Episode 002-2: 処刑座標
世界から音が消えた「静寂の領域」。 心臓の音だけが響く中、死の狙撃が北狼号を襲います。 回避行動の果て、トラックは路肩の巨大な雪山へと激突し、沈黙しました。
【登場キャラクター】
高瀬タケル: 雪山に放り出され、死を覚悟した瞬間に覚醒する。
権田テツオ: ギリギリで直撃を回避するも、雪壁に突っ込み行動不能に。
Part 2: The First Player
突如として、世界がその「聴覚」を剥奪された。
予兆はなかった。
北狼号のキャビンを支配していた、あの神経を逆撫でするような騒音――ベニヤ板を締め上げる針金の悲鳴、剥がれかけたガムテープが装甲を叩く打撃音、そして腹の底に響くディーゼルエンジンの咆哮。
それら全てが、ふっ、と掻き消えたのだ。
キィーン……。
耳鳴りではない。
鼓膜を、見えない巨大な掌で外側から強く押し付けられているような、物理的な圧迫感。
俺は反射的に、両手で耳を覆った。
だが、何も変わらない。
布が擦れる音さえしない。自分の喉が鳴る音さえも、空気に触れた瞬間に「無」へと変換され、吸い込まれていく。
防音壁の中に入ったとか、風が止んだとか、そんな物理的な静寂ではなかった。
まるで、この石狩という空間そのものが、何者かによって「音を出す権利」を剥奪されたかのような、絶対的な強制沈黙。
俺たちは、許可なく声を出すことすら許されない領域へ踏み込んだのだ。
ドクン。ドクン。ドクン。
唯一聞こえるのは、肋骨の内側で早鐘を打つ、俺自身の心臓の音だけ。
その生々しい鼓動のリズムだけが、俺がまだ「時間」の中に存在している証拠だった。
運転席を見る。
テツオが何かを叫んでいた。
首に青筋を浮かせ、口を大きく開けている。
だが、その絶叫は俺に届かない。
彼がハンドルを叩く動作も、まるで壊れたサイレント映画のワンシーンのように、滑稽で、そして恐ろしく無機質だった。
異常だ。
気持ちが悪い。
まるで、分厚い水槽の中に閉じ込められたようだ。
あるいは、俺たちだけが、既に死んで幽霊になっているのではないか。
テツオが、血相を変えてハンドルにしがみついた。
彼のサングラスの奥の瞳が、一点を凝視している。
トタン板の隙間から、石狩の廃工場地帯が見える。
巨大なサイロや、錆びついたクレーンが、墓標のように雪原に突き刺さっている。
その風景の中で、一本の「線」が見えた気がした。
廃工場の屋上から、俺たちのトラックのボンネットへと伸びる、透明な歪み。
蜘蛛の糸のような、しかし触れれば万物を断ち切る絶対的な死のライン。
狙われている。
エンジンブロックだ。
あそこを撃ち抜かれれば、このトラックはただの鉄の棺桶と化す。
「……チッ!」
テツオの舌打ちが、鼓膜ではなく骨を伝って響いた。
次の瞬間、世界が横に滑った。
ギュルルルルッ!!
テツオが、丸太のような腕でハンドルを限界まで切り込んだのだ。
数トンの鉄塊が悲鳴を上げ、物理法則に逆らうように強引にスピンを開始する。
遠心力が俺の体をドアのない助手席側へと押し付ける。
シートベルトが鎖骨に食い込み、呼吸が止まる。
直後。
俺たちの鼻先数センチの空間で、乾いた音がした。
パチリ。
風船が割れるよりも軽い、ふざけた音だった。
だが、その結果は凄惨だった。
トラックの左前輪が通過するはずだったアスファルト。
そこが、直径一メートルの球状に、あまりにも綺麗に「えぐり取られて」いた。
爆発も、破片の飛散もない。
そこにあった雪も、氷も、アスファルトも、下の土さえも。
分子レベルで存在を抹消され、ツルリとした断面を残して「虚無」に置き換わっている。
もし、テツオの反応がコンマ一秒でも遅れていたら。
消えていたのはアスファルトではなく、北狼号のエンジンと、俺たちの下半身だっただろう。
回避した。
だが、その代償は大きすぎた。
時速六〇キロでスピンした巨大な鉄塊を、凍結した路面の上で制御することなど、神業をもってしても不可能だ。
トラックはコマのように回転しながら、道路脇の雪原へと滑っていく。
目の前に迫るのは、白い壁。
ただの雪山ではない。
ひと冬の間に降り積もった雪が、除雪車によって幾重にも押し固められ、氷点下の冷気でカチカチに凍りついた、天然のコンクリート壁だ。
ぶつかる。
俺は反射的に身を縮め、頭を抱えた。
声にならない悲鳴が喉の奥で凍りつく。
そして、衝撃が訪れた。
ズドォォォォォォンッ!!!
それは破壊音ではなかった。
巨大な質量が、物理的に無理やり停止させられた時に生じる、重く鈍い「圧縮音」だった。
ガシャガシャガシャッ!
