第五章 あなたを想う日
いつの間にか日が落ちている時間も過ごしやすくなってきた頃。美月は一人で仕事終わりにあのBarへ訪れる事が多くなっていた。しかしあの日以降、あのサクソフォンの音色を目の前で聞くことはなかった。『また聞きたい』と思ってはいるが、人には踏み込んでほしくない領域だってある。その事を自身が一番理解しているからこそ、それ以上踏み込むことが出来なかった。そんな思いがあったからなのだろうか、いつの日からか夏樹には言わずにあのBarへ足を踏み入れることが多くなっていた。今日はサクソフォンを練習する音が時折小さく聞こえてくる。そんな空間を心地よく感じながらグラスを傾ける。
「一条さん。来週夏樹の誕生日、なにかあげるんですか?俺、まだ迷ってて……。」
ハルと呼ばれていたBarの店員は高城治と言うらしい。カウンターテーブル越しからの唐突な言葉に一瞬手が止まる。
「え、誕生日なの?知らなかったわ……。教えてくれてありがとう、高城さん。あの人、何をあげたら喜ぶのかしら。」
誰かの誕生日を祝うなんていつ振りなのだろう。思い出してみてもその記憶が遠すぎてプレゼントなど何も思いつかなかった。『こんなに悩んだのは後にも先にもこれが一番だろう』そう確信しかできないほど、グラスに入ったアルコールを飲みながら頭を悩ませ続ける。
「あら、今日はここにいるのね。」
左隣から急に声がかかる。
「わ……っとびっくりした……。いたのね。」
思い悩んでいたからか、他人の足音にも気配にも気付けなかったらしい。
「え?ええ。えっと……帰りましょうか?」
美月の戸惑いと驚く様子に、夏樹は後ずさりを始める。
「いや、違うの!びっくりしただけ。全然、座って頂戴。」
高城はカウンタ―テーブル越しにワイングラスを拭いている。その顔はまるで何事もなかったかのように涼しい顔をしていた。その顔を夏樹はじっと見つめ、徐々に眉間にシワが寄っていく。なんとなく冷房がいつもより冷たく感じた。
「……なあハル、美月さんに何を話した?」
「いや?何も話してないよ。」
ワイングラスを吊り下げホルダーに戻しながら平然とそう言い放つ。美月から見たその顔は、飄々としたいつもの表情にしか見えなかった。
「……そう。」
何か言いたげな顔をしながら夏樹は隣に座る。高城と美月の顔を交互に見て少しムッとした表情をする。その顔はまるで子どものようだった。
「そんな『ハブられた』みたいな顔すんなよー。ごめんなぁー、悲しかったよなぁー。」
夏樹の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「ハルうるさい。その手どけて。」
その手を不機嫌に振り払いながら顎に手を当ててため息を吐いた。
「これでもどーぞ。」
高城が透き通った白ワインを夏樹の前に置いた。一口飲み、小さく『まあいいか』と呟いていた。そしていつの間にか何事もなかったかのように三人で話した。
「そう言えば、もうすぐハイビスカスが咲くの。咲いたら一日しか綺麗に見えないから、絶対見に来てよね。」
夏樹がベランダの写真を見せながら嬉しそうに話している。
「へえ、ハイビスカス。いいわね。行かせていただくわ。」
「ハイビスカス……夏だねえ。赤だねえ。」
確かに赤色のハイビスカスを想像するが、高城の声色がなにかを含んだような話し方に引っかかる。
「赤色?確かにそうね。」
「夏だねえ。」
夏樹も大きく頷いた。そして静かに昔話を始めた。
ーーーーーーー
ある夏の日、夏樹は愛宕の家に来ていた。
「今度の結婚式のメイク、『夏っぽいメイクをしてほしい』と新婦さんに言われたんです。でもその人の肌的にオレンジメイクは合わなさそうで……。この場合ってどうすればいいんですかね。」
「夏樹、夏のメイクと言うものはオレンジメイクだけか?」
その言葉に今まで読んだ各種のメイク雑誌が頭を廻る。
「夏のメイクでオレンジメイク以外だと……そばかすメイクとかですかね。でも結婚式にそばかすメイクは少し違うと思います。」
「……硬い!硬すぎるぞ!夏樹、夏を堪能しに行かんといかんわ!ハルも呼べ!」
「夏を堪能……?」
頭に疑問しか浮かばないまま、ハルに電話をかけた。
『~♪』
「もしも……」
言葉の途中で愛宕に携帯を奪われる。
「ハルか!ハル、今から夏を堪能しに行くぞ。はよー来んか!」
それだけ言って電話を切られる。切った後に愛宕は庭の隅にある倉庫に行き、なにかを車に詰め込んでいた。
数十分後、高城が愛宕の家のチャイムを鳴らす。
「おお、ハル。待っておったぞ。ささ、夏に行くぞ、おー!」
愛宕が二人を半無理やり後部座席に乗せ、車を走らせる。外は入道雲と空の境目がくっきり分かるぐらいの晴れ間が広がっていた。車は山の方へ向かって走っており、竹林の麓で車を止められた。
「さあ、竹取り物語の時間や。」
「は……?」
トランクから愛宕が大きいのこぎりを取り出し、夏樹に渡す。そして竹を切ることが当たり前のような表情をした。
「できるだけ立派の切れよ~。」
「ナツがんば~。」
愛宕とハルは車に寄りかかって笑っている。夏樹は何が何だか分からないまま、大きい竹を切った。
「「おお~。」」
車に寄りかかった二人から、気の抜けた歓声が聞こえてくる。何等分かに竹を切り、車の中にのこぎりと共に入れる。先程よりも青臭く、狭い車内の後部座席に座り、愛宕家まで帰った。
愛宕の家の駐車場に車を止めると竹とのこぎりを庭に置いた。
「よし、ハル。この竹を縦に半分割るんや。」
「え……?」
次はのこぎりを高城に渡した。またもや竹を切ることが当たり前のような表情をする。
「綺麗にやぞ~。」
「ハルがんば~。」
