悪役令嬢ですが、もう台本通りに生きません ~私の恋人はヒロインです~
ざまぁなし・じっくり型の悪役令嬢ものです。
恋愛・友情・自立をテーマに書いています。
よろしくお願いします。
この世界が、小説の中だと気づいたのは――
七歳の春だった。
熱を出して三日三晩うなされて、目を覚ましたとき。
私は突然、“思い出して”しまった。
――ああ。
ここ、知ってる。
私は、日本で暮らしていた女子高生だった。
放課後に本屋へ寄って、帰りの電車でライトノベルを読む、ごく普通の女の子。
その中で、一番好きだった作品。
『蒼き王子と運命の乙女』
何度も読み返した、大好きな物語。
そして今の私は――
その物語に出てくる、“悪役令嬢”
サリ・エヴァンスだった。
(……笑えないよね)
最初は、怖くて泣いた。
だって私は知っている。
この先、私は――
婚約を破棄され、
皆の前で断罪され、
領地に追いやられて、
物語から退場する。
そういう役だから。
でも、不思議なことに。
時間が経つにつれて、私は思うようになった。
(……それでもいいか)
だって。
この世界で私は、
夢みたいな時間をもらったから。
---
「サリ、寒くないか?」
マントを肩にかけられて、私ははっとする。
「ありがとう、キール」
自然に笑って、そう答える。
キール・アルベルト。
この物語の王子様で、
ヒロインを愛し、国を導く存在。
――そして、私の婚約者。
彼は、昔から私を溺愛していた。
理由なんてない。
ただ、ずっと。
「無理するな。お前はすぐ我慢する」
「してないよ」
「してる」
即答。
その優しさに、何度も胸が苦しくなった。
(……こんなに大切にしてくれるのに)
(私は、最後に捨てられる役なのに)
でも、私は知っている。
キールは悪くない。
彼は、ヒロインを愛する運命なのだ。
ナタリアを。
---
「サリ!」
駆け寄ってくる足音。
私は振り向いて、思わず笑った。
「ナタリア」
桃色のドレスを揺らして現れた彼女は、
いつも通り、太陽みたいだった。
ナタリア・ローズ。
物語のヒロイン。
小説では、もっと後で登場する設定だった。
私と親しくなる描写なんて、なかった。
――でも、現実は違った。
幼い頃のお茶会で出会って。
『ねえ、あなた一人? 一緒にいようよ!』
そう言って、迷いなく手を取ってくれた。
それが始まりだった。
ナタリアは、本当にいい子だった。
優しくて、努力家で、
誰かの悪口を言わなくて、
泣いている人を放っておけない。
(……そりゃ、キールも好きになるよね)
私は、心からそう思っていた。
二人が結ばれるのは、当然だ。
物語通り。
私の大好きな小説通り。
---
だから。
ここ半年――
キールとナタリアが、一緒にいることが増えても。
私は、何も言わなかった。
むしろ、距離を取った。
誘われても、理由をつけて断った。
廊下ですれ違えば、先に折れた。
(……これでいい)
(私は、退場する役)
(邪魔しちゃいけない)
陰から見守れれば、それでいい。
大好きな二人が、幸せになるなら。
---
その夜会は、最初から落ち着かなかった。
音楽は軽やかで、
料理は豪華で、
貴族たちは楽しげに笑っている。
――それなのに。
サリの胸の奥だけが、ずっと冷えていた。
(……今日だ)
理由はない。
根拠もない。
でも、わかってしまう。
この夜が、
私の“終わり”になることを。
---
「お嬢様……」
隣で侍女のミアが、不安そうに袖を引く。
「顔色、よくありません」
「平気だよ」
微笑んで答える。
嘘ではなかった。
私は、もう覚悟している。
この世界で生きると決めたときから。
---
やがて、音楽が止んだ。
ざわめきが、少しずつ静まっていく。
王城中央の階段に、ひときわ目立つ影が立つ。
キール・アルベルト。
王太子。
――私の、婚約者。
胸がきゅっと締めつけられる。
(……キール)
昔なら、ここで必ず目が合った。
小さく笑って、
安心させてくれた。
でも今日は。
視線が、交わらない。
最初から、私を見ていない。
