第三章 あなたと隣で
夏樹の家で時々食事をするようになって数カ月。身の栄養状態が良くなっていく事実を身体で感じる日々が続いていた。朝起きても顔が乾燥しておらず、昼を過ぎても疲労が少ない。昼頃にはお腹が空く。そんな日常が軽やかに過ぎていた。
「やはりちゃんとした食事って大事なのね。お腹すいた……。」
朝から検査が詰まっており、合間に食事を取ろうと補助食品を持ってきていたが、検査の合間にも患者との話しが長引いてしまい、取ることが出来なかった。空腹に耐えきれず、一度食事休憩を取ろうと休憩室へ向かう。『さすがに誰もいないわよね』と考えながら扉に手を掛ける。
「一条も今から昼食?俺も一緒に食べよーっと。」
後ろから少し大きめの声で鬼塚が声を掛けてきた。肩が上がったと同時に、時計を確認する。
「お、鬼塚さん⁈なんで……。」
現在一六時を回ろうとしているこの時間と状況に困惑を覚えると同時に、鬼塚の発した言葉が『休息』と言わず、当たり前のように『昼食』と言い当てられたことに動揺と不信感が強まっていく。
「一条も休息とか取らないタイプだろう。だったら昼食しかないじゃないか。」
確信を突かれたその言葉に呆気にとられた。そして誰もいない休憩室に声を上げて入っていく上司に『この人に私は一生敵わないな』とつくづく考えてしまう。電気ケトル内に水道水を入れ、スイッチを入れる。いつの間にか机の上には二つのカップ麺が置かれていた。
「一条。あの来週手術予定の人、最近どう?」
コンビニで買って来たのであろうおにぎりと七味唐辛子をロッカーの中から取り出し、マイ箸をカップ麺の上に置きながら、ふと尋ねてくる。
「経過は順調ですね、リハビリも頑張ってくれていますし。」
美月も同じようにマイ箸をロッカーから取り出し、カップ麺の上に置く。いつの間にかケトルが沸騰したのか、鬼塚がお湯を入れるジェスチャーをしていた。渋々二つのカップ麺を開け、お湯を注ぐとシーフードの良い香りが鼻孔をくすぐってくる。
「そうか。一条もそれくらい頑張ってくれればなー。俺の仕事が減るのにー。」
「そうですねー。」
ソファーに向かい合わせに座り、手を合わせる。唐辛子で真っ赤な汁の中に入った麺を啜りながら話す鬼塚の言葉を聞き流した。シーフードが空腹に染み渡っていく。
「一条さーん、棒読みですよー。」
そう言いながら鬼塚は食べ終わったのか、カップ麺の残り汁にゆっくりとおにぎりを入れ始める。その眼差しは真剣そのものだった。
「鬼塚さんって、ほんと適当ですよね。」
手を合わせ、ため息をつきながら席を立ち上がる。自分のロッカーを開け、お気に入りのチョコレートの箱を取り出した。最近のお気に入りはショコラブルアメールだ。箱の中には宝石のようなチョコレートが整列している。
「まあまあまあ、いいじゃないか。そんな俺を頼ってきたのはどこのどいつだ?」
含み笑いをした表情にどこか癪に障った気がしたが、事実にはなにも言い返せなかった。落ち着くためにもう一つとチョコに手を伸ばす。
「嘘だよ、頼ってくれて俺は有難かったよ。さてもう少し、頑張ろうな。」
後ろから肩を軽く叩かれ、当たり前のようにチョコレートを一つ奪われる。口に放り投げながら、そのまま部屋を出ていってしまった。
「ほんとにあの人は……。」
また小さくため息をついた。
病棟に戻ると看護師がナースステーションで騒いでいる。
「ねえ、やっぱ似てるよ。もしかして先生モチーフなんじゃない?」
「絶対そうだよ。ほら、あれ。あのセリフ言ってくださいって言ってきてよ。」
「そんなの言えないよ。絶対スルーされるって。」
美月の事を見ながら話してはいるが、言葉も内容も全く理解できなかった。その会話には入らず、電子カルテを黙々と操作していると、最近良く話すようになった看護師の西澤が後ろで手を組み、少し笑みを浮かべながら近づいてきた。
「一条先生、『私に知らない疾患があるとでも?』って言ってみてください。」
「私に知らない疾患があるとでも?」
