第一章 あの日見た景色を
第一章 あの日見た景色を
雨が降り注ぐ夜、一条美月は日本行きの便を待っていた。
「はあ、もうやってられない。」
大きなため息と独り言が宙を舞う。医師になって五年目。 幼少期から躓きのない人生を歩んできた美月にとって、今回の出来事は後にも先にも、人生最大の出来事になるのであろう。ストレートで医師免許を取得し、研修医終了後、大学病院で三年間勤務。自身の飛躍を求めてオーストラリアへ転勤し、約二年。日本からの派遣医師としてこれからもその名を轟かせていけると考えていた。しかし現在数日前に退職し、空港にいる。この鬱憤をどこかに発散しようと数秒前に購入したホットのブラックコーヒーを喉に流し込む。
「あっつ……。」
焼けた喉に今は爽快感をも感じてしまう。
『日本行き 一九時三十分発 五十三便はただいまよりご案内いたします。』
誰の思いにも寄り添うこともないようなアナウンスが耳に入ってくる。その声になぜか気持ちが落ち着くような気がした。
「まさか……こんなにも早く戻ることになるなんてね。」
空になった紙コップと自身の医療への想いを捨て、『A-17』と書かれたチケット一枚を持ち、搭乗ゲートまで足を進める。
『シャラン』
この先この国に入国することはもうないのだろう。搭乗口までの道のりは明るく、大きな窓には分厚い雲から微かに月が顔をのぞかせている。
「もう振り返らない。」
心の中で決めたことをあえて口にしてみた。口に出し、その声が耳に届く事で何かを納得させたかったのかもしれない。
エントリー・ドアに足を踏み入れると、空気が大きく変わる。
「……現実なのよね。」
閉鎖した生暖かい空気を吸いながら歩き続けた。
「このままいっそどこか誰も知らないところへ飛んで行ってくれないかな。」
いつもは考えない事でさえ、今日は口に出てしまう。一本しかない道に人の波が押し寄せ、その波に流されるがまま足を進めていく。『自身の進む道も一本であればいいのに』といつもは考えないことでさえ考えてしまう。
席までの道のりはいつもより長く、紙に記載してある指定された窓側の席に座った。
「私がエコノミーに座るなんてどうかしてる。」
隣の席はまだ空席だったが、一人分の席の狭さに心の中で悪態を吐く。『もう少し早めに席を取ればよかった』だったり『便を変えればよかった』などと考えても自身がこの便を取っていないから、どうしようもない。その事を理解しているにもかかわらず、ついつい考えてしまう。
「お隣失礼します。」
突然右上から礼儀の良い声がかかる。自身が座っているからか、いつもより頭上から声が降ってくるような気がした。声のした方へ目を向けてみると、高身長の男性が小さくお辞儀をしている。
「……どうぞ。」
男性はまた小さく会釈をし、隣に座る。長く綺麗な黒髪が編み込まれており、動くたびに揺れるのが印象的だった。
お互いが少し遠慮をしなければならない距離の近さに小さくため息をつきながら、窓の方へ視線を向ける。月明りが届いていないからか、窓からの景色は夜の暗さだけでなく翼でも覆いつくされており、まるで自身の心を表しているようだった。
『ペラ』
何も変化のない窓をぼんやり眺めていると、横から紙をめくる音が聞こえた。視線を向けると、隣の男性がどこかで見覚えのあるページを開いている。読了している参考書を想起していると、医学生の時代に愛読していた『誰でもわかる解剖学』だいうことを思い出した。
「ああ、私もこんな頃があったな。」
自身の記憶に嫌気が差す。視界が曖昧になっていくのを感じながら美月は記憶の中に沈んでいった。
小さい頃から夢中になれる趣味というものがなかった。今は思い出せやしないが、自身にも幼稚園児や小学生の頃には、人並みに将来の夢があったのだろう。しかし現在思い出せる限りの学生生活は夢に向かってなどではなく、ただただ趣味として勉強をしている記憶しかなかった。
『美月さんは将来、みんなを助けるお医者さんになれるわね。』
学生時代の担任の先生にはよくそう言われていた。それが単純に嬉しかったのを覚えている。そして自身もいつの間にか『私は医者になるんだ』と考えるようになっていた。