夏樹は愛宕と縁側に座ってハルを眺めた。竹は斜めに亀裂が入り、そのまま割れてしまう。
「ハル、綺麗に言うたやろうが。どれ、わしがお手本を見せようやないか。」
愛宕が意気揚々と立ち上がり、高城からのこぎりを奪う。そして残っている竹にのこぎりを入れた。
「おっと……。まあ、そういうときもあるわな。」
高城と同じように竹は斜めに亀裂が入り、そのまま割れていく。夏樹は高城と笑いながら竹を割る方法を携帯で調べた。
「愛宕さん、鉈ってこの家ないんですか。綺麗に割れるみたいですよ。」
「鉈……あると思うぞ、待っておれ。」
倉庫まで行くと鉈をこちらへ投げられる。
「うお、あぶね。……危ないじゃないですか、投げないでくださいよ!」
「すまんすまん、でも当たっとらんやろ?」
謝罪の言葉は入っているものの、誠意が感じられない言葉を受け取りながらしぶしぶ竹の前に立つ。竹は綺麗に半分に割れた。それはまるで二つの綺麗な船のようだった。
「やっぱりな。メイクと一緒で物をちゃんと使用する事が大事なんや。ファンデーションブラシをリップには使わんだろ?そういう事や。」
まるで自身が竹を割ったような口ぶりで話す。
「……これ、割ったの愛宕さんじゃないすよ。」
高城が小さく、しかし全員に聞こえる声でしっかりとツッコミを入れる。
「わはは!そうやったな。まあ、細かい事は気にしたらあかん。」
豪快に笑いながら庭にある水道まで行き、竹をホースで洗い始める。
「あの、この竹何に使うんですか?」
当たり前の疑問を愛宕へ聞く。
「なにって……流しそうめんに決まってるやないか。」
唐突な夏のイベントに二人は顔を見合わせる。
「……え、流しそうめん?じゃあそうめん茹でないとじゃないですか。」
「ああ、そうやったな。じゃあハル、お願いしてもええか。戸棚に色付きそうめんがある。それを茹でてくれ。夏樹はここで一緒に組み立てや。」
高城が部屋の中に入っていき、黙々と愛宕と共に竹を洗う。夏の暑さのせいか竹は洗った傍から乾き、流しそうめんが出来るように組み立てていく。
「夏樹、夏のメイクは分かったか?」
「えっと……え?これの何が答えなんですか?」
その答えに愛宕は呆れた顔でため息をつく。
「まだまだやな……。」
その言葉を考えているうちに竹は組み立てられており、愛宕はいつの間にか家の中に入って行っていた。夏樹は立派な竹と共に庭に立ったまま、先程の言葉を思い返していた。
「ナツ!そうめん出来たぞ!」
その声に我に返る。高城が持っている銀色のざるの中には白色の中にピンクと緑が混在していた。水道の蛇口を捻り、ホースから水が竹に流れていく。流れているその水面は太陽に反射し、キラキラと輝いていた。
「行くぞー。」
高城がそうめんを上から流していく。勢いが良いのか慣れていないのか中々上手く取れない。暑さも忘れ、三人で交代をしながらそうめんを流していった。
お腹もいっぱいになり、夏樹と高城が縁側で座って空を見上げていると、頬に突然冷たいものが当たる。
「ほれ、ポッキンや。」
冷凍庫にあったのだろう完全に固まった白色の棒アイスを割り、二人に渡してきた。一口食べると冷たい氷が喉に通過していくのが分かる。喉と持っている手から、全身を冷やしていくような気がした。
「夏樹、夏のメイクは分かったか?」
「だからなにを……。」
「はあ、これだから若造は。しゃーない、もうじき日が暮れる。待っとれよ。」
高城とともに首を傾げながらそのまま夜を待つ。空にはグラデーションが広がっていく。徐々に辺りが暗くなり、セミやカエルの声が響き渡っていた。
「さあ、花火やるぞ。」
水色のバケツと色とりどりの手持ち花火を持った愛宕が虫の声に割って入る。バケツに水を入れ、ろうそくに火を灯し、花火に火をつける。火薬に火がつき、色とともに噴射する。数秒間に様々な色が飛び出てくる。全ての手持ち花火が数分でなくなってしまい、残るは縁側にある線香花火のみとなっていた。
三人で肩を寄せ合い、ろうそくの周りに座る。一斉に火の中に火薬を入れた。
『パチパチパチ……』
誰も何も発さない。オレンジ色の光だけが瞳の中を照らす。一つ、また一つと光が地面に落ちていく。落ちていくその瞬間でさえ夏の風物詩だと感じさせた。
「夏樹、zそろそろ理解できたじゃろ。」
「メイクは……分からないですけど、夏はたくさんの色で溢れていることは分かりました。」
愛宕はフッと笑った。
「ああ、そうや。夏とは言わず、季節はたくさんの色で溢れ返っておる。だからこそ概念に囚われてはいけないんや。オレンジメイク・そばかすメイクと言っておったが、それも夏のメイクではある。だがな、見る人に夏を想像させられればええんや。そしたらそれは夏のメイクになるんやぞ。まあ、夏に限らずどの季節もそうなんやがな。」
豪快に笑いながら愛宕は家の中に入っていった。
「ありがとうございます。もう少し自身で考えてみます。」
背中に向かって礼をする。
「二人とも夜遅いから、き―つけて帰れよ。」
夏樹の言葉が聞こえなかったかのように片手をあげた。
ーーーーーーー
「なるほど……だから夏の色なのね。」
「そうなの。結婚式はたくさんの色を使ったメイクを提案したらとても喜んでもらえて、とても色溢れる素敵な結婚式になったわ。」
「それはとっても素敵ね。」
季節に囚われた色と言うものはたくさんある。しかし、どの色も全ての季節に関係していることに美月も今、気付く事が出来た。そして、目の前にあるオレンジ色のカクテルを静かに傾けた。
翌日の夜、いつものように美月は布団を敷き、明日の仕事の準備を机の上に乗せ、布団に潜り込んだ。
『〜♪』
