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悪役令嬢ですが、もう台本通りに生きません ~私の恋人はヒロインです~

作者: 風谷 華
掲載日:2026/02/09

ざまぁなし・じっくり型の悪役令嬢ものです。

恋愛・友情・自立をテーマに書いています。

よろしくお願いします。

 この世界が、小説の中だと気づいたのは――

 七歳の春だった。


 熱を出して三日三晩うなされて、目を覚ましたとき。

 私は突然、“思い出して”しまった。


 ――ああ。

 ここ、知ってる。


 私は、日本で暮らしていた女子高生だった。

 放課後に本屋へ寄って、帰りの電車でライトノベルを読む、ごく普通の女の子。


 その中で、一番好きだった作品。


『蒼き王子と運命の乙女』


 何度も読み返した、大好きな物語。


 そして今の私は――


 その物語に出てくる、“悪役令嬢”

 サリ・エヴァンスだった。


(……笑えないよね)


 最初は、怖くて泣いた。


 だって私は知っている。


 この先、私は――


 婚約を破棄され、

 皆の前で断罪され、

 領地に追いやられて、

 物語から退場する。


 そういう役だから。


 でも、不思議なことに。


 時間が経つにつれて、私は思うようになった。


(……それでもいいか)


 だって。


 この世界で私は、

 夢みたいな時間をもらったから。


---


「サリ、寒くないか?」


 マントを肩にかけられて、私ははっとする。


「ありがとう、キール」


 自然に笑って、そう答える。


 キール・アルベルト。


 この物語の王子様で、

 ヒロインを愛し、国を導く存在。


 ――そして、私の婚約者。


 彼は、昔から私を溺愛していた。


 理由なんてない。

 ただ、ずっと。


「無理するな。お前はすぐ我慢する」


「してないよ」


「してる」


 即答。


 その優しさに、何度も胸が苦しくなった。


(……こんなに大切にしてくれるのに)


(私は、最後に捨てられる役なのに)


 でも、私は知っている。


 キールは悪くない。


 彼は、ヒロインを愛する運命なのだ。


 ナタリアを。


---


「サリ!」


 駆け寄ってくる足音。


 私は振り向いて、思わず笑った。


「ナタリア」


 桃色のドレスを揺らして現れた彼女は、

 いつも通り、太陽みたいだった。


 ナタリア・ローズ。


 物語のヒロイン。


 小説では、もっと後で登場する設定だった。

 私と親しくなる描写なんて、なかった。


 ――でも、現実は違った。


 幼い頃のお茶会で出会って。


『ねえ、あなた一人? 一緒にいようよ!』


 そう言って、迷いなく手を取ってくれた。


 それが始まりだった。


 ナタリアは、本当にいい子だった。


 優しくて、努力家で、

 誰かの悪口を言わなくて、

 泣いている人を放っておけない。


(……そりゃ、キールも好きになるよね)


 私は、心からそう思っていた。


 二人が結ばれるのは、当然だ。


 物語通り。


 私の大好きな小説通り。


---


 だから。


 ここ半年――


 キールとナタリアが、一緒にいることが増えても。


 私は、何も言わなかった。


 むしろ、距離を取った。


 誘われても、理由をつけて断った。


 廊下ですれ違えば、先に折れた。


(……これでいい)


(私は、退場する役)


(邪魔しちゃいけない)


 陰から見守れれば、それでいい。


 大好きな二人が、幸せになるなら。


---

 


 その夜会は、最初から落ち着かなかった。


 音楽は軽やかで、

 料理は豪華で、

 貴族たちは楽しげに笑っている。


 ――それなのに。


 サリの胸の奥だけが、ずっと冷えていた。


(……今日だ)


 理由はない。

 根拠もない。


 でも、わかってしまう。


 この夜が、

 私の“終わり”になることを。


---


「お嬢様……」


 隣で侍女のミアが、不安そうに袖を引く。


「顔色、よくありません」


「平気だよ」


 微笑んで答える。


 嘘ではなかった。


 私は、もう覚悟している。


 この世界で生きると決めたときから。


---


 やがて、音楽が止んだ。


 ざわめきが、少しずつ静まっていく。


 王城中央の階段に、ひときわ目立つ影が立つ。


 キール・アルベルト。


 王太子。


 ――私の、婚約者。


 胸がきゅっと締めつけられる。


(……キール)


