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【短編版】婚約破棄されたので古井戸に身投げ……したら、霧の底に前世の記憶と精霊が待ってましたわ~「聖女はもう辞めます、なお公爵家は勝手に詰みました」~

作者: uta
掲載日:2026/09/03

「セレスティア、貴様との婚約を破棄する」


霞公爵領の大広間に、第二王子ロデリックの声が響き渡った。


金髪碧眼の美貌を誇らしげに反らし、彼は指を突きつける。


「聖女の力も持たぬ落ちこぼれが、王家の血に相応しいはずがない!」


私——セレスティア・霞は、その言葉を静かに受け止めた。


(あぁ、やっぱり。この日が来るとは思っていましたけれど)


心の中で、ため息ひとつ。


喚くつもりも、泣くつもりもない。


ロデリックの隣には、豪奢な金の巻き髪をした娘が勝ち誇った笑みを浮かべていた。王都の花形聖女、ミレーユ。


彼女の掌の上で、まばゆい光の魔法がぱちぱちと弾ける。


派手で、美しくて——そして、何の役にも立たない光。


「本物の聖女は、この私。あなたのような地味な娘とは、格が違いますのよ?」


ミレーユが扇の陰でくすりと笑う。


「そうだ」ロデリックが頷いた。「お前は古井戸とやらと共に朽ちるがいい」


古井戸。


その言葉に、私は初めてわずかに目を伏せた。


幼い頃から、私はただひとつの役目を担ってきた。


霧深きこの辺境領の守り神——『古井戸』の管理。


井戸は霧を生み、領地に清浄な水と豊かな実りをもたらす。だが王都の人間は、それを『辺境の迷信』と嘲笑ってきた。


派手な光魔法を持たぬ私を、『落ちこぼれ聖女』と。


(そうですか。では——)


私は静かに、優雅に一礼した。


そして、告げる。


「……そうですか。では、井戸の管理も、辞めさせていただきます」


広間に、くすくすと嘲笑が漏れた。


誰ひとり、その一言の重さに気づく者はいない。


「はっ、勝手にするがいい」ロデリックは鼻で笑った。「辺境の迷信など、誰も困りはせん」


(えぇ。どうぞ、そうお思いになって)


「えぇ。どうぞ、そうお思いになって」


「まぁ、聞き分けのよろしいこと」ミレーユが勝ち誇る。「せいぜい霧の中でお暮らしなさいな」


「ご忠告、痛み入ります。……では、失礼いたします」


私はもう一度だけ頭を下げ、踵を返す。


背中に浴びる嘲笑を、霧のように受け流しながら。


——この時、誰も知らなかった。


その井戸が、王国そのものの心臓であったことを。



大広間を出た廊下で、老侍女のノーラが待っていた。


白髪をきっちり結い上げ、皺深い手にはいつものように清められた井戸水の桶。


「お嬢様。……よろしいのですか、本当に」


「えぇ。喚いたところで、渇いた喉は潤いませんもの」


ノーラは、渇き始めた王都の方角をちらりと見やった。


そして、静かに毒を吐く。


「お嬢様の水の価値も分からぬ愚か者どもに、いずれ喉の渇きが教えてくれましょう」


私は微笑んだ。


この老侍女だけは、ずっと見てくれていた。


誰にも評価されず、私が古井戸に通い続けた日々を。


「……ありがとう、ノーラ」



公爵家を追われた私に、もう帰る場所はなかった。


幽玄の霧が渦巻く、古井戸の縁に立つ。


ひんやりとした空気が頬を撫でる。


役目も、居場所も、婚約者も——すべて失った。


(……疲れました。役目も、居場所も、婚約者も、すべて)


ふらり、と身体が傾く。


縁を越え、霧の底へ——


その瞬間だった。


記憶が、濁流のように蘇る。


——コンクリートの匂い。計器の光。深夜の浄水場。


私はかつて、現代日本で生きていた。


名前は佐倉聖せい


ダムと浄水場を守り続けた、地味な水質管理技師。


誰にも褒められず、それでも「水は止められない」と、毎日淡々と設備を回し続けた技術者。


(——あぁ、そうか。私、思い出しました。佐倉聖。水を、止めなかった技師の記憶を)


落下しながら、私の中で二つの人生が繋がっていく。


(この井戸、ただの水源じゃない。“循環”そのものだ)


霧の生成。水の浄化。生態系の維持。


この井戸は、辺境どころか——王国全体の水脈を回す、巨大な循環装置。


そして、霧の底で。


淡い青緑に発光する、半透明の少女が私を受け止めた。


髪も衣も、水面のように揺らめいている。


「やっと……気づいてくれたのね、セレスティア」


幽玄の水精霊、ミオ。


数百年もの間、たった一人でこの井戸に宿り、私だけを話し相手にしてきた存在。


「ミオ……あなた、ずっとここに」


「この井戸を回してきたのは、聖女の光じゃない。あなたと、私。二人でずっと、この国の水を守ってきたのよ」


ミオの声には、長い孤独の重みが滲んでいた。


前世の知識が、答え合わせをしていく。


「循環、浄化、生態系……あぁ、全部つながる。この井戸、辺境どころか王国全体の心臓だったのね」


「数百年、待っていたの」ミオが揺らめく。「あなたが、本当のあなたに気づく日を」


私が佐倉聖として積み上げたすべてが、この精霊の力と結びつく。


私こそが、この領地の、いや王国全体の生命線を支える真の要だった。


派手さなど、ひとかけらもない。


ただ、地味に、淡々と。


でも——止めれば、すべてが渇く。


私は霧の中で、ゆっくりと立ち上がった。


(喚くのはやめましょう。恨むのも、もう飽きました)


