に気付くと、やっと地上を見下ろす。
夕龍の周囲が、陽炎に揺らぐ。緋緒は彼の真下に立ち、空に向かって片手を差しのべる。龍の口が閉じられ、陽炎が消えた。
空へ伸びた緋緒の手が、拳を握る。それから人差し指が下を向き、促すように動いた。
「私を見下ろすとはいいご身分だな。さっさと下りてこいグズ」
必死だった割に、いつもの調子だった。夕龍は即座に地上へ降りて行き、緋緒の目の前で止まる。上体を起こした体勢で彼女を見つめる龍の目に、もう炎は映っていない。
「主……」
いつもの夕龍の声だった。碧龍が安堵のため息を漏らすのが聞こえる。
「……筆頭、奴は」
「言うな」
黒龍は何か言いかけたが、碧龍に制されてすぐにやめた。肩越しに盗み見ると、彼は視線を落として表情を曇らせている。
「落ち着いたか? すまなかったな」
風に乗って聞こえてくる緋緒の声は、優しかった。夕龍の目が細められ、頭が下がる。うなだれた彼は主の肩に鼻先を寄せ、そこについた傷を見ていた。
緋緒の手が、龍の鼻先を撫でる。一度目を閉じた夕龍はすぐに顔を上げ、主から少し離れた。そこでやっと、人の姿に戻る。
傷はないものの、彼は全身返り血にまみれていた。顔だけ手の甲でぬぐって、夕龍は緋緒の足下にひざまずく。精悍な顔は、悲痛に歪んでいる。痛みをこらえているように見えた。
「申し訳、ございません」
しばしの沈黙の後、夕龍は絞り出すようにそう言った。緋緒は眉ひとつ動かさず、彼を見下ろしている。
「申し訳ございません、主」
「いい。私が悪かった」
言ってから、緋緒は碧龍を見上げる。視線を受けて、彼はようやく高度を下げて行く。
おそらく、緋緒に悪気はなかった。一歩も動かなかったのも雪火のためだろうし、わざと矢を受けたのも、疲労が見える芙蓉を気遣っての事だったろう。だからきっと、誰も彼女を責めない。
ふと見ると、芙蓉がうつむいていた。思い詰めたような表情を浮かべる彼女が、雪火には別人のように思える。何を考えているのか。気にはなったが、聞くのもはばかられた。
ただ、思う。芙蓉は碧龍に対して、主従以外としての感情を持っているのではないかと。普段はおくびにも出さないが、そう思えてならなかった。
緋緒も芙蓉も直視できず、雪火は碧龍から降りて視線をさまよわせる。流した目線の先に、いるはずのない人影が映った。
太い木の後ろに隠れて、少年がじっとこちらを見ている。雪火の視線には気付いていないようで、ぎゅっと唇を引き結んだまま、そこから動こうともしない。どこか悲しげなその顔は、ついこの間見たものだ。
どうして、辰輝がここに。
声をかけられるはずもなく、雪火はしばらくの間、少年を見つめていた。やがて彼は、肩を落としてどこかへ去って行く。
追うことも呼び止めることも出来ず、雪火は立ち尽くす。嫌な胸騒ぎだけが、彼女を揺さぶっていた。