なぜか一昨日の当直用アラームが携帯から鳴り響く。昨日の夜、アラームをかけた際に間違えたのだろうか。アラームを止めて再度布団に入るもセミとコウロギの声なのだろう、外から夏と秋の大合唱が聞こえてくる。 昨日の話を思い出し、なんとなく茶色を想像する。
「諦める……か。」
まだ薄暗い中、布団をたたむ。空いた空間でいつもはしないストレッチをしてみる。
「やはり朝から運動するって気持ちいわね。」
継続しようという意思はないが、爽快な気分だった。隣に寝ていた愛猫もウトウトしながらではあるがこちらを見ている。
『ピロン』
なぜかこんな時間にメッセージの音がする。不審に思いながらメッセージを開ける。
『ハイビスカスが咲いたわ!今日一日しか咲かないから仕事終わりにでも見に来てちょうだい!』
そんな文章と共にハイビスカスと夏樹が写った画像が送られてきていた。昨日の話と画像の中の目をキラキラさせている夏樹を見て、相当楽しみにしていたことが余計に伝わってくる。
『よかったわね。今日見に行くわ。』
現在の時間を忘れたまま返信をした。
『~♪』
「もしも……」
「どうしたの?眠れないの?なにかあった?話聞きに行くからちょっと待ってて頂戴。」
早口でこちらの隙を与えずに話しを進めていく。電話の向こうではバタバタと音が聞こえてきそうな勢いだった。
「いや、違うの。寝てたのだけれど起きちゃって。何をしようか考えてただけよ。」
「あ、そうなのね。ならよかったわ。えっと、あとどれくらい時間がある?」
携帯を耳から外し、時間を確認する。
「あと二時間ぐらいかしら。」
「良ければなんだけど……、もちろん無理だったら遠慮なく断ってね?良ければハイビスカス見にこない?にゃんちゃんも一緒に来ても大丈夫よ。もちろん朝食も準備しておくわ。」
「朝……ご飯?」
仕事前に朝食という概念がなかった美月にとってその返答は予想しておらず、その言葉に心が踊り始めているのが分かる。
「ええ、朝食。もしかして仕事前は食べないとか言わないわよね……。」
この返答によって電話が長くなっていくような気がした美月は慌てて否定をする。
「えっと、ちょうど考えていたところよ!でもそんなもてなしは大丈夫。にゃんちゃんの朝ごはんだけ持って家行くわ。」
慌てて電話を切る。キャットハウスにいた愛猫はまだ眠たそうにしている。
「にゃんちゃん、朝早くにごめんね。ちょっとお散歩しましょう。」
ゆっくりペットキャリーに入れ、仕事着に着替えて家を出る。
『おはようございます。五時になりました。まずは全国の天気をお知らせいたします。暑さが長引く……』
どこかからかラジオが聞こえてくる。空は一昨日と同じようなカラッと晴れた日になりそうな空模様だった。昨日と違うことと言えば、愛猫を乗せて自転車を漕いでいることと、まだ太陽が上がりきってないことぐらいだろうか。朝の澄んだ空気が一昨日の朝よりも勢いよく肺に入ってくる。
夏樹のマンション前にある駐輪場に自転車を止める。愛猫を確認すると周囲を見渡し、落ち着かない様子だった。
「寝起きにごめんね、夏樹くん家……慣れてくれるかしら……。」
懸念が残りながらもインターフォンを押すと、いつもの声が返ってくる。
「おはよう、思った以上に早いわね。」
独り言なのか、話しかけられてたのか分からないまま、マンションの自動ドアが開けられる。マンションのエレベーターの扉が開き、愛猫と二人で乗り込む。朝の知らないマンション内の空気がエレベーター内に充満していた。夏樹の部屋の階でエレベーターが音を鳴らし、また同じように扉が開く。いつもより澄んだ空気が美月と愛猫の身体を冷たく包み込む。
「おはよう、お邪魔します。」
部屋に入るなり、愛猫がゲージ内を歩き回り出す。
「早く出して欲しいのかしら……気付けなくてごめんね。夏樹くん、この子出してあげてもいいかしら。」
キッチンにいるはずの姿の見えない夏樹へ声をかける。
「ええ、もちろんよー。」
どこからともなく声が聞こえてきた。
「良かったわね、にゃんちゃん。」
ゲージが開くと愛猫は、ここが自分の家かのような当たり前の動作でソファーの上にあるソファーカバーを踏みつけながら丸くなり、目を瞑った。
「この子……この家初めましてよね……?」
「そう……ね。安心しているのかも。」
動物的本能なのか、自身が彼へ気を許していることが伝わっているのか。いづれにしても動物的本能に自身の心が安らいでいく。
「そう、ハイビスカス!見てちょうだい、今日やっと咲いたの。」
笑顔が零れそうな勢いでリビングの奥の大きな窓まで腕を引っ張られていく。
窓の外には道路沿いにあるベランダに並べられたプランターの一部が、夏らしいオレンジ色で溢れていた。
「わあ……写真で見るよりずっと綺麗ね。」
「でしょ!早めに見て貰えて、嬉しいわ。」
「こちらこそ、一番きれいなときに見られてよかったわ。」
「私がありがとうなのよ!さあ、少し待ってて。ご飯準備しないと。」
キッチンへ戻ると、お皿が乗ったお盆を持って夏樹がこちらにやってくる。湯気が立ったみそ汁と白米、卵焼きがローテーブルに並べられていく。
「とても美味しそうだわ。今日はカウンターテーブルじゃなくて、ここで食べるの?」
夜は品数が多くない限りカウンターテーブルに横並びに座って食べていたため、素直な疑問が出てくる。
「朝は地べたに座って食べたい派なのよね。付き合ってくれる?」
そう言いながら夏樹は綺麗に正座をした。
「そうなのね。ええ、もちろん。朝食なんて普段食べないからとても楽しみよ。」
夏樹に倣って正座をする。目の前では一瞬手の動きが止まったような気がした。
「いただきます。」
久しぶりの朝食だからか一口飲んだ味噌汁は、今までのどの味噌汁よりも温かいような気がした。
