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第一章 静かの海 一

 死のうと思ったわけでは、なかった。


 一


 橙に染まった空に獣がうねり、人々が帰り支度を始める時刻。雅な笛の音が、高層ビル郡の狭間からかすかに聞こえる。静かでいて力強いその音は魔を祓うと言われ、実際一部ではよく使われていた。

 空にかかった藍の天幕を揺らすように響く篳篥ひちりきの音は、玲瓏として美しい。だが、それを耳にして足を止める者はいなかった。音の出所が分かれば、ある者は顔をしかめ、またある者は憧憬の視線を向け、足早に去って行く。笛を吹くのがどんなことを生業とする者か、誰でも知っているからだ。

 音の出所は、高いビル同士の隙間。その薄暗い路地には、通りに背を向けて女が立っていた。異様に長い黒髪を風に流し、立ち尽くしたまま縦笛を吹いている。

 路地の奥には、三歳前後の子供と同じほどの背丈の妖が五匹ばかりいた。顔も体も泥人形のようで、手足の長さもバラバラだ。みな微動もしないまま、きょろきょろと目だけを動かしている。笛の音で手足の動きを封じられた彼らは、逃げることも出来ずにそうして動揺するばかりだ。

 これらは広く魍魎と呼ばれるもので、大きな害はないものの、放置すればいずれとなる。これを見つけたら、すぐに通報するのが定めだ。

 女と魍魎の間には、細長い生き物がいた。灰色の鱗で被われた体は、五メートルほどあるだろうか。胴回りは五十センチ程度で、背では茶褐色のたてがみが揺れている。鋭い爪を持った前肢と、ほとんど退化した後肢。頭部は鹿に似て、枝分かれした角を頂く。

 それはこの島にしか存在しない獣、竜だった。

「食らえ」

 不意に笛の音が止んだかと思うと、女の声が呟いた。女にしては少し低く、狭い路地にすら響くことのないごく小さな声だったが、竜は機敏に反応する。

 ビルの壁に反響した笛の音が消えない内に、竜はその大きな口を開き、妖に食らいつく。身動きひとつできないまま、魍魎達は半身を持って行かれた。

 上体を食いちぎられた妖はよろめくことさえ許されないまま、一瞬にして消え失せる。竜が上体を飲み込んだ後には、もう存在していた痕跡も残ってはいなかった。

 スーツ姿の女は、黙したまま竜に目配せした。それだけで意図を察し、彼はこうべを垂れる。無口な主人に、竜はもう慣れていた。

 目鼻立ちは整っているものの、不健康そうな女だった。肌は青白く痩せぎすで、佇まいも頼りない。伏せがちな目は常に下を向き、濃いまつ毛の作る影がその顔を尚更陰鬱に見せる。そんなナリでも、彼女は妖退治を生業とする竜士だった。

 主が背に乗ると、獣は暮れてゆく空へと舞い上がった。

 竜を使役し、魑魅魍魎が跋扈する街の治安維持に務めるのが、彼女たち竜士だ。人間より遥かに身体能力の高い竜を従え、手足として使って妖怪を祓う。本来野生に生きるはずの彼らは、どういったわけか人に与することを誇りと思っているらしい。

 また一般家庭で人間に飼われる竜もおり、そちらは野生を忘れている。どうも安穏と過ごしていると戦い方を忘れるらしい。だから結局、妖怪退治といえば竜士の仕事となっている。

 その竜士が祓うのは、なにも妖ばかりではない。死人が残した霊力の塊である幽霊や竜を連れた犯罪者も、時に討伐対象となる。だからこそ彼らは空を行く。何があっても遅れを取らないように。町に何事もないことを、確認するために。

 空にはぽつぽつと竜達が飛んでいる。人を背に乗せているものもあれば、そうでないものもあった。空を泳ぐように体をくねらせて飛ぶ彼らは、夜の気配から逃げているかのようでもある。

 朝は竜、昼は人。そして夜は、妖の時間。どの生き物も一日中動いているが、昔から、そう言われている。

雪火せっか様」

 痰の絡んだようなダミ声に、深山雪火みやま せっかは視線だけを落として反応した。口を利かない主に構わず、竜は続ける。

「このままお戻りになられますか」

 すぐには答えず、彼女は視線を巡らす。空はもう、夜の帳を下ろしかけていた。

 仕事が終わればすぐ寮に戻って報告をして、身支度をして寝る。十五で竜士になってから、もう三年。ずっと、そんな当たり障りのない生活を続けてきた。

 だから雪火には、何故いつもそんな事を聞くのか分からなかった。どこかに寄るかと聞かれるのは今日が初めてではない。週に二度三度、同じように問われる。

「……いや」

 そしていつも同じ答えを返す。そのたびに、竜は溜息でもつくように肩を落とすのだ。

 つまらない女だ。自覚はあっても、それが歯がゆいともむなしいとも思わない。積極的に正す気もない。だらだらと同じ日々を繰り返し、何も欲さず、何も感じない。ただすべき事だけしていればよいと思っている。雪火は、そういう女だった。

