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ブサ猫の癒し~ケットシーな俺と赤い目の少女

作者: 三度魔女
掲載日:2026/10/07

王都の中央広場は、朝から祭りのような騒ぎだった。


石畳の上には露店がずらりと並び、焼き栗の甘い匂いと、脂の焦げる香ばしい煙が入り混じっている。子供が走り回り、物売りが声を張り上げる。


広場の真ん中に組まれた断頭台さえなければ、本当にただの祭りに見えただろう。


今日は、元王妃の処刑の日だ。


俺は露店の屋根の上で腹ばいになり、真下の串焼き屋を見下ろしていた。


俺はケットシー。魔物とも妖精とも言われる存在だ。でも人間にはただの猫に見えるようで、だから町に紛れて暮らしている。だがそれは空蝉。


本質は、数えきれないほどの時を連綿と紡ぐ魔力の連鎖。命のあり方を異にする存在だ。


そうとはいえ、この世の体を維持するには、ただの猫と同じく食べなければいけない。だからいつも腹ペコで、街の残飯を漁ったり、ネズミや小鳥を狩ったり、今のように屋台の肉を狙ったりしているのだ。


親父は客の相手に忙しい。網に並んだ端の一本が、さっきから焼けすぎて放置されている。あれは俺のものになるべき一本だ。


「来たぞ!」


その時、誰かが叫び群衆がどっと沸いた。親父も客も、そろって首を伸ばす。


好機だ。俺は屋根の縁まで這い寄りながら、ふと広場の向こうへ目を向けた。


兵士に両脇を固められ、ひとりの女が引き立てられてくる。


ボロ布のような囚人服。裸足の足は泥と血で汚れ、髪は乱れて肩に垂れていた。頬はこけ、顔色は死人のように青白い。それでも、群衆の罵声の中をまっすぐ前を向いて歩く横顔には、まだ人目を引くだけの美しさが残っていた。


かつて社交界で、絶世の美女と持て囃された女だという。王の寵を競い、気に入らない令嬢を次々と潰し、戦争の最中にも宝石とドレスを買い漁った。


国庫を傾けた稀代の悪女。路地裏で暮らす俺の耳にさえ、その噂は嫌というほど届いていた。


「悪女め!」

「子供たちを返せ!」


石が飛ぶ。女の額に当たり、赤い筋がひとつ流れた。女はよろめきもしなかった。


断頭台の階段の前で、女はふと顔を上げた。

その瞳が、遠目にもはっきりと見えた。上等な葡萄酒をグラスに注いで、陽に透かしたような赤。


――どこかで、見たことがある。


俺は串焼きのことを一瞬忘れた。あの赤い瞳を、俺は知っている気がする。だが、どこで? 野良猫が王妃と目を合わせる機会など、あるはずもない。


考えているうちに、女は台の上に膝をつかされていた。司祭が何かを読み上げ、群衆が静まり返る。親父が網から完全に目を離した。


今だ。


俺は屋根から飛び降りざまに、焼けすぎた串を咥えた。熱い。だが離さない。そのまま露店の陰へ転がり込みながら、視界の隅に、振り下ろされる白刃の煌めきが見えた。


鈍い音。

一拍遅れて、地鳴りのような歓声が広場を揺らした。


だが串を咥えたまま、俺は動けなかった。腹の底がざわつく。毛が逆立つ。歓声のせいではない。空気が、変わったのだ。


断頭台を中心に、目に見えない波が広がっていく。魔力のうねりだ。群衆の誰ひとり気づいていない。人間には感じ取れない。だが俺には、肌を焼くほどはっきりとわかる。これは、俺たち種族が「女神の戯れ」と呼んでいる現象だ。


俺たちは知っている。大きな悲劇が起きたとき、ごく稀に、世界がこうしてうねる。女神の慈悲なのか、それとも名の通りの気まぐれな戯れなのか、誰にもわからない。わかっているのは、このうねりに呑まれた者は、時を遡るということだけだ。


俺は以前にも一度、これを見たことがある。遠くから見ただけだ。巻き込まれたことはない。

うねりが近づいてくる。石畳が波打つように見えた。露店の布がはためき、焼き栗の匂いが遠ざかっていく。


「フシャー!!」


俺は串を取り落とし、身を低くして構えた。毛を逆立て爪を立てる。だが、爪を立てる地面そのものが溶けていく。


来るな、来るな。俺には関係ない。俺はただ、串焼きが欲しかっただけだ――。

眩い光が視界を満たし、俺の意識はそこで途切れた。


***


戻ってきたのは、痛みだった。


脇腹が裂けている。後ろ足が動かない。息をするたびに、肺の中で何かがごぼごぼと鳴る。冷たい石畳に頬を押しつけたまま、俺はゆっくりと目を開けた。


路地だ。湿った壁、腐った野菜屑、遠くの馬車の音。見覚えがある。ありすぎる。


この傷も覚えている。町に紛れ込んだ犬の魔物にやられたのだ。三つ首の、ケルベロスの成りそこない。人間の目には大きな野良犬にしか見えないが、あれは魔力を喰う。俺みたいな魔物を嗅ぎつけては追ってくる。逃げ切りはしたものの、この有様だ。

何年前のことだ?十年か、十五年か?


