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第四章 過去を踏み台にして

 出掛ける当日、美月は困惑していた。朝起きてクローゼットの中を開けてみるとそこにはスクラブの中に着る無地の服と季節にあった羽織物が二着あるのみだったのだ。この部屋に住み始めてから仕事以外で出掛けていなかったことに今頃気が付く。

「いつの間にか普段着すらなくなっていたのね。」

 他人事のようにそんなことを考えている間にも、時間は刻刻と過ぎていく。時間に比例してこのクローゼットの中で洋服を選ぶと言う選択肢が見当たらないことを理解し、白いシャツと黒のスラックスと言ういつもと変わらない格好で外に出る。

「気持ちいい……。」

 人一人の影さえない街、朝の澄んだ空気が肺に入る。夏樹の家まで約十五分、いつもより歩を緩めて歩いてみる。どこからか緑の香りが鼻をくすぐる。馴染みのある外観が見え始めると玄関前には既に夏樹が立っていた。なぜか辺りを心配そうに見渡している。目が合うと同時に靴音が聞こえてきそうなぐらいの勢いでこちらに向かってきた。

「もう、遅いじゃない!遅刻よ遅刻。早く行きましょ。」

 左腕の時計には六時三分と表示されていた。

「少し遅れていたのね、ごめんなさい。それで、今日はどこへ行くの?」

『遊びに三分ぐらい…』なんて口に出したい思いをなんとか心の中で抑え、謝罪と質問を重ねた。

「今から行くところ?それはお楽しみよ。なんて言ったって今日はあなたの第一歩目になるんだから。」

 先程の謝罪なんてどうでも良いかのように、ニコニコ話しながら夏樹の姿と声がどんどん遠くなっていく。美月は急いでその背中を追いかけた。

 

「さあ、着いたわ。」

 目の前に広がる場所は、美月でも知っているある有名な神社だった。食べ歩きが有名だとかテレビでは言っていた気がする。画面上で見た風景は人でごった返していた記憶があるが、早朝だからか神社までの通り沿いはシャッターで閉まっていた。シャッター街を夏樹と並んで歩いていく。

「ちょっと!そこにあるタオル取ってちょうだい!」

 開店する準備だろうか、鳥の声と共に遠くの方で威勢の良い声が聞こえてくる。

「朝の空気って、いいわよね。」

 夏樹が深呼吸をするように大きく伸びをする。太陽に身体が照らされ、伸びた指先まで影がはっきり映る。

「そうね……。とても静かに感じるわ。」

 朝の空気を吸い込みながらゆっくり話をしていると、いつの間にかシャッター街を進んだ一番奥にある神社の前まできていた。お互い無言で拝殿に上がる。目を閉じ、参拝をすると澄んだ空気と共にほのかな木の香りが鼻孔をくすぐる。参拝後に振り返ってみるとそこには変わらずシャッター街が並んでいたが、そこに物悲しさは見当たらなかった。それどころかこれから活気づく風景が容易に想像でき、次は食べ歩きもしてみたいなんて普段なら考えられない考えが頭に浮かんでくる。

「さあ、次に行くわよ。」

 人通りのない繁華街に夏樹の嬉しそうな声が響く。振り返ると今にもスキップをしそうなくらい笑顔な夏樹がこちらに手を差し伸べていた。

 数十分後、目の前にはパンダがいた。もちろん本物のジャイアントパンダだ。隣では「きゃーかわいい」とスマホ越しに叫んでいる夏樹がいる。美月も真似してスマホを取り出し、カメラを向けた。

『カシャ』

 猫以外の動物が初めてフォルダの中に取り込まれた。青臭い匂いとは裏腹に小さい画面内には『可愛い』と誰もが口をそろえて言ってしまう動物たちが収められていく。その後も「あの子可愛いわー。」と大人気なくはしゃいでいる夏樹に連れられるがまま歩き回る。 猿山が遠くに見え、駆けていく夏樹をボーっと眺めながら美月もゆっくり進む。

「どうしたの?少し疲れちゃった?少し、休みましょうか。」

 手に持っていたスマホをポケットに入れ、こちらまで駆け寄ると手で美月の顔を仰ぎ始める。

「いや、大丈夫よ。えっと……今頃なのだけれど、夏樹くんって話し方……オネエよね。」

 その瞬間手の仰ぎが止まり、肩が震え始める。

「え、今頃?何を言い出すかと思えば。あ……一緒に歩くの嫌…よね?」

 大声で笑った後、気まずそうに後ろに下がり始める。

「いやいや、違うの!ただの確認よ!気を使わせてしまってごめんなさい。偏見とかそういうのじゃないわ。むしろ言ってくれて嬉しいわ。ありがとう。」

「えっと、そうなの?ありがとうはこちらよ。聞いてくれてありがとう。」

 しどろもどろに視線を動かしながら話す夏樹に、手を差し伸べる。

「じゃあお互い様ね!ほら、行きましょ。」

 夏樹が目を見開きながら笑顔になり、二人で目の前の大きな猿山に向かって歩き出す。

「ねえねえ、あの子ザル可愛い!」

 先程の話が嘘のように柵に捕まりながら話す夏樹にホッとした。美月もカメラで子ザルを捕まえようとするがブレてしまい、綺麗に撮影できない。隣でも悪戦苦闘しているようだった。

「私、諦めてゾウの方にいるわ。上手く撮れたら見せて頂戴。」

  それだけを伝え、ゾウの檻へ足を進めた。

「もうっほんと自分勝手なんだから。」

 夏樹がプリプリしながら携帯をポケットに入れている。それを横目で見ながらゾウの檻へ視線を向けると小松菜を美味しそうに食べているゾウが見える。 歩を進めるごとに大きくなるゾウと対照的に小松菜が小さくなっていく。

「次は中華料理に挑戦してみる、なんてのもいいわね。」

 いつもなら出てこない発想とともに疑問が沸いてくる。

「どうしてこんなにも良くしてくれるんだろう……。」

 頭の中の疑問が同時に耳からも聞こえてきたことに驚いていると隣から『ガタン』と音がした。いつの間にか隣に来ていた夏樹が足を挫いたのか、左足を抑えながらこちらを見ていた。

「えっと…どうして?どうしてって言われても……。」

 その瞳は微かに揺れている。

「だって私があなたになにかした訳じゃないでしょ?」

 思い切って素直な疑問をぶつけてみると、夏樹は一瞬考え込んだがすぐに苦笑いをしだした。

「そうね……。ただ、単純に気になるのよ。」

「気になるって?」

「そうねえ。前職はメイクアップアーティストだったの覚えてる?わたし、隆二さんのおかげでその道へ進むことができたの。メイクが『綺麗』と言う二文字だけでは現せないくらい綺麗でとても尊敬をしていたわ。」

