第二章 少女願望 四
四
その日、雪火は珍しく緊張していた。リードを浸けた水筒を握りしめ、身じろぎ一つしないまま車窓を見つめる。
「近頃の邪竜は金ばかりだ。傾いでいるな」
独り言のように呟く一条緋緒は、雪火とは反対になんでもなさそうな顔をしていた。切れ長の目を縁取る長いまつ毛が、白い顔に影を落としている。肩口を滑る切り揃えられた長い黒髪を邪魔そうに払って、彼女は雪火に書類を差し出した。
受け取ってから、雪火は緋緒を見上げる。意識的に、胸を見ないようにして。中性的な顔立ちとは裏腹に、彼女の体は起伏が激しい。無気力無感動な雪火にも、コンプレックスぐらいある。
「見ておけ。一応な」
うなずいて、雪火は紙面に視線を落とす。
以前蟲毒が出た山に、今度は邪竜が出たという。あそこは以前から山神の弱体化が危ぶまれ、妖が現れる頻度も高かった。神の力が弱まれば土地の自浄力も弱くなり、邪な気が集まる。そろそろ、神自体も危ないのではないかという話も聞いていた。
何がきっかけなのかは、誰にも分からない。だが、突然神の力が弱まってしまう事はある。神が怪我をしたからだとか、人々の信心が薄れたからだとか諸説あるが、明確な答えは出ていないようだ。研究のしようもないから、憶測でしか語れない部分もある。
そもそも人が住まない山において、信心が薄れたも何もないだろうと、雪火は思っている。昔ほどではないにしろ、人々は街が近代化した今でも、山に対する敬意を持っている。それは畏怖にも似て、今なお人々の足を山から遠退かせる。
「山は妖を生む」
隣を見ると、緋緒はタバコに火をつけていた。開けられた窓から冷えた風が吹き込み、香水のようなお香のような、甘い香りが漂ってくる。
緋緒のそばにいるといつもタバコに混じって匂ってくるが、何の匂いなのか、雪火は知らない。いい香りだとは思う。しかし、意外だ。
「山の霊気が死者の怨念と混じり、妖を生む。山に念が集まるのは何故か、知っているか」
「……山が悪い気を、持っていってくださるから」
うなずいて、緋緒はなびく髪を押さえる。あの銃を扱いなれているとは思えない、白い手だった。
「みだりに山へ立ち入ってはならない。そこには絶対に何かがいる。だが、それは」
「山のせいではない」
視線だけで雪火を見た緋緒は、口角を上げて薄く笑った。目尻がほのかに赤いのは、元々のようだ。
紅とはまた別の意味で、彼女は人間味を感じさせない。白い顔のせいではない。それにはたぶん、彼女の思想や空気が起因しているのだろうと思う。
でもきっと、雪火が彼女を恐ろしいと思う理由は、それとは違う。もっとあさましくて、自分自身考えたくもない理由。
「ぎゃっ!」
黙ってハンドルを握っていた夕龍が、唐突に叫んだ。雪火は怪訝に眉をひそめ、緋緒は舌打ちして上半身ごと後ろを向く。
つられて見れば、後ろの車の挙動が明らかにおかしかった。また黒龍が碧龍と口喧嘩しているのだろう。だからやめた方がいいと言ったのに。
「夕龍、無視しろ」
「し、視界に入るんですが」
「無視しろ。いいな」
正面を向いて座り直し、緋緒はタバコを携帯灰皿にねじ込みながら吐き捨てた。バックミラーに映る夕龍は、渋い表情で肩をすくめている。一般には滅多に人にかしずかないとされている火竜なのに、何故長の彼はこうなのだろう。
どこか野性味を感じさせる、精悍な顔つきの青年だ。浅黒い肌にしっかりした体格は、とても気弱そうには見えない。スーツを着ているせいで、肩口まで伸びた日焼けした髪がなければ、体育教師に見えただろう。
「だからやめてくれと言ったんです……筆頭と黒龍を同じ車に乗せるのは」