……巻き戻ったのか


女神の戯れ。呑まれた者は時を遡る。だが、なぜこの瞬間なのだ。よりにもよって、死にかけて路地に転がっていた、俺の長い生涯で最も惨めな日に。


そのとき、影が落ちた。


小さな靴が、目の前で止まる。艶のある黒い革靴に、白いレースの靴下。見上げると、仕立てのいい青いドレスを着た少女が、俺を見下ろしていた。


歳は八つか九つか。蜂蜜色の髪をきっちりと結い上げ、小さな顎をつんと上げている。


そして、その瞳。

葡萄酒を陽に透かしたような、赤。


あぁ……


腹の底から、何かが抜けていくような気がした。


あの時の少女だったのか……


断頭台の上で、最後に顔を上げた女。どこかで見たと思ったあの赤い目は、ここで見ていた。死にかけた俺を見下ろしていた、この華奢な少女の瞳だったのだ。


前の時のことを、俺ははっきり覚えている。少女は俺を見て顔をしかめ歩き去った。俺はその後、自分の体を引きずって廃屋の床下に潜り込み、何日も熱と痛みに呻きながら傷が塞がるのを待った。生き延びたのが不思議なくらいだった。


少女の鼻に、皺が寄った。


「汚いわね」


吐き捨てるようにそう呟くと、少女はくるりと背を向けた。ドレスの裾が翻り、革靴がこつこつと石畳を鳴らして遠ざかっていく。


今回も、同じ繰り返しか……


巻き戻ったところで、何も変わりはしない。俺はまたあの床下で何日も呻き、生き延び、路地裏で残飯を漁り、いつか広場で串焼きを狙いながら、あの赤い目の女が首を落とされるのを見るのだろう。


少女の後ろを、護衛らしい男が二人、黙ってついていく。その広い背中を、俺はぼんやりと見送っていた。


ばさり


視界が暗くなった。何か柔らかいものが、上から被せられたのだ。布だ。洗いざらしの、石鹸の匂いがする。


抗う力もないまま、俺の体は布ごと持ち上げられた。脇腹に激痛が走り、思わず爪を立てる。


「静かに。連れて行ってあげるからね」


若い女の声だった。押し殺した、けれど温かい声。

布の隙間から、黒いお仕着せとエプロンの端が見えた。


メイドだ。少女の一行の、いちばん後ろを歩いていたのだろう。前の時には気づきもしなかった。いや、前の時、このメイドはいたのだろうか。


メイドは俺を胸に抱え込み、何食わぬ顔で小走りに一行を追いかけた。布越しに、とくとくと速い鼓動が伝わってくる。


「マルタ、遅いわよ」


前の方から、少女の不機嫌な声がした。


「申し訳ございません、お嬢様。靴紐が解けてしまって」


メイドは平然と嘘をついた。その腕に、ほんの少しだけ力がこもった。


俺は布の中で目を閉じた。同じ繰り返しのはずだった。だが、ほんのひとつだけ、前とは違うことが起きている。


それが何を意味するのか、このときの俺にはまだわからなかった。


***


少女の名はエルヴィーラ。ローデンベルク公爵家の総領娘だった。


それを知ったのは、屋敷の裏手にある使用人部屋で、メイドのマルタに傷を洗われているときだ。マルタはぬるま湯に浸した布で俺の毛にこびりついた血を拭いながら、誰に聞かせるでもなく小声で喋り続けた。


「ここはね、公爵様のお屋敷よ。あんたを見つけたのはエルヴィーラお嬢様。お年は今年で九(ここの)つよ。あの方、口はああだけど……まあ、口はああなのよね」


マルタは馬丁から分けてもらったという軟膏を俺の脇腹に塗り込み、裂いた古シーツで腹を巻いた。染みる。俺が唸ると、マルタは「ごめんごめん」と笑った。


魔物の体は、人間や獣よりは丈夫にできている。手当てさえ受ければ治りは早い。前の時は何日も熱にうなされたが、今回は三日もすると立ち上がれるようになり、十日もすると傷はほとんど塞がった。


「あんた、ずいぶん治りが早いのね」


マルタは感心したように言い、それから困った顔をした。


「さて、どうしたものかしら。旦那様は動物がお嫌いだし……そうだ」


そうして俺は、屋敷の食料倉庫のネズミ番として雇われることになった。


雇われるといっても給金はない。ネズミを獲る代わりに、朝晩に残り物の皿が出る。悪くない取引だった。路地裏で残飯を漁るより、ずっといい。



倉庫の暮らしにも慣れたある日の昼下がり、俺が日だまりで昼寝をしていると、倉庫の戸が乱暴に開いた。


「マルタ、この間の焼き菓子の残りは――」


言いかけた声が止まる。戸口に立っていたのは、あの少女だった。赤い瞳が、まっすぐに俺を捉えた。


「あら」


少女はつかつかと歩み寄ってきて、俺の前にしゃがみ込んだ。


「あの時の汚い猫じゃない」


俺は思わず耳を伏せた。たった一度、路地で見下ろしただけの猫だ。しかもあの時の俺は血と泥にまみれて、毛色さえろくにわからない有様だった。


「なによ、その顔。驚いてるの?」


少女は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。


「私ね、一度見たものは何でも覚えているのよ。本の頁も、人の顔も、どの侍女がどの日に何色のリボンをつけていたかも、全部。その不細工な顔、忘れないわよ」


不細工、と言われて、俺は少しむっとした。確かに俺は美猫ではない。灰色と茶色がまだらに混じった毛並みに、潰れたような鼻。片耳の先は昔の喧嘩で欠けている。だが、面と向かって言われるいわれはない。