 そう言いながら夏樹はゾウに背を向けて澄んだ空気を大きく吸い込むように空を見上げた。

「それは、とても綺麗だったんでしょうね。」

 見上げた横顔と何かを探し続けているような声色に吸い寄せられ、自身の伝えたい言葉を見つけることが出来ず、単純なオウム返ししか出来なかった。

「そうね、あなたにもあの人の技術を見せてあげたいくらいよ。繊細で、ときに大胆で。だけれども壊れそうなくらい儚くて。でもね、自生活はあなたみたいに手抜きだったのよ。すぐ迷子にはなるわ、ご飯は言わないと食べないわ、それはあなたの方がまだ人間らしい生活をしていたと思うくらいよ。きっとその時のお節介が身体に染み付いちゃってるのね。」

 そう苦笑いをしながらもあっけらかんと話す。

「そうなのね。……じゃあこれからもお願いしちゃおうかしら。」

 どう返して良いのか分からず、少し照れ笑いをしながら話すと、目の前の苦笑いをした表情からさらに眉が下がった。

「いや、まずは自分でも頑張りなさいよ。」

 呆れたように話す夏樹を見ながら、なぜか昔の自分を思い出した。


 美月はどこにでもいる少し傲慢な医師だった。人並み程度に上司と話し、看護師とも世間話をする程度の交流はできていたと思う。そして当時、大学病院では医師として有望な才能が自他ともに認められていた。だからこそ自身の更なる飛躍を求めて空を飛んだ約二年前のあの日。

『今までの、これからの人生が全て上手くいっている。』

 そう、あの時はそう考えてしかなかった。

「ねえ、私も思い出話をしてもいいかしら。」

 何気なく言うはずだったのに、知らないうちに言葉に力が篭っていた。

「もちろんよ、どこかに座りましょうか。」

 夏樹は何かを察したのか、一言告げるとすぐに出口の方へ歩き出していった。歩いている夏樹の顔へ視線を向けるも、何かを考えているのか表情を変えずに進行方向を見ている。道中、一言も会話のない空間は居心地悪く感じた。息苦しいような空間のままあたりを見ながら歩く。すると、一軒の古民家のようなカフェに近づいているようだった。

「ここのパフェが可愛くて美味しいのよ。」

 それだけ言って夏樹は襖をモチーフにした扉を開け、店内に入る。夏樹に続いて店内に入った瞬間、い草の匂いが鼻を抜ける。店内を見渡すと畳の奥の棚には食品サンプルで作られたのであろう数十個のパフェが並べられている。動物園の近くだからかそのパフェたちは全て動物がモチーフにされており、動物たちは愛くるしくこちらを見ていた。

 靴を脱ぎ、畳へ上がる。和室のある住宅へ居住した経験はないが、なぜか物懐かしく感じた。

 向かい合わせに座り、メニューを見てみる。そこにも同じように動物モチーフのパフェがずらりと並んでいる。メニューからふと視線を外すと子供のように目を輝かせながらメニューを見つめていた。それがなんとなくおかしくて、でもどこか慈しさを感じるような気がした。

 注文を済ませた数十分後、パンダとウサギのパフェが店員によって運ばれてくる。美月の前には先程見たパンダがこちらをじっと見つめていた。

「可愛い!……っておっと、違ったわね。思い出話、聞かせて頂戴。」

 パフェが机の上に置かれた瞬間笑顔になるが、早々に少し緊張した面持ちで真剣なまなざしをこちらへ向けてきた。

「そんな身構えないで。大それた話じゃないから。」

「私があなたの話を聞きたいだけだから、良いのよ。」

 気を遣われているのか本心なのかは分からない。しかしその言葉にただただ安心を覚えた。先程の居心地の悪さも忘れ、頬がほころびそうになる。

「そうね……。私たちが初めて会った日、覚えてる?」

「えっと……飛行機の中よね。あなたが丁寧に解剖学を教えてくれたわ。」

「そう。あの時、病院から解雇通知を出された帰りで。実はもう医者じゃなかったのよ。」

 うさぎの顔の一部であるいちごアイスを口に運ぼうとする手がピタリと止まり、こちらを見た。

「いや、待って頂戴。今は病院に勤めているわよね。あ、でもあの病院であなたを見始めたの、変な時期だった気が……。」

 夏樹の手は止まったままスプーンだけが少し傾いたのか、アイスが重力でゆっくりと滑り落ちていく。

「そうね。一度医者自体を辞めてテレアポをしていたのだけれど、いろいろあって今は楽しく医者を続けさせてもらっているわ。」

 そして困惑した表情のままアイスが乗っていたスプーンを口に入れた。アイスを食べていない事にも気付いていないのか何かを飲み込んでいた。

「ちょ……ちょっと待って。たくさん聞きたいことはあるけど、とりあえずどうして医者を辞めたのか……聞いてもいい?」

 美月は一呼吸置こうとパンダの耳を食べる。懐かしいチョコレートビスケットの味が広がっていく。

「移植手術って知ってるわよね?私、オーストラリアでもそれをメインに治療をしていたのだけれど、日本ってドナーが少ないから日本の患者がよく海外に来航するのよ。それである時、昔日本で私が担当していた患者に合ったドナーがオーストラリアで見つかったみたいで。私が働いていた病院で手術をすることが決まったの。あのときは『やっと見つかったんだ』ってほっとしたわ。」

「……それは、どれくらい待っていたの?」

 夏樹の眼はまっすぐで、しかし少し声が震えていた。

「五年くらい……かしら。その子、元々身体が弱くて私が担当していた時に、『手術が出来ても長く生きられない可能性がある』と伝えていたの。でも両親は『それでもいい』って毎日面会に来て、時には病院にお泊りをして。献身的に介護をしてくれていたわ。」

「良いご両親ね。」

「そうね。でもオーストラリアでは私が主治医ではなくて。私の先輩だったのだけれど、少し仲が良かったから時々治療方針とかを聞いていたのよね。その子のところへもよく世間話をしに行っていたわ。それが良くなかったのかしら……分からないのだけれど。ある日、その子のカルテを見ていたときにこの子に合っていない処置をしていたから、その事を先輩に伝えたの。でも取り合ってくれなくて……。その子はそのまま状態が悪くなって亡くなっちゃって……。」