 昔なら、ここで必ず目が合った。


 小さく笑って、

 安心させてくれた。


 でも今日は。


 視線が、交わらない。


 最初から、私を見ていない。


---


「……皆に集まってもらったのは」


 キールの声は、よく通っていた。


 澄んでいて、落ち着いていて、

 非の打ち所がない。


 あまりにも、完璧で。


「重要な決定を、伝えるためだ」


 会場の空気が、ぴんと張りつめる。


 誰かが、息を呑んだ。


 サリは、ただ静かに立っていた。


---


「私は――」


 一拍。


 ほんの短い間。


 それだけで、胸がざわつく。


「サリ・エヴァンスとの婚約を、破棄する」


 言葉は、迷いなく落ちた。


 はっきりと。

 正確に。

 冷静に。


 まるで、何度も練習したみたいに。


 次の瞬間、会場が騒然となる。


「え……?」


「まさか……」


「どういう……」


 無数の視線が、私に集まる。


 でも、私は動かなかった。


(……やっぱり)


 心の中で、そっと呟く。


 思っていた通り。


---


「理由は明白だ」


 キールは続ける。


「サリ・エヴァンスは――」


 淡々と。


「ナタリア・ローズに対する不適切な態度」


「王家への不忠」


「王太子妃としての資質の欠如」


 並べられる言葉は、どれも聞き覚えがある。


 どこかで読んだことのあるような。


 誰かが用意したような。


 全部、私の知らない私だった。


---


 視線を、ナタリアに向ける。


 彼女は、青ざめていた。


 唇を噛みしめ、

 目には涙が浮かんでいる。


 なのに――


 足は、一歩も動かない。


「……サリ……」


 小さく、名前を呼ぶ。


 でも、それだけだった。


 助けに来ない。

 声を上げない。


 ただ、立ち尽くしている。


 私は、ゆっくりと目を伏せた。


(……大丈夫)


(わかってる)


 あなたは、悪くない。


---


「以上の理由により」


 キールは言う。


「サリ・エヴァンスを、エヴァンス領へ送還」


「王城への出入りを禁ずる」


「事実上の幽閉とする」


 言葉が、胸に落ちる。


 思っていたより、静かに。


 ……永久、とは言われなかった。


 それだけが、少しだけ救いだった。


---


「異議はあるか」


 問いかけ。


 沈黙。


 誰も、何も言わない。


 誰も、私を見ない。


 これが、この世界。


 これが、私の立場。


 サリは、一歩前に出た。


 ざわめきが走る。


「サリ様……!」


 ミアの声が震える。


 私は、彼女に微笑んだ。


 大丈夫。


 泣かないで。


---


「……異議はありません」


 はっきりと言う。


 声は、意外なほど落ち着いていた。


「王太子殿下のご決定に、従います」


 会場が、静まり返る。


 誰も予想していなかった反応だったのだろう。


 キールの目が、わずかに揺れた。


 一瞬だけ。


 すぐに、元に戻った。


---


 衛兵が近づいてくる。


 その間。


 キールは、最後まで私を見なかった。


 視線は、少しだけずれていた。


 どこを見ているのか、わからない。


 見ないようにしているのか。

 見えなくなっているのか。


 ……わからない。


---


 連れ出される直前。


 私は、そっと振り返った。


 ナタリアと、目が合う。


 彼女は泣いていた。


 声もなく。


 私は、小さく微笑んだ。


 大丈夫。


 私は、ちゃんと生きる。


 あなたたちの未来を、壊さない。


---


 分厚い豪奢な扉が閉まった。


 夜会の光が、音もなく遮られた。


 廊下は、ひどく静かだった。


 靴音だけが、やけに響く。


 サリは、しばらく俯いたまま歩いていた。


 ……涙は、出なかった。


 泣くより先に、考えてしまったから。


(……これで)


(物語は、私抜きで進んでいく)


 “悪役令嬢サリ・エヴァンス”は退場した。


 これからは――


 キールと、ナタリア。


 二人が主役の物語。


(……うん)


(それで、いい)