---
「……皆に集まってもらったのは」
キールの声は、よく通っていた。
澄んでいて、落ち着いていて、
非の打ち所がない。
あまりにも、完璧で。
「重要な決定を、伝えるためだ」
会場の空気が、ぴんと張りつめる。
誰かが、息を呑んだ。
サリは、ただ静かに立っていた。
---
「私は――」
一拍。
ほんの短い間。
それだけで、胸がざわつく。
「サリ・エヴァンスとの婚約を、破棄する」
言葉は、迷いなく落ちた。
はっきりと。
正確に。
冷静に。
まるで、何度も練習したみたいに。
次の瞬間、会場が騒然となる。
「え……?」
「まさか……」
「どういう……」
無数の視線が、私に集まる。
でも、私は動かなかった。
(……やっぱり)
心の中で、そっと呟く。
思っていた通り。
---
「理由は明白だ」
キールは続ける。
「サリ・エヴァンスは――」
淡々と。
「ナタリア・ローズに対する不適切な態度」
「王家への不忠」
「王太子妃としての資質の欠如」
並べられる言葉は、どれも聞き覚えがある。
どこかで読んだことのあるような。
誰かが用意したような。
全部、私の知らない私だった。
---
視線を、ナタリアに向ける。
彼女は、青ざめていた。
唇を噛みしめ、
目には涙が浮かんでいる。
なのに――
足は、一歩も動かない。
「……サリ……」
小さく、名前を呼ぶ。
でも、それだけだった。
助けに来ない。
声を上げない。
ただ、立ち尽くしている。
私は、ゆっくりと目を伏せた。
(……大丈夫)
(わかってる)
あなたは、悪くない。
---
「以上の理由により」
キールは言う。
「サリ・エヴァンスを、エヴァンス領へ送還」
「王城への出入りを禁ずる」
「事実上の幽閉とする」
言葉が、胸に落ちる。
思っていたより、静かに。
……永久、とは言われなかった。
それだけが、少しだけ救いだった。
---
「異議はあるか」
問いかけ。
沈黙。
誰も、何も言わない。
誰も、私を見ない。
これが、この世界。
これが、私の立場。
サリは、一歩前に出た。
ざわめきが走る。
「サリ様……!」
ミアの声が震える。
私は、彼女に微笑んだ。
大丈夫。
泣かないで。
---
「……異議はありません」
はっきりと言う。
声は、意外なほど落ち着いていた。
「王太子殿下のご決定に、従います」
会場が、静まり返る。
誰も予想していなかった反応だったのだろう。
キールの目が、わずかに揺れた。
一瞬だけ。
すぐに、元に戻った。
---
衛兵が近づいてくる。
その間。
キールは、最後まで私を見なかった。
視線は、少しだけずれていた。
どこを見ているのか、わからない。
見ないようにしているのか。
見えなくなっているのか。
……わからない。
---
連れ出される直前。
私は、そっと振り返った。
ナタリアと、目が合う。
彼女は泣いていた。
声もなく。
私は、小さく微笑んだ。
大丈夫。
私は、ちゃんと生きる。
あなたたちの未来を、壊さない。
---
分厚い豪奢な扉が閉まった。
夜会の光が、音もなく遮られた。
廊下は、ひどく静かだった。
靴音だけが、やけに響く。
サリは、しばらく俯いたまま歩いていた。
……涙は、出なかった。
泣くより先に、考えてしまったから。
(……これで)
(物語は、私抜きで進んでいく)
“悪役令嬢サリ・エヴァンス”は退場した。
これからは――
キールと、ナタリア。
二人が主役の物語。
(……うん)
(それで、いい)
本当は、胸が痛い。
本当は、離れたくない。
それでも。
私は知っている。
この先に起こることを。
サリがいなくなった世界で――
少しずつ歯車が狂い、
備えが失われ、
支える人がいなくなり、
やがて訪れる、飢饉と混乱。
小説の中では、そうだった。
(……そんな未来、絶対に嫌だ)
キールが苦しむ姿なんて、見たくない。
ナタリアが泣く世界なんて、許せない。
二人には――
ずっと、笑っていてほしい。
手を取り合って、
穏やかな日々を生きてほしい。
(だから……)
サリは、ぎゅっと拳を握った。