 その時の気持ちを思い出さないよう少し溶けたパフェを口の中へ入れる。甘く、冷たいバニラアイスは心を落ち着かせてくれるような気がした。

「……それは不甲斐なくなってしまうわね。」

「ええ。亡くなった後に関係者全体でデスカンファレンスが開かれたみたいなのね。その時に先輩が処置の間違いを上司に指摘されたらしいのだけれど、処置方法を私から指示されたって言っていたみたいで。それが事実のようにいつの間にか病院中に広まってしまって。上司から実質、解雇通知……のような物を出されてしまって。もうその時には自分が居づらくなっていたって言うのもあったからその病院を辞める事にしたの。そして退職した数日後のあの日、あの飛行機に乗って。そこであなたと出会ったのよ。」

 荷物を抱えて職場を出たあの道のり。簡単には人を信用できなくなり、あの時には人との距離を取るようにしようと決めた。テレアポとして働き始めてからも職場での会話は最低限にし、直属の部下など関係が深くなるようなものを持ちたくない事を上司にも伝えていた。関わりを持ち、親しくなればなるほど裏切られたときに追い詰められ重圧に負けてしまう。それなら一人で生きている方がよっぽど良い。その考えは今でも変わらないはずだった。

「そうだったのね。じゃああの時、相当気分が落ち込んでいたんじゃない?なのに教えてくれて、ありがとう。」

「隣で二時間も同じページを見ていたら気になりもするわよ。」

 今はそう話すが、自分でもあの時どうして声を掛けたのだろうと改めて考えても疑問を持ってしまう。

「……それもそうね。でもどうしてもう一度医者をやろうと思ったの?私だったらできないわ。」

 ここまで話したにも関わらず、伝えようか戸惑ってしまう。『あなたの転職特集のページを見てもう一度医者を始めようと思った』なんてやはり気恥ずかしくて言いづらかった。

「そうね……。しいて言うなら夏樹くんのおかげかしら。」

 そう言った自身が気恥ずかしくなり、口の中にチョコアイスを入れる。印象操作だろうか、ほぼ溶けているアイスなのにも関わらず、冷たいと感じるチョコアイスは身体全体を優しく冷やしてくれているようだった。

「え?えっと……私、何かしたかしら」

「そうよね。うーん……それはまた後日でもいいかしら。なんとなくなのだけれど、今じゃない気がするの。」

 夏樹の緊張しているような表情に眉間のしわが足されたかと思ったら、すぐに何かを納得した表情に変わる。

「そう、なの……。分かったわ。わたしはテレアポも今の仕事も、どちらもあなたに合っていると思う。」

「ありがとう。」

 二人で目を合わせて笑い合い、ふとテーブルの上を見ると、あの時の可愛いパフェの原型はとどめ切れておらず溶け切っていた。そしてまた目を合わせ、笑い合った。

『カラン』

 空になった二つのパフェグラスは、アイスが入っていたとは思えないくらい温かくなっていた。

 

 その日の夜、夏樹家のローテーブルにはたくさんの中華料理が並べられている。

「急に中華が食べたいだなんて、リクエストはとても嬉しいわ。ついに食事に興味が出てきたってことでしょ。でも、あなたにしては珍しいじゃない。」

 せいろに入った小籠包をテ―ブルに置きながらそう声を掛けられる。得意げな顔で何も言わずに小松菜のナムルを夏樹が座っている席の目の前に置く。たくさんの中華料理を囲むように座る。目の前では怪訝な顔をされながらも促すように手を合わせた。

「いただきます……ってなんなのよ、もう。」

 少し困惑しながらも目の前のナムルを口にし始める。美月もせいろに入った小籠包を食べようと箸を伸ばす。

「今日はとっても楽しかったわ。ありがとう。」

 言葉と共に口の中で小籠包の温かいスープが広がっていく。

「当たり前じゃない。あなたにとって今日は大きな第一歩なんだから、楽しいものになるに決まってるのよ。」

 少し得意気に話す夏樹を見て、またあのホームページを思い出す。

「そういえば前職はメイクアップアーティストって言っていたわよね。メイクアップアーティストも納棺師もとっても似合っているのだけれど、経歴と言うか……なんとなく珍しい気がするわ。」

 そう話すと言葉を考えたいのか箸を置き、左側に垂れている三つ編みをクルクルとし始める。数分後、ふとその手が止まる。

「わたしの母はね、ピアニストなのよ。日本だけじゃなくて世界を回るプロのピアニスト。わたしは母に連れられて小さい頃からたくさんの世界を見たの。舞台に上がる前にメイクをするじゃない?わたし、あの瞬間が好きで。子どもながらに母親を素直に『綺麗だ』と思ったわ。メイクをするとね、ピアノの音色がなぜか彩って見えたの。メイクって人を美しくするだけではないと思ったのよね。」

 その子供っぽく笑う表情に美月も自然と嬉しくなった。しかし嬉しい気持ちと同時に現在の職に疑問を持ってしまう。

「じゃあどうして納棺師になったの?仕事内容は似ている部分もあると思うのだけれど……。違う気もするわ。」

 すると目の前の彼はまた考え込んだ表情で三つ編みを触り出す。

 どんな回答が返って来ようとも肯定しようとは考えてはいる。しかし夏樹の言葉を待つ間、なぜか落ち着かなかった。

「……前、Barで少し話に出てきた愛宕隆二さんって覚えてる?」

 先程とは違い、三つ編みを触りながら小さく話し始めた。

「ええ、覚えているわ。」

「今、この生活ができているのはその愛宕さんのおかげなの。感謝してもしきれないくらい。わたしがメイクアップアーティストを始めて数年経った頃に愛宕さんはある病気に罹患していたことが分かって。あれは隆二さんが病気を放っておいたのが良くなかったけど……いや、わたしたちが隆二さんに任せていたのも良くなかったわよね。……そう。それで入院になってしまったの。入院した頃にはもう長くないって言われてたわ。」

「そう……だったの……。」

「それからは出来る限り面会に行ったわ。……でもある日の夜中、病院から『もうそろそろ危ない』って電話が掛かってきて。後先考えずに向かったの。病室に入って隆二さんを見た瞬間なんとなく『最期かも』って思って、何を伝えればいいか分からなくなって。わたしは手を握ることしか出来なかったわ。呼吸の音だけが嫌に大きく聞こえて。その音と、握ったその手が弱弱しくて。わたしの知っている手じゃなかったことを今でも時々思い出すのよね。」