「美味しい……。」
夏樹は隣で黙って微笑んでいる。
「……美月さん、やっぱりね。電話では『ちょうど考えていたところ』なんて言ってたけど、早々に電話切られるし、おかしいと思ったの。朝食を食べると生活リズムの安定だったり、集中力や記憶力の向上が期待できたりするのよ?それに、仕事が忙しくて昼食が遅くなったり、食べられなかったりもするでしょ?毎日家に来てもらうのは大変だし、わたしが美月さん家に行くことも仕事が早い日も遅い日もあるから迷惑かけてしまうし……。毎朝ドアノブにかけておきましょうか?いや、前日にお弁当つくりましょうか?」
ふと初めて出会った日の事を思い出す。あの時よりも遠慮がなくなっている事に笑いが込み上げてくる。
「いや、大丈夫よ。自分でなんとか出来るわ。」
「『なんとか』ってどうするの?これで食べていなかったらわたしもさすがに怒るわよ?」
まくし立てるように話す夏樹を見て呆気にとられてしまう。
「えっと……パウチゼリーのようなものを買おうかしら。冷蔵庫にストックしておくわ。」
「んー……。まあ、食べないよりはいいわよね……。うん、分かったわ。毎日一個食べるのよ?」
まるでご飯を食べない子どもかのように諭される。
「ええ、食べるわよ。ありがとう。」
目の前では満足したように微笑んでいる。そしてなぜかその表情がさらに柔らかくなった。
「ねえ、見て頂戴。にゃんちゃん、相当眠たかったのね。」
その声に後ろを振り返ると愛猫は安心したように寝息を立てている。
「昨日当直だったからペットホテルに預けていたのよ。だから緊張とかであまり眠れなかったんだと思うわ。」
ペットホテルに近づくと物悲しく鳴き、自宅へ連れて帰ると美月よりも早く寝ているその姿にいつも罪悪感を覚えていた。
「そうなの……ね。」
それだけ言うと夏樹は何かを考えるように、無言で箸が進んで行く。美月も時間を見て箸のペースをあげた。
「……仕事前にこんなにもゆっくりできると思っていなかったわ。本当にありがとう、ご馳走様。」
「え?……あ、いや!むしろ急に誘ってしまって申し訳なかったわ、食べてくれてありがとう。」
夏樹も食べ終わり、夕食より少しバタバタしながら後片付けをする。
「にゃんちゃん、おうち帰るわよ。」
「にゃあ……。」
愛猫はソファーカバーの上で眠たそうに返事をする。
「こんなに眠たそうだし、にゃんちゃん預かりましょうか。え、あ、いや、今日たまたまお休みもらっているし、庭のガーデニングしようと思っていただけだし……。いや、心配だったり、迷惑なら全然……。」
既視感しかない夏樹のお節介に顔が綻ぶ。
「えっと……本当に?じゃあまた仕事終わったら迎えに来るわ。」
前回とは違い、素直にその言葉を受け取った。目の前ではなぜかほっとしたような表情をしている。
「じゃあいってらっしゃい。気を付けてね。これ、病院に着いてから開けてみてね。」
そう言われて紙袋を一つもらい、玄関を出る。先程より蒸し暑い空気が身体をまとう。その空気を振り払うかのようにペダルを踏み込んだ。
病棟はいつもと何も変わらない。強いて言うならいつもよりバタついていることぐらいだろうか。
「ふう……。あ、紙袋……。」
お昼もだいぶ過ぎた頃に休憩室に入る。一息ついたところで夏樹から預かった紙袋をロッカーに入れ忘れていたことを思い出す。こんな時間にロッカーに用事がある人などいないからなのだろう。ロッカーが連なっている部屋は既に人気がなかった。
「なにかしら…。」
紙袋を少し開けてみると中にはいくつかのタッパーと割り箸が一膳入っていた。持ち上げてみると、いくつかのおかずが微かに見えている。蓋が少し曇っており、急いで作ってくれたのだろう姿が目に浮かんだ。
「手作りのお弁当なんて何十年ぶりかしら。」
顔が綻んでいくのを抑えながら、少し急ぎ足で休憩室まで行く。
「あれ、一条先生も休憩ですか?」
ここ最近で聞き慣れた声に振り返ると、西澤が保冷バッグを片手にこちらへ向かってくる。
「え、先生と休憩時間被るなんて珍しい!一緒にご飯食べましょ~。」
「え、ええ。もちろんよ。」
キラキラとした純粋な顔に首を横に振ることはできなかった。
「わあ、嬉しいです!外のベンチ!行きましょ!ピクニックだ~。」
玄関横にある職員用扉を開くと生暖かい風が入ってくる。二人でたわいもない会話しながら木陰にあるベンチに着いた。時間がずれているからかいつもは埋まっている四つのベンチには誰もおらず、雀が二羽いるのみであった。西澤が一番近くにあるベンチに座り、隣に座るようせかされる。美月も紙袋を膝の上に乗せて座った。
「一条先生とご飯食べられる日がくるなんて私、嬉しいです〜。」
西澤は保冷バッグの中から一段のオレンジ色の弁当箱を出した。。
「そう、ですね。看護師で仲の良い人あまりいないので。」
返事をしながらも意識は紙袋の中にあるタッパーに向いていた。
「だって一条先生、看護師と一線引いてるんですもん。でもこれで私とは仲良い認定してもらえましたよね~?」
オレンジ色の弁当箱の中身は一面卵で覆われていた。
「一線?引いてるつもり、ないですけれど……。」
自身の知らない事実に首を傾げた。
「……先生。もしかして無意識でやってるんですか⁉」
「えっと……、よく分からないんですけれど……。」
この勢いの良さに既視感を覚えながらありのままを答える。
「はあ……先生。これからはこの西澤にお任せを……いや、こんな首を傾げちゃう可愛い先生を独り占めするのもありなんだよな……。」
隣ではブツブツ言いながら保冷バッグから小さいケチャップを取り出し、かけ始める。美月の中には未だ疑問しか残っていなかった。
「……ってあれ?食べないんですか?」