(私が、守る)
(物語の外からでもいい)
(表舞台にいなくてもいい)
悪役令嬢が消えたせいで、
世界が壊れるなんて、そんな結末は認めない。
(ざまぁなんて、いらない)
(誰かが不幸になる話なんて、見たくない)
私は、二人が幸せになる物語が好きだった。
だから――
その物語を、最後まで守る。
たとえ、私の名前が消えても。
たとえ、誰にも知られなくても。
サリは、静かに前を向いた。
「……大丈夫」
誰に向けた言葉でもなく、
ただ、自分に言い聞かせるように。
「私がいるから」
この世界が壊れないように。
あの二人が、笑い続けられるように。
私は、影になる。
光のそばで、誰にも見えない影になる。
それで、いい。
それが――
私の選んだ、生き方だから。
---
馬車は、静かに王都を離れていった。
石畳の音が、だんだん遠ざかる。
城壁が見えなくなった頃、
サリはようやく、小さく息を吐いた。
「……終わったんだ」
婚約も、
王城での生活も、
キールの隣に立つ未来も。
全部。
馬車の窓いっぱいに、どこまでも続く青空が広がっていた。
その澄んだ色が、胸の奥に溜まっていた重たい気持ちを、
少しずつ溶かしていくような気がした。
---
エヴァンス領は、王都から三日ほどの場所にある。
豊かな土地。
穏やかな人々。
かつては“理想的な領地”と呼ばれていた。
――少なくとも、物語の中では。
(でも……)
サリは、窓の外を見つめた。
この先、この土地を含め、王国の土地はすべて荒れる。
雨が降らなくなり、
作物が育たず、
人々は飢え、
争いが起きる。
私は、それを知っている。
---
屋敷に着いたのは、夕方だった。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
使用人たちは、変わらず頭を下げてくれる。
その光景に、胸が少し痛んだ。
(……私、まだここにいていいのかな)
“悪役令嬢”は、もう退場したはずなのに。
---
自室に戻り、扉を閉める。
誰もいない空間。
静かすぎて、耳が痛い。
サリは、ベッドに腰を下ろし、
ゆっくりと天井を見上げた。
「……ねえ」
ぽつりと、独り言がこぼれる。
「私、本当に……死んだのかな」
答えは、ない。
でも、何度も思い出している。
---
――日本という、こことは違う国。
通学路。
駅前の書店。
放課後の寄り道。
制服のまま、電車で読んでいたライトノベル。
『蒼き王子と運命の乙女』
何度も読み返した、大好きな物語。
そして、最後に覚えているのは――
雨の日。
白いヘッドライト。
強い衝撃。
そこから、記憶が途切れる。
(……やっぱり、事故だったのかな)
考えないようにしてきた。
考えたら、戻れない気がして。
でも。
ここまで来たら、もう逃げない。
私は、たぶん――死んだ。
そして、この世界に来た。
物語の中に。
---
「……不思議だよね」
死んだかもしれないのに。
悲しいより先に、
守りたいものができたなんて。
キール。
ナタリア。
この国。
全部、大好きだった物語の中の存在なのに。
今は――現実だ。
---
サリは、机の引き出しを開けた。
中から、一冊の古いノートを取り出す。
――前世の記憶を取り戻してから、ずっと書き続けてきたもの。
原作の内容。
年表。
事件。
人物関係。
そして。
最後のページ。
『三年後、王都周辺で大飢饉』
『干ばつ+物流混乱』
『死者多数』
震える指で、文字をなぞる。
(……ここ)
(ここが、一番ひどい)
小説では、さらっと流されていた。
背景描写の一行。
でも現実になったら――地獄だ。
キールは責任を背負い、
ナタリアは心を壊し、
国は弱る。
私は、それを知っている。
ただ一人。
---
「……だから」
サリは、立ち上がった。
窓を開ける。
冷たい風が、頬を打つ。
「私は……逃げない」
退場してもいい。
表舞台に戻らなくていい。
でも。
何もしないまま消えるのは、嫌だ。
(私がいる意味があるなら)
(それは、ここだ)
---