 本当は、胸が痛い。


 本当は、離れたくない。


 それでも。


 私は知っている。


 この先に起こることを。


 サリがいなくなった世界で――


 少しずつ歯車が狂い、

 備えが失われ、

 支える人がいなくなり、

 やがて訪れる、飢饉と混乱。


 小説の中では、そうだった。


(……そんな未来、絶対に嫌だ)


 キールが苦しむ姿なんて、見たくない。

 ナタリアが泣く世界なんて、許せない。


 二人には――


 ずっと、笑っていてほしい。


 手を取り合って、

 穏やかな日々を生きてほしい。


(だから……)


 サリは、ぎゅっと拳を握った。


(私が、守る)


(物語の外からでもいい)


(表舞台にいなくてもいい)


 悪役令嬢が消えたせいで、

 世界が壊れるなんて、そんな結末は認めない。


(ざまぁなんて、いらない)


(誰かが不幸になる話なんて、見たくない)


 私は、二人が幸せになる物語が好きだった。


 だから――


 その物語を、最後まで守る。


 たとえ、私の名前が消えても。


 たとえ、誰にも知られなくても。


 サリは、静かに前を向いた。


「……大丈夫」


 誰に向けた言葉でもなく、

 ただ、自分に言い聞かせるように。


「私がいるから」


 この世界が壊れないように。

 あの二人が、笑い続けられるように。


 私は、影になる。


 光のそばで、誰にも見えない影になる。


 それで、いい。


 それが――


 私の選んだ、生き方だから。


---


 馬車は、静かに王都を離れていった。


 石畳の音が、だんだん遠ざかる。


 城壁が見えなくなった頃、

 サリはようやく、小さく息を吐いた。


「……終わったんだ」


 婚約も、

 王城での生活も、

 キールの隣に立つ未来も。


 全部。


 馬車の窓いっぱいに、どこまでも続く青空が広がっていた。

 その澄んだ色が、胸の奥に溜まっていた重たい気持ちを、

 少しずつ溶かしていくような気がした。


---


 エヴァンス領は、王都から三日ほどの場所にある。


 豊かな土地。

 穏やかな人々。

 かつては“理想的な領地”と呼ばれていた。


 ――少なくとも、物語の中では。


(でも……)


 サリは、窓の外を見つめた。


 この先、この土地を含め、王国の土地はすべて荒れる。


 雨が降らなくなり、

 作物が育たず、

 人々は飢え、

 争いが起きる。


 私は、それを知っている。


---


 屋敷に着いたのは、夕方だった。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


 使用人たちは、変わらず頭を下げてくれる。


 その光景に、胸が少し痛んだ。


(……私、まだここにいていいのかな)


 “悪役令嬢”は、もう退場したはずなのに。


---


 自室に戻り、扉を閉める。


 誰もいない空間。


 静かすぎて、耳が痛い。


 サリは、ベッドに腰を下ろし、

 ゆっくりと天井を見上げた。


「……ねえ」


 ぽつりと、独り言がこぼれる。


「私、本当に……死んだのかな」


 答えは、ない。


 でも、何度も思い出している。


---


 ――日本という、こことは違う国。


 通学路。

 駅前の書店。

 放課後の寄り道。


 制服のまま、電車で読んでいたライトノベル。


『蒼き王子と運命の乙女』


 何度も読み返した、大好きな物語。


 そして、最後に覚えているのは――


 雨の日。

 白いヘッドライト。

 強い衝撃。


 そこから、記憶が途切れる。


(……やっぱり、事故だったのかな)


 考えないようにしてきた。


 考えたら、戻れない気がして。


 でも。


 ここまで来たら、もう逃げない。


 私は、たぶん――死んだ。


 そして、この世界に来た。


 物語の中に。


---


「……不思議だよね」


 死んだかもしれないのに。


 悲しいより先に、

 守りたいものができたなんて。


 キール。

 ナタリア。

 この国。


 全部、大好きだった物語の中の存在なのに。


 今は――現実だ。


---


 サリは、机の引き出しを開けた。


 中から、一冊の古いノートを取り出す。


 ――前世の記憶を取り戻してから、ずっと書き続けてきたもの。


 原作の内容。

 年表。

 事件。

 人物関係。


 そして。


 最後のページ。


『三年後、王都周辺で大飢饉』


『干ばつ+物流混乱』


『死者多数』


 震える指で、文字をなぞる。


(……ここ)


(ここが、一番ひどい)


