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第二章 お節介とは

 美月が医者の仕事を再開してから数カ月。いつの間にか影が涼しい季節になっていた。蝉の大合唱が今日も暑さを助長させている。

『コンコン』

「はい……あ、美月先生こんにちは。」

「こんにちは。調子はどう?」

「うん、大丈夫だよ。」

 もうすぐ何度目かの手術を控えたこの女の子は、いつもと同じセリフを吐く。

「そう言えば見て、美月先生。この子生まれたんだって。」

 ある担当患者からそう言って見せてくれたのは一枚の黒猫たちの写真だった。自宅なのだろうか、最近よく見るキャラクターのブランケットの上で母猫と子猫が幸せそうに隣合わせでスヤスヤと気持ちよさそうに眠っている。

「可愛いわね、お家で生まれたの?」

 しかし返事が返ってこない。ふと写真から目を離すと、目の前ではなぜか悲しそうな表情をしていた。

「どうしたの?」

 その言葉にさらに眉をさげ、徐々に目が潤んでいく。

「なんかね……。お母さんが、お金がかかりすぎちゃうからこの子までは面倒見れないって言ってるの。せっかくうちの子になったのに……。私がこうやって入院しているから私のせいでこの子は保健所とかに連れてかれちゃって……。私、もうこの子には会えないんだよね。」

 写真を持っている腕で目を抑え、写真が髪の毛に当たったのか左手から離れ、写真が宙を仰いで真っ白い布団の上に落ちる。まるでその子の心が落ちていくような気がした。

「……会えるわよ、大丈夫。私が会わせてあげるから。」

 できる限りの優しい声で言葉をかけた。この子は入退院を繰り返してもう何年経っているのだろうか。カルテはスクロールできないほどの診療記録が溜まっており、病室の壁は長い年月を物語っている。美月が主治医になってからは数カ月しか経っていないが、きっと今まで担当していた他の医者から、同じようなことを何度もこの子には伝えているだろう。しかし、美月もこの言葉以外頭に思い浮かばなかった。自身の薄っぺらな言葉の重さに嫌気が差す。

「……うん、知ってるよ。美月先生は、出来る先生なんだもんね。」

 眉を下げ、無理やり口角を上げながら話すこの子に、あと何回この表情をさせてしまうのだろうと胸が締め付けられ、言葉が出なかった。

「……でもね、手術……怖い……。」

 ふと聞こえてきたその声はとても小さく、美月に向けて言った言葉ではないのだろう。しかしどこかで誰かに届いてほしい、そんな声だったように感じた。どうにかしてその声に応えたいと、必死にこの子の求めている答えを探す。

「……じゃあ、先生がこの子猫飼うから、入院生活も手術も頑張るっていうのはどう?手術終わって退院できたら毎日会いにきて?」

 自身の答えが耳を抜けた後、その言葉を理解する事に時間がかかった。そして理解と同時に、胸の奥底からなにかが押し寄せてきているような気がした。

「え……いいの⁉先生迷惑じゃない?そんな簡単に決めちゃっていいの?」

「元々猫飼いたかったのよ。」

 当たり前の表情と落ち着いた声色で虚言を吐く。

「ほんとに……嬉しい。先生、頑張るよ!手術も入院生活も頑張る!退院したら、お花と猫じゃらしがたくさんの野原で美月先生とこの子と三人で遊びたい!」

 先程とは違い、力のこもった言葉が飛び出してくると同時に部屋中が明るくなり、それは押し寄せているもの、全てをなくしてしまう程だった。

「ええ、もちろん約束よ。」

 この子と『約束』という言葉を自身の心に結び込む。

「うん、引き取ったら写真見せてね。私、頑張るから!」

 その純粋な笑顔は、美月の見たことのない表情だった。何も迷いのないような表情で左手の小指を出している。美月の左手の小指を絡ませ、結ぶ。病室を退室するときにも、ワクワクした表情でこちらに手を振っていた。扉を閉めた後、左手を胸に当て深く息を吸い込んだ。

「自分がやらなきゃ誰がやるんだ。」

 