「ミオ。井戸を離れます」


「え……? どうして……せっかく、二人になれたのに」


「私は私の水を、必要としてくれる場所へ持っていくだけ。あなたも一緒に、来てくれますか?」


ミオは、しばらく揺らめいて。


それから、花がほころぶように笑った。


「……うん。うん! どこまでも、あなたと一緒がいい」


「指一本、汚すつもりはありません。ただ——手を、引くだけ」



霧を抜けた先で、私を迎えたのは一人の男だった。


二メートル近い巨躯。浅黒い肌。頭には黒曜の角、背には畳まれた竜の翼。


辺境の若き竜人領主、ガレス・ドラクレア。


彼は無言で私を見下ろしていた。


強面で、威圧的で——どう見ても交渉相手には向かない風貌。


「……」


(……えぇと。この方、どう出るのが正解でしょうか)


身構える私に、ガレスは唐突に手を差し出した。


「……その水筒。よこせ」


私が古井戸から汲んだ、最後の一杯。


「……どうぞ。古井戸から汲んだ、最後の一杯です」


彼は無言でそれを受け取り、ぐっと飲み干した。


そして、ぽつりと。


「……お前の水、うまい」


「は?」


思わず前世の口調が出た。


「昔から、そうだった」ガレスは目を逸らしながら続ける。「霞領の水は、どこよりもうまい。理由は知らん。だが、うまいものはうまい」


見れば、彼の角の先が——ほんのり赤らんでいる。


(……角の先が、赤らんでいる。この方、照れていらっしゃる?)


「王都の連中は、光だのなんだのと騒ぐ」ガレスは吐き捨てるように言った。「だが、俺は光では喉を潤せん。うまい水を作る奴のほうが、よほど本物だ」


静謐な衝撃が、胸を打った。


(誰も——本当に誰も、評価しなかったのに。ただ一人、この不器用な方を除いて)


「セレスティア・霞」ガレスは私をまっすぐ見た。「行く当てがないなら、俺の領地へ来い。お前の水が要る」


打算でも、政略でもない。


ただ、価値を分かる者として。


「……喜んで」


私が微笑むと、彼は慌てたように翼を広げ、その陰に顔を隠した。


「べ、別に、水が欲しいだけだ」


(……翼で顔を隠しましたね。可愛いですね、この竜人)


傍らで、ミオがくすくすと笑っていた。


「セレスティア、この人、面白い」


「えぇ。悪くない土地になりそうです。……さて、あちらは今頃、どうなっているでしょうね」



私が去った直後から、王国は静かに壊れ始めた。


最初は、些細な異変だった。


王都の泉が、うっすらと濁る。


花形聖女ミレーユは光魔法をかざしたが——泉はきらきらと輝くばかりで、澱みは一向に消えない。


「な、なぜ……? 私の聖なる光が、効かない? 泉の澱みが、消えない……!」


当然だ。


彼女の光は、見世物としての派手さしかない。


水を浄化し、霧を循環させる実務的な力など、最初から持ち合わせていなかったのだから。


数日後、王都近郊の作物が枯れ始めた。


清浄な水が絶えれば、土は死ぬ。当たり前の話だ。


そして、濁った水が原因で——疫病が広がった。


「どういうことだ、ミレーユ!」ロデリックが怒鳴る。「お前は本物の聖女ではなかったのか!」


「そ、そんな……こんなの、知らないわ! 水を浄化するなんて、聞いていない!」


「作物が枯れる……疫病だと? 原因を突き止めろ! なぜ王都の水がこうなる!?」


だが、誰も分からない。


『地味な辺境の古井戸』が、王国全体の水脈を回していたなどと、誰一人知らなかったのだから。


「聖女を集めろ! 諸国から、力ある聖女を残らず呼び寄せるのだ!」


ロデリックは各地に使者を飛ばした。


だが——どの聖女が来ようと、光をかざそうと、水源は次々と澱んでいく。


王国の血管が、ゆっくりと詰まっていくように。


(どの聖女が来ても、光をかざしても、水は澱むばかり……なぜ……?)