今にも泣きそうな声で、夕龍はぼやいた。本来ならつり上がっているはずの濃い眉は、今や情けなく垂れ下がっている。いや、いつもこうだったかもしれない。
「嫌なら見るな。お前は事故を起こすなよ」
「命に替えても」
「死ぬ前提か阿呆」
夕龍はどうにも、やる気が空回りしているようだった。若干の哀れみを覚えつつ、雪火はリードを水筒から取り出してハンカチで拭く。いちいち面倒だが、真夏でもホッカイロを持ち歩かなければならない紅よりはマシだろう。
車は徐々に、山道を登って行く。逐一揺れる悪路だが、今日は緊張しているせいか、気分が悪くなったりはしなかった。
「お前の篳篥は、鬼に効いたそうだな」
視線を合わせてうなずくと、緋緒は反対に顔をそむけた。窓の外へ目をやり、小さく息をつく。
「今日は試している暇もないかも知れん。紅はいつも付き合わせないし、正直、お前を連れてくることも迷った」
「なら、何故?」
濡れたように黒い彼女の目は、何も語らない。思考を読まれることを拒絶するように冷たく、ただ、見下ろしてくる。
「あれらがどういうものか、見せておくべきだと思った。心配しなくとも、芙蓉と碧龍が守ってやる」
必要ないと言おうかとも思ったが、やめた。あれら、ということは、単体ではないはずだ。
ならば必然的に、雪火にもその牙を剥くだろう。ここで笛が効かなければ、これから先、緋緒が邪竜の討伐に同行させることはないはずだ。たぶんこれが、最後の機会になる。
無論雪火にとってではなく、黒龍にとって。
「……主」
「何だ」
「その、まことに申し上げにくいのですが」
「だから何だ」
バックミラー越しに見た夕龍は、青い顔をしていた。これはまずい。
「……揺れで、気分が」
「止めろこのバカ!」
緋緒が焦ったように怒鳴ると、夕龍は慌てた様子でブレーキを踏んだ。雪火の頭を後続車両のことがよぎったが、さっさと降りてしまえばいいと思い直す。どうせこの車は竜士団の備品だ。
停車した瞬間シートベルトを外して、夕龍は転げるように車を降りた。運転手はふつう酔わないものなのだが。元々酔いやすいのかもしれない。
登ってきた山道をふと見ると、芙蓉達の車も少し離れたところで停まっていた。衝突は免れたようだ。
「全く世話の焼ける……おい、夕龍?」
そのまま吐きに行くかと思われた夕龍は、口を手のひらで抑えたまま固まっていた。まさか、切羽詰まりすぎて歩けないのでは。
さすがに見ない方がいいかと、雪火は顔をそむける。そらした視線の先には、碧龍の背中を撫でながら歩いてくる芙蓉がいた。まさかと思いながら黒龍を見れば、こちらも顔が青黒くなっている。
揃って車酔いか。思いはしたが、すぐに打ち消した。緋緒の表情が、険しかったためだ。
「碧龍。まずいか」
他よりは平気そうなものの、顔を上げた彼も苦い表情を浮かべていた。彼の肩を抱く芙蓉も、困ったような顔をしている。
「久々で体が驚いてるだけだ。しっかし、また隠してやがったな」
「どうせ我々は体のいい使いっ走りだ。いつものことだろう」
どういう意味かと考える雪火の前を通り、緋緒は夕龍に近付く。側まで来た主に気付くと、彼は口元をおおっていた手を離した。緋緒の手が、厚い背に添えられる。
「行けるか、夕龍」
普段の数倍、優しい声だった。彼女は彼女なりに、龍を気遣っているのだろう。
背筋を伸ばした夕龍は、表情を引き締めてうなずいた。もう、顔色も元に戻っている。竜と主人の絆とは、他人が思っているより深いものなのだ。
「無論です」
「ん。行くか」
あっさり夕龍から離れ、緋緒は山道を登り始める。目配せされたので、雪火は彼女の後ろを歩く。山道を登るのは嫌だったが、そうも言ってはいられない。