何も考えず、カルテに打ち込みながらただただ言葉を繰り返す。
「んー、ちょっと違うな~。もっと威圧的で、余裕そうな笑みを浮かべて、はいもう一度!」
「えっと、私に知らない疾患があるとでも?」
手を止め、西澤の方へ身体を向ける。言われた通り笑みを浮かべ、少し見下すように言ってみた。
「わ~、近いです!もうちょっとセクシーに!」
「んん、『私に知らない疾患があるとでも?』」
その言葉を言った瞬間、西澤の目がキラキラと輝く。
「あはは!凄い!そっくりすぎます~!やっぱあのドラマの人、先生だったんだ~。先生有名じーん。」
ナースステーションにいる看護師もこちらを見て笑っており、中には拍手をしているものまでいた。その瞬間急に恥ずかしくなり、立ち上がる。
「あれれ。先生、どこ行くんですか~?」
「患者さんのところです!」
遠くの方で「きっと恥ずかしくなったんだな~、先生可愛い~。」と言う西澤の声が聞こえてくる。そのままの勢いで廊下を進み、病棟の端の担当患者のところまできてしまう。ナースステーションに引き返せなくなった今、そのまま担当患者のところへ挨拶に行くことにした。
『コンコン』
入口のドアを元々来室する予定だったかのようにノックする。
「はーい。芽衣、いまーす。」
たくさんの飾りがつけられたドアを開ける。
「芽衣ちゃん、元気?」
入院して二カ月が経とうとしている九歳になったばかりのこの子の部屋は、入口だけではなく壁一面キラキラとなにかしらが飾られている。
「元気だよ!」
手持ち無沙汰なのか、机の上には日曜日に放送しているアニメの塗り絵が散乱しており、その全ての紙に色が塗られている。
「元気だから美月せんせのお顔、芽衣にお化粧させて?」
そしてこの女の子は、現在誰かにメイクをすることがブームらしい。最近の病棟内にいる医療者の顔はたくさんの色で溢れていた。
「いいわよ、綺麗にしてね。」
ナースステーションへはしばらく戻りたくなかった諸事情もあったため、ベッドの隣に置いてある丸椅子に座る。芽衣の表情がパッと花が咲いたように輝いた。散乱していた塗り絵をベッドの頭に全て置き、ベッド横の引き出しからキラキラした子ども用のメイクセットを取り出し始める。
「お客さーん、今日はどんな感じにしますかー?」
どこで覚えたのか、大人ぶった口調でそう話す。机の上には色付きのラメであふれかえっていく。
「ふふっそうですね。今日は可愛い感じでお願いします。」
特に考えず、なんとなくその言葉がでた。
「あらっこれからおデートですか?」
そう言われた瞬間、なぜか三つ編みの彼を思い出す。
「そうですね、……おデートなのかも。」
咄嗟にまるで他意がないような口振りで話してしまった。自身で言った言葉にもかかわらず、気恥ずかしくなっていく。
「わあ、おデート!芽衣に任せて!せんせ、早く目瞑って!」
美月の気持ちとは裏腹に、芽衣は美月の言葉に目を輝かせながらラメの入ったピンク色のシャドウを指につけ始めた。その色に不安な気持ちを抱きながらも言われた通り、目を瞑る。温かく小さな指が、美月の瞼の上を滑り始めた。
「先生、可愛い!」
目を瞑りながらその言葉を俯瞰する。大人は経験や憶測から他人への言葉を選び、時には取り繕った会話をする。それを『優しさ』だと考える人が大勢だろう。しかし、時には子供のように自身の考えや思考、それを反射のように伝えることも必要なのではないかとふと考えた。
「ありがとう、芽衣ちゃんのセンスがいいのよ。」
そして自身も言葉を選ばず、そう素直に伝えた。
「芽衣も……美月先生みたいになりたい。」
瞼の奥から微かに聞こえたような気がした。美月に向けて発したのではないのだろう、瞼を閉じたままなにも聞こえなかった振りをする。
目を閉じたまま数分が経つ。芽衣の歓声と共に、はしゃいだ声が聞こえてきた。
「できた!可愛い!先生お姫様みたい!目開けて!」
目を開け、隣の鏡越しに目が合ったその顔は、まるで今からショーにでも出るんじゃないかと思うほど目の周りがキラキラと輝いていた。