「マルタが拾ったのね。あの子、余計なことばかりするんだから」


少女は俺の首根っこをむんずと掴み、目の高さまで持ち上げた。ぶらんと垂れ下がった俺の顔を、赤い目がしげしげと眺める。


「本当に不細工ね。ドブから這い出てきたみたい」


それから少女は、何かを思いついたように口の端を上げた。


「決めた。今日からあなたの名前はドブよ。私の部屋で飼われなさい。これは命令よ」


冗談ではない、と思った。倉庫の暮らしは気に入っていたのだ。


「みにゃ~!」


だが猫の抗議など、公爵令嬢の気まぐれの前では何の意味もなかった。



少女の部屋は、屋敷の東翼の三階にあった。天蓋つきの寝台、金糸の刺繍が施された長椅子、壁一面の本棚。棚には、九つの子供が読むとは思えない分厚い本がぎっしりと詰まっていた。


俺の扱いはぞんざいだった。


機嫌が悪ければ蹴られた。長椅子で寝ていれば、「そこは私の場所よ」と床に払い落とされた。ドレスに毛がついたと言っては、窓から庭へ放り投げられた。三階からだ。猫でなければ死んでいる。


食事の皿を出し忘れられるのは日常茶飯事で、俺はこっそり倉庫へ通い、マルタから残り物をもらっていた。


「お嬢様に飼われるなんて、あんたも災難ねえ」


マルタはそう言って俺の頭を撫でたが、その目はなぜか、少し嬉しそうだった。



何度目かに庭へ投げ落とされた夜、俺は植え込みの陰で丸くなりながら考えた。


前の時と違うのは、ほんの少しだけだ。路地で野垂れ死にかけるはずだった猫が、公爵令嬢の部屋で蹴られている。それだけのこと。


あの少女はいずれ悪女になり、王妃になり、国を傾け、そしてまたあの広場で首を落とされる。俺に何ができるわけでもないし、何かしようとも思わない。

それまで、せいぜい屋根のある場所で眠らせてもらうだけだ。


見上げると、東翼三階の窓に、まだ灯りがついていた。


***


季節がひとつ巡るころ、少女は俺に話しかけるようになった。


最初は独り言のようなものだった。家庭教師の授業から戻ってきて、寝台に突っ伏したまま「最悪」と呟く。俺が長椅子の端で尻尾を揺らしていると、枕に顔を埋めたまま続ける。


「歴代国王の名前と在位年を全部言えって。言ったわよ、全部。そうしたら、可愛げがないって。女が賢(さか)しらにするものじゃないって。じゃあ最初から聞かないでよ」


俺は返事をしなかった。猫だからな。少女もそれを期待してはいなかった。


それが、いつの間にか毎晩のことになった。


少女の母親は、四年前に亡くなっていた。遠い東の小国から嫁いできた人で、少女と同じ、葡萄酒のように赤い瞳を持っていたという。


「お母様は綺麗だったわ。顔も声も、全部覚えてる。最後の日に咳をした回数まで覚えてるのよ」


少女は枕をぎゅっと握った。


「忘れられないの。忘れたくても」


母が死んで一年もしないうちに、父の公爵は後妻を迎えた。新しい人は金の髪と金の瞳の美しい人で、すぐに娘を産んだ。リリアーヌという名の妹は、天使のように愛らしく、屋敷じゅうの誰からも可愛がられていた。


「あの人ね、私の目を見るたびに、気味が悪いって顔をするの。赤い目は東の魔女の血だって。お父様の前では言わないけど、侍女たちには言うのよ。だから侍女たちも、私のことを化け物みたいに見る」


一度見たものを忘れない頭も、少女を気味悪がらせる理由のひとつだった。子供が大人の言い間違いをいちいち覚えていて、何か月も前の日付まで正確に言い当てる。可愛げがないどころか、恐ろしいのだろう。


父親は、少女を愛してはいなかった。少なくとも、少女はそう信じていた。


「お父様が私に話しかけるのはね、月に一度だけ。成績の報告のときだけ。私は王太子殿下の婚約者候補なんですって。だから完璧でなきゃいけないの。完璧な家柄、完璧な教養、完璧な顔。お父様が欲しいのは娘じゃなくて、王家に差し出す駒なのよ」


少女は寝台の上で膝を抱え、窓の外を睨んだ。


「いいわ。誰も私を好きにならないなら、怖がらせてやる。誰にも馬鹿にされないくらい、誰にも逆らえないくらい、強くなってやる。リリアーヌなんかより、ずっと高いところに立ってやるわ」


その声は、震えていた。


ああ、と俺は思った。こうして、あの女はできあがっていくのか。


断頭台へ向かう、まっすぐな横顔。石をぶつけられても揺らがなかった、あの強さ。それはきっと、この夜の、この震える声から始まったのだ。誰にも愛されないなら恐れられればいいと、九つの子供が決めてしまった夜から。