ケチャップをかけ終わったのか保冷バッグにしまいながらこちらを見ている。
「いえ、食べますよ。」
先ほどの話など忘れ、その弁当になんの感情をも持っていないかのように振舞いながら、紙袋からタッパーを取り出しす。
「先生も手作り弁当なんですね、なんだか意外です! あ、これ褒めてますからね?」
そんな西澤の言葉など美月の耳に届いてこなかった。タッパーを開けると目の前にはアスパラの肉巻きに卵焼き、プチトマトにおにぎり、そして昨日のナムルが彩良く入っている。まるで昨日の思い出とともに今日の仕事を応援してもらっているような気がした。仕事が忙しい事を知っている夏樹の優しさなのだろう。あえてご飯が、片手で食べられるようにおにぎりにしているのではないかとも思えてくる。西澤がいることも忘れ、頬が緩まっていく。
「……一条先生?」
「え?あ……、早く食べましょ。」
慌てて手を合わせて卵焼きを一つ口の中に入れる。冷えている卵焼きの中から優しい味が口中へと広がっていく。西澤と話すことでさえ惜しくなる。
「可愛いー。先生の作った卵焼き、一つ貰ってもいいですか?」
隣から西澤のフォークが伸びてくる。
「え、ちょ、やめてください。これは……作ってもらったものなので。」
急いでお弁当を遠ざける。西澤はなぜかキラキラした目でこちらを見ていた。
「え、先生。『作ってもらった』って旦那さんですか?恋人さんですか?それとも……好きな人ですか⁉」
ピンク色のオーラが漂ってくる勢いで話し始める。これがガールズトークと言うものなのだろうか。
「えっと……知り合い?友達?……よく分からないんですけれど。」
その言葉に西澤からはなぜかピンクのオーラに加えてハートが飛んできているような気がした。膝の上にあるオレンジ色の弁当箱が大きく揺れている。 その勢いに雀がどこかへ飛んでいく。
「え、それ絶対告白間近とかですよ。じゃなきゃお弁当なんて、わざわざ作らないですも~ん。」
その言葉に夏樹の顔を思い浮かべる。
「ふふっそれはないですかね。あの人はただのお節介ですから。」
「え~、私だったら期待しちゃうな~。」
なぜか地団駄を踏むようにオムライスにフォークを突き刺している。
「先生、分かりました。じゃあ二人だけの秘密にしておくので、何かあったら……いや、なにもなくても報告してくださいね!待ってますから!」
勢いよく喋りきるとそのまま弁当箱をバッグの中に入れ、立ち上がる。
「私、休憩時間もう終わるので行きますね!先生、絶対ですよ~。報告待ってますから~!」
行き来た道を小走りに駆けていく。
「若いって……いいわね。」
病院の庭は平穏を取り戻したのか、目の前には雀が二羽戻ってきていた。
『遅くなった、ごめんなさい。仕事終わったから家向かうわね。』
時刻は二十一時を回ろうとしていた。夏樹に一言連絡し、急いで自転車に跨る。夜の空気は時折ひんやりしてきたかと思えば蒸し暑い日が続いていく、そんな日常だった。いつもは諦めて歩いている坂道も、今日は勢いよく昇る。坂道を上がった少し先のマンションに自転車を止め、インターフォンを押す。
「早かったわね。さあ、上がってちょうだい。」
夏樹の声と共に玄関が開く。息を整えながらエレベーターで昇っていく。
「おかえりなさい……って汗凄いじゃない!そんな頑張らなくてよかったのよ。」
クスクス笑いながら玄関を大きく開ける。電気の灯った温かく、美味しそうな空気が部屋中に充満していた。
「ただいま、にゃんちゃん大人しかった?」
いつものように靴を脱ぐ。夏樹がタオルを一つ渡してきた。なぜかその動作が少し気恥ずかしいような気がした。
「にゃんちゃん、とっても大人しくて可愛かったわ。任せてくれてありがとう。」
リビングに入るとソファーカバーの上で丸くなり、あくびをしている愛猫と目が合う。軽やかにソファーから降り、美月の足元へすり寄ってきた。
「ただいま、にゃんちゃん。」
「美月さん、先に手を洗ってきて頂戴。」
キッチンから子供の頃に聞き覚えのある言葉が聞こえてくる。手を洗い、リビングに戻るとカウンターテーブルにはロールキャベツが2皿置かれていた。
「夏樹くんも食べていなかったの?遅くなってごめんなさい。」
「お仕事なんだからごめんなさいじゃないわ。ほら、早く食べましょ。」
サラっと笑いながら手を合わせる。美月も慌てて手を合わせ、ナイフとフォークを手に取る。一口食べるとなぜかお弁当の卵焼きを思い出した。
「お弁当、びっくりしたわ。作ってくれてありがとう。とても美味しかった。」
「よかった。急いで作ったから……あり合わせでごめんなさいね。」
その言葉に耳を疑う事しか出来なかった。
「えっと、あれであり合わせ……?本当に美味しかったわ。」
「ありがとう、じゃあ機会が合ったらまた作らせてもらってもいいかしら。」
遠慮の中のどこかに心配が含まれているのが分かる。
「お願いしたいのはこちらの方よ、いつもありがとう。」
ふと西澤の言葉を思い出し、心の中で急いで否定をする。目の前のロールキャベツに集中しながら夏樹へ『誕生日に何が欲しいか』をどのように聞こうか考えることにした。しかし、自身の顔に聞きたいことが書いてあるような気がして、切り出すことが出来なかった。食事中は諦め、顔が見えづらくなる皿洗いのタイミングを狙って声をかけることにした。
今日は夏樹が洗う番だ。先ほどまでコンソメスープが入っていた深皿が洗剤で洗われていく。美月も隣の作業台で深い鍋に入ったロールキャベツをタッパーへと入れていく。
「ねえ、最近なにか欲しいものはある?」
それとなく聞こうとしていた手前、自身の言葉選びに失望をした。これじゃあ『あなたのプレゼントを買いに行きます』と自白しているようなものだった。