「これでおデート完璧だね!」
「ふふ、そうね。芽衣ちゃんありがとう。」
屈託のない笑顔にこのメイクが一層輝いて見えた。
「もちろんだよ!いつでも芽衣に任せてね!せんせ。ほかに誰かお化粧させてくれる人、いない?」
その言葉にあの看護師が思い浮かんだ。
「んー、あ!いるわよ。芽衣ちゃんにメイクしてもらうのすごく楽しみって言ってた気がする。ちょっと待っててね。」
そう言うと病室を出て堂々と廊下を歩く。すれ違う看護師から次々と「先生、似合ってますね。」と声をかけられる。それが本心なのかお世辞なのかは分からないが、美月はその言葉の意味にあまり関心はなかった。
「可愛いでしょ。」
ただ一言、そう返事をした。
ナースステーションに戻り、芽衣ちゃんに伝えた人物を探す。ナースステーション内を見渡してみるとカルテの影に眉間にしわを寄せていた。隣のカルテにさりげなく座る。西澤が横目で美月の顔を見て眉間のしわが緩んでいく。
「それ、芽衣ちゃんのメイクですよね。可愛い。」
「ええ、ありがとう。さっき、芽衣ちゃんが西澤さんのこと呼んでいましたよ。」
計画した内容を雑談に織り交ぜて会話をする。
「え?芽衣ちゃんが私をですか?分かりました、行きますね。」
カルテを急いで閉じ、バタバタとナースステーションから出ていく。なんとなくスカッとした気持ちで何事もないように電子カルテに向き合う事にした。
数十分後、西澤がナースステーションに戻ってくる。目が合うと先程よりも眉間にしわを寄せてこちらへ向かってきた。
「先生!私、芽衣ちゃんのメイクにノリノリなんて言ってないで……あれ。私達、もしかしてメイクお揃いです……かね?」
そのままお互いの顔を十秒程見つめ合う。目の前の西澤の瞼もピンク色のラメが光っていた。
段々と笑いが零れだす。
「ほんと、一緒ですね。」
「写真撮りましょ、記念に。ピンクだから……ギャル?ギャルピースで!」
呼吸を落ち着かせながら西澤は涙を拭き、スマホをポケットから取り出す。二人は画面に向かってたどたどしいギャルピースをして何枚も写真を撮る。
「あ、そう言えば先生今日デートなんですか。なんか芽衣ちゃんが言ってたんですけど。」
「んー、まあ、そうなのかしら?」
「なんですか、その曖昧な感じ~。良ければなんですけど、ぜひそのメイクのまま行ってくれません?相手の反応、気になります~。」
思いつかなかった提案に胸が高鳴った。不意に西澤のPHSが鳴るのと同時に遠くから西澤を呼ぶ声が聞こえてくる。
「良いわね、それ。そうするわ。」
まさか了承されると思わなかったのか驚いた表情をしたあと、「相手の反応、ぜひ教えてくださいね~。」とだけ言って慌てて仕事に戻っていった。
勤務終了後、愛猫に餌をあげてから夏樹の家へ向かう。 チャイムを鳴らし、夏樹が玄関を開けるなり目を見開いた。
「えっと……そのメイク、どうしたの?」
目の前には少し遠慮がちに戸惑い、口ごもる夏樹がいた。
「え?このメイク変?」
あえてきょとんとした表情で話してみる。
「いやいや、変とかではないわ。ただ……珍しいなって思っただけよ。」
どこか見覚えのあるアメリカンコメディのような慌てように表情を保つことができず、思わず吹き出してしまった。
「ふふっごめんなさい。このメイク、入院している女の子にしてもらったのよ。」
その言葉に夏樹はほっとした表情とともに、なぜか少し懐かしむような表情をした。
「そうなの、似合ってるわね。その子とてもセンスがいいわ。……私よりも。」
「私よりも?」
夏樹の言葉に引っかかり、言葉を覚えたてのオウムのように聞き返す。夏樹はその言葉を受け流すように微笑んだ。
「長くなるから食べながら話しましょ。」
そう言ってキッチンへ入り、二つのオムライスをカウンターへ置いた。
二人並んで席に座ると夏樹がゆっくりと話し始めた。
「恩人の話、覚えてる?」
「えっと…転職特集の時に話しに出ていた人よね?」