胸の奥が、ちくりと痛んだ。魔物にも、そういう痛みはあるらしい。


俺は長椅子から降りて、寝台に跳び乗った。少女の膝の横に、黙って丸くなる。少女はびくりとして俺を見下ろした。いつもなら払い落とされるところだ。


だが、その夜、少女は俺を払い落とさなかった。


しばらくして、小さな手が、おそるおそる俺の背中に触れた。撫でる、というには不器用すぎる手つきだった。猫の撫で方を知らないのだ。誰も教えなかったのだろう。


「……汚い毛」


少女は呟いた。だが、手は離れなかった。


***


それから、少女は少しずつ変わった。


蹴られる回数が減った。食事の皿を忘れられることがなくなった。長椅子の端は、いつの間にか俺の場所になっていた。


ある夜、少女は寝台の上で本を広げながら、ぽつりと言った。


「あの日ね、路地であなたを見つけたとき。マルタに目配せしたのは、私よ」


俺は耳を立てた。


「勘違いしないで。汚い猫が道で死んでたら、もっと汚いでしょう。それだけよ」


少女はそう言って、ぷいと本に顔を戻した。


前の時、少女は何もせずに歩き去った。今回、マルタが俺を拾ったのは、少女の目配せがあったからだ。何がきっかけだったのかはわからない。女神の戯れが、ほんの少しだけ何かを揺らしたのかもしれない。


ふと、本から目を上げた少女と目が合った。


葡萄酒のような赤い瞳。断頭台の上で見たときには、乾ききった、底の見えない色だった。


だが今、その赤の奥に、灯りのような小さな揺らめきが見えた。


「なによ、じろじろ見て」


少女は眉を寄せて、俺の鼻先を指で弾いた。


痛くはなかった。


***


その夜はひどく寒く、初雪が降り始めていた。


屋敷じゅうの暖炉が昼も夜も焚かれ、煙突という煙突から青白い煙が上がっていた。少女の部屋の暖炉も、寝る前に侍女が薪を足していく。暖炉の前の敷物に寝そべると、柔らかくて暖かくて、そこで丸くなって眠った。


夜半、俺は焦げ臭さで目を覚ました。


暖炉の火ではない。もっと遠く、もっと嫌な匂い。壁の向こうから、ぱちぱちと何かが爆ぜる音がする。耳を澄ますと、廊下の床板の隙間から、細い煙が這い込んできていた。


「うみゃぁぁぁ!」


俺は寝台に跳び乗り、少女の顔を前足で叩いた。


「……なによ、ドブ。まだ夜――」


少女は言いかけて、咳き込んだ。部屋の中に、もう煙が満ち始めていた。


少女は寝間着のまま扉へ駆け寄り、取手を掴んで悲鳴を上げた。真鍮の取手が焼けている。扉の下の隙間から、赤い光が漏れていた。廊下はもう火の海なのだ。


「誰か! 誰か来て! マルタ!」


少女は叫んだ。返事はない。東翼の三階には、少女の部屋しかない。使用人たちの部屋は西翼の屋根裏で、父と継母と妹の寝室は、本館の二階だ。この翼にいるのは、少女と俺だけだった。