ふと気になって振り返ると、いつからいたのか、すぐ側に黒龍がいた。いつもなら、少し離れてしんがりを歩いてくるのに。そんなに気分が悪いのだろうか。
雪火の視線に気付いたのか、黒龍は伏せていた顔を上げて微笑んだ。弱い笑みだが、目だけは相変わらず鋭い。いつもより覇気がないものの、顔色は先よりマシだ。
「なんかやだねえ。変なかんじ」
雪火の背後にいた芙蓉が、ため息混じりに言った。彼女と歩調を合わせて隣を歩く碧龍は、もう普段とかわりない。
言われても、雪火には何が変なのか分からなかった。気は感じられないし、元々気配に聡くもない。龍共の反応が変だと思うぐらいだ。
竜というのはどうも、気に影響されやすいらしい。だから悪い気が溜まる場所にいると体調を崩すし、気配にも敏感だ。龍なら、尚更だろう。鋭いというのも、なかなか不便なものだ。
「のんきだな、お前は」
緋緒は芙蓉を肩越しに振り返って、呆れたように呟いた。隣で夕龍も苦笑している。
「のんきじゃないよー。やなだけ」
「嫌でも仕事だ」
きっぱりとつき放し、彼女は行く手へ向き直る。取り付く島もない。
芙蓉はしばらく不満そうに唇を尖らせていたが、雪火の視線に気付くと、あいまいに笑った。
「やだよねえ」
言いながら、芙蓉は雪火の隣へ並ぶ。雪火は別に嫌ではなかったので、答えなかった。
「ホントは私、やなの」
答えなくても、芙蓉は勝手に喋っている。雪火も疲れていたから反応する気はなかったが、思わず目を丸くした。そんな彼女に苦笑いして見せ、芙蓉は行く手へ視線を移す。
「緋緒みたいに割り切れないよ。生まれた時から私は五星で、他に選択肢がなくて」
それがどれほど辛いことか、竜士学校にいた雪火には分かる。
選ぶ道がない。それは雪火も同じことだったが、彼女には他に道があった。それが芙蓉の場合、一本しかなかったのだろう。
普通だったらと思うことは、雪火にもある。普通にふるまえるように努力してみたりもしたが、結局、無理だった。彼女の場合は、性格の問題だ。
「普通の女の子だったら、良かったのに」
何故だか、雪火の胸が大きく鳴った。同時に、芙蓉が哀れに思えてくる。
芙蓉は少なくとも、雪火から見れば普通だった。それこそ本人が言うように、ごく普通の女性なのだと。でも、彼女にとってはそうではなかった。
嫌なら、どうしてあんなに頑張るのだろう。たとえ仕事でも、嫌なことを命を張ってまで行う理由が、雪火には分からなかった。
どうして、戦うのか。竜士など、人には疎まれるし死ぬ危険もあるし、ろくでもない仕事だ。雪火は寮に入るためだけに竜士になったし、他人に嫌われようが死のうがどうでもいい。でも、普通はそうではないはずだ。
疎まれたくはないだろう。死にたくもないはずだ。なのに、どうして。
「女の子ってトシでもなくなっちゃったけどね」
照れ臭そうに笑った彼女は、すぐに表情を消して、下を向いた。まだ二十歳前後だろうに。
ふと振り返ると、碧龍も俯いていた。何を考えているものか、思い悩むような、浮かない表情だ。気分が悪いわけではないのだろう。
「来た」
緋緒の声だった。驚いて立ち止まると、舌打ちする音が聞こえる。見れば、碧龍が苦い顔をしていた。
「おい、ここでやり合うのは厳しいぞ」
「分かってる。もう少し行くぞ、向こうは開けているはずだ」
一同の歩みが、目に見えて早くなった。雪火はひっそりと疲れた息を吐いて、彼らについて行く。
何も、感じられない。彼らが言うからには何か近づいてきているのだろうに、雪火には分からなかった。竜士として決して弱くないとはいえ、所詮その程度でしかない。