「……あるじ

 呟く声に、雪火はまたも視線を動かすだけで答えた。それで分かるようだから、彼女はそれ以上の反応を示さない。

「日が、落ちます」

 雪火はつられたように顔を上げて、西の空を見やる。ビルの向こう、山の更に向こうに、燃える夕陽が沈もうとしていた。今日も夜が来る。きっと明日も明後日も、退屈なほど同じように。

 長い前髪に半分隠れた雪火の黒い瞳に、ちらちらと橙の光が映る。青白い顔も、夕陽と同じ色に染まっていた。

 東の空は藍に染まり、ほの白い月がぼんやりと見える。反対に西はまだ少し明るく、最後の炎を燃やし尽くそうとでもしているようだった。

 山の向こうに日が沈む瞬間、悪あがきのようにきらりと光る。どこかせつないその光が雪火の目に映りこみ、わずかに揺れる。そして覚えるはずのない郷愁を呼び起こされ、彼女は竜の頭を軽く撫でる。

「……海へ」

 最後の光が放たれた時、彼女は後光を背負った山の頂を見ていた。だから無性に山のにおいが嗅ぎたくなった。都会で生まれ育ち、仕事でも都市圏を担当していた彼女は、土のにおいなどろくに嗅いだ事もないのに。

 けれど、海がよかった。山へ行くのは何故だか怖かったから、海と言った。それも、けなげに主を案じる竜が哀れだったから行くと言っただけで、どこでもよかった。普段なら思うだけで行こうとも考えない。

「海……ですか?」

「海」

「承知」

 ぐるりと方向転換して、竜は南へと飛ぶ。拍子に揺られ、雪火は彼のごわついたたてがみを握った。折れやすい角はあまり握ってはならないと、教習所でしつこく言われている。

 竜はうねる割に揺れないものの座面が安定せず、騎乗には大変な注意を要する。乗り物として使う際には免許が必要で、無免許で乗った場合は車と同じく罰せられる。近ごろは無免許でペットの竜にむりやり乗って、転落死する事故も多い。

 慣れというのは怖いものだ。竜士が軽々騎乗するのを見慣れているから、自分も乗れるものだと勘違いする。

「海に何か、ご用が?」

 唐突に聞かれ、雪火は一瞬戸惑った。

 特に用はない。けれど、お前が心配するからだとも言えない。

 竜はどうも、主に生気がないのを心配しているらしい。引きこもろうが出かけようが、生気がないのは変わらないというのに。外へ出たところで何か変わるとも、雪火には思えない。

 しばらく黙したままでいるうちに、嗅ぎ慣れないにおいが風に乗って漂ってくる。伏せていた顔を上げて見れば、もう海がすぐそこまで迫っていた。

 風に運ばれてくる磯の香りが喉の奥をつつく。街の灯りに照らされた海は、それでも深い漆黒に染まっていた。白い波だけが、人工の光を反射する。

 吸い込まれそうな闇を、雪火はぼんやりと見つめていた。見たかったわけじゃない。けれどあの漆黒を、好ましいと感じる。そんな自分が、すこし意外だった。

「用はない。見たかった」

 好ましいと思うのなら、見たかったのだろう。他人事のように考えながら、彼女はそう返す。

「左様で」

 竜の声は、どこか嬉しそうだった。

 人と竜と妖以外動物の存在しないこの島国は、双天と呼ばれている。元々は名前がなかったが、諸外国と国交を持つようになって、自然とそう呼ばれるようになった。この島が国として成立して以来頂点にある者たちをまとめてそう呼んでいたから、という単純な理由だ。

 まっすぐに浜辺へ降り立った竜は、体を伏せてこうべを垂れた。雪火は滑るようにその背から降り、砂浜に立つ。パンプスの低いヒールが小石を踏み、硬い音を立てた。足が妙に重たく感じる。