 小説では、さらっと流されていた。


 背景描写の一行。


 でも現実になったら――地獄だ。


 キールは責任を背負い、

 ナタリアは心を壊し、

 国は弱る。


 私は、それを知っている。


 ただ一人。


---


「……だから」


 サリは、立ち上がった。


 窓を開ける。


 冷たい風が、頬を打つ。


「私は……逃げない」


 退場してもいい。

 表舞台に戻らなくていい。


 でも。


 何もしないまま消えるのは、嫌だ。


(私がいる意味があるなら)


(それは、ここだ)


---


 机に向かい、新しい紙を広げる。


 ペンを取る。


 書き始める。


『穀物備蓄量』


『倉庫の位置』


『農地の改良』


『水路の整備』


『人材』


 ひとつずつ。


 地味で、目立たなくて、

 誰も褒めない仕事。


 でも――


 これが、未来を変える。


---


 サリは、ふっと笑った。


「……私、ほんと変だよね」


 死んで、

 悪役になって、

 追放されて。


 それでも。


 誰かの幸せのために、生きようとしている。


 でも、いい。


 それでいい。


---


 夜。


 ベッドに横になりながら、目を閉じる。


 キールの顔。

 ナタリアの笑顔。


 胸が、きゅっと痛む。


(……大丈夫)


(私は、ちゃんとやる)


(だから、二人は幸せでいて)


 それだけでいい。


 それだけが、願い。


 サリは、静かに眠りについた。


 未来を変える覚悟を、胸に抱いたまま。


---


 春が終わり、初夏の風がエヴァンス領を吹き抜けていた。


 畑には若い麦が揺れ、

 川は澄み、

 村には穏やかな笑い声が響いている。


 一見すれば、平和そのもの。


 ――だからこそ、サリは胸の奥に、小さな不安を抱えていた。


(……この景色が、いつまでも続くわけじゃない)


 三年後。


 この土地は干ばつに襲われる。

 作物は育たず、倉庫は空になり、人々は飢える。


 私は、それを知っている。


---


「お嬢様、こちらが今年の収穫見込みです」


 執事のロバートが、帳簿を差し出す。


「ありがとう」


 サリは受け取り、静かに目を走らせた。


 降水量。

 土壌。

 作付け。


 細かい数字が、びっしり並んでいる。


(……まだ、余裕はある)


(でも、油断したら終わり)


---


「麦が多すぎるわね」


「え?」


「豆と芋を増やして。保存のきくものを中心に」


 ロバートは一瞬戸惑ったが、すぐに頷いた。


「承知しました」


 理由は聞かない。


 それが、どれほど救われることか。


---


 サリは、毎日のように村を歩いた。


 畑を見て、

 倉庫を回り、

 水路を確かめる。


 靴も裾も、すぐに泥だらけになる。


「お嬢様、こんなことまでなさらなくても……」


 農夫のマルクが苦笑する。


「必要なの」


 サリは、迷わず答えた。


「全部、未来のためだから」


 マルクは、少し照れたように頷いた。


---


 倉庫の補修。

 備蓄量の増加。

 乾燥庫の設置。

 保存食の試作。


 どれも地味で、目立たない仕事。


 誰も褒めない。

 誰も注目しない。


 でも、確実に積み重なっていく。


---


 夜。


 執務室で帳簿を閉じたとき、

 机の端に、一通の手紙が置かれているのに気づいた。


「……?」


 淡い花の封蝋。

 丸い文字。


 ナタリアだ。


 胸が、きゅっと締めつけられる。


 そっと、封を切った。


---


『サリへ』


『元気にしていますか?』


『私は……うん。元気です』


 そこまで読んで、指が止まった。


 文字が、少し滲んでいる。


 紙の端に、小さな跡。


 丸く、薄く、いくつも。


(……これ)


 涙の跡だった。


 胸が、ちくりと痛む。


(……うまく、いってないのかな)


 キールと。


 喧嘩したのかもしれない。

 すれ違っているのかもしれない。


 ナタリアは、そういうときほど、笑う子だ。


 一人で抱え込んで、泣いて。


 誰にも頼らない。


---


『領地のこと、頑張ってください』


『応援しています』


 短い文章。


 あまりにも短い。


 昔なら、何枚も書いてくれたのに。


(……ナタリア)