少女は窓へ走った。窓を開けると、冷たい夜気がどっと吹き込み、背後で火が勢いを増した。扉が内側に向かってめりめりと膨らむ。


下を覗くと、庭に灯りがいくつも揺れていた。人が集まり始めている。誰かが何かを叫んでいる。だが三階だ。梯子は届かない。飛び降りれば、子供の体はひとたまりもない。


轟音がして、扉が吹き飛んだ。


炎が部屋の中へなだれ込んでくる。天蓋に火が移り、本棚の本が端から燃え上がっていく。少女の覚えている頁が、一枚一枚、黒く縮れて灰になっていく。


少女は窓枠にしがみついたまま、震えていた。咳が止まらない。煙で目が開けられないのだろう。赤い瞳から、涙がぼろぼろと流れていた。


「お母様……」


その声を聞いて、考えるより先に、体が動いていた。

俺は少女の足元に立ち、ずっと身の内に押し込めていたものを解き放った。


魔力だ。


灰色と茶色のまだらの毛並みが、淡い緑の光を帯びて逆立つ。光は俺を中心に膨らみ、少女と俺をすっぽりと包み込んだ。炎がその光に触れて、ジュッと音を立てて退く。


少女が目を見開いた。その唇が、かすかに動いた。


「緑の光をまとう猫……」


赤い瞳が、炎と緑の光を映して揺れていた。


「東の古い妖精譚に載っていたわ。お母様の本棚の、三段目の左から七冊目。灰色の表紙の……猫の姿をした魔物。人に紛れて暮らして、気まぐれに人を助けるって……」


こんなときでさえ、少女は一度読んだ頁を正確に覚えていた。


「あなた、ケットシーなの……?」


俺は答える代わりに窓枠へ跳び上がり、振り返って、少女をじっと見た。少女は窓の下を覗き、それから俺を見た。


「……飛べって言うの? ここ、三階よ」


俺は尻尾をひとつ振った。お前に何度も投げ落とされた高さだ、と言ってやりたかった。


伝わったのかどうか。少女は泣き顔のまま、小さく笑った。


「そうね。あなたは何度落ちても、平気な顔で戻ってきたものね」


少女は俺を胸に抱き上げ、寝間着の裾をたくし上げて窓枠に足をかけた。


そのとき、頭上で嫌な音がした。


天蓋を支えていた太い梁が、炎に焼かれてめりめりと裂け、少女の背中めがけて倒れかかってくる。


考える暇はなかった。俺は少女の腕を蹴って跳び、緑の光をありったけ梁に叩きつけた。


光の膜が梁を受け止める。軋む。だが、燃え盛る梁の重さは、猫一匹の魔力で支えきれるものではなかった。膜が砕け、焼けた梁の端が、俺の背中にまともに落ちてきた。


骨の砕ける音を、俺は自分の体の内側で聞いた。


衝撃で弾き飛ばされた俺の体が、少女の胸にぶつかる。少女はとっさに俺を抱きとめ、その勢いのまま、窓の外へ転がり落ちた。


夜気が頬を切る。地面が迫る。


俺は残っている魔力のすべてを、ひとつ残らず光の膜に注ぎ込んだ。柔らかく、厚く、羽毛の寝床のように。緑の光が庭の雪に触れた瞬間、ふわりと弾み、少女の体は植え込みの上に転がった。


駆け寄るマルタの悲鳴が聞こえる。俺は少女の胸の上で、ぐったりと横たわっていた。


背中の感覚がない。後ろ足が動かない。息をするたびに、喉の奥で血の味がする。あの路地で死にかけていたときと、よく似ていた。違うのは、今度はもう、塞がる見込みのない傷だということだ。


緑の光が、俺の毛並みの端から、細かな粒になって夜空へほどけていく。


「ドブ? ねえ、ドブ」


少女が俺を抱き起こした。煤だらけの顔で、裸足で、雪の上に座り込んで。少女の白い寝間着が、俺の血で赤く染まっていく。


「血が……どうして。どうして、こんな」


少女の手が、俺の背中に触れかけて、止まった。触れたら壊れてしまうとでもいうように。


「どうして助けたの。私、あなたを蹴ったのに。投げたのに。不細工って、汚いって、言ったのに」


言いたいことは、たくさんあった。


お前はいずれ悪女になる。王妃になって、国を傾けて、広場で首を落とされる。俺はそれを見た。


――だが、一緒に暮らすうち、エルヴィーラが、寂しくて、悲しくて、それでも不器用で。


どうしようもなく不器用で、誰かに気にかけられることを、ただ待つだけの、小さな存在でしかないことを知った。


だから、あの記憶に伴う胸の痛みは日々大きくなった。


俺の喉から漏れるのは、もう掠れた息の音だけ。俺は代わりに、喉を鳴らした。ごろごろと、掠れた、みっともない音だった。少女の部屋の長椅子の端で、何百回となく鳴らしてきた音だ。


少女の顔が、くしゃりと歪んだ。


「覚えておくわ」


震える声で、少女は言った。


「私、一度見たものは忘れないの。あなたの顔、絶対に忘れない。その不細工な顔、一生忘れてやらないんだから」


赤い瞳から涙がポタポタと零れ、その一つが俺の鼻先に落ちた。温かかった。


俺は最後の力で舌を伸ばし、それを舐めた。しょっぱかった。それが、俺の覚えている最後だった。


***


俺はケットシー。魔物とも妖精とも言われる存在だ。


その命の本質は魔力であり、この世の体は仮初のもの。器が壊れても、魔力はこの世のどこかに散らばり、長い時間をかけて、またひとつに寄り集まる。だから、俺たちは何度でも蘇る。


不思議なことに、新しい器は、いつも前と似た形になる。灰色と茶色のまだらの毛並みも、潰れた鼻も。女神がよほど手抜きなのか、それとも、魂の形というのはそう簡単には変わらないものなのか。


俺は、またこの世に体を与えられた。


***


議事堂の中は、天井の高い石造りの広間になっていた。


長い戦争が、ようやく終わったばかりだった。東の国境で始まった戦は何年も続き、国じゅうの町という町に、親を失った子供たちを溢れさせた。


軒下で身を寄せ合い、市場の屑を拾い、物乞いの椀を差し出す子供たち。


冬が近づき、寒い朝が訪れるたびに起きてこない子供が増えていった。


その日の議会は、戦後の予算を決めるためのものだった。広間の両側には貴族院の議員たちが、奥の傍聴席には商人組合や職人組合の代表たちが並んでいる。


演壇に立った老貴族が、髭を震わせて言った。


「戦費で国庫は底をついておる。まずは城壁と橋と街道の修復が先決。孤児の面倒など、教会に任せておけばよい」


貴族席から同意の声が上がった。


そのとき、広間の扉が開いた。


衣擦れの音とともに、ひとりの女が入ってきた。青のドレス。蜂蜜色の髪をきっちりと結い上げ、背筋をまっすぐに伸ばしている。


その瞳は、葡萄酒のように赤かった。


女は演壇に上がると、広間をゆっくりと見渡した。それだけで、ざわめきが潮のように引いていった。


「ヘルムート卿のおっしゃる通り、国庫は空です」


澄んだ、よく通る声だった。


「戦費の総額は四千二百万クラウン。うち千八百万は、王都の両替商組合からの借入です。城壁の修復に見積もられた額は六百四十万、主要な橋十一か所で三百九十万。私は数字を、一度見たら忘れません」