 まるでその瞬間に心を置いてきたかのように話す夏樹に胸が苦しくなった。

「いざ伝えようとすると、なにを伝えればいいかって分からなくなるわよね。でも握った手から、その手からあなたの気持ちは伝わったはずよ。」

 いつかの講義で聞いた『医療は非言語で成り立っている』という言葉が瞬間的に脳裏へ浮かんだ。伝えたいことや伝わって欲しいこと、それらを伝える方法は、言葉だけではないのだと夏樹へ伝えながら改めて実感する。目の前ではなにかを飲み込むかのようにお茶を口に含んでいる。下を向いたまま飲み込み、少し時間が空いて顔をあげた夏樹はなにかを言いたげな表情をしている。しかし美月にはそれがなにか分からなかった。

「そう……だといいわね……。あの時、かすれた声で少しずつ言葉を紡ぎながら『俺の化粧はお前に任せる』って……。最期まであの人は私が世話を焼かないといけない人だったのよ。もう何を言ったらいいかが分からなくて、涙とモニターのアラーム音が止まらなかったあの光景は一生忘れないと思うわ。」

 美月は自身にとっての日常の中の一日が誰かにとって忘れられず、いつまでも色褪せない日になることを今更ながら思い知った。

「愛宕さんの最期、隣に居られて良かったわね。」

「……ええ、本当にそうね。でも亡くなった方への化粧なんてしたことなくて、その当時の精一杯の化粧をしたわ。でも残酷ね。手が震えてしまって上手くできないし、時間が経つにつれて化粧はどんどん崩れいってしまって、とてもじゃないけど綺麗とは言い難かったの。そこをきっかけに納棺師の勉強を始めたのよ。あなたと飛行機で会ったのも丁度このくらいの時期だったのよね。あの時は行き詰まっていたのと、本当にこの道に進んで良いのか迷っていたから……本当に感謝しているわ。」

 全てを言い切ったのか夏樹は寂しいような悲しいような、しかしどこか暖かな表情している。美月はこの場に合った言葉が分からず、沈黙を消すように少し音を立ててお茶を飲んだ。

「……こちらこそありがとう。」

 そしてただ一言口にした。

「どうしてあなたが言うのよ。」

 夏樹はそうクスクス笑いながら小籠包を一つ、口の中に入れた。

 その後、お茶が何度も空になりながらたくさんのことを話す。早朝からの心地いい疲労と時間がいつの間にか回り、いつの間にか美月はテーブルとソファーの間で寝てしまっていた。

「この光景いつ振りかしら。ほら、起きて帰らないとでしょ。」

「……んー、にゃんちゃんが世界一可愛いのよ。」

 夏樹は深くため息をついたが、こんな光景を悪くないと考えてしまうくらいには目の前で眠っている彼女のことを慕っているのだろうなと達観して考えてみる。そして一年前のあの時のように美月を背負って歩き出す。異なっている事としてはスマホの画面を見ていないことぐらいだろうか。

 これが日常かのように、そして以前よりも背中に重みを感じながらにゃんちゃんの待つ家へと歩き出した。

 

「ん……あれ?」

 いつもより薄暗い朝。右腕から感じる愛猫の重みで目が覚める。時計を見てもまだ起きるには少し早い時間だった。

「にゃんちゃんおはよう。ちょっとごめんね。」

 意識がはっきりしていくと同時に、右の手先が痺れてきそうな感覚を覚え始める。慌てながらも愛猫を起こさないようにゆっくり引き抜く。愛猫は眉間にしわを寄せながら目を薄ら開けた後、またすぐに寝息を立て始めた。

「えっと、昨日は……。」

 だんだんと頭の片隅に懐かしさのする背中に背負われたことを思い出す。以前より背中が汗ばんでいたような気もした。急いで夏樹に連絡を取ろうと携帯を手に取る。今まではコンセントの近くで充電していた携帯もいつの間にか延長コードを買い、起きてすぐ手が届く位置に置くようになっていた。

 夏樹とのSNSを開き、慣れたように文字を打つ。

『昨日、送って貰ったのよね?ありがとう。』

 一文だけ送り、携帯を閉じるもすぐにバイブレーションが鳴る。夏樹ももう起きてるのか返信がきていた。

『おはよう。無事起きられてよかったわ。もう出発するの?』

『そうね。少し時間はあるけれど、家出るわよ。』

『~♪』

 送信した数十秒後に携帯から聞きなれない機械音が聞こえてくる。

「もしもし……?」

「あ、もしもし~?二日酔い、大丈夫?」

 スマートフォン越しからは聞きなれた声が聞こえてきた。

「え、ええ。大丈夫よ。ど……どうしたの?」

 電話越しに小さいため息が聞こえてくる。

「あなたの事は心配で電話したに決まっているじゃない。」

「え?失態ではあるのだけれど、送ってくれたの初めてではないじゃない。」

「そこは何も心配してないわよ。昨日たくさん話してくれたから……少し心配で。」

「それを言ったら夏樹くんもでしょ。」

「あら、それもそうね。」

「ふふっ電話くれてありがとう。お互い頑張りましょう。」

「もちろんよ、頑張りましょ。」

『ツーツーツー』

 声が届かなくなると同時に無機質な機械音が聞こえる。しかしその音が心地の良いものに聞こえる。美月は無意識に拳に力を入れた。

「にゃんちゃん、行ってきます。」

 ドアを開けると元気よく蝉の声が響き始めていた。


 文明の力により舞う涼しい空気の中、美月はカルテに眉間にしわを寄せていた。画面内には先程、病棟医長から任された今日入院予定の患者の診療情報提供が映し出されている。

「この病院……この人……、まだ続けていたのね……。」

 その書類からはよく知る疾患・文章の既視感だけが理解できる。それもそのはず、そこには以前オーストラリアで働いていた病院名が記載されており、文末には見覚えのある名前が記載されている。その文字にただただ心がざわつく。

「……せ、んせ、一条先生!」

 名前を呼ばれて振り向くと、何度も呼んでいたらしい病棟看護師が眉間にしわを寄せながら自身の事を見ている。ナースステーションにいる看護師たちも何事かと二人のことを見ていた。

「一条先生、IC先にしますか?」

 まくしたてるように言葉を続ける。それはまるで、もう患者が到着しているような焦っている様子だった。

「え?もう患者さん来棟されているんですか?」

 あまりにも不意を突いた言葉だったのだろう。看護師も固まったような気がしたが、次の瞬間、先程よりも深いしわが寄っていく。

「先生。今何時だと思っているんですか。もう十時ですよ?何していたんですか。ICは最後でいいですかね。それまでに書類とか必要な物の記載お願いしますよ。」

 そう言い放つと風のようなスピードでナースステーションを出ていった。机に置かれた書類には最新の診療情報提供書も置かれている。封筒を開けてみると、中には患者情報と共に一枚の紙が入っていた。折りたたまれており、そこには自身の名前が記載されている。