そう聞きながらオムライスへと視線を移す。目の前には老舗の喫茶店のような王道オムライスがツヤツヤと輝いていた。
「そう。その人、愛宕隆二さんって言うんだけど。その人から『人の数だけ飾り方がある』って言われたことがあるのね。」
「飾り方って、メイクの方法ってこと?」
話しながらその時を思い出しているのか、夏樹の目尻はいつもより下がっているように見えた。
「そうね。人間って一つ一つのパーツが似ていても、その人の考え方だったりこれまでの生きてきた歴史だったり、それによって表情に個性が生まれるのよ。だから定型にハマらない、その人らしいメイクをしなさいってことなんだと私は解釈したわ。その女の子は、そのことを直感的に理解しているから、あなたにとても似合っている、綺麗なメイクができたんだと思うの。」
そう話し終わると夏樹は頷きながら大きな口でオムライスを頬張る。フワフワしたご飯をしっかり包んだ卵のオムライスは、夏樹の会話をも柔らかく包んでくれているような気がした。
「そうね、このメイクとても素敵だもの。……もしかして夏樹くんよりも才能あるかもしれないわね。」
場の空気を和ませようと少しおどけたように話してみる。夏樹は相槌と共に微笑んだ。その顔は卵に反射した夕日のせいなのか、とても綺麗に見えた。
ある日、病棟に入ると看護師達があるBarの噂をしていた。それはここに来ている納棺師の男が、そのお店でサクソフォンを吹いていると言う噂だった。『そういえば部屋の隅にあったな』そのような事を考えながら、看護師達が黄色い声を上げて盛り上がっているのを横目に見る。いつもなら私語に気が立ち、注意するところだが、なんだか今日はそれが心地良かった。仕事終わりに『あの男をからかってやろう』なんて今までの自分なら考えないようなことを思いながら、黙々とカルテに向かう。
仕事が終わり、美月は噂のBarに向かった。店内は落ち着いたバーカウンターがあり、隅に小さいステージとカウンターチェアが置かれている。
「ご注文は何にいたしますか。」
カウンター越しの店員にモヒートを頼む。店員の手元から氷が触れ合う音と心地の良いジャズの音だけが響いている。店の奥から聞き覚えのあるゆったりとした足音が聞こえてきた。少し昂っている心を抑え、音のする方へ視線を向ける。暖簾がゆらりと上がるとそこには見慣れた彼がサクソフォンを持ち、こちらを凝視していた。
「なっ……。」
夏樹の驚いている顔を見て、静かに口角をあげた。パッと視線を外され、セットされた前髪をくしゃくしゃにしながらステージへ上がる。ジャズの音が止まる。そして動揺を隠すかのように丁寧にサクソフォンのパッドに指を置き、無音の空間に心地の良い音色が響きわたり始める。サクソフォンの音色が止まるとグラスが氷に触れる音だけが響いていた。数曲演奏後、ステージ後方に置かれたサックススタンドにサクソフォンを置き、カウンター内に入る。慣れた手つきで酒を作り、美月の隣に腰をかけた。
「やられたわ……。どうしてここが分かったの?」
その問いかけに病棟で噂をされていた出来事を話す。美月が話している間、夏樹は目を丸くさせたり、眉間にしわを寄せたりと表情がコロコロ変わっていく。いつもの夏樹とはどこか違う様子に声を上げて笑った。そんな美月に驚きながらもつられて夏樹も笑っていた。
「ナツがそんな声を出して笑っているの珍しいな。」
突然カウンターから声を掛けられる。
「ハル、うるさい。あんたは黙って仕事をしてなさい。」
ハルと呼ばれたバーの店員がこちらを見ながらニヤニヤと笑っている。相当仲が良いのだろうか、夏樹の話し方にも遠慮がない。
「一条さん……でしたっけ。こいつ迷惑かけてませんか。」
「うるさいわよ、ハル。一条さん、こいつなんかと話さなくていいので。」
間髪いれずに話す夏樹に圧倒され、戸惑いながらも頷く事しかできなかった。
「うわ、こいつって言った―。愛宕さんに怒られるぞー。」
「はあ、それもう高校生の時の話でしょ。」
「ああ、そうか。そんな経つのか……。あの時はカーディガンもお揃いだったもんな。」