机に向かい、新しい紙を広げる。
ペンを取る。
書き始める。
『穀物備蓄量』
『倉庫の位置』
『農地の改良』
『水路の整備』
『人材』
ひとつずつ。
地味で、目立たなくて、
誰も褒めない仕事。
でも――
これが、未来を変える。
---
サリは、ふっと笑った。
「……私、ほんと変だよね」
死んで、
悪役になって、
追放されて。
それでも。
誰かの幸せのために、生きようとしている。
でも、いい。
それでいい。
---
夜。
ベッドに横になりながら、目を閉じる。
キールの顔。
ナタリアの笑顔。
胸が、きゅっと痛む。
(……大丈夫)
(私は、ちゃんとやる)
(だから、二人は幸せでいて)
それだけでいい。
それだけが、願い。
サリは、静かに眠りについた。
未来を変える覚悟を、胸に抱いたまま。
---
春が終わり、初夏の風がエヴァンス領を吹き抜けていた。
畑には若い麦が揺れ、
川は澄み、
村には穏やかな笑い声が響いている。
一見すれば、平和そのもの。
――だからこそ、サリは胸の奥に、小さな不安を抱えていた。
(……この景色が、いつまでも続くわけじゃない)
三年後。
この土地は干ばつに襲われる。
作物は育たず、倉庫は空になり、人々は飢える。
私は、それを知っている。
---
「お嬢様、こちらが今年の収穫見込みです」
執事のロバートが、帳簿を差し出す。
「ありがとう」
サリは受け取り、静かに目を走らせた。
降水量。
土壌。
作付け。
細かい数字が、びっしり並んでいる。
(……まだ、余裕はある)
(でも、油断したら終わり)
---
「麦が多すぎるわね」
「え?」
「豆と芋を増やして。保存のきくものを中心に」
ロバートは一瞬戸惑ったが、すぐに頷いた。
「承知しました」
理由は聞かない。
それが、どれほど救われることか。
---
サリは、毎日のように村を歩いた。
畑を見て、
倉庫を回り、
水路を確かめる。
靴も裾も、すぐに泥だらけになる。
「お嬢様、こんなことまでなさらなくても……」
農夫のマルクが苦笑する。
「必要なの」
サリは、迷わず答えた。
「全部、未来のためだから」
マルクは、少し照れたように頷いた。
---
倉庫の補修。
備蓄量の増加。
乾燥庫の設置。
保存食の試作。
どれも地味で、目立たない仕事。
誰も褒めない。
誰も注目しない。
でも、確実に積み重なっていく。
---
夜。
執務室で帳簿を閉じたとき、
机の端に、一通の手紙が置かれているのに気づいた。
「……?」
淡い花の封蝋。
丸い文字。
ナタリアだ。
胸が、きゅっと締めつけられる。
そっと、封を切った。
---
『サリへ』
『元気にしていますか?』
『私は……うん。元気です』
そこまで読んで、指が止まった。
文字が、少し滲んでいる。
紙の端に、小さな跡。
丸く、薄く、いくつも。
(……これ)
涙の跡だった。
胸が、ちくりと痛む。
(……うまく、いってないのかな)
キールと。
喧嘩したのかもしれない。
すれ違っているのかもしれない。
ナタリアは、そういうときほど、笑う子だ。
一人で抱え込んで、泣いて。
誰にも頼らない。
---
『領地のこと、頑張ってください』
『応援しています』
短い文章。
あまりにも短い。
昔なら、何枚も書いてくれたのに。
(……ナタリア)
サリは、そっと紙を胸に抱いた。
会いに行きたい。
話を聞きたい。
抱きしめたい。
でも――
ゆっくりと首を振る。
(……大丈夫)
(あなたは、ヒロインだもの)
物語の中心で、
愛されて、幸せになる人。
私の大好きだった物語は、そういう結末だった。
(だから……)
(きっと、大丈夫)
(幸せでいて)
心から、そう願った。
---
サリは、机に向かい、返事を書く。
明るく。
重くならないように。
『こちらは元気です』
『畑がきれいですよ』
『最近、星がよく見えます』
『また、お茶しましょうね』
本当は、
「無理してない?」
「苦しくない?」
「一人で泣いてない?」
って書きたかった。
でも、書かない。
信じたいから。
---
翌朝。