 次の休日、美月はある家へ訪問していた。

「美月先生。本当にいいんですか?あの子に言われたからとかじゃないですよね。」

 エプロンを付けた母親は病室で会う時より、少し髪が乱れていた。

「違いますよ。実は前々から猫を飼いたいと考えていたんです。」

 あの明るい病室で結ばれた約束に誓った。病室で吐いた虚言と同じように、さも昔から考えていたかのような言葉が口から紡がれていく。

「そうですか、それならいいんですけど……。この子です。」

 そう言ってあの写真のブランケットを部屋の奥から抱きかかえてくる。ブランケットを渡され、中を覗くとは小さな黒猫が震えながらこちらを見ていた。黒猫を貰った際の一瞬触れた母親の手の甲は乾燥なのか、酷くざらついている。

「ありがとうございます。大切に育てますね。」

 両手に収まってしまう程の子猫は今にも折れてしまいそうで、病室に一人でいるあの子を思い出した。

「いえ、こちらこそありがとうございます。」

 そして目の前に見えるその表情があまりにもあの子の愛想笑いに似すぎていて、自身が考える前に、口から言葉が発せられていた。

「お母さん……不躾かと思うんですけれど、なんと言いますか……無理だけはしないでくださいね。病院もできる限りのサポートをさせて頂きますので。」

 その言葉に母親は驚きながらも言葉の意味を考え、周りを見渡す。そして靴箱の上にある卓上鏡の自身と目が合ったようで、狼狽えながら顔が赤くなっていく。

「え、あ……、すみません。ありがとうございます。今までは何とかなっていたんですけど、この子猫が生まれてからは私一人では家が回らなくなってきてしまっていて……。もちろん、あの子の手術の事もありますし……。でも先生がこの子を貰ってくださることになって、本当に感謝しています。」

 そう言いながら髪を手で梳かし、梳かした手を見て慌ててエプロンに隠した。

「いえ、私は私のしたいことをしているだけですので。またお母さんの余裕があるとき、いつでも面会に来てください。」

 子猫と共にお辞儀をし、その場を後にした。 行き道にはなかった温かさと重みが美月の腕に重くのしかかっている。子猫はいつの間にかスヤスヤと眠ってしまったようだった。その寝顔は純粋で、まだ世間を知らないあの子のようで、自然と腕に力が入る。

「可愛い。これで……うん。よかったのよね。」

 自身に納得をさせ、身体が揺れないよういつもよりゆっくりと慎重に帰路に着く。この季節に持つブランケットは、腕から身体中をジリジリと熱くさせる。それは自身の心も同時に暖かくさせていった。

 自宅に入り、昨日届いたキャットハウスの中に子猫を降ろす。

「名前何にしようかしら……。にゃんちゃん……とか?」

 ふと出た名前が安直で、自身の名づけセンスに落ち込んでしまいそうになる。

「……にゃー」

 他の名前を考えようとしていたところに眠っている子猫が薄目を開け、まるで返事をするように一言鳴いた。今まで自分以外誰もいなかった空間に、誰かがいること、そして自分の言葉に返事があったことがただ単純に嬉しかった。

「そうね……。やっぱりあなた、今日からにゃんちゃんにしましょうか。」

 そう声を掛けるも、まるで名前など気にも留めないように、目を強く瞑り小さな口が大きく開いた。そしてまたキャットハウスの中で眠り始める。お腹付近が浅く動き続ける小さな黒い物体に微笑み、背を向けて一カ月後に控えた手術の修学を始めた。

 

 数週間後、あの子の容態が急変した。病院全体から応援を呼び、命を繋ぎ止めようと必死に蘇生を行う。このとき頭の中では理解をしていたような気がするが、それをあえて考えないようにしていた。

「一条!もうわかってんだろ!」

 病室に鬼塚が勢いよく入ってくる。すでにこの現状を理解しているのだろう。荒々しい言葉が頭に刺さる。

「鬼塚さん。でもやらないと……やらないと!」

 額から汗が流れる。この状況を医者としては理解している。しかしどうしても止められなかった。

「……もうこの子が可哀想だろうが!」

 鬼塚の言葉が頭の中で埋め尽くされ、手が止まる。顔を上げると怒りと悲しみ、全ての感情を押し殺しているような表情をしている。自身の無力さと幼稚さに呆然と目の前の顔を見つめる。