その言葉を聞いた瞬間、美月は飲んでいたモヒートを吹き出してしまった。
「ちょ……大丈夫⁉ハル、拭くもの持ってきて!」
慌てたように背中を強く擦られる。
「ゴホッ……大丈夫……。お揃いだったって言うから……。」
「いや、それは……いろいろあったのよ。」
夏樹とハルが慌てて机の上と床を拭きながら顔を見合わせ、小さく笑いながら昔話を始めた。
ーーーーーーー
あれは二人がまだ高校生だった頃。季節はブレザーだけでは肌寒くなってきた時期だっただろうか。風が吹くと目を瞑りたくなる学校からの帰り道を二人で歩く。
「……なあハル、カーディガンの色まで揃えてこないでくれない?」
「知らねーよ。ナツが揃えてきたんだろ?」
形は違うが同じ鶯色のカーディガンを着た二人が道を並んで歩いている。後者の中でも誰かに会うたびに『お前らほんと仲良いよな』と言われ続け、お互いがうんざりしていた。
「これはじいさんから貰ったんだよ。顔が良いんだから良い物を着ろとか言われて。」
夏樹が袖を引っ張りながら面倒くさそうに話す。
「お前の口から愛宕さんの愚痴しか聞いたことねーけど、なんだかんだ良くしてもらってんじゃん。」
「いや、じいさんを俺が面倒見てるの。」
そんな言葉を飛ばしながらハルと歩いていた。
「おい、誰がじじいや!もういっぺん言うてみい。俺はまだまだ若いわ。隆さんと呼べ、若造。」
後ろから突然大きな声がした。振り返ると話の張本人が道路の真ん中で腰に手を当てて立っていた。
「うお⁉ビックリした。てか若造って言う言葉が出てくるあたり、じいさんなんだよ!」
愛宕の勢いに乗せて思わず夏樹がツッコミを入れると『それはそれ、これはこれや』とブツブツと文句を言っている。
「愛宕さん、ここら辺にいるなんて珍しいですね。」
話題を変えるようにハルが声を掛けた。
「いやー。行き詰まったもんで散歩をしとったらな。いつの間にか、ここがどこだか分からんよーになってしまってな。そしたら丁度お前らの声がしたんや。やー、よかったよかった。」
これまた豪快に笑い飛ばす愛宕に夏樹は、ため息しか出なかった。
「これだからこの人は。ほら、帰りますよ。どうせマネージャーさんにも何も言ってこなかったんでしょ。あの人、心配性なんだからこれ以上心配掛けさせないであげてください。」
その言葉にも愛宕は反省の色は見せず、豪快に笑うのみであった。
アトリエに着くと奥からバタバタと足音が近づいてくる。
「愛宕さん、どこ行ってたんですか!家から出るときは、せめて携帯ぐらいは持って行ってくださいって言ってるじゃないですか!」
「いやあ、家の周りをクルって回ろうとしただけなんや。でもな、見てみろ。夏樹とハルを連れてきた。」
「そうやっていつもいつも話をそらして……。」
ーーーーーーー
「っと話が少し長くなりすぎちゃったかしらね。」
夏樹がハルと笑いながら話を遮る。
「愛宕さん……。なんだかとてもチャーミングな人ね。私も会ってみたかったわ。」
「チャーミング……。いや、そうね……あなたとならなんとなくだけど意気投合していた気がするわ。」
「そうなの?そっか……。」
美月はこの気持ちをどう表現していいか分からなかった。自分のボキャブラリーの無さを痛感する。
「ほらほらお二人さーん、そんなしんみりしない!そろそろ帰んないと明日に響くよ!帰った帰った。」
この場を吹き飛ばすかのような声でハルが二人を玄関まで押し出す。
「ナツ、ちゃんと一条さんを送んなよ!」
「分かってるよ!」
ハルに言い返す夏樹は、いつもより少し男気の混じった夏樹だった。ハルと言う男に見送られ、
夜の道を二人で歩きだす。夜の風に吹かれて、あの心地のいいメロディが頭に流れ込んできた。
「そう言えばすっかり忘れていたけれど、サックスとても上手だったわ。どこかで習っているの?」
随分と前の話をしているような気がしながら問いかけてみる。
「いや、昔から家にあって、それを勝手にいじっていたらいつの間にか趣味になっていただけよ。だから独学ね。」