サリは、また村へ出た。
風は穏やかで、空は青い。
「……よし」
小さく呟く。
誰にも評価されなくてもいい。
誰にも知られなくてもいい。
私は、準備を続ける。
キールのために。
ナタリアのために。
この国のために。
そして――未来のために。
悪役令嬢が消えても、
物語が壊れないように。
サリは、今日も静かに歩き出した。
---
異変は、あまりにも静かに始まった。
最初は、ただの噂だった。
「最近、麦の値が少し上がってきたらしい」
「南の方で、雨が少ないって聞いたぞ」
「商隊が遅れてるとか何とか……」
酒場での世間話。
市場の片隅での小声。
誰も、本気にしていなかった。
王都では、いつだって噂は流れる。
そして、ほとんどは消えていく。
今回も、そうだと思われていた。
---
エヴァンス領に、乾いた風が吹き始めたのは、初夏の終わりだった。
朝、窓を開けたとき。
ひやりとした湿り気が、ない。
代わりに、肌にまとわりつくような、乾いた空気。
サリは、窓辺に立ったまま、空を見上げた。
雲がない。
どこまでも、青く澄んだ空。
美しい――はずなのに。
(……嫌な青だ)
胸の奥が、ざわつく。
---
畑へ向かうと、異変はもっとはっきりしていた。
土は、細かくひび割れている。
葉は、どこか元気がない。
本来なら、もっと瑞々しく育つはずの季節なのに。
「……来た」
サリは、小さく呟いた。
原作の記述。
『二年目の夏、異常乾燥』
その一文が、頭に浮かぶ。
(しかも……早い)
本来より、半年は早い。
想定より、悪い。
---
「ロバート」
屋敷に戻るなり、呼びかける。
「すぐに会議を」
「承知しました」
執事は、何も聞かずに動いた。
それが、この数年で築いた信頼だった。
---
執務室。
地図と帳簿が机いっぱいに広げられる。
「水量、前年比で二割減」
「南部は三割です」
「備蓄は……」
「現時点で、約八か月分」
報告が次々に上がる。
サリは、黙って聞きながら計算する。
頭の中で、未来をなぞる。
(……いける)
(まだ、耐えられる)
今なら。
---
「備蓄庫を開けて」
「第一倉庫から順に確認」
「乾燥庫の湿度を下げて」
「水路の点検を急いで」
矢継ぎ早の指示。
使用人たちは、迷わず走る。
「了解です!」
「すぐに動きます!」
混乱は、ない。
それだけ、準備してきた証だった。
---
数日後。
王都からの使者が、息を切らしてやってきた。
「……王都より、緊急連絡です」
差し出された書簡。
サリは、開いた瞬間に眉をひそめた。
『穀物流通の停滞』
『価格急騰』
『買い占め多発』
(……始まった)
紙が、わずかに震える。
原作通り。
ここから、一気に崩れる。
---
一方、王都。
市場は、すでに地獄の入口だった。
「高すぎるだろ!」
「昨日は半分だったぞ!」
「もう残ってないのか!?」
怒号。
泣き声。
押し合い。
野菜売りの台は空になり、
穀物袋は鎖で囲われている。
「やめろ! 押すな!」
「私の子どもが……!」
人々は、余裕を失っていた。
恐怖が、街を覆っていく。
---
商人たちは倉庫を閉じ、
貴族たちは私有地に物資を溜め込む。
助け合いより、自己防衛。
それが、混乱期の現実だった。
---
王城。
執務室の灯りは、深夜まで消えなかった。
キールは、机に向かったまま、書類をめくり続けている。
山のような報告書。
苦情。
要請。
警告。
「……また、却下か」
物資移送の申請書に、赤字で×がついている。
理由は決まっている。
予算。
前例。
権限。
どれも正論。
でも。
人は、正論では生きられない。
---
「殿下……少し休まれては……」
側近が、遠慮がちに言う。
「後でいい」
キールは、顔を上げずに答えた。
目の下には、濃い影。
肩は、重そうに落ちている。
(……何かが足りない)
ずっと、そう感じていた。
でも、それが何なのか、わからない。
---
ナタリアは、王城の小さな礼拝堂にいた。
冷たい石床に膝をつき、
両手を組む。
「……どうして……」
声は、祈りにならない。