勉強しかない美月の人生にも、クラスメイトや周りとの関わりは人並みにあったと思う。しかしなぜか学生時代から一人で行動することが多かった。勉強しかしていない人生に少し退屈さをも感じていたが、退屈を埋める方法もまた勉強だった。『解けない問題が解けるようになる』、『新しい知識が増えていく』それに胸が躍った。それは今になっても同じことなのだろう。『医療業界は一生勉強』と言われているように新薬の開発や新しい治療方法など、医療技術は日々進歩している。毎日のように新しい論文が発表され、患者や患者家族の方が最新の医療情報を知っていたりすることもあるくらいだった。人生で初めての机に向かうことが出来なかった数日は終業後、何をすればいいか分からなかった。そのとき改めて美月は独りなのだと実感をしたような気がしたのだった。
そうして数日が経った今、なにも考えることが出来ないまま、ここにいる。今までの記憶とこれからの不安から自身を塞ぐように目を瞑った。
目が覚めると二時間が経とうとしていた。どれだけ鬱憤が溜まっていようが人間はいつでも眠ることができることについ頬が緩む。再度目を瞑ろうか考えていると隣からまた、紙をめくる音がした。視界が曖昧な中、ぼんやりと音のする方へ目を移すと先ほどのページから一ページしか進んでいない。思考をぐるぐると巡らせながらまた昔の自分を思い出し、驚きと不快感で視界が徐々にはっきりしてくる。
『ペラ』
男性は美月の視線に気が付いていないのかまたページが戻り、美月が寝る前のページを見ながら眉間にしわを寄せ、こめかみに左手を添えている。
「ねえ、どこが分からないの。」
考える前にいつの間にか声を発していたことに、自分自身が一番驚いた。ここ数日看護師や同僚から必要事項以外声を掛けられず、自身からも話しかける事ができなくなっていた。しかし今、数時間前に隣に座っただけの知らない男性に自ら声を掛けている。
「え…?えっと……実は、ここが分からなくて…。」
そんな美月の気持ちなど知らず、男性は目を丸くさせながら驚きが混じった声でページの隅にあるコラムを指差した。
「ここって…。」
その箇所は医学生時代の美月も一番理解に苦労した部分であった。男性にコラム内容の説明をしながら横顔を盗み見てみる。かなり整った顔をしているが医者を目指している雰囲気ではなさそうだとなぜか感じる。医者以外でなぜここまで解剖について勉強をする必要があるのか単純に気になった。ここ数日必要最低限の会話しかしていなかったため、言葉が上手く出てこない。しかしあと何時間も引っかかったままの方が嫌だった。
「ねえ……、どうしてこんな細かい部分まで勉強しているの?医療関係の仕事を目指している……とか……?」
コラムの解説を脳内で考えていたのだろう、突然のプライベートな質問に驚いたのか、先程まで文字の上を走っていた視線が急に美月の顔に移る。見開いた目と視線が合う。誰かと視線が合ったのは久しぶりだった。しかし男性はすぐに視線を外し、コラムに目を落とす。居心地の悪さが二人の空間を纏っていく。
『ああ、やっぱり私は周りの人と話せないんだ』
この男性とは関係ないはずなのにその思考に引っ張られていく。思考に囚われていかないように窓の外を何となく眺めていると後ろから小さく咳払いが聞こえる。それは何かの合図かのようだった。恐る恐る振り返ると、目の前の男性は落ち着かないのか視線を泳がせている。
「すみません、少し考えていました。僕、納棺師になりたくて。今勉強中なんです。」
小さな声で眉を下げ、ふわっと笑いながらそれだけ言葉にした。笑った男性の表情からはなぜか後悔なのか、慈しみなのか、何かがあるように感じられた。数カ月前の美月であれば、迷う余地なく話を広げていただろう。しかし今回の出来事で『人とは関わりすぎない』と決め、全てをあの国に捨てたのだと自身に言い聞かせる。
「……そうなの、頑張って。」
少し考えた後、そう一言だけ答える。二人はまた居心地の悪い沈黙のあと、先程の会話など何もなかったかのようにそれぞれ視線を移した。