「そうなのね。とてもいい趣味だわ。」
今にも鼻歌として出てきそうなくらい心地のいい音楽を思い出し、日々の疲れが流れていくような気がした。
「あなたは?あなたの趣味はなに?」
頭の中の音色が止まり、『趣味』と言う言葉の意味を考えてみる。
「にゃんちゃんの世話……かしらね。」
言葉を発しながら、いつの間にか我が家にいる愛猫がいない時代を考えられなくなっている事に気が付いた。
「ペットって家族の一員だものね。今度会いに行ってもいいかしら。」
自身の考え方の変化とその言葉にじんわりと心が温まり、自然と顔がほころんでしまう。
「もちろんよ。」
そのような話をしているといつの間にか自宅前に着いていた。玄関に入ると小さな黒猫がキャットハウスの中でスヤスヤと眠っているのが見える。
「私に幸せをくれてありがとうね。」
小さな頭を撫でると薄目を開け、閉じる。そして数秒後にまた寝息を立て始めた。
季節は廻り、コートがなくても寒くなくなってきた時期になってきた。しかし今日は風が強く、薄手のコートをきつく羽織る。季節が廻った中で変わったことと言えば、仕事終わりは夏樹の家で定期的に食事をするようになったことだろうか。今日は湯気の立つ季節外れの鍋だ。夏樹の家の湿度が自分たちの体温と共に上がっていく。。
「毎日料理をするって飽きてこない?」
美月はつみれを口にしながらふと口にする。仕事終わりはこうやって食事をするようになったが、休日は変わらずカップラーメンを食べていた。未だに美月の家のキッチンには飼い猫の餌しか置いていない。
「楽しいわよ。レパートリーが増えるのもいいし、こうやって誰かと一緒に食べるのっておいしいじゃない。」
そう言って夏樹もつみれを一つ食べる。
「私もご飯……作ってみようかな……。」
仕事終わりに当たり前に夕食を共に取るようになってから、休日の食事が少し味気なく感じてきていた。そうつぶやいた瞬間、夏樹の顔が輝いて見えるほど笑顔になるのが分かった。
「いいじゃない!あなたも遂に自分の体に気を使えるようになったのね。本当によかったわ。」
頷きながら『ついに……成長したわね……』とわが子の成長を喜ぶかのような様子に、苦笑いをしてしまう。
「でも私、今まで料理したことないわ。唯一作れるのは……にゃんちゃんのご飯ぐらいかしら。」
愛猫のご飯といってもキャットフードを入れるくらいのため、あれは料理なのだろうかと疑問を抱く。そして自身の料理スキルのなさに呆れてしまう。
「それじゃあわたしの家で料理をしましょ。今度の休日は、私の家で料理教室よ。」
当たり前のようにそう提案される。この男はどこまで世話焼きなのだろうと考えるが、美月にとってはありがたい話であり、すぐに了承をする。目の前で「初心者って何を作ってもらうのがいいのかしら」と一人でぶつぶつとつぶやいている。そんな空間に心地が良いと感じてしまう。
「もう人とは関わりすぎないって決めたのに。」
ぽつりとつぶやく。鍋の向こうにこの声は届いていないようだった。
次の休日、美月は少し緊張しながら夏樹のマンションへ行く。人生でこんな気持ちになったのは国家試験の日以来なのではないかとさえ考えてしまう。部屋へ入るとポニーテールの夏樹がエプロンをして待っていた。美月にエプロンを渡し、料理に使うのであろう物品をキッチンカウンターの上に置き始める。夏樹の張りきり様に慌ててエプロンを付けた。
「今日作るのは生姜焼きよ。」
冷蔵庫から材料を取り出しながらそう話す。
「待って。生姜焼きなんて作れるわけないじゃない。私、包丁も握ったことないのよ。」
慌ててそう伝えるが夏樹の手が止まる様子はない。
「昨日ネットも見ていろいろ考えてたんだけど、料理なんて習うより慣れだと思ったのよ。だからほら習うより慣れ、一先ずやって見ましょ。まずは千切りキャベツよ。」