議員たちが顔を見合わせた。老貴族が口を開きかけたが、女は構わずに続けた。


「ですが、皆さま。この戦で、王国は兵士だけを失ったのではありません。徴税官を、書記を、測量士を、教師を失いました。十年後、二十年後に、誰が城門の帳簿をつけるのですか?誰が橋の設計図を引くのですか?」


女は、両手を演壇についた。


「建物や橋を直すことと同じく、社会の仕組みも直さなければなりません。そのためには、失われた人材を手厚く育てる必要があるのです。いま軒下で震えている子供たちこそが、二十年後のこの国の骨組みです」


一拍の沈黙があった。


「そうだそうだ!」

「よく言った!!」


野太い歓声が、どっと上がった。


――広場の、人垣の中から。



ここは、王都の中央広場。


石造りの議事堂は、色を塗った板の書き割りだった。居並ぶ議員たちも、髭の老貴族も、青いドレスの女も、人の膝ほどの背丈しかない。木と布でできた、操り人形だ。


小さな舞台の前には子供たちが鈴なりに座り込み、その後ろを大人たちが幾重にも取り巻いている。野太い歓声を上げたのは、腕組みをした鍛冶屋らしい大男と、その仲間の職人たちだった。


この劇は人気の定番劇で、舞台の上の人形に合わせて、この場面で叫ぶことに決まっているらしい。子供たちがやんやと拍手し、けらけらと笑っている。


俺は人垣の足元に座り込んで、その舞台を見上げていた。


目覚めたのは、王都から遠く離れた北の山あいの村だった。寄り集まったばかりの魔力は薄く、頭もぼんやりとしていて、自分が何者だったのかを思い出すのにずいぶんかかった。


思い出したのは、赤い瞳だった。その途端、居ても立ってもいられなくなり、荷馬車の幌に潜り込み、川船の積み荷に紛れ、何か月もかけて南へ下ってきた。


王都に辿り着いたのが、たまたま今日だった。


広場は祭りの最中だった。色とりどりの旗が渡され、露店が石畳を隙間なく縁取っている。焼き栗の甘い匂いと、脂の焦げる香ばしい煙。かつての長い戦が終わったことを記念する祭りだという。


広場の真ん中に、断頭台はなかった。代わりにあるのが、この人形劇の舞台だった。


「あの議会はね、もう何十年も前のお話なの」


俺のすぐ横で、年配の女が、膝の上の少女に話し聞かせていた。


「おばあちゃんが、ちょうどあなたくらいのころよ。あのころは、町じゅう孤児だらけでねえ。おばあちゃんも、そのひとりだった」


俺は、その光景を知っていた。


前の時、俺は路地裏で、そういう子供たちと一緒に暮らしていた。痩せた子が俺を抱いて眠り、その子が冷たくなっていくのを、その腕の中で感じたこともある。そのころ王妃は宝石とドレスを買い漁っていると噂され、だから広場の群衆は「子供たちを返せ」と叫んで石を投げたのだ。


舞台の上では、青色のドレスの人形が、王都に孤児院を建て、町ごとに読み書きの学校を開いていた。背景の書き割りが次々と替わり、ぼろを着た子供の人形たちが、やがて書記の服を着て、測量士の帽子をかぶり、教師の杖を持って舞台に並んだ。


やがて、劇は終わりに近づいた。人形遣いが声を落とす。


「前王妃様、エルヴィーラ様は、子供のころ、火事で死にかけたことがありました。そのとき、不思議な光に助けられ、命拾いしたのです。前王妃さまはおっしゃいました。『あのとき、私の命が拾われたように、今度は私が拾うのです』と 」