 サリは、そっと紙を胸に抱いた。


 会いに行きたい。

 話を聞きたい。

 抱きしめたい。


 でも――


 ゆっくりと首を振る。


(……大丈夫)


(あなたは、ヒロインだもの)


 物語の中心で、

 愛されて、幸せになる人。


 私の大好きだった物語は、そういう結末だった。


(だから……)


(きっと、大丈夫)


(幸せでいて)


 心から、そう願った。


---


 サリは、机に向かい、返事を書く。


 明るく。

 重くならないように。


『こちらは元気です』


『畑がきれいですよ』


『最近、星がよく見えます』


『また、お茶しましょうね』


 本当は、


「無理してない?」

「苦しくない?」

「一人で泣いてない?」


って書きたかった。


 でも、書かない。


 信じたいから。


---


 翌朝。


 サリは、また村へ出た。


 風は穏やかで、空は青い。


「……よし」


 小さく呟く。


 誰にも評価されなくてもいい。

 誰にも知られなくてもいい。


 私は、準備を続ける。


 キールのために。

 ナタリアのために。

 この国のために。


 そして――未来のために。


 悪役令嬢が消えても、

 物語が壊れないように。


 サリは、今日も静かに歩き出した。


---


 異変は、あまりにも静かに始まった。


 最初は、ただの噂だった。


「最近、麦の値が少し上がってきたらしい」


「南の方で、雨が少ないって聞いたぞ」


「商隊が遅れてるとか何とか……」


 酒場での世間話。

 市場の片隅での小声。


 誰も、本気にしていなかった。


 王都では、いつだって噂は流れる。

 そして、ほとんどは消えていく。


 今回も、そうだと思われていた。


---


 エヴァンス領に、乾いた風が吹き始めたのは、初夏の終わりだった。


 朝、窓を開けたとき。


 ひやりとした湿り気が、ない。


 代わりに、肌にまとわりつくような、乾いた空気。


 サリは、窓辺に立ったまま、空を見上げた。


 雲がない。


 どこまでも、青く澄んだ空。


 美しい――はずなのに。


(……嫌な青だ)


 胸の奥が、ざわつく。


---


 畑へ向かうと、異変はもっとはっきりしていた。


 土は、細かくひび割れている。


 葉は、どこか元気がない。


 本来なら、もっと瑞々しく育つはずの季節なのに。


「……来た」


 サリは、小さく呟いた。


 原作の記述。


『二年目の夏、異常乾燥』


 その一文が、頭に浮かぶ。


(しかも……早い)


 本来より、半年は早い。


 想定より、悪い。


---


「ロバート」


 屋敷に戻るなり、呼びかける。


「すぐに会議を」


「承知しました」


 執事は、何も聞かずに動いた。


 それが、この数年で築いた信頼だった。


---


 執務室。


 地図と帳簿が机いっぱいに広げられる。


「水量、前年比で二割減」


「南部は三割です」


「備蓄は……」


「現時点で、約八か月分」


 報告が次々に上がる。


 サリは、黙って聞きながら計算する。


 頭の中で、未来をなぞる。


(……いける)


(まだ、耐えられる)


 今なら。


---


「備蓄庫を開けて」


「第一倉庫から順に確認」


「乾燥庫の湿度を下げて」


「水路の点検を急いで」


 矢継ぎ早の指示。


 使用人たちは、迷わず走る。


「了解です!」


「すぐに動きます!」


 混乱は、ない。


 それだけ、準備してきた証だった。


---


 数日後。


 王都からの使者が、息を切らしてやってきた。


「……王都より、緊急連絡です」


 差し出された書簡。


 サリは、開いた瞬間に眉をひそめた。


『穀物流通の停滞』


『価格急騰』


『買い占め多発』


(……始まった)