自分が同行する意味はないと、雪火は思う。いっそ拒否した方が、彼らにとっては楽だったはずだ。足手まといを守ってやる必要がなくなるのだから。分かっていたのに、拒否しなかったのは。
「てっ!……め」
背後にいた黒龍が突然声を上げたかと思うと、忌々しげに吐き捨てる。何事かと振り返ろうとした雪火の頭上に、影が落ちた。
見上げると、碧龍が跳んでいた。龍といえど人型のままああも高く跳躍できるはずがないから、黒龍を踏み台にしたのだろう。
口角を上げてにいと笑った彼は、愛刀を鞘から抜きざま、何かを切り捨てた。高い金属音と共に真っ二つになって落ちたのは、矢だ。それもよく見れば、羽まで鋼で出来ている。
振った刀の向きを変えてそのまま納刀し、碧龍は緋緒の横へ着地した。彼女は足を止めないまま空を見上げて、小さく舌打ちする。
「礼儀がなっていないな」
「うちの眷属じゃない、仕方ねえさ」
木々に阻まれていた視界が突然開けた。そこだけ平らな地面には、石が転がるばかりで草一本生えていない。人工的に更地にしたようだった。
まっさらな平地には、七体の竜がいた。みな鋼のような鈍色の鱗におおわれており、一目で金竜と分かる。だがその腹は普通の竜と違い、ただれたように真っ赤だった。
あれが、邪竜か。彼らが放つ異様な気配を肌で感じ、雪火は確信する。
「しつけのなってねえガキ共だな。前任が存命なら、お前らみんな喰われてたぜ」
「アオさん、変に挑発しないで……」
「アオじゃねえよ」
肩で息をする雪火とは対照的に、碧龍も芙蓉も、息を切らした様子はなかった。碧龍は右手を刀の柄にかけたまま、呆れた目で芙蓉を見下ろす。彼女はわざとやっているような気が、雪火にはする。
「まだ生きていたか、三代目碧龍。しぶといな」
手前にいた一体が応えると、碧龍は浮かべた笑みをひきつらせた。何か気に障ったようだ。
「様だ。言い直せ」
「今度の主はそんな小娘か。五龍の長ともあろうものが……力の半分も出せぬだろうに」
思わず芙蓉を見れば、眉を曇らせていた。彼女の力が弱いと、雪火は思ってはいなかった。立ち回りは緋緒にも引けをとらないはずだ。
いや、霊力だけで言うなら、多少ならずとも見劣りする。そのこと、だろうか。
「お前さんは、ひとんちの主人バカにするようにしつけられたのかい」
「事実だろう。人間は哀れだな。小さく弱い。どんなに強くとも、すぐに死ぬ」
後ろにいる雪火に、碧龍の表情は見えない。だが彼のまとう空気が変わったのは、かろうじて分かった。飄々とした彼も、主をけなされれば怒るのか。
にわかに空気が張りつめたその時、緋緒が鼻で笑った。邪竜共の視線が、一斉に彼女を向く。さっきから碧龍の隣にいたというのに、今更なんだというのだろう。
「驕るな。力だけでは推し測れないのが人というものだ」
「おお……火星か」
どの竜も、緋緒が口を利いてやっと反応した。更に発言から察するに、よもや彼らは、目が見えていないのではなかろうか。種族の限界を超えた力を持つと、代償も大きいと聞く。
「噂は聞いたぞ。歴代五星の内でも群を抜いた力と」
「有象無象と私を同列に語るな。だからどうした」
常々思っていたが、いっそ潔いほどの自信家だ。半ば呆れてそらした視界の端で、手前にいた竜が消える。
慌てて戻した視線の先、緋緒の真正面に、竜はいた。その目は白く濁り、口も赤くただれている。普通の竜と変わらないと思っていたが、あれはもう、竜ではなくなっているのだろう。
「その力、我らに……!」
邪竜の体が、大きく後退した。半身をもたげて後ろを見ようとしたその体は宙を舞い、反転して、背から地面に叩き付けられる。何が起きたのか、雪火には一瞬分からなかった。