ミレーユの華やかな笑みから、少しずつ血の気が引いていった。


一方その頃。


霞公爵家では、老侍女ノーラが淡々と荷をまとめていた。


「……ふぅ。荷は、これで全て。あとはお嬢様のもとへ向かうのみ」


彼女は窓の外、渇き始めた王都の方角を見やり、静かに毒を吐いた。


「お嬢様の水の価値も分からぬ愚か者どもに——いずれ喉の渇きが、教えてくれましょうよ」


そして公爵家を辞し、彼女は主を追う。


霧の底の、真の聖女のもとへ。



ガレスの領地で、私は前世知識と精霊ミオの力を注ぎ込んだ。


まずは水源の設計。


「ミオ、この地形なら霧を溜められます。ここに循環路を作りましょう」


「まかせて! セレスティアの言うとおりにするだけで、力が湧いてくるの」


そう——ミオの力は、私との『絆』があって初めて発動する。


数百年、たった一人で寂しく待っていた精霊は、ようやく本当の相棒を得て、生き生きと水を巡らせた。


浄水の理屈は、佐倉聖の知識がすべて知っている。


「沈殿、濾過、生態系による自浄。派手な魔法はいりません。ただ、地味な理系の積み重ねです」


だが——結果は劇的だった。


清浄な水が湧き、霧が土地を潤す。


「見て、セレスティア! 枯れかけた大地が、緑を取り戻していく……!」


枯れかけた大地が、みるみる緑を取り戻す。


作物は豊かに実り、疫病は影も形もない。


「霧の水源都市」


人々はそう呼び、噂を聞きつけて続々と押し寄せてきた。


ノーラも到着し、都市の運営を陰から支えてくれた。


「お嬢様の水は、やはり本物でございます。この老いた目に、狂いはございませんでした」


ガレスは相変わらず口下手だった。


「……うまい。やはり、お前の水はうまい」


「ふふ。ありがとうございます、ガレス様」


「べ、別に。お前の水が、飲めればそれでいい」


(また翼で顔を隠して……この方、いつか正直になれるのでしょうか)


傍らで、ミオが水面のように揺らめいて笑う。


「セレスティアの水を、みんなが必要としてる。もう、寂しくないね」


「えぇ。ここには、私の水を求めてくれる人々がいます。それで、十分」


派手な社交界も、王家の栄光もない。


でも、ここには——私の水を、必要としてくれる人々がいる。


そんなある日。


都市の門前に、泥まみれの一団が跪いた。


王家の、使者だった。



「どうか……どうか王国をお救いください、聖女様……!」


泥にまみれた王家の使者が、地に額をこすりつけて懇願した。


かつて私を嘲笑した、あの王都から来た人々。


「王都の水はすべて澱み、民は倒れ、作物は枯れ果てました。なにとぞ、聖女セレスティア様のお力を……!」


私は霧の向こうから、静かに歩み出た。


銀髪を霧に濡らし、灰青の瞳で使者を見下ろす。


そして——ゆっくりと、微笑んだ。


「は?」


使者が顔を上げる。


「私、聖女はもう辞めましたけれど?」


沈黙。


「そ、そんな……! どうか、そのようなことをおっしゃらず……!」


「あの日、大広間で申し上げましたでしょう。『井戸の管理も辞めさせていただきます』と」


「そ、それは……あの時は、その……!」


「皆さま、笑っておられましたよね。誰も困りはしない、と」


淡々と。喚かず、恨まず。


ただ、事実だけを。


「困っていらっしゃるのは、そちらの勝手では?」


傍らでミオがくすくす笑う。


「ふふっ。セレスティア、言うわね」


ガレスは腕を組み、無言の威圧を放った。


「……帰れ。この地の水は、こいつを笑った者には一滴もやらん」


ノーラは冷ややかに使者を見下ろす。


「喉の渇きが、ようやく物を教えてくれたようですねぇ。少々、遅すぎましたが」


使者は震える声で続けた。


「ロデリック殿下は王位継承権を剥奪され……ミレーユ様も、宮廷を追われました……もう、あなた様しか……」


伝え聞いた話では——


ロデリックは全てを失っていた。


水源崩壊の責任を問われ、王位継承権を剥奪。


花形聖女ミレーユも、その光が何ひとつ救えぬまま化けの皮が剥がれ、宮廷を追われたという。


派手さは、空虚だった。


崇拝は、無能を隠す薄布に過ぎなかった。


(失ってから気づく。最も愚かな後悔ですね。……でも、私は指一本汚していません)


ただ、手を引いただけ。


それだけで、加害者は勝手に詰んだ。


「お引き取りください」私は静かに告げた。「私の水は、私を必要としてくれる場所にだけ、流れます」


「そんな……ああ……!」


使者は言葉もなく、崩れ落ちた。



——その夜。


井戸の底で、ミオがぽつりと呟いた。


「ねえセレスティア。実はこの井戸……王国だけじゃなくて、“世界の水脈”に繋がってるって、話したっけ?」


「……は?」


私は思わず、前世の声で聞き返した。


ミオは無邪気に、水面のように揺らめきながら笑う。


「話してなかったかも!」


「……ミオ。それ、もっと早く言ってほしかったのですけれど」


「えへへ。だって、今がいちばん驚くと思って」


静かに苦笑して、私は霧を見上げた。


(まったく。どうやら、聖女を辞めたくらいでは終わらせてもらえないようです)


どうやら——聖女を辞めたくらいでは、この物語、まだ終わってくれないらしい。


まったく。


水質管理技師の仕事に、定年はないようです。

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