「何を言ってるのよ。ぱっと思いつくものは、そうね……特にないわ。」
本当に分かっていないのか分からない振りなのか、隣で皿を拭きながら夏樹がいつも通り話す。全てを話し、言われた欲しいものを買ってしまおうかとも考えたが、これまでの思い出や日々の優しさを思い出す。
『どうせなら驚かせたい。』
そんな思いが口を紡いだ。
仕事終わり、カップラーメンを食べながらパソコンと向き合う。最近はこの部屋でも自炊をするようになりつつあったのに今日はその時間さえ惜しい。
『誕生日 プレゼント ランキング』『誕生日 サプライズ』
画面中の履歴は『夏樹』で埋め尽くされていっていた。考えれば考えるほどインターネットの海を彷徨っているような気がした。
「にゃんちゃんみたいに好みを知ってから渡せればよかったのにね。」
愛猫に話しかけながら頭を撫でる。部屋の中にはいくつか猫用のおもちゃが散乱していた。細める目を愛おしく感じながら、夏樹との今までの思い出を振り返ってみる。朝の静かな神社から始まって動物園、可愛いパフェも食べた。夏に見た山の頂上からの花火もとても幻想的だった。そのような事を考えていると、ふと先日行ったショッピングモールで夏樹が手を伸ばしかけていたものがあったことを思い出す。
「なんだったかしら……。」
会話をした内容は覚えているのに、知りたい部分だけがパズルピースのように抜け落ちている。
『チリンチリン』
自然と音の方へ振り返る。目を向けた先では愛猫が首輪付近を足で掻いていた。
「髪留めだ……。」
なぜか急にその時の光景が鮮やかに蘇った。パズルピースがはまったような感覚がして、瞬間に立ち上がる。衝動で愛猫が逃げるように隅へ移動したが、それに気付けないくらいいても経ってもいられなくなった。上着を羽織り、急いで靴を履きかえる。外へ出た瞬間、毎日視界に入っている黄色く色づき始めたイチョウが見えなくなっていることに気が付いた。
「あ……いつの間にかこんな時間になっていたのね。……さすがにお店も閉まってるわよね。」
時計を見ると、いつの間にか日付が回ろうとしている時間だった。人工の明るい部屋には愛猫が部屋の隅に丸くなり、目を丸くさせてこちらを見ている。
「ごめんね、にゃんちゃん。びっくりさせちゃったね。もうお休みしましょうか。」
いつもより静かに布団を敷き、愛猫とともに布団に潜り込んだ。
翌日職場では周りの看護師から心配されてしまうほど、そわそわしていた。しかし、そんなことに美月は気付く訳もなく、周りからの心配を他所に定時と共に外に出る。
「この時間だと、空はこんなにも明るいのね。」
物珍しいものを見るかのように周りの景色を見ながら、あのショッピングモールを目指す。既視感のある電車に乗り、『転職希望ならここに決まり!』『三分間の賞味期限♡幸福のパンケーキ』『英語を勉強するなら今しかない!』と既視感のある広告が目に飛び込んでくる。
以前来たときよりオレンジがかったショッピングモールに入ると親子連れや学生達が綺麗な華を咲かせて歩いている。美月は一人で買い物をしているはずなのになぜか隣にいるような気がして少し心が躍った。お目当てのお店に行く途中、なぜか途中に出てくるコスメ売り場に吸い込まれるように足が向かう。店内は定番商品から新商品まで幅広く取り扱っており、賑わっている。吸い込まれるように入ったはずなのに、そのままなにかに惹かれるようにリップ売り場の中の一つを手に取った。
「こちらお試しされますか?」
ショップの店員から声がかかる。
「いえ、友人へ渡すものなので大丈夫です。」
目の端で見た瞬間から夏樹以外につけている人が思い浮かばず、それくらいにこのリップをつけている表情を想像するだけで綺麗だと考えた。
「プレゼントに当店の物を選んでいただき、ありがとうございます。こちらでよろしければ、お会計の方へ移らせて頂きます。」
そう伝えられ、店員さんの後ろをついていく。
「プレゼント用と言う事でしたが、こちらのラッピングにリボンはどの色にいたしましょうか。」
真っ白い机の上に色とりどりのリボンが並べられ、それはまるで早いクリスマスが来たかのようだった。
「では、この紫色でお願いします。」
そう伝えると手慣れた様子でリボンを取り、包装箱に入れられたリップが包まれていった。左手に少しの重みを感じながら本来の目的のお店まで足を進めていく。
「あれだ。」
目の前には茶色のヘアタイに透明のパールが二つ付いており、そこから藤の花がチャームのように揺れている。手に取ってみると夏樹が悩んでいる光景を思い出した。
『……。』
『いいんじゃない。夏樹くんに似合うと思うけれど。』
『そうね……。いや、とりあえずあなたの洋服よ。この間の動物園のとき、仕事かと勘違いしそうになっちゃったんだから。あなたに似合う服なんて、この世の中に何万通りもあるわ。ほら、探しに行くわよ。』
そう言ってここから離れていく光景に、口角が上がっていくのを慌てて手で抑える。今回はヘアタイを手に取り、一人で会計へ向かった。
二つの紙袋とともにショッピングモールを後にする。
「……プレゼント、どうやって渡そうかしら。」
誕生日当日はあいにく仕事だった。どこかのお店に入るには時間が読めず、サプライズに自身も戸惑う事を考えると、中々難しいと考えてしまう。車窓から見える景色をぼんやりと眺めながら考える。また既視感のあるあの広告が背景に移る。
「幸福のパンケーキ……。」
思い立ってパンケーキの作り方を調べてみる。
「頑張ってみる……か。」
スーパーへ移動し、スマホ内のレシピと目の前の様々な粉を見比べながら、眉間にしわを寄せる。