「どうして……。」

 よく知るその字体に記憶が蘇っていく。

ーーーーーーー

 美月はその日、鐘の鳴る塔の展望台にいた。これから夏が始まると言うのにも関わらず肌寒い風が吹いており、昼間の太陽を浴びた太陽が障害物にぶつからず全身にぶつかってくる。柵の中から地面へと見下げると全てが指人形のように小さく見えた。飛び降りたいとか首を吊りたいとか死にたいとか、そういうことを考えている訳ではない。

「素敵な環境のはずだったのに……。」

 空中との堺にある柵にもたれかかり、呟いてみる。

『~♪』

 最近耳にしていなかった音が突然ポケットから鳴り響く。画面を確認すると鬼塚からの着信だった。

「もしもし。……どうせ私を笑いにかけてきたんですよね。」

「何を悲観してんだよ。……一条、日本帰って来いよ。こっちはお前の医者の腕を買ってるんだ。こっちで一緒に医者続けよう。」

 その声と言葉に涙腺が緩み、視界がぼんやりとしていく。

「そう言って頂けるだけで、嬉しいです。でも医者は……もう、やらないと思います。」

 宣言と共に風が目元の水滴をかっさらい、耳元を吹き抜けていく。

「……分かった。とりあえずこっち、帰ってこないか?手配は全部する。お前は荷物をまとめて、空港に迎えば良い。」

「……分かりました。ありがとうございます。」

 その言葉が言い終わらないうちに電話が切れる。日本との時差は一時間程度だったはず。鬼塚も仕事中にもかかわらず電話をしてきたのかもしれない。そんなことを想像しながらも先程の宣言が頭の中で繰り替えされる。自身の今後の見立てが風とともに流れていっているのだろうか。柵の外へ髪が大きくなびく度に不透明の未来が心を蝕んでいく。

『ゴーンゴーンゴーン』

 予兆なく、背中から肺と心臓を貫通して音が全身に響く。なぜか合図が鳴ったような気がした。

「よし、帰ろう。」

 これまでとこれからの思いをオーストラリアの空気に流して美月は螺旋階段を降りた。

ーーーーーーー

 自身の名前が書かれた紙が少し揺れている。自身が震えていることに気づかないように、わざと時間をかけて綺麗に折りたたまれた紙を開く。

『親愛なるミツキへ  元気?いや、まずはごめんなさいよね。私は未だにあの時のあの言葉が正解だったのかが分からない。でも美月が医者を続けていると聞いて私はとても安心しているの。正解かどうかはわからないけど、今美月が楽しく医者を続けていれているならそれでいいわ。いつか再会できることを祈って。  ソフィー』

 段々と周りの雑音が聞こえてくる。苦しいような温かいような気持ちが定まらないまま、ただ『いつか会えると良い』とだけ考える。紙をまた丁寧に折り、白衣の胸ポケットに入れ、患者の元へ向かう。胸元がじんわりと温かいような気がした。患者の部屋に近づくにつれ、家族が患者に怒っているような声が聞こえてくる。扉にノックをし、部屋内へ入ると何か月か前に見覚えのある顔がそこにはあった。 様々な機械に繋がれた身体はまるで『生かされている』ようにも見える。

「先生、ただいま。」

 笑顔を浮かべながらとぎれとぎれにその子は話す。ベッド後ろにある丸椅子に座っている両親は悲しんでいるのか起こっているのか俯き、なにも話さなかった。

「力不足でごめんね。」

 その子は数カ月前にドナー移植のためにオーストラリアへと渡航したばかりだった。しかし、渡ったころには手術するための力が既に残っておらず、『日本に帰りたい』と本人の意思でこの病院へ帰ったと診療情報提供書には記載してあった。

「僕ね、海外旅行に行ったんだよ。凄く楽しかった。」

 その顔に悲しそうな表情はどこにも見当たらなかった。

「私達にはあなたがいればいいの。それだけでいいの。だから、だから……諦めたようなことを言わないで。」

 丸椅子から崩れ落ちそうになりなら話す母親は、どこか消えかかっているような気もした。まるでこの子が生きる事を諦めているかのように話し続ける。

「ここでの治療はまだまだありますよね?先生。」

「え、ええ。懸命を尽くします。」

 勢いと出まかせで言った言葉に『頑張ろう』と加えることは出来なかった。美月の気持ちが分かっているのだろうか。目の前の規則的な呼吸を続けている顔は、どこか吹っ切れているようなすっきりした表情をしていた。

「うん、でも僕は……。」

「先生、ごめんなさい。もう少し、妻と子どもと話しをさせてください。」

 自身の気持ちを抑えながら話す父親に美月は何も言えず、病室を出た。

 ナースステーションに戻ると入院受けをしている看護師がこちらへ早足でやってくる。

「一条先生、あの子……。」

「ええ。ここでももう出来ることは……ないのよね。」

「そう……ですよね。」

 ナースステーションにモニターの音だけが嫌に大きく響く。

「一条先生、すみません。私達、一度帰ります。あの子の言う事は聞かなくていいです。」

 ナースステーションの入り口から先程の両親がこちらを見ていた。その顔は泣きはらしたようなどこかに怒りをぶつけたいような表情をしていた。そんな顔を見られたくないのか、こちらの返事も聞かないまま早足で病棟入り口まで駆けていく。その後ろ姿を見守り、何を話せばいいのか答えが出ないまま美月は病室へと向かった。

『コンコン』

「今、入ってもいいかしら?」

「あ、美月先生。そういえば、ソフィー先生からのお手紙読んだ?」

 唐突な言葉に視線が胸ポケットに移動する。

「え、ええ。読んだわよ。……どうして知っているの?」

「向こうの病院でね、ソフィー先生とお話ししたの。その時に美月先生のことをお話ししてたら先生が『私達、同級生なんだよ』って教えてくれて。美月先生のことたくさんお喋りできたんだ。退院するとき、僕に『美月先生へ』って書かれたお手紙を渡してほしいって言われたの。でもね、僕なくしちゃうかもしれないし、荷物はお父さんたちに持ってもらうからできないって断ったの。そしたら僕のことを書くお手紙に入れて送るって言ってたから!ソフィー先生から、もしも違う先生が担当になっちゃったらその先生に『美月先生に渡してください』って言ってねって言われたんだ。」