最近、すべてが苦しい。
期待。
視線。
責任。
逃げ場がない。
(……サリ)
無意識に、その名を思い浮かべる。
会いたい。
でも、会えない。
理由は、わからない。
---
エヴァンス領。
サリは、倉庫の前に立っていた。
分厚い扉が、並ぶ。
「備蓄状況は?」
「半年以上、余裕があります」
「……よし」
胸の奥で、少しだけ安堵する。
---
「南部へ先行配給」
「老人と子ども優先」
「価格固定」
「転売禁止」
淡々と、指示を出す。
感情は、後回し。
今は、動くとき。
---
数週間後。
王都は、さらに荒れていた。
暴動。
略奪。
疫病。
通りには、疲れ切った人々。
新聞は、黒い文字で埋まる。
『市民の怒り爆発』
『王政への不信』
『混乱続く』
サリは、静かに紙を畳んだ。
(……これが、本来の未来)
でも。
今回は、違う。
---
「王都へ、支援を送るわ」
ロバートが、驚く。
「しかし……我が領地も……」
「足りる」
きっぱり言う。
「全部、計算済み」
迷いはなかった。
---
数十台の荷馬車。
街道を進む列。
穀物袋が揺れ、
車輪が軋む。
すべて、サリが準備したもの。
誰にも知られずに。
---
『エヴァンス領より支援到着』
報告を読んだキールは、思わず顔を上げた。
「……エヴァンス……?」
胸が、強く鳴る。
理由は、わからない。
ただ――
懐かしくて、苦しい。
---
夕暮れ。
サリは、丘の上に立っていた。
遠く、王都の方角。
霞んで見える。
風が、髪を揺らす。
(……間に合って)
(お願い)
キール。
ナタリア。
どうか、生きて。
どうか、笑って。
私は、ここから支える。
影のままで。
名前のない場所から。
それでいい。
それが、私の選択。
---
王都は、ようやく落ち着きを取り戻しつつあった。
市場には、再び品物が並び始め、
通りには、少しずつ笑顔が戻ってきている。
それでも――
人々の目には、まだ疲労が残っていた。
飢えと混乱は、簡単には消えない。
---
王城では、結婚式の準備が進められていた。
王太子キールと、ナタリア・ローズ。
国を救った象徴的な二人。
民衆は、二人の結婚を“希望の証”として待ち望んでいた。
花で飾られた回廊。
磨き上げられた床。
運び込まれる豪華な調度品。
すべてが、祝福のために整えられていく。
……はずだった。
---
キールは、鏡の前に立っていた。
正装に身を包み、
誰が見ても完璧な王太子。
なのに。
胸の奥は、ひどく空っぽだった。
(……おかしい)
嬉しくない。
結婚するというのに。
国が安定したというのに。
達成感も、喜びも、ない。
ただ――
重たい。
---
「殿下、準備はよろしいですか?」
侍従の声。
「ああ……」
返事は出る。
勝手に。
考える前に。
口が動く。
(……今の……)
自分の声なのに、遠く感じた。
---
ナタリアも、控室でドレスを纏っていた。
純白のレース。
淡い光を受けて、輝いている。
誰もが羨む花嫁姿。
でも――
鏡の中の自分は、笑っていなかった。
(……どうして……)
胸が、苦しい。
理由が、わからない。
幸せなはずなのに。
望まれているはずなのに。
なのに、心がついてこない。
---
「ナタリア様、お美しいです」
侍女たちが微笑む。
「……ありがとう」
答えは、反射的。
心が伴っていない。
---
式の前夜。
王城は、静まり返っていた。
灯りの消えた廊下。
遠くで鳴る時計の音。
キールは、一人、書庫にいた。
無意識に足が向いた場所。
(……昔、よく来たな)
三人で。
サリと。
ナタリアと。
勉強を抜け出して、怒られて。
笑って。
――楽しかった。
その記憶が、胸を刺す。
---
「……サリ」
ぽつりと、名前がこぼれた。
その瞬間。
頭が、ぐらりと揺れた。
「っ……!」
視界が、歪む。
耳鳴り。
息が詰まる。
(……なんだ……これ……)
---
ナタリアも、同じ夜。
自室で、一通の古い手紙を取り出していた。
サリからの、最初の手紙。
幼い文字。
『ずっと友達だよ』