空港に着くとまた雨が降っていた。最低限の荷物とは言っても約二年分の荷物はどう頑張っても多く、濡れる事に覚悟を決めて外に踏み出す。まだ少し肌寒い朝の冷たい空気が鼻と服の間を通り抜けた。
「そういえば日本は梅雨だっけ。」
冷たい空気のはずなのにどこか湿気た空気が跳ねた水滴と共にまとわりついていく。飛び越えられそうな大きさの水溜まりにふと立ち止まる。ビニールとアルミニウムに守られた自分が、ぼやけながら反射している。そんな大したことのない事が目に留まってしまう。この揺れ動く水面が自身の気持ちを描いているような気さえしてしまった。
「やってられないわ。」
水溜まりに映る自分を思いきり踏みつけ、何事もなかったかのように歩き出した。
自身の半分の大きさはあるスーツケース、湿度の高い空気、そんな現実に耐えきれず周辺のホテルを調べ、上から電話をかけていく。電話越しのホテルマンは当たり前に事情を知らない。しかし、愛想よく事務的に予約を受けてくれる対応が心に染みていく。奥から走ってくる『空車』と点灯しているタクシーに手を上げ、電話した言いなれないホテル名を伝えた。どこにでもあるビジネスホテルにチェックインし、渡されたカードキーに印字された部屋の階まで上がる。部屋のドアを開け、カードキーから傘まで手に持っていた全ての荷物を床に投げ捨ててベッドに倒れこむ。突然数日前のことを思い出す。
ーーーーーー
病院を退職する数日前、定時で帰ろうと部屋を出たところで名前を呼ばれる。久しぶりに聞いたその名前に疑心を抱きながら振り返った。
「ソフィー、どうしたの?ここではあまり話さない方が……。」
話し終わる前に左腕を引っ張られ、空き部屋へ入る。目が合ったその瞳は大きく揺れていた。
「美月、あなたは賢い。だから私はここに留まることはいけないと思う。私はここで美月と働いていたいわ。でもあなたはあなたの幸せな人生を歩んでほしいの。考えるのよ、あなたの頭で。同期の私に言われたってなにも響かないかもしれないけど、人生は長くない。」
それだけ言うと引き寄せられ、胸が苦しくなる。 離れた瞬間に見えたソフィーの頬は濡れていた。
更衣室へ帰ると紙袋が一つ吊り下げられている。帰宅し、開けてみるとレトルトのスープカップとメモ用紙が入っていた。
『なにか少しでも食べてね ソフィー』
あの言葉と手に持っている思いに涙があふれてくる。スープは涙と優しさしか感じられない温かさだった。
ーーーーーー
「これからどうすればいいんだろう。」
空虚な部屋へ投げかけてみる。声に出しても答えが返ってくるわけではない事は分かっている。しかし声に出さなければ今にも潰れてしまいそうだった。
「これをポジティブに変えなきゃ。」
スーツケースを開け、自身がパッキングしたとは思えない程、乱雑な荷物を床へすべて出す。散らばった荷物からノートパソコンを見つけ出し、転職サイトを検索してみる。何もわからず、一番上に出てきたホームページを開いた。名前や住所など基本情報を記入していき、次に職種や業界などの希望を入れるよう画面で促される。
『 』
医者以外を選択することだけは決まっている。しかし、学生時代から医師以外の道を考えてきたことがない美月にとって、他の仕事は検討がつかなかった。スクロールした画面内に例として出されている職種や業界などは聞いたことがあるものばかりであったが、どのような仕事か理解しているかと言われれば全てよく分からなかった。転職における必要なキーワードと言うものが頭の中に一欠片もないことに気付き、自身が無学であることに失望してしまう。
「やっぱり私って何もできなかったのね…。」
時間とスクロールのみが捗っていく。
『~♪』
荷物の中からかすかに電話の音が聞こえてくる。散らばった荷物から小さい電子機器を探し出すと、画面には見覚えのある上司の名前が表示されている。
「はい、なんですか。」
冷静に、沈着に、何も問題がないように声を出す。
「エコノミーはどうだった?」
いつも通りの声が電話越しに聞こえてくる。
「最悪でしたよ。」
美月もいつも通りの声色で返事をする。
「そうかそうかー、これも人生経験だなー。いや、それはどうでもいいってか……。一条、お前帰ってくるんだよな。」