ベニヤ板が砕け散る音。
トタン板がひしゃげる金属音。
そして、何かが折れるような嫌な音。
凄まじいGが全身を襲った。
内臓が前方に飛び出しそうになる感覚。
シートベルトが肋骨を軋ませ、肺の中の空気をすべて吐き出させる。
「が、はッ……!」
視界が真っ白に染まった。
砕けたフロントガラスの開口部から、雪崩のように大量の雪が車内に雪崩れ込んできたのだ。
冷たい。痛い。重い。
硬く締まった雪の塊が、礫のように顔面を打ち据える。
トラックは雪の壁に深々と突き刺さり、その巨体を斜めに傾けて停止した。
プスン、プスン、プスン……。
エンジンルームから、断末魔のような音が聞こえる。
破壊されたのではない。
衝撃と、吸気口に詰まった大量の雪によって、心臓が窒息を起こしているのだ。
黒い排気ガスを吐き出しながら、鉄の狼は不快な振動を数回繰り返し、そして完全に沈黙した。
静寂が戻ってきた。
だが、それは安らかな静けさではない。
死の予感に満ちた、凍てつくような沈黙だ。
「……っ、うぅ……。」
俺は雪に埋もれたまま、呻き声を上げた。
生きてるか?
手足の感覚はあるか?
全身が砕けたように痛い。特に首と胸が、熱を持ったように痛む。
車体が大きく傾いているせいで、助手席のドア――ベニヤで塞がれていたはずの開口部が、無残にひしゃげて口を開けていた。
そこから、重力に従って雪が外へと流れ出していく。
そして、俺の体も。
ズルリ。
シートベルトの金具が、衝撃でひん曲がって外れた。
支えを失った俺は、雪崩と共に車外へと放り出された。
世界が回る。
空の灰色。雪の白。
そして、雪壁に突き刺さった北狼号の、無様な鉄の塊。
ドサッ。
背中に衝撃が走った。
雪面だ。
だが、柔らかくはない。凍りついた地面はコンクリートのように硬く、俺の肺から残りの空気を強制的に叩き出した。
「か、はッ……!」
呼吸ができない。
そのまま俺は、雪だるまのように無様に転がった。
口の中に雪が入る。
冷たい。
そして、鉄錆のような血の味が広がる。
どこか切ったのか。口の中を噛んだのか。
ようやく止まった時、俺は雪の中に大の字になって埋もれていた。
痛い。寒い。
裂けたユニクロのダウンジャケットから、白い羽毛が舞い散っている。
その隙間から侵入してくる雪が、熱を持った打撲箇所に触れ、ジュッという音を立てて溶けていく気がした。
「……あ、……ぅ……。」
声が出ない。
起き上がろうとするが、指先がピクリとも動かない。
神経が断線したみたいだ。
数メートル先で、沈黙した北狼号が白い蒸気を上げている。
テツオは?
運転席側は雪壁に埋まっていて見えない。
生きているのか? それとも、あの衝撃で……。
俺は、霞む目で空を見上げた。
鉛色の雲。
舞い落ちる雪。
その向こうに、そびえ立つ廃工場の巨大なサイロが見える。
そこに、「誰か」がいた。
高さ三〇メートルはあるだろうか。
錆びついた手すりの上に、人影が立っている。
遠すぎて表情は見えない。
だが、俺の本能が、全身の細胞が、総毛立って警告している。
目が合った。
物理的な距離など関係ない。
あの場所から、あの影が、俺という「ゴミ」を見下ろしている。
虫眼鏡で蟻を焼く子供のように。
あるいは、顕微鏡でウイルスを観察する研究者のように。
感情のない、絶対的な「観察眼」。
ズキンッ!!
右目の奥が、破裂しそうなほど脈打った。
文字ではない。
俺の脳が受信したのは、もっと根源的な「殺意」の形だった。
視線が、熱を持つ。
やつが見ている「俺の座標」が、じりじりと焦げ付くような錯覚。
来る。
次の一撃が来る。
今度はアスファルトでも雪でもない。
この雪原に転がっている、俺という有機物の座標が、丸ごと「無」に置換される。
「……死ぬ。」
直感が、冷徹な事実として死を告げた。
逃げ場はない。体は動かない。
ああ、こんなもんか。
俺の覚悟なんて。
ヤマトを助ける? サチを取り戻す?
偉そうなことを言って、結局は顔も知らない奴に見下ろされて、ゴミのように消されるだけか。
悔しい。
怖い。
嫌だ。
消えたくない。
俺の生きた痕跡を、あんな奴の「視線」ひとつで、なかったことになんてさせてたまるか。
その時だった。
ギギギギギギギギッ――!!!
脳の最深部で、異様な音が響いた。
それは電子音でも、幻聴でもない。
錆びついた、分厚く重い「鉄の扉」が、無理やりこじ開けられる破壊音だった。
何年も開けられることのなかった、俺の魂の奥底にある封印。
それが今、俺の生存本能という暴力的な力によって、蝶番ごと引き千切られようとしている。
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北狼号、機能停止。 車外へ放り出されたタケルは、廃工場の屋上に立つ「死神」と目が合います。 絶体絶命。しかしその時、タケルの脳内で錆びついた扉が開く音がしました。