舞台の上の王妃の人形が、静かに観客を見渡した。

子供たちや、周りの大人たちから、盛大な拍手が起こった。


俺は、その場から動かなかった。動けなかった。

エルヴィーラは、断頭台に登らなかった。代わりに、劇になる程に人々から尊敬され、敬愛される存在となった。


劇が終わり、子供たちが散っていく。俺はしばらく空っぽの舞台を眺めてから、人垣を抜け出した。



日が暮れるころ、俺は裏通りの酒場の床下に潜り込んだ。頭の上で、酔った男たちが祭りの話をしていた。


「前王妃様は、まだご存命なんだろう?」

「ああ。今年で六十九におなりになるそうだ」


六十九。


俺は、その数を床下の暗がりで転がした。


あの夜、少女は九つだった。ならば、あれから六十年が経ったのだ。俺の魔力がもう一度ひとつに寄り集まるまでに、それだけの時間がかかったということだ。


そして、あの少女は生きている。断頭台ではなく、前王妃として。


***


翌日、俺は中央広場に居た。祭りは今日も続いている。


脂の焦げる、香ばしい匂い。


広場の端の露店で、串焼きが焼けていた。俺は露店の屋根に跳び上がり、腹ばいになって真下を覗き込んだ。


親父は客の相手に忙しい。網の端の一本が、さっきから焼けすぎて放置されている。あれは俺のものになるべき一本だ。何十年経っても、こういうことは変わらないものらしい。


俺は屋根の縁まで這い寄り、親父が客に釣り銭を数え始めるのを待った。尻尾の先が、勝手にぴくぴくと動く。もう少し。あと少し――。


「親父さん、その端のやつを一本ちょうだい」


下から、静かな声がした。


親父が「へい」と答え、俺の一本をひょいと取り上げた。俺は屋根の上で、思わず口を開けたまま固まった。


串を受け取ったのは、灰色の地味な外套を着た、小柄な老婦人だった。杖をつき、頭巾を目深にかぶっている。供の者らしい若い男が二人、少し離れたところに控えていた。


老婦人は串を手にしたまま、ゆっくりと顔を上げた。屋根の上の、俺のほうへ。


「降りていらっしゃい。盗むより、そのほうが早いわよ」


頭巾の陰から覗いた瞳は、赤かった。


若いころの、陽に透かしたような鮮やかな赤ではない。長い年月を樽の中で眠った古い葡萄酒のような、深く、柔らかく、少しだけ褪せた赤。


その奥に、力強い煌めきが灯っていた。


俺は屋根から降りた。どう降りたのか覚えていない。気がつくと、老婦人の足元の石畳に座っていた。


老婦人は俺の顔をしげしげと眺めて、ふっと口の端を上げた。


「あら」


六十年前と、同じ顔だった。


「ケットシーは蘇るって、読んだわ。お母様の本棚の、三段目の左から七冊目。私ね、一度読んだ文書は忘れないのよ」


俺の喉の奥で、何かが詰まった。


老婦人はーエルヴィーラはくすくすと笑った。その声が、少しだけ震えていた。


「だから、ずっと待っていたの。それにしても、ずいぶん待たせたわね。六十年よ。お婆さんになっちゃったじゃない」


文句なら女神に言ってくれ、と俺は思った。


***


広場の端の、噴水の縁に、エルヴィーラと俺は並んで座った。


彼女は串から肉を外し、手のひらに載せて俺の前に差し出した。俺はそれを齧った。焼けすぎて、少し苦い。だが、うまかった。


「あの人形劇、見た?」


俺は肉を咥えたまま、ちらりと横目で見上げた。


「ずいぶん綺麗なお話になっているでしょう。でもね、本当はあんなに綺麗じゃなかったのよ」


エルヴィーラは広場を眺めた。断頭台があったはずの場所には、空っぽの人形劇の舞台が陽を浴びていた。


「あの夜のあと、私ね、やっぱり怖がらせてやろうと思っていたの」


静かな声だった。


「あの火事、廊下にランプの油が撒かれていたって、後でマルタがこっそり教えてくれたわ。誰の仕業かは、とうとうわからなかった。継母は、火事は私の不始末だって言いふらして、お父様は何も言わなかった。あなたもいなくなって、誰も私の話を聞いてくれなくなった。だから、やっぱり怖がらせてやろうと思ったの。誰にも馬鹿にされないくらい、強くなってやろうって」


彼女は、自分の皺だらけの手を見下ろした。


「でもね、夜になって目を閉じると、あなたが浮かぶのよ。血だらけで、光ってて、薄くなっていって。一度見たものは忘れないって、本当に厄介ね」


彼女の手が、そっと俺の背中に触れた。


「あなたは最後に喉を鳴らしてくれた。毎晩鳴らしていたのと同じ音で」


エルヴィーラは、しばらく黙っていた。


「何度も思い出して、やっと分かったの。あなたは、あの夜、私の命を救ってくれただけじゃなかった」


赤い瞳が、静かに俺を見つめる。俺は肉を食べるのをやめていた。


「一緒にいてくれた。私が誰にも言えないことを話しても、黙って聞いてくれた。私が誰にも必要とされていないと思っていたときも、毎晩、そこにいてくれた」


エルヴィーラは静かに微笑んだ。


「私があなたを拾ったんじゃなく、あなたが私を拾ってくれていたのね」


噴水の水音が、二人の間で静かに流れた。


「だから、決めたの。強くなるって。そして王太子妃になり、王妃になって、高いところに立つ。でも、怖がらせるためじゃない。今度は私が、誰かを拾える人になるために」


エルヴィーラは広場を見渡した。


「気がついたら、ずいぶんたくさん拾っていたわ」


俺は彼女の膝に前足をかけ、その手に額を擦りつけた。エルヴィーラは小さく息を呑み、それから、そっと目元を指で押さえた。


「マルタとあなたのことをよく話したわ。あの娘は、もう十年も前に逝ってしまったけど」


背中を撫でる手は、六十年前のあのぎこちない手とは違っていた。たくさんの子供の頭を撫でてきた手だった。


しばらくして、彼女は俺の首根っこをむんずと掴んだ。思わず身構えたが、放り投げられはしなかった。俺の体はそのまま持ち上げられ、外套の膝の上に下ろされた。


「決めた。今日から、あなたは私の部屋で飼ってあげる。命令よ」


六十年前と同じ台詞だった。


俺は、膝の上で丸くなった。外套越しに、老いた体の、少しだけ頼りない温もりが伝わってきた。


***


エルヴィーラの住まいは、王都の外れの、こぢんまりとした離宮だった。


庭には古い林檎の木があり、その向こうに、彼女が最初に建てたという孤児院の屋根が見えた。窓辺には長椅子がひとつ置かれ、その端が、着いたその日から俺の場所になった。


誰に言われたわけでもない。長椅子の端は、六十年前から俺の場所なのだ。


俺が蹴られることは、一度もなかった。窓から放り投げられることもなかった。食事の皿は朝晩欠かさず出てきたし、皿に載っているのは残り物ではなく、焼きたての鶏肉だった。