「すみません。説明しに行ってきます。」

 鬼塚を残し、あの子の家族の元へと向かった。その数メートルは沼に自らはまっていくような、自身の足で歩いていないような、そんな気がした。

 廊下の長椅子にはあの子の母親がうずくまるように座っている。なぜかその姿が病室に一人で塗り絵をしているあの子のように見えた。

「一条先生……。あの子は、あの子は……。」

 残される人を見る度に『自分以上にこの子の生きる未来を望む存在がいる』そんな当たり前のことにいつも気が付かされる。

「お母さん、血栓が身体の重要な部分に飛んでしまい、年齢と体力を考えると手術も難しい状況です。延命処置はどうされますか。」

 母親と目が合っているのに視線が合わない。

「……もう、なにもしないでください。この子にはたくさん痛い思いをさせてしまいました。最後ぐらいは……。」

「分かりました。体力的に限界が近いです。よければ最後、傍にいてあげてくれませんか。」

 出来る限り感情を出さないよう、淡々と言葉を紡いだ。そしてその言葉を口にすると同時に、自身はただの医師であることを痛いほど理解する。

「……はい、先生。ありがとうございます。……この子の最後を診てくれたのが一条先生で本当に……よかったです。」

 美月の手を求めるように空を切ったその手のひらは、力を入れすぎていたのか真っ赤になっている。

「いえ、私も……ありがとうございます。」

 空を切ったその手のひらを撫でるように両手で包み込んだ。

 両手をゆっくり解き、今にも崩れそうな母親を支えながら病室へ入る。子供向けの雑誌やおもちゃ、塗り絵が部屋の隅に追いやられ、病室には様々な医療器具が散らばっている。部屋の壁だけがあの子の生きていた事実を語っている。病室に入った母親は先程までの状況に薄々が想像ついているのか、瞳が大きく揺れていた。

「お母さん、きてくれたよ。」

 自身の感情を押し殺し、目の前のベッドに横たわっているこの子へ言葉を紡ぐ。

「……頑張ってくれてありがとうね。」

 隣から聞こえた声は震えた小さな声のはずなのに、やけに大きくなぜか力強く聞こえた。

「確認させていただきます。……失礼いたします。」

 心音と呼吸の聴取のために服の中に手を入れる。その時、患者のサイドポケットから少し重みを感じたような気がした。いつもは気にも留めないことがなぜか気になる。心音聴取後、サイドポケットの中に手を入れると、綿毛のようなものとなにかが手に刺さる。中身を取り出してみると、しなびた二本の雑草だった。それは猫へ向けることが多く、春によく見るあの雑草だった。

「……っ。」

 何も言わずその子の枕元に置き、瞳孔を確認する。ライトに照らされた雑草は力なく横たわっている。動揺を抑えながら医者としての言葉を発する。

「心音、呼吸、瞳孔対光反射の消失を確認しました。一四時三六分、死亡確認とさせていただきます。」

 病室に自身の事務的な声だけが響く。まるで誰も呼吸をしていないかのようだった。 ベッドに置いた雑草を一つ、その子の右手に持たせるように結わえる。

『先生?私、頑張ったよね。』

 もう聞こえるはずのない声が聞こえたような気がした。

「……先生、全ての医療器具を取り外しては頂けませんか……。せめて綺麗な身体で抱きしめたい……。」

「もちろんです。」

 全ての医療器具を外す。テープが貼られていた箇所が赤く痛々しい。その場所を優しく撫でながら母親は大きく抱きしめた。病室に母親の嗚咽だけが聞こえる。

 枕元に置いたもう一本の雑草を右手に持ち、母親の声に背中を向けるようにゆっくり病室を出て扉を閉める。右手に持っている一本の猫じゃらしだけが寂し気に、だがどこか楽し気に上下に揺れている。

 ナースステーションに戻り、あの子の迎えを待つ。数分が数時間に感じてしまうくらいには手に仕事が付かなかった。

「ねえ、納棺師はまだ?」

 焦燥感を抑えられず、大きい独り言と共に席を立つ。窓の外を見に行こうとすると、遠くの方から靴音が聞こえてきた。苛立ちと共にその音がする方へ目を向けると、今まで抱いていた感情を一瞬全て忘れてしまった。