 紙が、わずかに震える。


 原作通り。


 ここから、一気に崩れる。


---


 一方、王都。


 市場は、すでに地獄の入口だった。


「高すぎるだろ!」


「昨日は半分だったぞ!」


「もう残ってないのか!?」


 怒号。

 泣き声。

 押し合い。


 野菜売りの台は空になり、

 穀物袋は鎖で囲われている。


「やめろ! 押すな!」


「私の子どもが……!」


 人々は、余裕を失っていた。


 恐怖が、街を覆っていく。


---


 商人たちは倉庫を閉じ、

 貴族たちは私有地に物資を溜め込む。


 助け合いより、自己防衛。


 それが、混乱期の現実だった。


---


 王城。


 執務室の灯りは、深夜まで消えなかった。


 キールは、机に向かったまま、書類をめくり続けている。


 山のような報告書。


 苦情。

 要請。

 警告。


「……また、却下か」


 物資移送の申請書に、赤字で×がついている。


 理由は決まっている。


 予算。

 前例。

 権限。


 どれも正論。


 でも。


 人は、正論では生きられない。


---


「殿下……少し休まれては……」


 側近が、遠慮がちに言う。


「後でいい」


 キールは、顔を上げずに答えた。


 目の下には、濃い影。


 肩は、重そうに落ちている。


(……何かが足りない)


 ずっと、そう感じていた。


 でも、それが何なのか、わからない。


---


 ナタリアは、王城の小さな礼拝堂にいた。


 冷たい石床に膝をつき、

 両手を組む。


「……どうして……」


 声は、祈りにならない。


 最近、すべてが苦しい。


 期待。

 視線。

 責任。


 逃げ場がない。


(……サリ)


 無意識に、その名を思い浮かべる。


 会いたい。


 でも、会えない。


 理由は、わからない。


---


 エヴァンス領。


 サリは、倉庫の前に立っていた。


 分厚い扉が、並ぶ。


「備蓄状況は?」


「半年以上、余裕があります」


「……よし」


 胸の奥で、少しだけ安堵する。


---


「南部へ先行配給」


「老人と子ども優先」


「価格固定」


「転売禁止」


 淡々と、指示を出す。


 感情は、後回し。


 今は、動くとき。


---


 数週間後。


 王都は、さらに荒れていた。


 暴動。

 略奪。

 疫病。


 通りには、疲れ切った人々。


 新聞は、黒い文字で埋まる。


『市民の怒り爆発』


『王政への不信』


『混乱続く』


 サリは、静かに紙を畳んだ。


(……これが、本来の未来)


 でも。


 今回は、違う。


---


「王都へ、支援を送るわ」


 ロバートが、驚く。


「しかし……我が領地も……」


「足りる」


 きっぱり言う。


「全部、計算済み」


 迷いはなかった。


---


 数十台の荷馬車。


 街道を進む列。


 穀物袋が揺れ、

 車輪が軋む。


 すべて、サリが準備したもの。


 誰にも知られずに。


---


『エヴァンス領より支援到着』


 報告を読んだキールは、思わず顔を上げた。


「……エヴァンス……?」


 胸が、強く鳴る。


 理由は、わからない。


 ただ――


 懐かしくて、苦しい。


---


 夕暮れ。


 サリは、丘の上に立っていた。


 遠く、王都の方角。


 霞んで見える。


 風が、髪を揺らす。


(……間に合って)


(お願い)


 キール。

 ナタリア。


 どうか、生きて。


 どうか、笑って。


 私は、ここから支える。


 影のままで。


 名前のない場所から。


 それでいい。


 それが、私の選択。


---


 王都は、ようやく落ち着きを取り戻しつつあった。


 市場には、再び品物が並び始め、

 通りには、少しずつ笑顔が戻ってきている。


 それでも――


 人々の目には、まだ疲労が残っていた。


 飢えと混乱は、簡単には消えない。


---


 王城では、結婚式の準備が進められていた。


 王太子キールと、ナタリア・ローズ。


 国を救った象徴的な二人。


 民衆は、二人の結婚を“希望の証”として待ち望んでいた。


 花で飾られた回廊。

 磨き上げられた床。

 運び込まれる豪華な調度品。


 すべてが、祝福のために整えられていく。


 ……はずだった。


---


 キールは、鏡の前に立っていた。


 正装に身を包み、

 誰が見ても完璧な王太子。


 なのに。


 胸の奥は、ひどく空っぽだった。


(……おかしい)


 嬉しくない。


 結婚するというのに。


 国が安定したというのに。


 達成感も、喜びも、ない。


 ただ――


 重たい。


---


「殿下、準備はよろしいですか?」


 侍従の声。


「ああ……」


 返事は出る。


 勝手に。


 考える前に。


 口が動く。


(……今の……)