「贅沢を覚えたら、ネズミ番に戻れなくなるわよ」


そう言いながら、エルヴィーラは自分の皿から肉を取り分けて俺に寄越した。


日中は、客が多かった。孤児院の子供たちが、摘んだ花を持って駆け込んでくる。白髪の役人が、遠い町の学校の様子を報告に来る。そのたびにエルヴィーラは背筋を伸ばし、子供の名前をひとりも間違えずに呼び、役人の報告の数字の誤りをひとつ残らず言い当てた。


夜になると、エルヴィーラは寝台に横になり、長椅子の俺に向かって話した。六十年前と同じだった。


「侍医がうるさいのよ。あれを食べるな、これを飲むなって。私を誰だと思ってるのかしら」


「孤児院の屋根がまた雨漏りしてるの。予算を回すように言ったのに、財務院の若いのがぐずぐずして。昔、私が字を教えた子の孫なのよ、あれ」


「リリアーヌ、覚えてる? あの子、去年の春に亡くなったの。最後は手を握って、ごめんなさいって。何を謝ったのかしらね。私はもう、とっくに怒ってなかったのに」


愚痴の数は、六十年前よりずっと少なかった。代わりに、笑い声がずっと多かった。


俺は返事をしなかった。猫だからな。エルヴィーラも、それを期待してはいなかった。


***


秋が深まるにつれ、エルヴィーラが寝台から起き上がる時間は、少しずつ短くなっていった。


客を迎えるのが、昼の一刻だけになり、それが半刻になった。


子供たちの花は、寝台の脇の小机に飾られるようになり、侍医が出入りする回数が増えた。


俺は長椅子の端から寝台の上へ移り、エルヴィーラの横で黙って丸くなる。


初雪の降った夜だった。


窓の外で、林檎の木の枝が白く染まっていく。部屋の中には暖炉の火が静かに燃えていて、ぱちぱちと薪の爆ぜる音だけが聞こえていた。


エルヴィーラは、枕に頭を預けたまま、窓の外を眺めていた。


「あの夜も、雪だったわね」


俺は彼女に身をピタリと寄せた。薄くなった体の、浅い上下が伝わってくる。


「あの夜は、あなたが私の腕の中で死んだのよね」


エルヴィーラの手が、俺の背中に触れた。梁が落ちてきた、あの場所だった。


「今度は、逆ね」


俺は喉を鳴らした。ごろごろと、掠れた、みっともない音だった。六十年前の雪の上で、最後に鳴らしたのと同じ音だ。


エルヴィーラはふっと笑った。


「見送ってくれるのね」


赤い瞳が俺を見つめていた。古い葡萄酒のような、深く、柔らかい赤。


背中を撫でる手が、ゆっくりになった。


「あなたの顔を見ながら逝けるなんて、本当に……悪くないわね」


手が、止まった。


胸の上下が、浅く、浅くなり、やがて静かになった。


俺は、喉を鳴らすのをやめなかった。朝まで、ずっと鳴らし続けた。エルヴィーラの手は、最後まで俺の背中の上にあった。


***


女神の戯れ。


あれが慈悲だったのか、気まぐれな戯れだったのか、俺にはいまだにわからない。たぶん、どちらでもいいのだろう。


俺がしたことといえば、ひとりの少女に蹴られ、投げ落とされ、愚痴を聞き、最後に一度だけ光っただけだ。


結末を書き換えたのは彼女自身だ。


前の時、俺は元王妃の最期を、露店の陰から見ていた。串焼きを咥えて、他人事のように。


今度は、前王妃、エルヴィーラ腕の中で彼女を見送った。


それだけのことだ。それだけのことが、ひどく嬉しかった。


***


春が来て、俺は王都の中央広場にいた。


人形劇の舞台の前には、今日も子供たちが鈴なりに座り込んでいる。舞台の上では青色のドレスの人形が演壇に立ち、人垣の中から野太い声が上がる。


「そうだそうだ!」

「よく言った!!」


劇が終わり、子供たちが散っていく。


そのうちのひとりが振り返り、人垣の足元に座っている俺に気づいた。


「あっ、猫だ!」

「ほんとだ、ぶさいくー!」


子供たちが、わっと俺を取り囲む。小さな手が、あちこちから伸びてくる。撫で方を知らない、不器用な手だ。


俺は逃げなかった。


ケットシーは魔物だ。この世の体は仮初のもので、何度でも蘇る。ならばエルヴィーラが拾ったものを、もうしばらく見ていてやるのも悪くない。


「うみゃぁ」


俺は子供たちの手の中で目を細め、尻尾をひとつ振った。

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