「そう……だったのね。届けてくれてありがとう。」

「ううん。手紙、見つけられてよかった。秘密のお手紙交換だからね!」

 クスクス笑うその子は医療器具を付けられていなければ、どこにでもいる無邪気な男の子のような気がした。

「そうね。あ、秘密と言えば……、さっき何を言いかけてたの?」

 以前入院していた時は仲睦まじい様子だった家族に、どこかわだかまりがあるような気がした。

「あのね、僕、時々夢を見るの。僕なんだけど、僕じゃない夢。人って死んだら生まれ変われるんでしょ?次に生まれた僕は、あの夢の僕だと思うんだよね。だから、今の僕はそろそろ交代しなきゃいけないの。サッカーはもう一回やりたかったし、学校にも行ってみたかったんだけど……。んー、選手交代!みたいな。でもね、僕はこんな身体でも海外旅行に行けちゃったんだよ?だからね、いいの。」

 直後、呼吸器が大きく呼吸を促す。しかしその子の表情は晴れ晴れとしていた。

「そうなのね。でも、私はあなたの時間を大切に過ごしてほしいわ。」

「ううん、もういいの。」

「でも……。」

 出会ってから見た事がないその晴れやかな表情に言葉が詰まる。『死』が選択肢に入る生き方を今まで経験したことがない。だが、今まで十分に出会ってはきた。そのたびに、『現代の医療は自らの意思で治療法を選択する権利がある』ことを頭だけで理解をしてきていた。治療でしか関わっていない、家族よりも短い時間。なのに今まで『死』を選択した誰もに、ほかの選択肢があるのではないかと訴えたくなる。しかしそれが出来ない立場であること、それをするのは自身ではないことを理解している。だからこそ言葉に詰まるのだった。

「……お父さんとお母さんは?なんて言ってるの?」

「お父さんもお母さんも分かってくれないの。『それは僕がやりたいことだから夢に出てくるんだよ』とか、『生まれ変わった僕よりも、今の僕と一緒にいたいんだよ』とか。全然僕の話を聞いてくれない。」

「うーん、そうよね……。」

 両親の気持ちも本人の気持ちも理解ができるからこそ、何も言えなかった。

「分かった!美月先生が僕のお父さんとお母さんにお話ししてよ。そしたら僕の事を分かってくれる!」

「え?えっと……お話しする事は出来るのだけれど、先生もあなたの時間を大切に過ごしてほしいって思っている事を忘れないでね。」

「うん、分かった!お父さんとお母さんが来たら呼ぶね。」

 キラキラした表情に納得をしないまま、美月は病室を出た。


 仕事が終わり、夏樹の家へ向かう。仕事中も道中も先程の話が頭から離れなかった。どうすれば全員が納得する答えがでるのだろうか。

「うーん……。」

「どうしたの?仕事で何かあった?」

 隣で親子丼を食べている夏樹から声を掛けられる。美月はいつものように事の経緯を説明する。

「うーん、なるほど……。その子の気持ちもとても分かるし、両親の気持ちもとってもわかるわ。どちらの立場に立ってみても、納得せざる負えない問題ね……。」

「そうなの……。このままだと、対立したまま病気が進行して、話す事が出来なくなっちゃうかもしれないのよね。」

「なるほど……。あ、これは……どうなのかしら。昔、飛行機の機内の中でわたしに疾患を教えてもらったことがあるでしょ。両親にもその子にもそれぞれ違う場所で疾患勉強をするって言うのはどうかしら。そしたら全員が客観的に自分たちの事を見ることが出来るんじゃないかしら。まあ、これは一つの案だから全然気にしなくっても大丈夫よ。」

 自分では出てこなかった発想に暗闇に光が差したような気がした。

「……なるほど!とてもいい案だわ。相談してよかった。本当にありがとう。明日早速実践してみるわね。」

「本当?なら良かった。また結果を報告してもらえたら嬉しいわ。」

「ええ、もちろんよ。」

 少し早めに帰り、自宅にある参考書で疾患勉強を行う。明日の勉強会に気力が沸いているのか電気を消しても中々眠れない時間が続いた。


 次の日の朝、美月は気合を入れて病棟へ入る。担当患者の部屋を一回りしたところで一度ナースステーションに帰り、子供用の解剖生理学の本とあの子の疾患の本を手に取った。もう一度気合を入れ直し、あの子の部屋へ向かう。

『コンコン』

「今、入ってもいいかしら。」

「あ、美月先生。おはようございます!まだお父さんとお母さんきてないよ!今日、絶対話してね!」

「ええ、その前にね。少しお勉強してもいいかしら。あなたの今身体になにが起こっているのかもう一度お話ししたいなって思って。」

「うん、大丈夫だよ?」

「何度も話をしたと思うんだけど、分からないことがあったらいつでも質問してね。」

「うん、分かった。」

 勢いよく生唾を飲み込む。

「血液はこの身体全身で鬼ごっこをしているんだけれど、そのみんなのお部屋がここにある心臓なのね。心臓って言うのは四つのお部屋があって、柔らかく動いていて全身に血液を送ったり、迎え入れたりしているのよね。ここに書いてある二つが血液を送る部屋、残りのこの二つが血液を迎え入れる部屋よ。この四つのお部屋があなたの場合、硬くて中々スムーズに動けなくなってなっているの。そうすると血液がお部屋に帰ってきたのに心臓の中にはたくさんの血液がいるから血管に渋滞していっちゃうでしょ。そうすると肺や、身体の中にある他の臓器に影響がでちゃって呼吸が苦しくなったり、身体全体が浮腫んじゃったり……するわよね。今は呼吸が苦しくないように機械を使ったりして。今の状態としては……この辺……だと先生は考えているわ。」