 自分の声なのに、遠く感じた。


---


 ナタリアも、控室でドレスを纏っていた。


 純白のレース。

 淡い光を受けて、輝いている。


 誰もが羨む花嫁姿。


 でも――


 鏡の中の自分は、笑っていなかった。


(……どうして……)


 胸が、苦しい。


 理由が、わからない。


 幸せなはずなのに。


 望まれているはずなのに。


 なのに、心がついてこない。


---


「ナタリア様、お美しいです」


 侍女たちが微笑む。


「……ありがとう」


 答えは、反射的。


 心が伴っていない。


---


 式の前夜。


 王城は、静まり返っていた。


 灯りの消えた廊下。


 遠くで鳴る時計の音。


 キールは、一人、書庫にいた。


 無意識に足が向いた場所。


(……昔、よく来たな)


 三人で。


 サリと。

 ナタリアと。


 勉強を抜け出して、怒られて。


 笑って。


 ――楽しかった。


 その記憶が、胸を刺す。


---


「……サリ」


 ぽつりと、名前がこぼれた。


 その瞬間。


 頭が、ぐらりと揺れた。


「っ……!」


 視界が、歪む。


 耳鳴り。


 息が詰まる。


(……なんだ……これ……)


---


 ナタリアも、同じ夜。


 自室で、一通の古い手紙を取り出していた。


 サリからの、最初の手紙。


 幼い文字。


『ずっと友達だよ』


 その言葉を見た瞬間。


 胸が、締めつけられる。


「……サリ……」


 涙が、溢れた。


 理由もなく。


---


 ――そのとき。


 ふたりの中で、何かが“ほどけた”。


 見えない鎖が、音もなく外れた。




 キールの脳裏に、映像が流れ込む。


 幼い日の約束。


「サリ、絶対守る」


「ほんと? じゃあ一生だよ?」


 小指を絡めた記憶。


 風邪を引いた夜。

 そばで看病してくれた笑顔。


 泣いたとき、抱きしめてくれた温もり。


 ――全部。


(……俺は……)


(何を……してた……)


---


 ナタリアの中にも、記憶が溢れる。


 夜のおしゃべり。

 秘密の交換日記。

 肩を並べて笑った日々。


「一人にしないって、言ったのに……」


 声が、震える。


---


 二人は、それぞれ膝をついた。


 呼吸が、荒れる。


 涙が、止まらない。


 心が、戻ってくる。


 奪われていた“自分”が。


---


 同時刻。


 遠く離れたエヴァンス領。


 サリは、ふと胸を押さえた。


「……?」


 理由はわからない。


 でも。


 なぜか、強く鼓動した。


(……キール……? ナタリア……?)