「遅れてしまい、大変申し訳ありません。」

 ナースステーション全体へ響き渡る程の声だったのか、ナースステーションにいた全員が振り返る。しかし、美月にそんな事に気が付ける余裕はなかった。

「相良……夏樹……。」

 その言葉と同時に一瞬目が合ったような気がしたが、夏樹はそのまま目の前を通り過ぎて行く。颯爽と病室に入って行く背中を追いかけるように、美月も遅れて病室に入る。目の前の彼は声が聞こえる事がないあの子と会話するように身体を丁寧に綺麗にしていく。身体が拭き終わり、母親と会話をしながら亡骸にメイクを施していく。その所作は綺麗で丁寧で、母親が話すこれまでの思い出を紡ぐように、色を足していっているような気がした。なぜか熱いものがこみ上げてくるような気がして咄嗟に目をそらす。

「……先生?どうしましたか。」

 挙動不審な美月を不審に思ったのだろう。目を真っ赤にさせた母親が訝しげに顔を覗き込んでくる。

「あ、いえ。綺麗にしてもらえて喜んでいますかね。」

「そうだといいなと思っています。」

 母親と話しながら目の前でメイクをしている彼が視界に映る。その技術は解剖生理のコラムに苦悩していた事実が嘘なのではないかと疑ってしまう程だった。そしてその光景にいつの間にか目を奪われるように眺め続けていることに気が付いた。

「あ、すみません。お母さん、少し書類の説明をさせて頂いてもいいですか。」

 とっさに思い付いた答えを伝え、美月とあの子の母親は病室を出た。

 カルテを記載しているといつの間にか遺体の身支度が終了したのか、夏樹はナースステーションに入ってくる。

「すみません、エンゼルケアが終了いたしましたので私はこれで失礼いたします。この後、会社の者が参りますのでお待ち下さい。」

 大きく一礼し、そのまま病棟入口へ向かって歩いて行こうとしていた。そのスムーズな動作はやはりあの機内での出来事を覚えていないかのようだった。

「どうして……遅れてきんですか?」

 夏樹がナースステーションを出る直前、『引き止めたい』と言う思いよりも言葉が先に出ていたのだろう。聞こえるか聞こえないかの不安定な声が、ナースステーションの雑音に混じる。かろうじてその声が彼の耳元に届いたのか靴音が止み、こちらを振り返る。その表情はやはりあの出来事を覚えていないかのような業務的な表情だった。

「この季節はご遺体の送り出しにどうしても時間がかかってしまうのです。申し訳ありません、善処します。」

 淡白な言葉と共に左側へ大きく垂れた三つ編みが数秒間少し地面と近くなる。

  なぜ今、声を掛けたのだろうか、それは美月自身も分からなかった。しかし、ここに戻ることが出来たのはこの人のおかげだと確信は出来る。ただ一言お礼を言いたかったのかもしれない。

 美月の考えとは他所に夏樹は顔を上げると、病棟に背を向け歩いていった。エレベーターに乗り込み、また小さく一礼する。扉が閉まり、夏樹の姿は見えなくなった。

ーーーーーーー

 エレベーター内で夏樹は大きくため息をつく。

「ビックリした……。名前なんて教えたかしら。それに今までこの病院にはいなかったはずじゃない。なんだってこんな急に……。いや、あんな態度……さすがに悪かったわよね。でもさすがに……。」

 あの医者には今でも感謝している。いつの日か受けたインタビューで話した内容も嘘を付いている訳ではない。むしろ会う機会があればあの時の感謝を伝えたいと考えてはいた。

「きっともう一度会う機会、あるわよね……?そしたらまずは今日の事を弁解して、そのあと感謝を伝えて……。」

 夏樹は自身の戸惑いを隠そうとあのような態度を取ってしまった事に、後悔と心苦しさしか考えらえず、その場で頭を抱えてしまった。

 

 頭の中のモヤモヤが晴れないまま仕事を終え、自宅に荷物を置く。ラフな格好へと着替え、玄関の近くにかけてあるマイバックを片手に家を出た。いつものように夏樹は近くのスーパーに入店し、夕食の食材を吟味する。野菜コーナーで特売の野菜を確認し、今日の献立を組み立てていく。組み立てながら料理の手順を想像した。自宅へ帰り、この時に想像した手順以上に手際よく料理が終わった瞬間が夏樹は好きだった。