 さざなみの音は、すぐ近くにあるのに遠く聞こえた。間近で見た海はどこまでも続き、益々暗い深淵を湛える。風は凪ぎ、ざわめきのような波音だけが静寂を支配していた。

 少し、寒い。

 思うだけで口には出さず、雪火は空を見上げる。

 秋口の空は冷えてきた空気に満ち、怖いほど澄んで見えた。都会の灯りに負け、星はほとんど見えない。切り落とした爪のような月と、金星の白い光だけが目立っていた。

 それだけだった。雪火はただ、寒かった。

 すこし冷えてしまっただろうか。けれど来たからにはすぐ帰る気にもなれず、今度は足下を見る。

 いびつな形の石と、割れた貝殻と、荒い砂。少し見渡せば、花火の残骸やビニール袋がそこここに落ちている。この海は花火禁止だったはずだ。防波堤の近くには、ポイ捨て禁止と書かれた看板も立っている。

 禁止されればやりたくなるのが、人というものだ。ここで花火をした理由は手近だったからに他ならないのだろうが、雪火はそう考える。わかっているし、否定する気もない。今まで、なんとも思わなかった。

 でも今は、砂に埋もれた空き缶を見て不快に思った。気が弱くなっているのだろうか。寒いのは昔から苦手だ。

 なんだか嫌になって、雪火は波打ち際へ歩いて行く。竜は声をかけようとはせず、気配すら断って黙りこんでいた。

 寄せては返す波が足下の砂を攫い、また運んでくる。波はゆっくりと来てじわじわと砂を削り、去って行く。全く無意味なその光景が、どうにも、むなしかった。

 目をそらして視線を上げれば、水平線が見える。その向こうを、この島のほとんどの人は肉眼で見たことがない。誰もそれに不満を覚えないはずだ。はっきりした四季と鮮やかな自然に彩られたこの双天は、見飽きても他に目移りしないほど美しい。

 海と空との境はほとんど判らず、似たような黒色をしている。ずっと見つめていたら呑まれそうなほどの、深い黒。

 この海に呑まれたら、死ぬだろうか。ぼんやりと、そう考えた。

「死ぬおつもりで?」

 聞こえた声は、竜のものではなかった。若い男の声で、今日の空気に似た、涼やかなものだ。

 雪火はその声に、聞き覚えがあるような気がした。誰かの声に似ていたのか、はたまた知っている誰かの声か。考えてもなかなか思い至らず、結局、彼女は辺りを見回す。

 しかし誰もいなかった。背後でしもべの竜が海を見つめているだけで、変わった事もない。

「死にたいと?」

 また問いかけが聞こえた。若干だが、先より近い。

 浜でないなら、海からか。思い直して向き直ると、水平線上に光が見えた。煌々と金色に輝く二つの光は、気付いてしまえば徐々に近付いてくるものと分かる。どこか不吉なその輝きに、雪火は逃げ出したい衝動に駆られた。

 金色はまぶしくて嫌いだ。昔から、ずっと。

「ならばその魂、私に頂けますか」

 問いは思いの外、近くから聞こえた。

 寒い。妙に寒い。体が重く、足を動かすこともままならない。

 臆しているのか。自問する雪火は今まで、恐怖というものを感じたことがなかった。豪胆なわけではない。対外的な事象に関して何も感じないだけだ。

 ぼやける彼女の視界に、やがて真っ黒な影が映る。恐らくずっと見えていたのだろう。周りが黒いから判別出来なかったようだ。空と海の黒より更に濃い、闇を切り抜いたような黒。

「竜……?」

 二つの光は、目だった。影を竜と認識したとたん、雪火の視界が揺らぐ。よろめいて踏みとどまった足の膝から力が抜け、猛烈な寒気が全身を襲う。

 そして唐突に視界が暗転し、彼女は何も、わからなくなった。


 目が覚めた時、雪火は寮の自室にいた。見慣れた天井をしばらくぼんやりと眺めた後、ゆっくりと身を起こす。全身が重く、手足に鉛でも入れられたようだった。覚えのある感覚だが、なんだったか思い出せない。

 横目で枕元を見ると、愛用の篳篥が置いてあった。煤けた竹の色を見て、少し落ち着く。状況を確認する余裕も出来た。

 壁掛けの時計は、十二時を差している。遮光カーテンがぴったりと閉めきられた部屋は真っ暗で、豆電球の灯りだけでは薄ぼんやりとしか見えない。夜だろうか。考えながら、彼女は手を伸ばしてカーテンをつまむ。

 とたん、眩しいまでの陽光が室内を照らした。狭い部屋にはタンスと文机以外家具らしい家具がなく、殺風景だ。テレビすらない部屋は、主がいるにも関わらず生活感がなかった。