その言葉を見た瞬間。
胸が、締めつけられる。
「……サリ……」
涙が、溢れた。
理由もなく。
---
――そのとき。
ふたりの中で、何かが“ほどけた”。
見えない鎖が、音もなく外れた。
キールの脳裏に、映像が流れ込む。
幼い日の約束。
「サリ、絶対守る」
「ほんと? じゃあ一生だよ?」
小指を絡めた記憶。
風邪を引いた夜。
そばで看病してくれた笑顔。
泣いたとき、抱きしめてくれた温もり。
――全部。
(……俺は……)
(何を……してた……)
---
ナタリアの中にも、記憶が溢れる。
夜のおしゃべり。
秘密の交換日記。
肩を並べて笑った日々。
「一人にしないって、言ったのに……」
声が、震える。
---
二人は、それぞれ膝をついた。
呼吸が、荒れる。
涙が、止まらない。
心が、戻ってくる。
奪われていた“自分”が。
---
同時刻。
遠く離れたエヴァンス領。
サリは、ふと胸を押さえた。
「……?」
理由はわからない。
でも。
なぜか、強く鼓動した。
(……キール……? ナタリア……?)
嫌な予感じゃない。
むしろ――
懐かしい感覚。
---
「……思い出した……」
キールは、震える声で呟く。
「全部……」
ナタリアも、涙を拭う。
「……私も……」
二人は、顔を見合わせた。
長い間、曇っていた目が、はっきりと光を取り戻している。
---
「……行こう」
キールが言う。
「サリのところへ」
迷いは、なかった。
「……うん」
ナタリアも頷く。
「謝らなきゃ……」
そして。
伝えなきゃ。
どれだけ、大切だったかを。
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結婚式は――
延期された。
理由は、誰にも語られなかった。
ただ、
王太子と婚約者は、姿を消した。
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馬車は、夜明け前に城門を出た。
目的地は、一つ。
エヴァンス領。
あの人のもとへ。
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馬車は、ゆっくりと丘を越えていった。
視界の先に、懐かしい景色が広がる。
緑の畑。
風に揺れる麦。
穏やかな村。
「……エヴァンス領……」
ナタリアが、そっと呟く。
サリは、窓の外を見つめながら微笑んだ。
「変わらないでしょう?」
「うん……でも」
ナタリアは小さく息を吸う。
「前より、ずっと強くなった気がする」
サリは、少し照れたように笑った。
「みんなのおかげよ」
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屋敷の前には、使用人たちが並んでいた。
「お帰りなさいませ、王妃陛下」
「ナタリア様」
「ただいま」
その一言に、胸が温かくなる。
――ここは、帰る場所だ。
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夕方。
三人は、庭のテラスに集まっていた。
キールもいた。
王としてではなく、
昔のままの、穏やかな表情で。
しばらく、静かな時間が流れる。
やがて。
キールが、ぽつりと口を開いた。
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「……サリ」
「ずっと……言えなかったことがある」
サリとナタリアが、視線を向ける。
キールは、ゆっくりと言葉を選んだ。
「俺たちが……操られてたときのことだ」
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拳を、ぎゅっと握る。
「……本当に……何も考えられなかった」
「頭に……霧がかかったみたいで……」
「大事なことほど……見えなくなってた」
声が、かすれる。
「君の顔を思い浮かべようとすると」
「胸が苦しくなって……」
「……考えるなって……」