「夏樹くん、いつもこんな風に買い物しているのかしら。」
自身の料理スキルが上がってきているのではないかと言う考えが甘かったことを痛感する。美月は諦めて一つ一つ手に取り、スマホの画面と見比べることにした。
誕生日当日の朝。先日、ショッピングモールで購入したクリーム色のシアーシャツにラベンダー色のマーメイドスカートを身に着けてみる。いつもより顔色が明るく見える気がした。先日購入した材料を紙袋の中に入れて仕事へ向かう。行き道のビルに反射した自分を見て、なぜか世界も明るく見えた。
「さすがにこれは目の錯覚よね。」
そう自分に言い聞かせてペダルを漕ぐ。何事もなく仕事が終わり、紙袋とともに夏樹の家へ向かった。いつもと同じように家へ入ると、夏樹はとっくの前に帰宅していたのかテレビの前でフットマッサージをしていた。
「お疲れさま。あら、今日はなんだか荷物が多いわね。しかもその服……やっぱり似合っているわね。」
テレビ画面の反射に目を合わせながら会話をする。
「お疲れさま。夏樹くん、誕生日おめでとう。」
人の誕生日を祝った記憶が遠すぎて、荷物も降ろさずに伝えてしまった。目の前の夏樹も驚いている様子が手に取るようにわかる。
「今日は私がご飯作るから。そこで待ってて。」
先ほどの言葉を隠すかのように急いで荷物を降ろし、バタバタとキッチンへ駆け込む。夏樹は少し気になっている様子だが、状況を察してかマッサージの続きをし始めたようだった。
「さて、頑張らないと。」
卵を割り、卵黄と卵白を分けようとする。しかし卵が滑ってしまい、上手く出来ない。
「日が暮れちゃうわよ。ほら。」
いつから見ていたのか、見兼ねた夏樹から声が掛かり、綺麗に分けられていく。美月は隣でその手つきを見ていることしか出来なかった。夏樹から卵白の入ったボールを貰い、泡だて器でかき混ぜ始める。
「ちょっとあなた、もしかしてそれで頑張るつもり?」
机の上に置いてある携帯のレシピを見ながら夏樹が呆れたように一言話した後、後ろの棚からハンドミキサーを取り出す。一瞬で雲のようなメレンゲができあがった。小さな雲が温めたフライパンの上に乗せられていく。
「そろそろひっくり返してもいいんじゃない?」
そう夏樹に言われ、一つ返してみる。綺麗な焼き色に思わず自然と声があがった。お皿に盛られ、振動に揺れるパンケーキはあの広告とも劣らないんじゃないかと考えてしまうほどだった。テーブルにパンケーキとシャンパンが置かれる。
「夏樹くん、誕生日おめでとう。」
言葉と共にグラスが触れる音がした。一口含んだあと、夏樹へプレゼントを渡す。
「これ、あのときの……。このリップも綺麗ね。本当にありがとう。」
夏樹は縛っていたゴムの上からヘアタイをつけ、リップをつける。
それらは美月の想像通り、そのリップは夏樹の顔によく映えていた。
「どうして誕生日を知っていたの?」
パンケーキを食べながら、当たり前なのであろう質問が美月に投げかけられる。
「高城さんに教えてもらったの。」
本当のことを言ったら夏樹は少し怒るかなと考えながらも他の言い訳が思いつかなかったため、事実をそのまま伝える。
「ハル……あいつめ……。」
夏樹は少し呆れているのか照れているのか、前髪をくしゃくしゃにしている。その光景に少し笑ってしまった。
「なに笑ってるのよ。明日はBarでハルに問い詰めに行くわよ。」
その後も美月に聞こえないくらいの声でブツブツと文句を言っている。美月は初めてみる夏樹の表情にさらに笑ってしまった。
「なにも面白くないわよ。」
夏樹は眉を寄せながら大きく切られたパンケーキを一口で食べた。
次の日の仕事終わり、最近見慣れ始めた道を夏樹と歩く。照れくさいのか腹を立てているのか、いつもより早歩きで百七十センチの体格の歩幅についていくことだけに必死になる。そしてあの店が近づくと夏樹がさらに早足で扉まで歩き、勢いよく開ける。
「ちょっとハル!なに勝手に誕生日教えてんの。」
ドアベルの音と共に夏樹が声を発した。
「おおっと、びっくりした……。なにって、一条さんとは仲良いんだろ。俺も仲良くなりたいし、いいじゃんか。」
店内には三人しか居ないからか、高城はいつもより少しゆるゆるとした喋り方をしている。そんなことはお構いなしに夏樹は高城に文句を言っていた。
「そういえば高城さんってオサムなのにどうしてハルなんだろ。」
誰にも聞こえないくらいの小さな声で素朴な疑問を空間に投げかける。
「小学生のときにこいつが読み間違えたんですよ。そこからなぜかこいつだけハル呼び。」
そう高城がゆるゆると説明してくれた。
「ハルの方がなんかしっくりくるでしょ。いいじゃんかよ。」
隣で夏樹が子供のように小さく言い訳のような言葉を話す。二人の仲の良さを少し羨ましいと思う反面、自身もその中に入っていることに驚きと少しの嬉しさを感じる。
「はい、誕生日おめでと。」
ハルから夏樹へ紙袋が渡される。
「ありがと。……なんで猫グッズ?」
夏樹に促されて中身を覗くと、猫のおもちゃが数点入っている。
「え?お前、黒猫飼いだしたんだろ?この間家に行ったときいたじゃん。」
先日、愛猫をペットホテルに預けていることを伝えた際に、夏樹はこれからも預かると言ってくれていた。そこから現在まで、当直をする日などは夏樹に預かってもらっていたのだった。
「あれ、一条さん家の猫なのよ。彼女が忙しいときに預かってるだけ。」
「高城さん、誤解させちゃったみたいでごめんなさい。」
申し訳がなさ過ぎて深々と頭を下げる。
「いや、話さなかったナツが悪いから。一条さんは謝らないで。」
「私のせいじゃないでしょ。聞かなかったハルが悪い。」