「我が主に近付くな」
猿鬼のそれに似た悲鳴を上げ、邪竜がのたうつ。その尾を掴んでいたのは、緋緒の横で影のように沈黙していたはずの夕龍だった。握られた尾からは、何故か黒煙が立ち上っている。
火剋金。金竜にとって、火竜は天敵だろう。さらに龍ともなれば、触れるだけで熔けるのも頷ける。
雪火はそれよりも、温厚に見えた彼がたったあれだけで激昂した事に驚いた。主が食われそうになればどの竜も怒るが、あそこまで目をつり上げて怒るかどうか。
「っと、しょうがねえなあいつは……」
うんざりとぼやいて、碧龍が地を蹴った。夕龍に捕まったままの竜が反応したが、間に合うはずもない。碧龍は左の親指で鯉口を切ったかと思うと、のけぞって逃げようとした邪竜の喉を斬った。
耳障りな絶叫と共に血しぶきが上がり、邪竜が地面にどうと倒れ伏した。いつ抜刀したのかさえ分からないうちに、碧龍は刀を鞘に納める。その間にも、夕龍は邪竜達を睨み付けている。
腕を組んだまま微動もせず、緋緒は小バカにしたような笑いを漏らす。控えていた邪竜達が動いても、反応を示さない。ただその切れ長の目で、夕龍を見ている。
「瞬間湯沸し器か奴は」
緊張感のない一言だった。しかしそれが合図だったかのように、芙蓉が刀を抜く。模造刀とはいえ、その刃は月光のごとく鈍く光っていた。
「雪火」
顔を上げると、前に進み出た芙蓉が肩越しに振り向いて微笑んだ。いつもとなんら変わりない、優しい笑顔。
「そこにいてね。緋緒から離れないで、彼女どうせ動かないから」
雪火はうなずくことしか出来なかった。芙蓉は一度笑みを深くして、邪竜の群れへ向き直る。そして表情を一変させ、大きく一歩、踏み出した。
巨大な口を開けた竜はもう、彼女の目の前にいる。芙蓉は前に出した足で地を踏みしめ、右手の刀を振るう。さすがに当たらなかったが、竜が口を閉じて退いた隙に緋緒の手が動く。
「見えないのなら、いらんだろう」
邪竜が即座に反応し、緋緒を向いた。瞬間、発砲音と獣の悲鳴がこだまする。
見えない弾丸は、正確に竜の両目を撃ち抜いていた。閉じたまぶたの下から血を流して倒れた邪竜は、見悶えるようにのたうつ。
あまりの速さに雪火が唖然としている内に、芙蓉が駆け出す。別のものが、迫ってきていたのだ。彼女は最初から、緋緒に射たせるために刀を振ったのだろうか。
「芙蓉、腹か口の中を狙え。お前の刃では鱗は貫けん」
言いながら、緋緒は痛みに苦しむ竜に近付く。何をするかと思えば、その頭を思いきり踏みつけた。
緋緒の所業にも驚いたが、踏まれた頭から立ち上る煙に、更に驚いた。大きく開いた竜の口から、絶叫がほとばしる。緋緒は見下すような目を妖に向け、笑っていた。
「私は生まれつき火の気が強いんでな。貴様らごときが喰ったら、喉が焼け落ちるだろうよ」
彼女は死ぬのが怖くないのだろうと、雪火は思う。ただ雪火と違って、諦めているのではない。どうでもいいのだとも、恐らく思ってはいまい。
緋緒は、死ぬ覚悟を決めている。きっと、そういう違いなのだ。
「死ね」
シンプルな言葉が、雪火の胸を突いた。
断末魔の絶叫が大気を震わせ、邪竜の頭部が破裂する。普通なら、口腔に撃ち込まれただけの霊力の弾丸が炸裂するはずもない。そこが彼女と凡人との違いなのだと、雪火は改めて理解する。
「黒龍」
不自然にひそめられた声が、雪火の背後にたたずんでいた龍を呼ぶ。邪竜の死骸を足でよけながら、緋緒は黒龍を見上げて口角を上げた。
「腹はくくったのか?」
挑発的な笑みに、黒龍は応えない。感情の一切を放棄したような無表情で、ただ白い美貌を見返す。なんのことなのか、雪火には分からなかった。