「頭の奥で、誰かに止められてるみたいだった」
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ナタリアも、静かに頷いた。
「……私も……同じ……」
「何かを決めようとすると……」
「急に、思考が止まって……」
「理由もなく、不安になって……」
「……だから……」
唇を噛む。
「誰かに言われた通りに動いてしまっていた……」
キールは、目を伏せた。
「自分で選んでるつもりだった」
「でも……実際は……」
「用意された答えを……なぞってただけだった」
夜会の記憶が、よみがえる。
冷たい声。
感情のない言葉。
「……あれは……俺じゃなかった」
「心が……なかった」
サリは、胸が締めつけられるのを感じた。
(……やっぱり……)
(奪われてたのは……恋心だけじゃない)
(“考える力”だったんだ……)
「……結婚式の前の夜」
キールは続ける。
「突然……霧が消えたんだ」
「頭の中で……何かが壊れたみたいに……」
目を閉じる。
「そしたら……」
「今まで見えなかったものが……」
「一気に……戻ってきた」
「君の笑顔も」
「泣いた顔も」
「……俺が、どれだけ君を大切にしてたかも」
「……私も」
ナタリアが、そっと言う。
「急に……息ができるようになった」
「やっと……自分の心の声が聞こえた」
キールは、まっすぐサリを見る。
「……俺たちは……」
「自由を奪われてたんだ」
「考える自由も」
「選ぶ自由も」
「……全部」
声が震えている。
「だから……」
「今度こそ……」
「自分で選ぶ人生を、生きたい」
サリの目に、涙が浮かんだ。
「……うん」
「私も」
「誰にも、決めさせない」
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夜。
屋敷の一室。
子どもたちは、隣の部屋で眠っている。
小さな寝息が、静かに響く。
サリとナタリアは、窓辺に並んで座っていた。
月明かりが、二人を包む。
「……ねえ」
ナタリアが、そっと言う。
「私……怖かったんだ」
「自分が……自分じゃなくなる感覚が」
サリは、手を握る。
「もう、大丈夫」
「今は……ちゃんと考えて、選べてる」
「……後悔してない?」
ナタリアが尋ねる。
「王妃でいることも」
「母でいることも」
「……私と一緒にいることも」
サリは、迷わず答える。
「してない」
「全部、私が選んだ未来だから」
「昔は……」
サリは、小さく笑う。
「影で生きようって思ってた」
「誰かの幸せのためだけに」
「でも今は……」
ナタリアを見る。
「私も、幸せになりたい」
「あなたと」
ナタリアは、そっと抱きしめる。
「……うん」
「一緒に、幸せになろう」
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数年後。
王国は、安定した国として知られるようになる。
飢饉に強く、
人々が声を上げられる国。
その中心には、三人がいた。
王として立つキール。
改革を導くサリ。
調和を支えるナタリア。
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そして。
夜になると。
サリは、必ずナタリアの隣に戻る。
それが、変わらない約束だった。
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「……私たち」
サリが呟く。
「ちゃんと……取り戻したね」
「考えることも」
「選ぶことも」
「愛することも」
ナタリアは微笑む。
「うん」
「全部、自分のもの」
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悪役令嬢でもなく。
ヒロインでもなく。
誰かの操り人形でもなく。
母として。
王妃として。
恋人として。
ひとりの人間として。
サリは、生きている。
自由な意志で。
愛する人とともに。
選び続ける未来を。
完。