ため息といつもより低い上司の声に言葉が詰まる。
「何言ってるんですか鬼塚さん。私はもう帰りませんよ。」
これが意地だと思われても仕方がないと考えながら、上司からの『信頼』の二文字しか見えてこない言葉たちを胸にしまう。
「あの上司がクソだったんだよ。あん時も言ったけど、お前の腕は医者の腕なんだから。」
現実逃避をするように『この人がそんな荒っぽい言葉を使うところなんて初めて聞いたな』と頭で考えながらも、信頼から生まれているのであろう鬼塚の言葉に捨ててきたはずの決断が揺れ動く。
「そんなこと言ってくださるなんて先輩らしくないですね。」
そんな状況ではないと分かっていながらもあえて鬼塚をからかってみる。
「はあ、一条が辞めるとかいうからだろう。」
鬼塚の呆れたような声に、心の中で後悔が見え隠れしているような気がした。
「もう決めた事なんで。むしろ、仕事紹介してくれませんか?」
その後悔が見えないように、軽口を叩くように、考えもしていない言葉を口に乗せる。
「あー……、俺の知り合いが一人探してた気がする。一条ならテレアポできるだろ。」
鬼塚の意外な言葉に『テレフォンアポインター とは』と片手間に検索する。パソコンの画面に映し出される経験したことのない仕事内容に漠然と不安を覚えた。しかし、どこまでも信頼を寄せてくれている鬼塚の言葉に自然と口角が上がっていく。
「なんだかんだで先輩って面倒見良いですね。ありがとうございます。」
「はあ。……知り合いに面接できるか連絡取ってみるよ。」
再度大きなため息が電話越しに聞こえた後、無機質な機械音が耳を通り抜けた。ベッドに倒れこむ。目の前には照明が煌々と輝いている。左手の先に微かに当たったスイッチを押すと光が弱弱しくなっていき、視界が暗闇に包まれた。視界がなくなった中、数分前の電話を思い出す。あんなことを口に出してしまった手前、医者を続ける選択肢が消えた現実にもう後悔はできない。
暗闇の中、いつの間にか美月は夢を見ていた。振り返れば岸は近くに見えるはずなのに、水平線も見えない暗い海を沖に向かって泳ぎ続けていた。
『ティロン』
突然耳に入ってきた音とバイブで目が覚める。かすんだ視界で右手に持ったままだった携帯の画面をみると先程電話していた上司からだった。
『明後日 九時 〇〇商社』
淡白な言葉の中に温かみを感じる。
「明後日か……。いいのよね、これで。」
その時なぜかあの納棺師を目指す男性が頭に浮かんだ。その顔を記憶から捨て去るように頭の中を面接で話す言葉で埋め尽くしていく。言葉の波に飲み込まれるように、いつの間にかまた、眠りについていた。
ーーーーーー
陽の光で目が覚めた。自然に起きたのはいつぶりだろうか。今まで休日も勉強や仕事など、予定が詰まっていた美月にとって何もない日は新鮮な朝だった。ここ数日は何も予定はなかったが眠れない日が続いていたため、頭がすっきりしている。チェックアウトまでの時間をゆっくりと、丁寧に過ごしてみる。ホテルで朝食を簡単に済ませ、目的地もなく外に出る。ホテル周辺を歩いてみた。すれ違うスーツに身を包んだ人たちが同じ方向へ、同じ表情で歩いて行く。
「私もこの中の一人になるのかしら。」
騒然と胸騒ぎがした。自身のした選択に侵食していくように意思がなくなっていく。
「いや、医療職以外の仕事に就ける事に気持ちが高ぶっているだけよ。」
頭に言い聞かせ、ホテルの部屋へ帰る。テレビをつけると朝の情報番組が終わるようだった。
『今日のあなたの心が晴れて、いい日になりますように。』
その言葉と昨日の自分へ怒りを覚えながら、床に散乱した荷物をまとめていく。まとめながらこのふと二年という長いようで短い時間を振り返ってみた。言語も空気も、自身の考え方さえも大きく変えられてしまうようなこの先の世界への道。その世界へ道の思いを捨ててしまっても良いのだろうか。今頃になって考えが揺れ動いていく。
「いや、もう決めたのだから。」
荷物のみを抱えて部屋のドアを開ける。部屋の扉が閉まると同時に、背中から鍵がかかる音がした。そして現実へと歩き出す。
