【短編版】婚約破棄されたので古井戸に身投げ……したら、霧の底に前世の記憶と精霊が待ってましたわ~「聖女はもう辞めます、なお公爵家は勝手に詰みました」~
「セレスティア、貴様との婚約を破棄する」
霞公爵領の大広間に、第二王子ロデリックの声が響き渡った。
金髪碧眼の美貌を誇らしげに反らし、彼は指を突きつける。
「聖女の力も持たぬ落ちこぼれが、王家の血に相応しいはずがない!」
私——セレスティア・霞は、その言葉を静かに受け止めた。
(あぁ、やっぱり。この日が来るとは思っていましたけれど)
心の中で、ため息ひとつ。
喚くつもりも、泣くつもりもない。
ロデリックの隣には、豪奢な金の巻き髪をした娘が勝ち誇った笑みを浮かべていた。王都の花形聖女、ミレーユ。
彼女の掌の上で、まばゆい光の魔法がぱちぱちと弾ける。
派手で、美しくて——そして、何の役にも立たない光。
「本物の聖女は、この私。あなたのような地味な娘とは、格が違いますのよ?」
ミレーユが扇の陰でくすりと笑う。
「そうだ」ロデリックが頷いた。「お前は古井戸とやらと共に朽ちるがいい」
古井戸。
その言葉に、私は初めてわずかに目を伏せた。
幼い頃から、私はただひとつの役目を担ってきた。
霧深きこの辺境領の守り神——『古井戸』の管理。
井戸は霧を生み、領地に清浄な水と豊かな実りをもたらす。だが王都の人間は、それを『辺境の迷信』と嘲笑ってきた。
派手な光魔法を持たぬ私を、『落ちこぼれ聖女』と。
(そうですか。では——)
私は静かに、優雅に一礼した。
そして、告げる。
「……そうですか。では、井戸の管理も、辞めさせていただきます」
広間に、くすくすと嘲笑が漏れた。
誰ひとり、その一言の重さに気づく者はいない。
「はっ、勝手にするがいい」ロデリックは鼻で笑った。「辺境の迷信など、誰も困りはせん」
(えぇ。どうぞ、そうお思いになって)
「えぇ。どうぞ、そうお思いになって」
「まぁ、聞き分けのよろしいこと」ミレーユが勝ち誇る。「せいぜい霧の中でお暮らしなさいな」
「ご忠告、痛み入ります。……では、失礼いたします」
私はもう一度だけ頭を下げ、踵を返す。
背中に浴びる嘲笑を、霧のように受け流しながら。
——この時、誰も知らなかった。
その井戸が、王国そのものの心臓であったことを。
*
大広間を出た廊下で、老侍女のノーラが待っていた。
白髪をきっちり結い上げ、皺深い手にはいつものように清められた井戸水の桶。
「お嬢様。……よろしいのですか、本当に」
「えぇ。喚いたところで、渇いた喉は潤いませんもの」
ノーラは、渇き始めた王都の方角をちらりと見やった。
そして、静かに毒を吐く。
「お嬢様の水の価値も分からぬ愚か者どもに、いずれ喉の渇きが教えてくれましょう」
私は微笑んだ。
この老侍女だけは、ずっと見てくれていた。
誰にも評価されず、私が古井戸に通い続けた日々を。
「……ありがとう、ノーラ」
*
公爵家を追われた私に、もう帰る場所はなかった。
幽玄の霧が渦巻く、古井戸の縁に立つ。
ひんやりとした空気が頬を撫でる。
役目も、居場所も、婚約者も——すべて失った。
(……疲れました。役目も、居場所も、婚約者も、すべて)
ふらり、と身体が傾く。
縁を越え、霧の底へ——
その瞬間だった。
記憶が、濁流のように蘇る。
——コンクリートの匂い。計器の光。深夜の浄水場。
私はかつて、現代日本で生きていた。
名前は佐倉聖。
ダムと浄水場を守り続けた、地味な水質管理技師。
誰にも褒められず、それでも「水は止められない」と、毎日淡々と設備を回し続けた技術者。
(——あぁ、そうか。私、思い出しました。佐倉聖。水を、止めなかった技師の記憶を)
落下しながら、私の中で二つの人生が繋がっていく。
(この井戸、ただの水源じゃない。“循環”そのものだ)
霧の生成。水の浄化。生態系の維持。
この井戸は、辺境どころか——王国全体の水脈を回す、巨大な循環装置。
そして、霧の底で。
淡い青緑に発光する、半透明の少女が私を受け止めた。
髪も衣も、水面のように揺らめいている。
「やっと……気づいてくれたのね、セレスティア」
幽玄の水精霊、ミオ。
数百年もの間、たった一人でこの井戸に宿り、私だけを話し相手にしてきた存在。
「ミオ……あなた、ずっとここに」
「この井戸を回してきたのは、聖女の光じゃない。あなたと、私。二人でずっと、この国の水を守ってきたのよ」