 昼の十二時ということか。自分はどうしたのだろうと考えたところで、足下のドアが開く。

「あっ……起きた?」

 声と共に、エプロン姿の女性が顔を出した。その手には皿が乗ったお盆を持っている。

「びっくりしたのよ、倒れたって言うから」

 答えない雪火にかまわず、彼女は部屋に上がってくる。未だぼんやりした雪火の視界に、女の顔がようやく映った。

 目を凝らしてみれば、寮の管理人だった。中年の女性で、元は竜士だったと聞いている。何かと口うるさいが、よく気がつく出来た人だ。竜士も一応公務員だから、どこの寮の管理人も引退した者が多い。

 盆を持ったままカーテンを開けた彼女は、外を見て眩しそうに目を細くする。それから少し窓を開け、布団の横に膝をついた。

「これ食べて、お薬飲んでね。今先生呼んでくるから」

 自分に何が起きたのか、雪火には分からなかった。しかしあえて聞くこともせず、黙って頷く。先生という事は軍医だろう。雪火を見かけるたびにちゃんと飯を食えと説教してくるから、少し苦手だ。

 食欲はなかった。それでも、食べた方がいいのだろう。昨日昼食をとったのが一時ごろで、一日近く何も口にしていない事になる。

「ありがとう、ございます」

「あんた、風邪ひいてんのに無理しちゃダメよ。竜も落ち込んでたんだから」

 風邪をひいていたのか。やけに寒かったのは、そのせいだろうか。考えながら、雪火はまたうなずく。粥が入った皿を取ると、管理人は彼女の額に手を当てた。

 あたたかい、柔らかな手だった。優しい手つきだったが、雪火は身を固くする。人に触れられることには慣れていない。

「熱は下がったね。あんたの竜に伝えておくよ。心配してたから」

「……すみません」

 うん、とうなずいて、管理人は部屋を出て行った。雪火はしばらく湯気の立つ粥を眺めてから、スプーンを取る。盆の上には、水の入ったコップと小皿に乗った錠剤が二粒、置かれていた。

 なにも食べる気になれなかった。それでも彼女はスプーンを動かして、機械的に粥を口に運ぶ。塩味だけの味気ない粥でも、空きっ腹には染みた。

 明日には、仕事に出られるだろうか。管理人のことだから、休めと言うかもしれない。有給は使ったことがなかったから、消化した方がいいだろうか。黙々と食べながら、雪火は思考を巡らせる。

 有給をもらうような用事もない。実家はないし、墓参りへ行くのも週に一度の休みで事足りる。身寄りも友人もなく、一人でどこかへ出かけることもない。

 それで、別にかまわなかった。一人の人生をなんとも思っていない。何もない休みの日はただ眠るか、必要なものだけを買いに行く。この三年間、そんな生活を変えたことがない。変えようと思ったこともなかった。

 皿を空にして、二粒の錠剤を飲み下す。水がうまいと久々に思った。そうして一息ついた時、ノックの音が聞こえる。

「深山さん……いいかな?」

 ドアの向こうからは、予想に反して男性の声がかけられた。先生というからには女性の軍医が来るものと思っていたから、雪火は訝る。

 そこでようやく、彼女は自分の着ているものを改める。いつ着替えさせられたのか、真新しいパジャマを着ていた。自分の持ち物ではないから、管理人が用意してくれたのだろう。新しいのはともかく、さすがにこのまま医者でもない男性の前に出るわけには行かない。

 部屋の隅に置かれていた洗濯物の中からカーディガンを引っ張り出し、パジャマの上に羽織った。それから、どうぞと呟く。

「失礼……ん、まだ顔色が悪いな」

 顔色が悪いのは元々だったが、言えなかった。代わりに目を見張る。

 入ってきたのは、眼鏡をかけた壮年の男性だった。かっちりしたスーツを着た気難しそうな男だ。声では思い出せなかったが、顔を見てやっと分かった。

 上司だ。それも、地区の主任とか課長だとかとはわけが違う。島中の竜士団の東部統括部長だ。勤続三年目でいまだ下っ端扱いの雪火では、式典以外でお目にかかることさえない人のはずだった。

 何故、この人が。考えた時、統括が微笑む。

「病み上がりにすまない。でも、一刻も早く伝えなくてはいけなくてね」

「……いえ」

「実は、君に軍を抜けてもらわなくてはいけない」

 さすがに、驚いた。

 竜士団というのは他国の軍と同じようなもので、国に雇われている公務員だ。慢性的に人手が足りていないため、よほど素行が悪いか罪を犯したかでもない限り解雇という措置はとられない。