 嫌な予感じゃない。


 むしろ――


 懐かしい感覚。


---


「……思い出した……」


 キールは、震える声で呟く。


「全部……」


 ナタリアも、涙を拭う。


「……私も……」


 二人は、顔を見合わせた。


 長い間、曇っていた目が、はっきりと光を取り戻している。


---


「……行こう」


 キールが言う。


「サリのところへ」


 迷いは、なかった。


「……うん」


 ナタリアも頷く。


「謝らなきゃ……」


 そして。


 伝えなきゃ。


 どれだけ、大切だったかを。


---


 結婚式は――


 延期された。


 理由は、誰にも語られなかった。


 ただ、


 王太子と婚約者は、姿を消した。


---


 馬車は、夜明け前に城門を出た。


 目的地は、一つ。


 エヴァンス領。


 あの人のもとへ。


---






 馬車は、ゆっくりと丘を越えていった。


 視界の先に、懐かしい景色が広がる。


 緑の畑。

 風に揺れる麦。

 穏やかな村。


「……エヴァンス領……」


 ナタリアが、そっと呟く。


 サリは、窓の外を見つめながら微笑んだ。


「変わらないでしょう?」


「うん……でも」


 ナタリアは小さく息を吸う。


「前より、ずっと強くなった気がする」


 サリは、少し照れたように笑った。


「みんなのおかげよ」


---


 屋敷の前には、使用人たちが並んでいた。


「お帰りなさいませ、王妃陛下」


「ナタリア様」


「ただいま」


 その一言に、胸が温かくなる。


 ――ここは、帰る場所だ。


---


 夕方。


 三人は、庭のテラスに集まっていた。


 キールもいた。


 王としてではなく、

 昔のままの、穏やかな表情で。


 しばらく、静かな時間が流れる。


 やがて。


 キールが、ぽつりと口を開いた。


---


「……サリ」


「ずっと……言えなかったことがある」


 サリとナタリアが、視線を向ける。


 キールは、ゆっくりと言葉を選んだ。


「俺たちが……操られてたときのことだ」


---


 拳を、ぎゅっと握る。


「……本当に……何も考えられなかった」


「頭に……霧がかかったみたいで……」


「大事なことほど……見えなくなってた」


 声が、かすれる。


「君の顔を思い浮かべようとすると」


「胸が苦しくなって……」


「……考えるなって……」


「頭の奥で、誰かに止められてるみたいだった」


---


 ナタリアも、静かに頷いた。


「……私も……同じ……」


「何かを決めようとすると……」


「急に、思考が止まって……」


「理由もなく、不安になって……」


「……だから……」


 唇を噛む。


「誰かに言われた通りに動いてしまっていた……」




 キールは、目を伏せた。


「自分で選んでるつもりだった」


「でも……実際は……」


「用意された答えを……なぞってただけだった」


 夜会の記憶が、よみがえる。


 冷たい声。

 感情のない言葉。


「……あれは……俺じゃなかった」


「心が……なかった」




 サリは、胸が締めつけられるのを感じた。


(……やっぱり……)


(奪われてたのは……恋心だけじゃない)


(“考える力”だったんだ……)




「……結婚式の前の夜」


 キールは続ける。


「突然……霧が消えたんだ」


「頭の中で……何かが壊れたみたいに……」


 目を閉じる。


「そしたら……」


「今まで見えなかったものが……」


「一気に……戻ってきた」


「君の笑顔も」


「泣いた顔も」


「……俺が、どれだけ君を大切にしてたかも」




「……私も」


 ナタリアが、そっと言う。


「急に……息ができるようになった」


「やっと……自分の心の声が聞こえた」




 キールは、まっすぐサリを見る。


「……俺たちは……」


「自由を奪われてたんだ」


「考える自由も」


「選ぶ自由も」


「……全部」


 声が震えている。


「だから……」


「今度こそ……」


「自分で選ぶ人生を、生きたい」




 サリの目に、涙が浮かんだ。


「……うん」


「私も」


「誰にも、決めさせない」


---


 夜。


 屋敷の一室。


 子どもたちは、隣の部屋で眠っている。


 小さな寝息が、静かに響く。


 サリとナタリアは、窓辺に並んで座っていた。


 月明かりが、二人を包む。




「……ねえ」


 ナタリアが、そっと言う。


「私……怖かったんだ」


「自分が……自分じゃなくなる感覚が」


 サリは、手を握る。


「もう、大丈夫」


「今は……ちゃんと考えて、選べてる」




「……後悔してない?」


 ナタリアが尋ねる。


「王妃でいることも」


「母でいることも」


「……私と一緒にいることも」


 サリは、迷わず答える。


「してない」


「全部、私が選んだ未来だから」




「昔は……」


 サリは、小さく笑う。


「影で生きようって思ってた」


「誰かの幸せのためだけに」


「でも今は……」


 ナタリアを見る。


「私も、幸せになりたい」


「あなたと」




 ナタリアは、そっと抱きしめる。


「……うん」


「一緒に、幸せになろう」


---


 数年後。


 王国は、安定した国として知られるようになる。


 飢饉に強く、

 人々が声を上げられる国。


 その中心には、三人がいた。


 王として立つキール。

 改革を導くサリ。

 調和を支えるナタリア。


---


 そして。


 夜になると。


 サリは、必ずナタリアの隣に戻る。


 それが、変わらない約束だった。


---


「……私たち」


 サリが呟く。


「ちゃんと……取り戻したね」


「考えることも」


「選ぶことも」


「愛することも」


 ナタリアは微笑む。


「うん」


「全部、自分のもの」


---


 悪役令嬢でもなく。

 ヒロインでもなく。

 誰かの操り人形でもなく。


 母として。

 王妃として。

 恋人として。

 ひとりの人間として。


 サリは、生きている。


 自由な意志で。


 愛する人とともに。


 選び続ける未来を。




 完。




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