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銀河鉄道の夜―カムパネルラは僕を突き落としました―

作者: 海月瑞希
掲載日:2026/05/22

ジョバンニは宙に手を伸ばしました。


水面みなもは海底火山が噴火したかのように、グラグラとグラグラと息を荒げていました。


ジョバンニの吐いた息はぶかぶか浮かんで、やがて爆ぜて消えていきました。


宇宙そらから、ず太くてちょっと鋭い声が降ってきました。

宇宙そらから、一人の少女が降ってきました。


少女、カムパネルラは水面みなもに手を伸ばしました。

天井から伸ばされた腕は、くうを切ってそれでもジョバンニの手を掴みました。


二人は街頭の薄白いほのおが届かない深淵へと堕ちていきました。


歯を食いしばったカムパネルラは目を見開いて、ジョバンニに口づけを交わしました。

ゆっくりと片目を開いたジョバンニは、ぼぼぼぼと白い泡を吐き出しました。


それでもカムパネルラは口をつけました。

ジョバンニの腰に手を回して、足をひらひらと揺らして、淡いほのおの方へ。


ジョバンニはカムパネルラの頭をゆっくりと掴んで、唇と唇を重ね合わせました。

今度はカムパネルラが、ぼぼぼぼぼと白い泡を吹き出していきました。


それでもジョバンニは口を重ねました。

カムパネルラの腰に手を回して、足をひらひらとなびかせて、黒い宇宙そらの方へ。


宇宙そらの方へ。


宇宙そらの方へ。


繋がった手と手はだんだんとほどけていきました。




気がつくと、僕は、列車の窓から外を眺めて座っていたのです。瑠璃色の腰掛。茜色で塗りたくられた壁に赤錆色の大きなボタンが二つテカテカしていました。


向かい側の席にいる娘は窓から顔を出して、当たり一面に広がる星屑の海に見惚れていました。


既視感。


この娘が誰なのか、知りたくて知りたくて。


いきなりその娘がこっちを振り返りました。


それはカムパネルラだったのです。


臙脂えんじ色の小洒落た麻の上に、濃灰(のうかい)色のレインコオトみたいなマントをすっぽりと羽織っていました。

いや、もしかしたらマントに着られているのかもしれません。


そして一番奇妙で自然と目が向いたのが、カムパネルラの全身がひどく濡れていたということです。

まるで天の川に転げ落ちて引き上げられたかのような、そんな風貌でした。


カムパネルラはくしゅんと一発、くしゃみをしました。


「カムパネルラ。ハンカチいるかい?」


カムパネルラは目をポカンと開けて、口を丸くしました。


「ジョバンニがいるんでしょ。なんとびしょ濡れなこと。」


僕ははっと息をして、くしゅんとしました。


「とりあいず、お互い拭いたほうがよさそうだね。」


カムパネルラは僕のハンカチを抜き取って、僕の服を撫ではじめました。


ちょっとだけ、くすぐったかったです。


「ジョバンニ、そんなにびしょ濡れになってどうしたの?」


カムパネルラは、彼女自身も濡れているというのに僕の方を先に拭ってくれました。


僕はどうして、カムパネルラにようにはなれないのだろう。


「ああ、僕も実はよく覚えてないんだよね。なんで濡れてて、なんで列車に乗っているのかも」


カムパネルラは偉い。いつだって笑顔をかかさない。


「そうなんだ。私もあんまり覚えてないんだよね」


今となっては、成績だって誰も追いつけやしません。誰も彼も。


「ジョバンニ?」


数学だって、化学だって。ちょっと頭を捻れば一瞬で。絵なんか言うまでもないのです。


「ジョバンニ?」


大人だって顔負け。きっと将来は博士になるのでしょう。

カムパネルラの父親がそうであるように。


「ジョバンニ?」


僕がカムパネルラと友達だったら、どんなによかったでしょうか。

カムパネルラは、決して他人(ひと)の悪口なんて云ひません。

そして誰も、カムパネルラを悪く思ってはいません。


「ジョバンニ? どしたの? ぼーっとして」
















カムパネルラは僕を突き落としました。


僕は宙に手を伸ばしました。


カムパネルラは笑っていました。

カムパネルラは泣いていました。


カムパネルラは手すりに重心を預けたままこう云いました。


「これが私のさいわいなんだ。」


カムパネルラの腕は小刻みに震えていました。


「ジョバンニのさいわいは銀河ここにはないからさ。」


そしてたくさんの信号シグナルや電燈の灯は一本のブレた線を描いて、さそりの星の方へと走り去っていきました。


僕は宙に手を伸ばしました。


僕は泣いていたのでしょうか。


たとえ涙が流れていたとしても、もう河の水と区別がつきません。


僕は宙に手を伸ばしました。


そのたびに頭が奥深く、深淵へ沈み込んでいきました。


天井の波紋は青白いほのおをあげて、ところどころゆらゆらとしていました。


僕の吐いた息はかぷかぷ浮かんで、やがて弾けて死んでいきました。


宇宙そらから、か細くちょっと鈍ったい声がきこえてきました。

宇宙そらから、クジラの嘆きが降ってくるなんて。


身体の穴という穴に水銀が入り込んだような感覚でした。

まるで、銀河と一つになった気分です。


天井から降り注ぐ光の網が、ゆらゆらのびたりちぢんだりしていました。


僕の身体はだんだんと重くなっていきました。


光の網はだんだんとほつれていきました。




僕はバネのようにはね起きました。天の川はやっぱり白くぼんやりと、そして、さそり座の赤い星もうつくしくきらめいていました。


僕の身体は銀河と一つにはなっていませんでした。まだ重たいままです。

僕の全て、顔も髪も手も足も服も靴も濡れていました。


「ここは?」


青白い尖ったあごをしたカムパネルラの父親がまっすぐ立ち尽くしたまま云いました。


「覚えてないのか?牛乳を買おうと銀貨を握りしめて走ってたお前さん、転んで水に落っこちたろう。するとカムパネルラがすぐ飛びこんだんだ。お前さんは引き上げられたのだけども、カムパネルラがみつからないんだよ。」


そして、カムパネルラのお父さんが確かにきっぱり云いました。右手に巻き付けた時計をじっと見つめたまま。


「もう駄目か。落ちてから四十五分だ。」


頬に滴っているのは、銀河の残りかすでしょうか。それとも涙でしょうか。


ポケットが大変重く、カチカチと鳴っていることに気がつきました。中にあったのは大きな二枚の金貨だけでした。


切符はどこにも見つかりませんでした。


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