「今日はナスが安いからはさみ揚げにしようか……。」

 特売のナスを手に取り、周りの野菜を見ながらお肉コーナーへひき肉を選びに行く。インスタント系の陳列棚コーナーの横を通り過ぎると、どこかで見覚えのある姿が目に入ったような気がした。訝しげな気持ちと共に引き返すと、今日話したあの女医がカップラーメンを無造作にかごの中に入れていた。あの時の後悔がどこかに吹き飛び、その姿に足早に歩を進めた。そのままの勢いで我も忘れ、声を掛ける。

「ちょっ……。それ、全部自分用ですか⁉」

 気を抜いていたのか勢いよく肩が上がり、目の前の見覚えしかないその女性は右手にカップラーメンを一つ持ったまま怪訝そうに振り返った。

 聞き馴染みのない声に美月は戸惑いながら振り返る。そこには白のティーシャツにグレーのスラックスを着た夏樹が立っていた。

「……え、なによ。これ?私の何日分かの食事に決まっているじゃない。」

 当たり前のことに応えると、目の前では表情だけで返事をされた気がするくらい分かりやすく顔が引きつっている。

「インスタントだけでは身体に悪いです。良ければ今日、私に作らせて下さい。」

 引きつった口元と眉間のしわ、カゴ内に入っている大量のカップラーメンへの視線から、たじろぎ、困惑していることがひしひしと伝わってきているが、ひとまず目の前の彼がこの発言の意味を理解しているのかを確認したかった。

「えっと……それはあなたの家に行くってこと?」

 美月の言葉で自身の発言にやっと気が付いたのか、目の前では急に分かりやすく狼狽え始める。

「え、あ……そうね。入らなくっても……。タッパーでも誰か呼んでも、なんでも大丈夫……です。でも……とりあえずその大量のカップラーメンはやめましょう?」

『誰かを呼ぶ』と言うその言葉で頭の中には、一瞬なぜか鬼塚の顔が浮かんだ。三人で食卓を囲む光景を浮かべてみる。その異様な光景に苦笑いし、勢いよく頭から振り払った。

「……はあ、分かった。なんでもいいわ。今日のご飯、あなたに全て任せてもいいかしら。」

 今までの言動から『親切心』しかないのだろうその言葉に素直に甘えることにし、カゴの中身を全て元あった場所へと戻していく。

「え、あ……ありがとうございます。」

 断られると思っていたのか、美月の手によって戻されていくインスタント麺に目を泳がせながら小さく頭を下げた。

「ほら、何を作ってくれるの?早く行きましょ。」

 自身から言い出したことのはずなのに狼狽えている高身長の男を横目に、踵を返して歩き出す。

「あ、はい。そうですね、もうこんな時間ですもんね……。サッと食べられるもの……。」

 後ろから遠慮がちな言葉をぶつぶつと話しているような気もしたが、あえてその言葉を全て聞き流すことにした。

 隣で夏野菜を購入していく様子を片目に見続け、スーパーを後にする。夜風が頬を撫でる中、二人は他人の距離感で歩き続ける。夏の夜の音だけが耳を通り抜ける。ここ数日は息が苦しい夜が続いていたのに、今日は夏の澄んだ空気が肺に深く循環していくような気がした。


 夏樹の自宅は、バーカウンターのある白を基調としたサッパリとした部屋だった。隅には年季の入ったサクソフォンが飾られており、少し使い古されているようにも見える。

「少しの間、そこに座っていてもらってもいいですか。」

 バーカウンターの下に並べられた三脚の椅子を指さしながら、夏樹はせかせかとキッチンに入っていく。仕方なく言われた通りにバーカウンターに座った。バーカウンターの上には果物のカゴだけが置いてある。果物を眺めていると、数分でカウンターの上にパスタと白ワインが置かれた。トマトとナスが彩良くパスタの上に盛られている。

「……いただきます。」

 隣に並び、手を合わせる。二人の食器が重なる音だけが響き、時折目が合う。

「……?」

 透明なアルコール越しに映るどこか涼しげな夏樹の表情が癪に障った。久しぶりのまともな食事と夏樹の顔にいつもよりアルコールが進んでいく。そして徐々に冷静な自分が薄れていく。