「美月先生?僕の身体だからなんとなく分かるんだ。僕の寿命がもうすぐってこと。」

「そう……。」

「……だから早くお父さんとお母さんにお話ししてね!」

 ニコニコとしながら話すその様子に返事が出来なかった。

 数時間後、看護師から声がかかる。

「一条先生、二〇三号室の患者さんが先生を呼んでほしいとのことです。」

「分かりました。ありがとうございます。」

 病室へ続く廊下を歩く。無意識に『一生部屋にたどり着かなければ……』とさえ考えてしまう。

『コンコン』

「失礼します……。」

「あ、きた!今日は、美月先生からお話があるみたいです。先生、どうぞ!」

 先程病室に到着したのであろう両親は荷物を置き、こちらを不思議そうに見ている。美月は二度目の生唾を飲み込む。

「えっと……ここの上の階にある、学習室って行ったことありますか?」

「いえ……ないですけど。」

「では一度、私と一緒に来ていただけますか?」

「あ……はい。」

 病室を出て、エレベーターで上へと向かった。エレベーターの機械音のみが耳に届く。

 学習室への扉が開き、奥の個室へと案内する。美月も棚の中にある一冊の本を取り、扉を閉めた。二人と向かい合うように席に座り、机の上に本を置く。

「今日は改めて私と疾患勉強をして頂いてもよろしいでしょうか。」

「は……はあ……。」

 机の上に置いた『誰でもわかる解剖学』を開く。

「何度もお話しはさせて頂いていますし、ご自宅でもたくさん調べられたと思います。ですが今一度、原点に振り返ってお話しさせていただきますね。」

「……よろしくお願いします。」

 何度も開いた心臓のページを開く。

「心臓とは、四つの部屋に分かれており、心臓の筋肉である心筋の拍動により血液を全身に巡らせています。しかし特発性拘束型心筋症の場合、心筋が硬く拡張しづらいため心臓に血液が溜まるのと同時に周辺の血管に血液が停滞し、、全身への血液の巡りが悪くなってしまいます。これは現在も特異的な治療法が確立されておらず、合併症として心不全をはじめ、不整脈や血栓塞栓症にもなりやすく、合わせて治療を進めさせて頂いております。しかし、疾患は徐々に進行しており、現在の治療以上の治療方法は……ありません。ですが、我々もできる限り手を尽くさせていただきたいと考えております。」

 顔をあげると、あの子に似た瞳と目が合う。

「……先生、あの子は全てわかっているんですかね。」

「それは分からないです。子供は時々、私達には想像がつかない事を理解していたりするので……。」

「……一条先生、今日は勉強の機会を与えて下さり、ありがとうございます。少しここでこのまま妻と話しをさせて頂いてもよろしいでしょうか。」

 右手を母親の背中に置きながら父親が話す。

「もちろんです。では一度失礼いたします。」

 本を片手に持ち、部屋を退室する。棚に本を入れると少し埃っぽい匂いがした。

 病棟へ帰り、その足で病室へと向かう。

『コンコン』

 病室を開けると眠っていたのか微かに目を開ける。

「美月先生、お父さんとお母さんにお話しできた?」

「ええ、お話しできたわ。」

 その言葉に安心したのかまた目を閉じ、眠ってしまった。


 次の日も、その次の日も美月は毎日病室へ行く。段々と話せる日が少なくなり、意識がなくなっていくのが分かった。それでも今日も足を運ぶ。「今日は雲一つない空で綺麗だ」とか「昨日の夜はカエルがいつもより元気であまり眠れなかった」とか、治療とは別に会話をする。段々目の前の頬が固くなっていくのが分かる。しかしいつも通り、会話をし続けた。

 数週間後、両親の面会時に面談室へ来てもらうように伝えた。二人が席に座る。その表情は既に理解をしているような表情だった。

「お父さん、お母さん、もう長くはないでしょう。私達にも『いつか』というものは分かりません。一週間なのか一カ月なのか、あるいは……明日なのか。」

「分かりました……。」

 面談室に冷えた空気が通り過ぎていく。鼻が徐々に詰まっていく気がするのも寒さのせいなのだろうと意識の中で白を切る。

 面談室を三人で退室し、電気を消す。冷えた空気だけが室内をグルグルと回っている。『医療において傾聴と共感は必要なスキルだ』とどこかで聞いたことがあるがそれができていたかは分からない。一人ナースステーションに帰り、席に座り、先程の話をカルテに打ち込んでいく。これで良いのだろうか、自問自答を繰り返す。何も分からないまま時間だけが過ぎ、業務に追われ、考えが薄れていく。通りかかった面談室はいつの間にかクーラーの電源は消されており、暗い空虚な空間だけが広がっていた。

『~♪』

 時間外にPHSが鳴る。当たり前の出来事なのに胸がざわつく。なんとなく察しながら通話ボタンを押した。

「はい、一条で……。」

「先生、もうそろそろかもしれません。家族へは電話しました。四〇分後に到着するそうです。」

 冷静な声の後ろではバタバタとした足音が聞こえてくる。

「分かりました。行きます。」

 カルテを閉じ、気持ちを抑えながら小走りで足を進める。病棟に入るとその部屋からだけ音が聞こえてくる。

「呼んでくれてありがとうございます。あとはご家族が来るのを待ちましょう。」

 音とは裏腹に綺麗に片づけられた病室は少し殺風景な気がした。段々とアラームが鳴る間隔が狭まっていく。時計の針が進む速度が遅く感じる。モニター上での心電図が平坦になり、時折数秒間、線が揺れる。

「遅くなりました。」

 バタバタとした足音と共に両親が早足でこちらに向かってくる。美月に一礼をし、病室の中に入っていく。

「……。」

「……私達のところにきてくれてありがとう。」

 殺風景な病室に母親の言葉の温もりが広がっていく。数秒後、モニターのアラームが大きく鳴り響いた。心電図の波形は動いていない。

「……確認をさせていただいてもよろしいでしょうか。」

 二人が小さく頷く。二人に一礼をし、死亡確認をしていく。

「心音、呼吸、瞳孔対光反射の消失を確認いたしました。二時五八分、死亡確認とさせていただきます。……ここまでよく頑張ったと思います。」

 何を持って頑張ったのか、寿命とはいつ決められるのか、自身の言葉に、思考に、理解が出来なくなっていく。しかし目の前に横たわっているその表情はまるで眠っているかのように穏やかな表情をしていた。

「業者がくるまでもう少し時間があります。医療者は一度退室をさせて頂きます。ご家族の時間を過ごしてください。では……失礼いたします。」

 三人に一礼をし、背を向ける。扉を閉め、扉の前にパーテーションを立てて密室にする。ナースステーションでカルテを記載していると扉が開く音がした。視線を向けると、父親がナースステーションへと歩を進めていた。

「最後にあの子との時間を頂き、ありがとうございます。そして、私達にたくさんの時間を使って頂き、本当にありがとうございます。日本に……こちらの病院に帰りたいとあの子が言い出したとき、実は私たち反対をしていたんです。でも、これで良かったのかもしれません。本当にありがとうございました。」

 いつから涙を流していたのだろう、目尻が赤く腫れ上がった顔で深く一礼をしている。

「お父さん、顔を上げてください。私たちもあの子ともう一度会えて、とても楽しい時間を過ごすことが出来ました。お礼を伝えたいのはこちらの方です。……もうそろそろ業者が来られると思いますので、洋服の準備などをして頂いてもいいですか。」