自宅までの帰り道は二年前よりもずっと長く感じた。
自宅の玄関を開けると二年分の埃と空気が溜まっていた。荷物を玄関に置き、部屋に一つしかない窓を全開にする。数歩でたどり着いてしまうくらい狭いワンルームの玄関の扉を開けた。その瞬間、窓からゆっくりと入ってくる生暖かく湿った空気が、止まっていたワンルームの時間と共に外へ逃げていく。今日は午後から雨が降るらしい。
「そういえば……こんな部屋だったわね。」
自身で借りていた部屋のはずなのに、なぜか知らない人の部屋のような気がした。記憶を頼りに部屋の掃除をしていく。手と足を無心で動かそうとするも、何度も自身の今後について考えてしまう。
現在三十一歳。『医者になる』と誓った心を数年間住んだ土地に置きざりにし、自身の保身のためだけに日本へ逃げてきてしまった。上司のアドバイスがあったとは言え、そこにどうしても心残りは残ってしまう。しかしあの土地で、あの職場であのまま医者を続けていても、おそらく自暴自棄になっていただろう。
「私はなにがしたいんだろう。」
自問自答をしようとしてみた。しかし、答えはいつまで経っても浮かんでこない。ただただ時間と部屋が綺麗になっていくばかりだった。なんとなく窓の外へ視線を移すと雨がしとしと降り始めている。まるで自身の考えが雨と共に土の中へと流され、沈んでいくようだった。
「あの人は夢をいつまで追いかけるのだろう……。私は、このまま諦めてしまってもいいの?」
ふとなぜか、あの三つ編みの男性を思い出した。あの綺麗な三つ編みで自身を答えへと導いてくれるかのような気がしたのだろうか。
「ふっ……私は何を考えているんだか。」
そんな勝手な夢物語を考えてしまう自分が馬鹿らしくなった。
ワンルームの狭い部屋の掃除はあっという間に終了し、時間を持て余す。日はいつの間にかすっかり落ちていた。
「明日に備えて眠っておこう。」
少し埃っぽさが残る布団をあえて頭からかぶり、強く目を瞑った。
ーーーーーー
スーツに袖を通し、玄関を開ける。よく晴れた日だ。『転職活動に不安はつきもの』と言われているが、転職先よりも医療職以外の道に進むことへの不安の方が大きいのではないかと感じてしまう。あまり履きなれていないパンプスが踵の上と心を刺激する。
「この靴にも慣れるのかしら。」
不安を無理やり緩和させるようにくだらない事を考えていると、いつの間にか面接予定の会社の前に着いていた。
「ここ……か……。」
今までの職場の規模が大きかったからか、建物が小さく感じる。どことなく心が落ち着いていった。自動ドアが開き、冷房と他人に対する冷たい空気に押される。オーストラリアでの冷たい視線を思い出す。
「すみません。本日面接予定の一条美月なのですが……。」
正面に座っている受付嬢なのであろう人に声を掛ける。
「少々お待ちください。」
愛想よく受け答えをした彼女はどこかに電話をかけ、左後ろにあるソファーで待つよう促された。後ろの大きいガラス張りから日差しが当たり、首元がジリジリと焦げていくような気がする。
「やあ。きみが一条さん……かな?鬼塚から聞いているよ。少し奥で話をしようか。」
どこか鬼塚に似た雰囲気のある骨格の良い男性が舐めるように見ながら取り繕ったような笑顔を向けて近づいてくる。
「一条美月と申します。この度は突然申し訳ありません。本日はどうぞよろしくお願いします。」
その言葉に男性はどこか訝しげに顎で奥を指しながら『ついてこい』と言うように奥の部屋へと消えていった。
部屋に入るとそこは会議室のようだった。部屋の端には机と椅子が綺麗に片づけられており、部屋の中央には長机と机を挟んで対面するように椅子が二つ準備されていた。男性は既に奥に座っており、美月も手前に座る。
「よろしくお願いします。」
無言の空気に圧倒されながらも一言言葉を添えた。その言葉を口にした数秒後、目の前の男性が急に吹き出す。
「ははは、すまない。鬼塚から『医者をボイコットしたやつがこの会社に入りたいと言っている。最短の日付で面接をしてくれ。性格は……お楽しみだ。』とか言うもんだから、どんな奴がきたのか思ってね。先程の態度は本当にすまない。ちょっときみを試しただけだよ。じゃあ少し面接……いや、話をしようか。」