「ねえ、さがらなつき……。どうしてあなたがここにいるのよ。私はあなたと出会わなきゃこの世界に二度と足を踏み入れなかった。別にそれがダメとかじゃなくて。でもあなたがあんなこと言うから……、あんなことを言うから……。」

 奥底に沈殿していた感情を口に出している事にどこかでは理解していた。しかしアルコールが回り、考えるよりも先に次々と口から溢れ出ていってしまう。

 そんな美月の言葉を夏樹はワインを傾け、目を見開きながらも静かに頷いていた。

 食事から数時間後、夏樹はカウンターに眠ってしまっている美月を目の前に大きくため息をつき、髪をかき上げ天井を見上げた。 呆れと同時に、スーパーで美月を見かけたときに『声を掛けない』選択肢が既になかったことに今頃気が付き、懐かしさと切なさを感じてしまう。

「一条さん、起きて下さい。そろそろ帰りましょう?」

 カウンターに伏せている美月の肩を少し揺らしてみる。

「うーん、もちろん帰るわよ……。」

 身体は微動だにしないが、かろうじて話しは出来るようだった。

「こんなに酔わせるつりはなくて……、家も知らないのに……。えっと…ちなみにどの辺に住んでいますか……?」

 美月がカウンターに伏せたまま、右手で携帯の画面を開き、マップを開けてこちらに見せてくる。 『自宅』と書かれている項目を選択すると、画面上には『徒歩 十五分』と表記された。

「なるほど……一条さん、送るので立ってください。」

 先程より大きく肩を揺らしてみる。

「うーん。」

 しかし、カウンターから依然として頭を上げられなさそうな様子に、また大きくため息をつく。

「ちょっとすみません、失礼いたします。」

 夏樹は起こすことを諦め、美月を背負う。 その瞬間美月のポケットから鍵が一本落ちる。貰ったばかりなのだろうか鍵には『二〇五』とタグが付いていた。

「え……えっと、この人には危機感と言うものを知らないのかしら。それに……ちょっと軽すぎません?」

 それはあまり目線が変わらない身長差であるはずなのに、まるで遊び疲れて眠ってしまった子供を背負っているような感覚に一瞬陥ってしまう程だった。

 片手で美月を支えながらもう片手で美月の靴を持つ。靴を持っている手で玄関を開けた。外は月光で昼間のように明るい。蝉が夏樹の足音をかき消すかのように鳴いている。美月に触れている肌が少しずつ汗ばんでいくのを感じながら、背中で眠っているような子供を起こさないように静かに歩き続けた。

 美月の自宅は医者のイメージとは程遠い二階建ての木造アパートだった。二〇五号室のドアノブの真ん中の鍵穴に鍵を入れ、回すと容易に鍵が開いた。そこには黒猫が六畳一間の隅に丸くなっている。中にはテーブルと布団が端に小さく畳まれており、その横には最近購入したのであろう新品のキャットハウスが一つ置いてある。キッチンは使った様子が見られないほど綺麗で、小さい作業スペースにはキャットフードが置いてあるのみだった。

「これであの大量のカップラーメンです……か。」

 夏樹は美月に説教したい欲を抑えながら布団を敷き、横に寝かせた。

『にゃー』

 子猫が軽やかに美月の腕にすり寄って丸くなる。

「あなた、ご主人様のことちゃんと見ててくださいね。」

 そう言いながら机にあったティッシュペーパーとペン立ての中にあったマッキーで走り書きをし、机の上に置いておく。手に持ったままだった靴を玄関に置き、鍵を閉めてポストの中に入れる。蝉の声だけが響く明るい暗闇へ次は一人で足を踏み入れた。


 翌日、美月は自身の布団で目を覚ました。

「今何時……。頭痛い……。」

 水を飲もうと頭上に手を伸ばすが、空を切る。かすんだ視界で時計を見るといつもの起床時間より十分遅い。水が定位置にない事と目覚ましが鳴らなかった事の事実に頭痛をも吹き飛んでいく。