 よく言えば品行方正に、実際のところは唯々諾々と、生きてきた。何かしたような覚えもない。だが、解雇なら仕方がない。

「……そうですか」

 ふむ、と呟いて、統括は顎を撫でた。その声に違和感を覚え、雪火は彼の手を見る。

「なるほど……本当に知らなかったのか」

 意味が分からなかった。思わず眉をひそめた矢先、統括はおもむろにドアを開ける。

「お待たせして申し訳ありません。こちらへ」

 まだ、誰かいるのだろうか。訝りつつ見上げたドアから、長身の男が入ってくる。

 三つ揃いのスーツを着た、見慣れない人物だ。褐色の肌と彫りの深い整った顔立ちは、テレビで見るような異国の人を思わせる。この国では男性でも珍しくない長い黒髪は、頭頂部に近い位置で結われて細く背中に垂れていた。薄い唇に浮かべられた笑みは柔和だが、その目は鋭い。

 雪火は彼の人間であろうはずもない金色の目を見て、龍なのだと思った。竜の中にも序列があり、位の高いものは龍と呼ぶ。これはおおむね、どういったわけか人に擬態する。

 一般人にとって、龍という生き物は目にする機会もなかなかない。竜士でも高位の者だけが使役する事を許され、ペットとして飼うなどもってのほかだ。富裕層にあってはこの限りでなく、警備員の代わりに雇う者もいる。しかしそれも、ごく少数と聞いている。

 そんなものが何故ここに。呆然と目を丸くする雪火を見下ろしたまま、龍は微笑を深くした。顔が整っているだけに、その目つきの鋭さが不気味だ。

「お休みのところ、申し訳ありません」

「私はあなたに敬語を使われていいような身分ではありません」

 とっさにそう返すと、彼は目を細くして笑った。

 そんな身分ではない。龍は獣ではなく、神に近い。ものによってはこの国の頂点に位置する双天、天王と天龍の次位にあるものさえいると聞く。

「そのような御身分なのです、深山様」

 言ったのは、統括だった。

 何故。元々無口な雪火は、疑問を口にすることも出来ずに面食らう。寝込んでいる間に我が身に何が起きたのか、想像もつかなかった。

「はじめから、お話します」

 口をつぐんだ雪火を見かねたのか、統括が咳払いした。

「五星の事は、ご存知ですか?」

 耳慣れない統括の敬語に、答える余裕もなかった。

 この島のどこかに存在する、五行それぞれを司る五体の龍を、まとめて五龍と呼ぶ。これは全ての竜達の頂点として、いつの頃からか君臨して行を統べているという。普通学校の社会科でも習う一般常識だ。

 またそれを使役するのが五星という龍士集団だと、いつかどこかで聞いた。それも、眉唾物の都市伝説として。

 それがなんだと言うのか。聞く前に、統括は続ける。

「五星というのは、双天の次位にある龍士です。最も力の優れた家のものが五龍の主となり、その地位に就く。家系が絶えるまで、その家の者が五龍を使役する」

「……それが」

「常々怪しいとは思っておりましたが……まさか」

 感慨深げに呟く統括は、雪火に羨望の眼差しを向けていた。雪火はそれ以上問うことも出来ず、所在なげに視線をさまよわせる。

 見上げた先に、龍がいた。鋭い目を柔和に細め、彼は微笑む。その目と目が合って、雪火は視線を逸らした。

「あなたは五星です」

 そうなのかと、ぼんやりと思った。混乱していたせいではない。予想していたわけでもない。ただ、受け入れてしまっていた。

 思えば妙だった。竜士育成学校に入る為の測定時も雪火だけ異常な数値を叩き出していたし、適正試験の時も前代未聞と騒がれた。そして。

「あの土竜には、別の者につくよう私から言っておきます」

 雪火には、土の気を持つ竜しか懐かなかった。土竜は元々気難しいとされている割に、彼女にだけはよく懐いた。代わりに別の性質のものは、どんな温厚な竜でも彼女を背に乗せることを嫌がった。

 これが理由だったか。

「私は黒龍。この島に暮らす全ての土竜の長」

 言ってから、黒龍はゆっくりと膝を折る。鷹揚として流れるようなその動作は、確かに高位の生き物なのだと確信づかせるものだった。

 片膝と拳を床についた龍は、雪火の目をまっすぐに見る。一種異様な金の目をまともに見られず、彼女は視線を落とした。視界の端で、黒龍がこうべを垂れる。

「あなたが私の、主です」

 この声。

 確かに、この声だった。あの海で死ぬのかと聞いたのは。そして、魂を寄越せと言ったのも。

 死にたかったわけではなかった。だが、もう戻れない。

「……そう」

 それだけ言って、雪火は目を閉じた。どうせ命が惜しいわけでもない。拒絶するのも面倒だ。だから素直に、受け入れる。

 もう何も、考えたくなかった。

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