先程の雰囲気とは打って変わったような満面の笑みで話している。その言葉に胸をなでおろしながらも少し気をとがめた。
「よろしくお願いします。ただ……医者をボイコット、と言うよりは実質解雇をされたのは事実です。」
段々と声が小さくなりながらも素直に告げる。
「……そうなのか。理由を聞いてもいいかな。」
前職の退職理由を話しながらその後も少し雑談を挟みながら、会話という名の面接が進んでいった。
「……それで一条さん。いつから働ける?」
選考もなく会話の続きのように目の前から言葉が発さられる。
「え?あ、明日からでも働けます。」
「じゃあ明日からよろしく。また明日受付に声かけて。」
そう言って席を立ち、小さな声で鼻歌を歌いながら会議室から出ていった。美月も会議室を閉め、明日から働くビルを後にする。ビルの隙間から傾いた太陽が顔をのぞかせていた。医療職以外の仕事であることに不安を覚えながらも、少し晴れやかな気持ちになりながら帰路へ着いた。
ーーーーーー
月日が過ぎ、十月。この日デザインのテレフォンアポインターとして、新規顧客と取引を行っていた。
「このようなホームページのデザインはいかかでしょうか。」
「うーん、そうだな。悪くはないんだけど……。」
相手の歯切れの悪さに心の中で舌打ちをする。
「では、どのような物がお好みでしょうか。」
「うーん。あ、最近こんなデザインのホームページの作り方をしている事業もあるみたいなんですよ。この会社でも行ってみたらどうですか。」
自身の流れに乗らず、さらに客からの提案に美月はさらに不愉快になる。
『客はそっちじゃない。どうしてあなたから提案されなきゃいけないの。』
脳内で悪態をつきながら客から提案されたホームページを開く。画面が視界に入った瞬間、目を離すことが出来ず、言葉を失った。
どのくらいの時間が経っていたのだろう。
「あの……大丈夫ですか?」
電話越しの心配する声が耳に届き、現実に意識を取り戻す。
「ああ、すみません。我々の会社ではこのようなデザインは現在行っておりません。また何かありましたらご連絡ください。では、失礼いたします。」
電話越しに焦ったような声が聞こえたような気がしたが、美月は早々に受話器を置いた。身体ごと目の前の画面に吸い寄せられそうな気がした。そこには『〇〇転職集!』のホームページが掲載されており、見覚えのある顔がインタビューされている。
『前職はブライダルサロンでメイクアップアーティストを担当していたと聞きましたが、なぜ納棺師という職業に?』
『恩人が亡くなったことがきっかけでこの職業に出会い、興味を持ったため勉強を始めたんです。でも当然なんですけど、医療の勉強って中々難しくて少し詰まっていたんです。そんな時に前職の都合で海外に行く機会があって、たまたま乗り合わせて隣に座った医師?の方に丁寧に勉強を少し教示して頂いたんです。それが僕にとってはこの夢を追う事を応援されているような気がして。その出来事が追い風にもなって、この四月から働き始めることになりました。』
『いつか、そのその方とまた出会えるといいですね。』
『そうですね。この職業を始めてから医師の方とも関わりが多くあることが分かったので、いつかお会いできればと思っております。』
翼と暗闇で覆いつくされた無機質な窓が鮮明に蘇ってくる。その情景とともに目の前に羅列された文字を呆然と見つめる事しかできなかった。
「相良夏樹……。二十二歳……。」
初めて見た名前とその若さに対して、今の自分が唐突に恥ずかしくなった。
「私は……なにをしてるの?」
おもむろに席を立ち、上司が座っているデスクへと足早に歩を進める。
「大変申し訳ありませんが、今日限りでここを辞めさせてください。」
突然そう言い放たれた上司は、目を丸くしてこの状況が掴めていない様子だった。それもそのはず、美月は少し高圧的な部分もあるが顧客からの信頼は厚く、売り上げも悪くない。今後伸びるだろうと誰もが期待をしていた逸材であった。
「ま、待ってくれ一条さん。どういうことだい⁉」