ミオの声には、長い孤独の重みが滲んでいた。
前世の知識が、答え合わせをしていく。
「循環、浄化、生態系……あぁ、全部つながる。この井戸、辺境どころか王国全体の心臓だったのね」
「数百年、待っていたの」ミオが揺らめく。「あなたが、本当のあなたに気づく日を」
私が佐倉聖として積み上げたすべてが、この精霊の力と結びつく。
私こそが、この領地の、いや王国全体の生命線を支える真の要だった。
派手さなど、ひとかけらもない。
ただ、地味に、淡々と。
でも——止めれば、すべてが渇く。
私は霧の中で、ゆっくりと立ち上がった。
(喚くのはやめましょう。恨むのも、もう飽きました)
「ミオ。井戸を離れます」
「え……? どうして……せっかく、二人になれたのに」
「私は私の水を、必要としてくれる場所へ持っていくだけ。あなたも一緒に、来てくれますか?」
ミオは、しばらく揺らめいて。
それから、花がほころぶように笑った。
「……うん。うん! どこまでも、あなたと一緒がいい」
「指一本、汚すつもりはありません。ただ——手を、引くだけ」
*
霧を抜けた先で、私を迎えたのは一人の男だった。
二メートル近い巨躯。浅黒い肌。頭には黒曜の角、背には畳まれた竜の翼。
辺境の若き竜人領主、ガレス・ドラクレア。
彼は無言で私を見下ろしていた。
強面で、威圧的で——どう見ても交渉相手には向かない風貌。
「……」
(……えぇと。この方、どう出るのが正解でしょうか)
身構える私に、ガレスは唐突に手を差し出した。
「……その水筒。よこせ」
私が古井戸から汲んだ、最後の一杯。
「……どうぞ。古井戸から汲んだ、最後の一杯です」
彼は無言でそれを受け取り、ぐっと飲み干した。
そして、ぽつりと。
「……お前の水、うまい」
「は?」
思わず前世の口調が出た。
「昔から、そうだった」ガレスは目を逸らしながら続ける。「霞領の水は、どこよりもうまい。理由は知らん。だが、うまいものはうまい」
見れば、彼の角の先が——ほんのり赤らんでいる。
(……角の先が、赤らんでいる。この方、照れていらっしゃる?)
「王都の連中は、光だのなんだのと騒ぐ」ガレスは吐き捨てるように言った。「だが、俺は光では喉を潤せん。うまい水を作る奴のほうが、よほど本物だ」
静謐な衝撃が、胸を打った。
(誰も——本当に誰も、評価しなかったのに。ただ一人、この不器用な方を除いて)
「セレスティア・霞」ガレスは私をまっすぐ見た。「行く当てがないなら、俺の領地へ来い。お前の水が要る」
打算でも、政略でもない。
ただ、価値を分かる者として。
「……喜んで」
私が微笑むと、彼は慌てたように翼を広げ、その陰に顔を隠した。
「べ、別に、水が欲しいだけだ」
(……翼で顔を隠しましたね。可愛いですね、この竜人)
傍らで、ミオがくすくすと笑っていた。
「セレスティア、この人、面白い」
「えぇ。悪くない土地になりそうです。……さて、あちらは今頃、どうなっているでしょうね」
*
私が去った直後から、王国は静かに壊れ始めた。
最初は、些細な異変だった。
王都の泉が、うっすらと濁る。
花形聖女ミレーユは光魔法をかざしたが——泉はきらきらと輝くばかりで、澱みは一向に消えない。
「な、なぜ……? 私の聖なる光が、効かない? 泉の澱みが、消えない……!」
当然だ。
彼女の光は、見世物としての派手さしかない。
水を浄化し、霧を循環させる実務的な力など、最初から持ち合わせていなかったのだから。
数日後、王都近郊の作物が枯れ始めた。
清浄な水が絶えれば、土は死ぬ。当たり前の話だ。
そして、濁った水が原因で——疫病が広がった。
「どういうことだ、ミレーユ!」ロデリックが怒鳴る。「お前は本物の聖女ではなかったのか!」
「そ、そんな……こんなの、知らないわ! 水を浄化するなんて、聞いていない!」
「作物が枯れる……疫病だと? 原因を突き止めろ! なぜ王都の水がこうなる!?」
だが、誰も分からない。
『地味な辺境の古井戸』が、王国全体の水脈を回していたなどと、誰一人知らなかったのだから。
「聖女を集めろ! 諸国から、力ある聖女を残らず呼び寄せるのだ!」
ロデリックは各地に使者を飛ばした。
だが——どの聖女が来ようと、光をかざそうと、水源は次々と澱んでいく。
王国の血管が、ゆっくりと詰まっていくように。
(どの聖女が来ても、光をかざしても、水は澱むばかり……なぜ……?)