「えっと、昨日なにしたんだっけ……。」

 昨日の出来事が段々と記憶に蘇ってくる。どのように帰ったかも覚えていないが、生暖かい空気と大きな背中の感覚がこころなしか残っているような気がした。後半何を話したか覚えていない事に不安を感じてしまうが、家を出る時間は刻々と迫っている。再度 時計を見ようと視線を上げたとき、机の上に出した覚えのない紙のようなものが置いてあるのが見えた。重力を感じながら頭を上げる。

『鍵はポストの中に入っています』

 そこには見たことのない筆跡がティッシュに記載されていた。なんとなく想像のつく人物に頭を抱える。現状では埒が明かない事を理解し、諦めて立ち上がった。

「はあ。にゃんちゃん、今日も頑張ってくるね。」

 飼い猫に挨拶をし、一旦全てを置いていくように扉を閉めた。ポストを開けると鍵が一本入っている。これが事実であることを再確認しながら鍵をかけた。


 職場はいつもと変わらない。そのことが動揺を余計に助長させる。

「……一条先生、聞いてます?今日ずっとボーっとしてません?大丈夫ですか。」

「あ、すみません。大丈夫です。」

 いつから話しかけていたのか、病棟看護師が心配そうに顔を覗き込んでいる。何かを聞かれていたらしいが、美月の耳にはなにも届いていなかった。仕事に影響してしまっている事に自身に情けなさを感じると同時に、夏樹に鬱念とした気持ちが溢れてくる。

 勤務終了後、昨日買えなかったカップラーメンを買いにスーパーへ向かう。その途中に夏樹らしき影がマンションに入っていこうとしているところを目にしたため、駆け足でその影へ向かった。

「ねえ、昨日はどうもありがとう。」

 威勢よく言ったつもりだったが、振り返った夏樹の顔は呆れた表情と深いため息をついている。

「こんな時間からどこへ行くんですか。もしかして、昨日買えなかったカップラーメンを買いに行く……とか言わないですよね。それなら……今日もここで食べていきませんか。」

 返事こそしていないが、それが返事みたいなものだと言うように夏樹は大きくため息をついている。腕をつかまれ、半場強制的にまた自宅へ上がる。部屋は昨日と何一つ変わっていなかった。昨日と同じカウンターに座り、なんとなくカゴの中に入ったイチゴを手に取って一つ口にした。

「インスタントだけの食生活なんて、いつか身体を壊してしまいますよ。それにあの部屋も……。自分の身体をもっと大事にしてください。」

  夏樹がキッチンで独り言のように話しながら、美月の前に湯気の立ったポトフが置かれる。

「……いただきます。」

 それは何年前のあの日に食べたスープのような優しさを感じる温かさだった。

「仕事終わって帰ったら寝るだけだから、栄養なんていらないでしょ。私生活なんて他人に見せる訳じゃないんだから、ペットが幸せに暮らせる部屋ならそれでいいじゃない。人間なんてこれくらいのつまらない生活をしているもんなのよ。カップラーメンも時間と手間を考えたときのコスパ。丁度いいでしょ。」

 なぜか知り合って間もない男性に、自身が奥底で考えている事をそのまま口にしていた。言葉にした後、自分自身が何を考えているか分からなくなる。『ここで考えても答えは出ないな』と一度考える事を諦め、無心で目の前に置かれたポトフを食べることにした。 夏樹は前髪をくしゃくしゃにしながら大きく溜息をついている。

「一条さん、あなた見てられません。これからご飯はここで食べていきませんか。一人も二人も作る手間なんて同じなんだから遠慮はいらないです。」

 キッチンで仁王立ちをしながら、反論の余地も与えない勢いと姿勢で話す。

「えっと……分かったわ。」

 その空気に口を出せる空気ではなく、仕方なくそう言葉にした。

 夏樹はオールバックになるのではないかと考えてしまうくらい、また前髪をくしゃくしゃにする。

『どうして他人をここまで心配してくれるのだろう』

 ふと夏樹の心理を考えてみる。しかし自分も患者に対しては同じようなものだと納得をし、なぜか頬が緩んでしまう。そんな美月を夏樹は怪訝そうに見ている。

「何も笑い事じゃないです。」

 そう言いながら大きくため息をつき、また呆れたように天井を見上げた。

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