正面に座っている上司はお気に入りだと言っていたペンの先が紙から離れていない事実をも理解できないくらい混乱しているようだった。白い紙に青色が広がっていく。
「すみません。」
しかし美月の意思は固く、謝る事しか出来なかった。
上司に再度一礼をし、数秒前歩いた道を引き返す。周囲の視線を感じながら淡々と荷物をまとめていく。しかしここで動かなければ一生後悔するだろうと確信だけはしていた。
「突然の事ですみません。このご恩は一生忘れないと思います。本当にありがとうございました。」
荷物を抱え、ドアの前で深く一礼する。視線は交わっているはずなのに沈黙が流れる。空気清浄機の音だけがいやに響く。再度軽く一礼し、ドアを開けた。大きく聞こえる鍵の開錠音と手に伝わった振動がなぜかスターターピストルのような気がした。
「取り戻さなきゃ。」
急いでも何も変わらない事を頭では理解しているのに、足の回転が速くなっていく。パンプスのヒール音が周りのビルに大きく反響する。そしてそのままの勢いで、三年前まで勤めていた大学病院へと向かった。
人の匂いと消毒液の匂いが混ざったような特有の香りに苦笑をもらす。見覚えのある階段を上り、心の中で謝りながら『関係者以外立ち入り禁止』のドアを開ける。白い無機質な壁・ドアが何も置かれていない殺風景な廊下に連なっている。それはこれまでのことに対してもこれから起こるであろうことに対しても無関心で、そもそも興味を示していないような気がして、少し安心を覚えた。
『この時間はここに一人でいるだろう』という勝手な憶測の元、手前から三つ目のドアを大きく開ける。やはりそこには今でも慕っているあの顔があった。
「鬼塚さん、ごめんなさい。ただいま。」
鬼塚は以前一緒に働いていた時と同じように椅子に掛け、窓に背を向けて山積みになった書類の中央に座っていた。自身の声に動きが止まり、顔を上げ視線が合う。その顔は今までに見たことのない表情だった。息をすることを忘れていたのか数秒後、鬼塚は大きな深呼吸を一息する。
「そんな大荷物を抱えてどうしたんだ、きみらしくない。」
余裕そうな発言とは裏腹に顔からは動揺の二文字が見え隠れしている。美月はこれまでの経緯をすべて話した。全てを聞き終えた鬼塚はただ眉間にしわを寄せていた。張り詰めた無音の空気が部屋を埋めていく。
「……少し待ってろよ。」
そう静かに言って立ち上がり、美月の肩を叩いて先程開け放ったドアから部屋を出て行った。立ち去ると同時に甘くどこかさっぱりとした香りが鼻を抜ける。ドアが鈍い音を立てながらゆっくりと閉じていく。部屋を見渡すも、花瓶に生けられた花以外は三年前と何も変わっていない。
「このオレンジの百合の花……。」
机の上にはガラスの花瓶に入った鮮やかな一輪の百合が飾ってある。その百合の花びらに指を沿わせながら小さくため息をつく。先程まで鬼塚の座っていた席に腰掛け、外を眺めてみた。
「また戻ってくることになるなんて……。」
三年前に毎日見ていた風景。暗闇の中微かに光る月が雨粒を照らしていたあの日、二度と戻らないと決心していた世界。それがあのインタビュー記事を見ただけで自ら戻ろうとしている自分自身に言葉を失う事しか出来なかった。
あれから何時間経っただろうか。
『バタンッ』
目の前のドアが勢いよく、そして大きく開けられた。ドアの先にあるその顔は先程とは裏腹にこれからの未来に期待しか抱いていない顔だった。
「さあ、いつから働ける?」
美月にもう迷いはない。鬼塚のその言葉を待っていたかのように美月は椅子の背にかかっている白衣を羽織り、開かれたドアへと大きく歩き出した。
初めまして、柊向とあと申します。
まずは『水無月』を手に取って頂き、誠にありがとうございます。第一章の終わりのように、ここから美月の人生は始まっていくのでしょうか。てかまだ夏樹とも出会っていないですね。笑 夏樹はとてもビジュの良いお顔設定なので、一度見ただけの美月も忘れなかったのでしょう。良いですよね、長髪三つ編み、ビジュの良いお顔。
一先ず二人の出会いや物語をこれからあなたと共に歩むことができたら嬉しいです。