「おい緋緒、手伝え!」
声のした方を見れば、碧龍が邪竜二体を相手取っていた。彼は打ち合うより抜きざまに斬る方が得意なようだから、複数を相手にするのは厳しいだろう。
しかし緋緒は、バカにした笑みを浮かべるばかりだった。芙蓉の言った通り、動く気がないようだ。得物が銃なら、確かにここから動かなくてもいいのだろうが。
「お前が頑張れ。私は知らん」
「こンのアマ……」
顔をひきつらせて、碧龍は毒づいた。その眼前に尾が迫ると一歩で飛び退き、通りすぎると同時に踏み込んで、刀を振る。速度はあるものの、大振りな一撃で仕留められるはずもなく、竜は悠々と身を引いて避けた。
その間にも、横から大口を開けてもう一体が迫る。碧龍は薄く笑って、振りきった刀の切っ先をそちらへ向けた。腕は残したまま体の向きを変え、左手で相手の上顎を押さえる。押される前に、右腕を引いて刀を口腔へ突きこんだ。
くぐもった悲鳴を聞く余裕もなく、彼はその場から一旦離れる。反対側から迫っていた一体が、食らいそこねて口を閉じた。喉を突いた方も、倒れる気配がない。
「キリがねえな……俺らじゃキツイだろう」
「だからって、翠さん来させるわけに行かないでしょ。枯れちゃうよ」
爪で、牙で、尾で。猛攻を仕掛けてくる邪竜を軽くあしらい、芙蓉は隙をついて刀を振るう。体に当たったはいいが、あいにく背面だった。鋼の鱗に刃を弾かれ、彼女は顔をしかめる。案外負けず嫌いだ。
弾かれた刀を手元へ戻し、芙蓉は相手と一旦距離をとる。離れたかと思えば回転した竜の尾が迫ってきており、彼女は憎々しげに顔を歪めた。
避けずに刀で受けると、高い金属音が鳴り響く。普段なら優しげに細められている芙蓉の目は、今は鋭く相手を睨み付けていた。元が彫りの深い美人だからか、やけに鬼気迫って見える。
尾を軸に、更に反転した竜の牙が芙蓉に迫る。しかし彼女は臆すでもなく、噛みつかれる寸前で姿勢を低くした。同時に立てていた刀を傾け、切っ先をただれた喉元に向ける。
さすがの竜も、反応が間に合わなかった。鋭い切っ先が深々と突き刺さり、慌てて身を引こうとする。しかし芙蓉はそれを許さず、刃の向きを変えてなぎ払った。
喉が大きく裂け、血しぶきが雨のように降り注ぐ。返り血をまともに浴びた芙蓉は小さく息を吐き、頬に付着した血液を手の甲でぬぐう。
「あと四匹……」
倒れ伏したものには目もくれず、芙蓉は碧龍に加勢すべく、再び地を蹴った。
雪火は知らず知らずの内に肩へこもっていた力を抜き、そっと息を吐いた。
さすがに、ただの竜士とはレベルが違う。それだけ場数を踏んできたということか、育った環境の差か。はたまた、五星であるという意識の問題か。なんにせよ。
どうして。
「雪火!」
珍しく焦った緋緒の声に我に返ると、血生臭さが鼻を突く。むせ返るような強い血臭に顔をしかめ、横を見れば、そこには赤い異物が鎌首をもたげていた。
血に染まった鱗に、肉片がこびりついている。もはや頭は原型を留めておらず、首の上に生のひき肉を乗せたかのようだ。
半死半生の竜がゆっくりと起き上がるにつれて、破裂した頭部が崩れ、砕けた骨がぼたぼたと落ちた。更にそこから、ずるりとやわらかそうな何かが落ちる。確認する余裕もないまま、雪火は生唾を呑んだ。
――土。
お前が、土か。
その声は、頭蓋に反響してこだました。さっき頭を破壊したはずなのに。
呆然としていた緋緒がやっと我に返り、慌てて銃口を向けた。しかし間に合わない。竜の爪はもう、雪火の頭上に振り下ろされている。
ここで死ぬか。それならそれでいい。ただ楽に死にたいと考えながら、雪火は目を閉じた。