そう言ってキャベツを渡され、まな板と包丁がセットされたキッチンの前に立たされる。生姜焼きの横に乗っているキャベツを想像しながら包丁をキャベツの端の方に入れてみる。丸いキャベツは考えている以上に切りづらく、まな板から転がっていきそうだった。
「どうかし……え⁉あ、ごめんなさい!ちょっとストップ!」
左手で抑えていたキャベツがするりと抜き取られた。
「ごめんなさい、そうよね。キャベツって最初に半分に切ってから切っていくと安定して切りやすいのよ。」
そう言ってキャベツを半分にし、数秒で綺麗な千切りキャベツができる。
「こんな感じよ。」
約一人分切り終えたところで包丁を渡された。先程のキャベツよりかは確かに切りやすいが、形もバラバラで不格好な千切りキャベツが出来上がる。隣にあるフワフワと美味しそうな千切りキャベツを見て『毎日料理をしている人は違うな』と当たり前のことに感心してしまう。豚肉も、もたつきながらではあるが何とか形になっていった。盛り付けをし、テーブルに並べる。少し焦げた豚肉に太さのバラバラなキャベツが皿に盛りつけられている。
「不格好ね。」
美月の言葉は聞こえていないかのように夏樹は手を合わせて食べ始める。一口食べてもう一口。何も言わない。何も言わないが箸の手は動き続けている。張りつめていた心が少しずつ緩まっていくのが分かる。目の前の箸を手に取り、生姜焼きを一口食べてみた。
「美味しい……。」
顔をあげると夏樹と目が合い、顔がなんとなくほころんでいるように見えた。
「料理っていいわよね。」
そう一言だけ話し、白米を口に入れる。
美月はなんとなく相槌を打たなかった。
ある仕事終わりの夕食、いつの間にか時々夏樹と一緒に料理をするようになっていた。
「二週間でこんな成長するなんて、あなた才能があったんじゃない?」
キャベツを切るリズミカルな音と共に隣でフライパンを持つ夏樹はそう口にした。頬が緩むのを感じ、慌てて顔を引き締める。そんな美月の感情など気づいていないかのように、隣では満足そうに2人分のムニエルを皿に盛りつけ始めていた。
夕食を食べながら今日あった仕事の話をする。いつの間にかそれがいつもの日常になっていた。しかし今日の夏樹はいつもより関心のない様子だった。口をつぐむと夏樹が目を泳がせながら眉をひそめる。
「ねえ、少し聞きたいんだけど、あなたいつも仕事の話しかしないわよね。趣味はにゃんちゃんの世話だって前言ってたけど、それだけじゃないでしょ?いつも休日はなにしてるの。」
夏樹は少し呆れたように話題を変えた。自身の休日を思い出してみるが、何も出てこない。そういえば何をしてるんだろう。当たり前に誰もが聞かれる質問でさえ、答えが出てこない事に焦りを感じた。
「飼い猫と遊んでるかしらね。」
数分後にやっと言葉を発することができた。まるでただのニートじゃないか、思わず心の中でつっこんでしまう。
「あなた……もしかしてこの間のBarの存在も知らなかったとは言わないわよね。」
「……知っていたわよ。もちろん。」
自分を隠すための虚勢もひどく滑稽に思える。その虚勢も空しく夏樹は呆れたように腰に手を当てて上を向いた。
「はあ、あなたどこか行きたいところとかない?なんて言っても出てこないわよね。いいわ、今度の休みは遊びに行くわよ。」
美月は困惑の中で心が高ぶっていくのを感じた。『はあー、またお節介やっちゃってるわ。』と目の前で皿を片付けながら大きくため息をついている。しかし、夏樹の顔はなんだか嬉しそうに見えた。
皿洗いもいつからか当番制になり、今日は美月の番であった。自身の番の日はいつも洗い物が簡単な料理にしてくれている事に最近気が付いた。夏樹の何気ない優しさが日常を温かく満たしていく。
「あなた、どうせ仕事以外は午後とかにいつも起きてるんでしょ。出掛ける日は六時に私の家の玄関前に集合だから。」
唐突な言葉に危うく皿を落としかける。「六時なんて仕事の時ですら起きていないのに」なんて文句を言いそうになるが、夏樹の顔を見ると何も言えなかった。
『ひとまず楽しみにしておこう』と心にしまい込む。