ミレーユの華やかな笑みから、少しずつ血の気が引いていった。
一方その頃。
霞公爵家では、老侍女ノーラが淡々と荷をまとめていた。
「……ふぅ。荷は、これで全て。あとはお嬢様のもとへ向かうのみ」
彼女は窓の外、渇き始めた王都の方角を見やり、静かに毒を吐いた。
「お嬢様の水の価値も分からぬ愚か者どもに——いずれ喉の渇きが、教えてくれましょうよ」
そして公爵家を辞し、彼女は主を追う。
霧の底の、真の聖女のもとへ。
*
ガレスの領地で、私は前世知識と精霊ミオの力を注ぎ込んだ。
まずは水源の設計。
「ミオ、この地形なら霧を溜められます。ここに循環路を作りましょう」
「まかせて! セレスティアの言うとおりにするだけで、力が湧いてくるの」
そう——ミオの力は、私との『絆』があって初めて発動する。
数百年、たった一人で寂しく待っていた精霊は、ようやく本当の相棒を得て、生き生きと水を巡らせた。
浄水の理屈は、佐倉聖の知識がすべて知っている。
「沈殿、濾過、生態系による自浄。派手な魔法はいりません。ただ、地味な理系の積み重ねです」
だが——結果は劇的だった。
清浄な水が湧き、霧が土地を潤す。
「見て、セレスティア! 枯れかけた大地が、緑を取り戻していく……!」
枯れかけた大地が、みるみる緑を取り戻す。
作物は豊かに実り、疫病は影も形もない。
「霧の水源都市」
人々はそう呼び、噂を聞きつけて続々と押し寄せてきた。
ノーラも到着し、都市の運営を陰から支えてくれた。
「お嬢様の水は、やはり本物でございます。この老いた目に、狂いはございませんでした」
ガレスは相変わらず口下手だった。
「……うまい。やはり、お前の水はうまい」
「ふふ。ありがとうございます、ガレス様」
「べ、別に。お前の水が、飲めればそれでいい」
(また翼で顔を隠して……この方、いつか正直になれるのでしょうか)
傍らで、ミオが水面のように揺らめいて笑う。
「セレスティアの水を、みんなが必要としてる。もう、寂しくないね」
「えぇ。ここには、私の水を求めてくれる人々がいます。それで、十分」
派手な社交界も、王家の栄光もない。
でも、ここには——私の水を、必要としてくれる人々がいる。
そんなある日。
都市の門前に、泥まみれの一団が跪いた。
王家の、使者だった。
*
「どうか……どうか王国をお救いください、聖女様……!」
泥にまみれた王家の使者が、地に額をこすりつけて懇願した。
かつて私を嘲笑した、あの王都から来た人々。
「王都の水はすべて澱み、民は倒れ、作物は枯れ果てました。なにとぞ、聖女セレスティア様のお力を……!」
私は霧の向こうから、静かに歩み出た。
銀髪を霧に濡らし、灰青の瞳で使者を見下ろす。
そして——ゆっくりと、微笑んだ。
「は?」
使者が顔を上げる。
「私、聖女はもう辞めましたけれど?」
沈黙。
「そ、そんな……! どうか、そのようなことをおっしゃらず……!」
「あの日、大広間で申し上げましたでしょう。『井戸の管理も辞めさせていただきます』と」
「そ、それは……あの時は、その……!」
「皆さま、笑っておられましたよね。誰も困りはしない、と」
淡々と。喚かず、恨まず。
ただ、事実だけを。
「困っていらっしゃるのは、そちらの勝手では?」
傍らでミオがくすくす笑う。
「ふふっ。セレスティア、言うわね」
ガレスは腕を組み、無言の威圧を放った。
「……帰れ。この地の水は、こいつを笑った者には一滴もやらん」
ノーラは冷ややかに使者を見下ろす。
「喉の渇きが、ようやく物を教えてくれたようですねぇ。少々、遅すぎましたが」
使者は震える声で続けた。
「ロデリック殿下は王位継承権を剥奪され……ミレーユ様も、宮廷を追われました……もう、あなた様しか……」
伝え聞いた話では——
ロデリックは全てを失っていた。
水源崩壊の責任を問われ、王位継承権を剥奪。
花形聖女ミレーユも、その光が何ひとつ救えぬまま化けの皮が剥がれ、宮廷を追われたという。
派手さは、空虚だった。
崇拝は、無能を隠す薄布に過ぎなかった。
(失ってから気づく。最も愚かな後悔ですね。……でも、私は指一本汚していません)
ただ、手を引いただけ。
それだけで、加害者は勝手に詰んだ。
「お引き取りください」私は静かに告げた。「私の水は、私を必要としてくれる場所にだけ、流れます」
「そんな……ああ……!」
使者は言葉もなく、崩れ落ちた。
*
——その夜。
井戸の底で、ミオがぽつりと呟いた。
「ねえセレスティア。実はこの井戸……王国だけじゃなくて、“世界の水脈”に繋がってるって、話したっけ?」
「……は?」
私は思わず、前世の声で聞き返した。
ミオは無邪気に、水面のように揺らめきながら笑う。
「話してなかったかも!」
「……ミオ。それ、もっと早く言ってほしかったのですけれど」
「えへへ。だって、今がいちばん驚くと思って」
静かに苦笑して、私は霧を見上げた。
(まったく。どうやら、聖女を辞めたくらいでは終わらせてもらえないようです)
どうやら——聖女を辞めたくらいでは、この物語、まだ終わってくれないらしい。
まったく。
水質管理技師の仕事に、定年はないようです。