 思い出を振り返るようにゆっくりと言葉を話す。父親の瞳は大きく揺れる。

「あの……その話なんですけど……、前々から妻と話をしてまして。息子にもう一度サッカーをさせては頂けないでしょうか。」

 一瞬沈黙が訪れる。

「……と言うと?」

「以前こちらでも着させて頂いたことのあるサッカーのユニフォームを死装束として着させて頂きたいのです。そして死化粧が……何と言うんでしょう。ネットでは『ラストメイク』と記載されていたのですが、少し太陽で焦げたような……元気にサッカーをしていた姿にしてもらいたいんです。中々難しいお願いではあると思うのですが……。」

 涙と嗚咽で口ごもりながら話す様子にどうにかして叶えたいとは思うが、こればかりはどうしようもできない。でもあの人ならどうにかしてくれるかもしれない、そんな考えが口元を緩ませていく。

「……分かりました。出来る限り対応させていただきます。」

 父親は涙ぐみながらまた深く一礼をし、病室に帰っていく。その後ろ姿はただただ寂寞としていた。

『コツコツコツ……』

 聞き覚えのある靴音、見覚えのある身長と髪型が見えたと同時に安心感を覚えた。

「……病室はどちらになりますでしょうか。」

「二〇三号室になります。……とその前に、ご両親から死化粧について希望があるので、聞いてください。」

「……承知いたしました。確認させていただきます。」

 他人で、部外者で、プライベートでは会ったことがない表情をお互いがする。この関係がやはり心地いい。


『コンコンコン』

 丁寧に、静かに、自身が溶け込むようにノックをする。

「この度は心よりお悔やみ申し上げます。エンゼルケアを担当させていただきます、相良夏樹と申します。」

 三つ編みが左肩からゆっくり垂れ下がる。

「よろしくお願いします……。一条先生からメイクの事って聞いていますでしょうか。」

 二人が深い一礼をするとともに床に雫が落ちていく。

「はい、概要のみ聞いております。具体的にお教えいただいてもよろしいでしょうか。」

「……息子は生前、サッカーが好きでした。なのでこのユニフォームを着させてもらいたくて、メイクも少し太陽で日焼けをしたような感じにしてもらいたいんです。」

 横たわる頬を撫でながら話すその母親の表情は、とても優しく愛情に包まれていた。

「承知いたしました。お洋服の方、お預かりさせて頂きます。また後程、性格などをお聞かせ頂いてもよろしいでしょうか。」

「もちろんです。よろしくお願いします。」

 洗い立てなのであろう。紙袋から出したユニフォームからは父親と同じ柔軟剤の香りがした。

「では身体を拭かせていただきます。よければご一緒に背中など拭いていただけますか。」

 その言葉に差し出した濡れたタオルを母親が受け取る。

 医療器具の跡が残る身体を横に向ける。全体重とは思えない程の重さが腕全体に軽くのしかかってくる。

「……この子は、どんな子でしたか?」

 母親が拭いている濡れたタオルに力がこもり、しわが入る。指の間から水滴が垂れていく。

「昔から手のかかる子でした。物を隠したり、出発前にかくれんぼを始めてしまったり……本当に元気の象徴みたいな子だったんです。それは病気が発覚してもなにも変わらなくて。入院中に若い男の患者さんからサッカーを教えてもらったんです。そこから病院内でもボールを蹴ったりして……。時には病室でリフティングをして看護師さんに怒られたりもしてしまって……。」

「とても元気でおてんばな子だったんですね。」

「……そう、ですね。」

 母親の微笑みの中に哀愁を感じた。身体を拭き終わり、上下のユニフォームを着させていく。

「では次に頭を洗わせていただきます。もしかしたらサッカー後で汗をかいてしまっているかもしれませんね。」

「はい、そうですね。ありがとうございます。よろしくお願いします。」

 涙ぐみながら相槌をする両親に『まるでこの子が眠ってしまったから。今は寝入ってしまって出来ないから代わりに行わせていただいている』ように、指先まで力を込めて身体を清潔にしていく。

「それではメイクの方に移らせていただきます。」

 肌の色から顔のほてりまで、丁寧に仕上げていく。これが普段の顔色であるかのように表情に彩を添えていく。

「このような形でいかがでしょうか。」

「……ありがとうございます。本当に生きている……みたい。」

 そこにはただ元気にサッカーをして疲れて眠ってしまった男の子がいた。母親の目から涙が溢れ出す。

「元気な身体に産んであげられなくて……ごめんね。」

 洗い立てのユニフォームにシミが広がっていく。それは情愛や慈しみが染みて広がっていくようだった。

「今頃、天国でこのユニフォームを着てサッカーしてるさ。」

 父親が母親の肩とこの子の腕にそっと手を置く。一瞬リビングにいるような、そんな錯覚にさえ陥る。家族の温もりだけがそこにはあった。

「では失礼いたします。」

「待ってください、本当にありがとうございます。私たちの身勝手なエゴを聞いてくださって……本当にありがとうございます。」

 二人が深々と頭を下げている。

「いえ。わたしこそ、関わらせていただきありがとうございます。」

 一礼し、病室を出る。温もりを壊さないようにゆっくりと病室の扉を閉めた。

「後ほど寝台車の運転手が参ります。もうしばらくお待ちください。」

 まるで他人のように会話をし、軽く会釈をする。この距離感が心地いい。

「分かりました。ありがとうございます。」

 美月も会釈をすると病室へと向かった。


『コンコンコン』

「失礼します。寝台車が来られるまで書類の説明をさせて頂いてもいいですか。」

 目の端から見えたラストメイクは、それは綺麗なものだった。

『まるで生きているみたい』

 誰もがそう口にすることだろう。しかしそれを自身が口にしてしまったら、この子の生き方を否定するようなそんな気がした。だからこそ当たり前にそこにいる存在のように、口にする方が変な気がするように振舞うことにした。淡々と書類を捲り、説明をしていく。

「先生。私、解剖生理の話をして頂いたとき、最初は先生の事を不審に感じてしまっていたんです。話してくださっている時に『あの子は死ぬ運命だ』という事を言われているような気がして。でも、先生が毎日あの子の元で他愛もない会話をしてくれていている事に気が付きまして。返事がなくなっても、意識がなくなっても、当たり前のように毎日話しに来て下さる。その姿に一条先生は『この子自身』に向き合ってくれているんだって。ようやく理解が出来ました。そして二人でもう一度話して、一条先生に全てを任せようってなったんです。……本当にお世話になりました。」

「いえ、私もお父さん、お母さん、そしてあの子に……出会えてよかったです。ありがとうございました。」

 お互いが頭を下げ、三人は互いを見て微笑み合う。美月はなんとなく両親の真ん中小さな隙間にも微笑んだ。

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