美月の気持ちを他所に、二人の言い合いが止まらない。なぜか子供の喧嘩を見ているようで笑ってしまった。
「まあ、これからもにゃんちゃんうちに来るからその時に使うわ。ありがとう」
言い合いの決着がついたのか、そう言って少し素っ気なく受け取った。素っ気ない声とは裏腹に顔は綻んでいる夏樹を見て、二人は目を合わせて微笑んだ。
『季節外れの台風がゆっくりと北上中です。本日お出掛けの方は傘を忘れずにお出掛けをしましょう。』
イチョウが散り始めた頃、仕事前にテレビ内のアナウンサーがそう言っていた。
「まあ、ロッカーに置き傘あるから大丈夫よね。いってきます、にゃんちゃん。」
そう言って玄関横に置き傘といつも使用している傘があることに気付かず、家を出て自転車に跨る。
「あれ……ない。」
ロッカーを開けるとあるはずの傘がない。外は雲一つない晴天で雨が降る様子は見当たらなかった。
仕事はバタバタと進んでいく。時折患者の部屋で台風が近づいているとのニュースが流れ、空を見上げた。外は変わらず雲一つない晴天だった。
「一条先生、今日は空ばかり見上げてますね。」
診察中、ある患者からそう指摘された。
「今日、傘を持ってくるのを忘れてしまっていてですね……。」
そんな談笑を挟みながら診察を続けた。
「一条先生でもそんな事あるんですね。雨が降らないよう祈ってますよ。」
そう言って二人で四角い枠に囲まれた空を見上げた。
いつの間にか日も沈み、台風のニュースなんてすっかり忘れてしまっていた。
「ふう、終わった……。よし、帰ろう。」
更衣室を開けた瞬間、傘がないことを思い出す。外はいつの間にか豪雨になっていた。
病院内のコンビニは既に閉まっており、近くのコンビニに走るのであれば急いで帰った方が早い。私服に着替えて自転車に跨り、全速力で走り出した。台風だからか人も車も少なく、風と雨の音しか聞こえないこの空間は少し異様に思え、いつもより帰り道が長く感じた。仕事終わりの身体に、大きい雨粒と向かい風が追い打ちをかけ、家に着く頃には身体は疲れ切っていた。
「た……ただいま……。」
今更なぜタクシーを呼ばなかったのだろうかと後悔する。シャワーを浴び、床に座り込む。髪も乾かさないまま、いつの間にか眠ってしまっていた。
朝起きると身体がいつもより重たい。体温は平熱であったが、熱が出そうな予感がした。
「薬だけ飲も。」
白い錠剤を二錠口の中に入れ、仕事へ向かった。
仕事場でもいつもより頭が回らなかった。他の担当患者が亡くなったのか看護師が走り回っているのを景色のように眺める。遠くの方で夏樹らしい人がいるような気がした。目も合ったような気がしたが、気のせいだろう。もう何も考えられなかった。
仕事が終わり帰宅し、玄関に座り込む。
「ああ、ダメだ。水分とって薬飲まないと。」
頭では理解しているのに力が入らず、動けない。愛猫も心配そうにこちらを見ているような気がした。
「ピーンポーン」
こんな遅い時間に非常識だと心の中で悪態をつく。立ち上がろうとするが、やはり力が入らない。
「美月さん、いるんでしょ!」
強く叩かれたような振動とともに玄関前から夏樹の声がしたような気がした。鍵を開けると外に通じるステンレスの扉がゆっくり開く。少し乱れた髪の夏樹がそこに立っていた。 「やっぱり……来て良かった……。」
美月はその声を聞くのと同時に、意識が遠ざかっていった。
「はあ、昨日の雨かしら。」
玄関でうずくまっている美月を見ながら荷物を下ろす。殺風景な和室に布団を敷き、慣れた手つきで横にする。すでに眠ってしまったようだった。小さい冷蔵庫を開けるも病人が食べられそうなものは何も入っていない。
「もう、この子ったら……。」
玄関の鍵を拝借し、スーパーへ向かう。桃のヨーグルトやチョコアイスなど、美月の好物を購入し帰宅する。
「ただいまー。」
ゆっくり扉を開き、小さく挨拶をする。にゃんちゃんの足音だけが近づいてきた。
「あなたはご主人様の傍に付いていなさい。」
「にゃー」
汚れの少ないキッチンに立つ。戸棚を開けると小さな片手鍋のみあった。
「まあ、あるだけ成長……よね。」
梅干し入りの粥を作り始めると部屋全体の温度が高くなり、米のいい匂いが充満していく。
「ん……あれ。夏樹くん?」
「あら、起きたの?まだ寝てなさい。」
あれは夢ではなかったのだろうか。美月は理解が追いついていないまま安心だけを頼りに、もう一度意識を手放した。
「美月さん、ご飯食べましょ。」
遠慮がちな声で目が覚める。目の前にはやはり夏樹がいた。昨日からまともな食事をしていないからか、お腹が鳴る。
「お腹は正直ね。ほら、食べて頂戴。」
目の前にお粥と経口補水液が置かれた。温かいご飯と水分が身体中に染み渡っていく。
「美味しい……。」
「良かった。あなた、病棟にいる時から変だったわよ。どうせ昨日の台風にやられたんでしょ。」
言い当てられたことに居心地の悪さを覚えながら、何も言わずにお粥を食べ進めることにした。
「まあ、とりあえず来てよかったわ。まだ鍋の中にお粥たくさん残っているから、全部食べるのよ。栄養を取ることが大事なんだから。にゃんちゃん、今日は私が預かりましょうか。」
自分の事だけではなく、愛猫の事まで気を回してくれることへの驚きと嬉しさについ口角が上がる。
「そうよね……、うつるといけないし……。お願いしてもいいかしら。」
「もちろんよ。辛かったら明日は休むのよ。じゃあ、おやすみなさい。」
そう言って愛猫をペットゲージに入れ、部屋を出て行った。閉められた扉を見つめていると、部屋がいつもより広く寂しさを感じる気がする。これは愛猫がいない事と風邪のせいにして眠りにつくことにした。
「おやすみなさい。」




