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Episode 009-4: 確率の処刑

強敵を退け、ルートを確保した一行。 車内ではシュガーが特製のカレーを振る舞い、増えた仲間たちが賑やかに囲みます。 タケルはその光景を見ながら、自分が「リーダー」として認められつつあることを自覚します。 しかし、その安堵は長くは続きません。

【登場キャラクター】

高瀬タケル: 守るべきものが増えた重みを感じる。

権田テツオ: 次の目的地、苫小牧港を見据える。

佐藤 "シュガー" ケンジ: 勝利のスパイスを調合するムードメーカー。

霧隠スイ: カレーを頬張り、勝利を祝う。

空閑マイ: 静かに仲間との食事を楽しむ。

Part 4: The First Victory


 赤い雨は完全に上がり、いつもの鉛色の空が戻っていた。

 錆びついた工場地帯の片隅、風を避けられるタンクの陰に、北狼号はゆっくりとバックで滑り込んだ。


 プシュウ……。


 エアブレーキの排気音が、静寂を取り戻した廃墟に吸い込まれていく。

 エンジンが停止すると、世界は再び、雪が降り積もる微かな音だけに包まれた。


 ドアが開く。

 俺たちは、泥と油にまみれた体を引きずり出し、凍ったアスファルトの上に降り立った。


 テツオは、暴発で傷ついた手を血の滲んだ包帯で庇いながら、深く息を吐いた。

 シュガーは、煤けたコートの埃を払い、短くなったタバコの吸殻を指先で弾いた。

 スイとマイは、互いに顔を見合わせ、へたり込むようにタイヤにもたれかかった。


 歓声はない。

 ハイタッチも、勝利の雄叫びもない。

 そこに漂っていたのは、ただ「死なずに済んだ」という、重たく、泥のような安堵だけだった。


「……終わったな。」


 テツオが短く言った。

 俺は無言で頷いた。

 白い息が、工場の汚れた空気に溶けていく。

 俺の背中の鉄パイプには、まだあの男――九条カズマの血と脂の感触が残っている気がした。

 手を洗っても、雪で拭っても落ちない、ねっとりとした死の感触。


「さて。」


 シュガーが、連結しているトレーラーから煤けたコンロと鍋を取り出した。


「腹が減っては戦はできん、ってな。……少し早いが、晩飯にしようぜ。」


 彼は手慣れた動作でガスボンベをセットし、カチリとツマミを回した。

 ボッ。

 青い炎が灯る。

 その小さな熱源が、冷え切った空間に確かな「中心」を作った。


 鍋の中身は、数種類のレトルトカレーを混ぜ合わせ、そこにありったけのスパイスと、炒めたベーコンを投入しただけの代物だ。

 だが、クミンやコリアンダーが熱されて立ち上る香りは、強烈な暴力性を持って俺たちの鼻腔を刺激した。


 さっきまでの、鼻をつくオゾン臭や、鉄錆の臭い。

 そして、俺の手にこびりついた血の臭い。

 それら全てを、スパイスの香りが強引に上書きしていく。


「ほらよ。熱いから気をつけな。」


 シュガーが、人数分のプラスチック容器にカレーをよそい、手渡してくれた。

 白い湯気が、猛然と立ち昇っている。

 具材はほとんど溶けてなくなっているが、スープの表面には赤い油膜が浮き、見るからに濃厚そうだ。


 俺は容器を受け取り、トラックのバンパーに腰を下ろした。

 プラスチック越しに伝わる熱が、かじかんだ指先を解凍していく。


 スプーンを掬う。

 茶色い液体と、わずかな米。

 それを口に運んだ。


 ……ジャリッ。


 舌の上で、奇妙な食感が弾けた。


 味ではない。

 旨味でも、塩味でもない。


 砂だ。

 熱した砂利を、そのまま口に含んだような、ザラザラとした不快な感触。

 そして、その奥から広がるのは、機械油を煮詰めたような、重たくて粘着質な脂の感覚だけ。


 (……味が、しない?)


 俺はスプーンを止めた。

 シュガーの料理の腕を疑っているわけではない。

 鼻孔には、確かにスパイシーで食欲をそそる香りが満ちている。

 脳は「これは美味いものだ」と認識している。


 だが、舌が、味蕾が、信号を拒絶している。


 簒奪の代償か。

 あるいは、極限状態のストレスが、感覚機能を一時的に麻痺させているのか。

 さっき取り込んだカズマの能力――「確率操作」という異物が、俺の人間としての回路をまた一つ焼き切ったのかもしれない。


 ジャリ、ジャリ。

 口の中で、砂のような米を噛み砕く。

 美味しくはない。

 正直、吐き出したいほど異質な物体だ。


 けれど。


 喉を通る瞬間の、焼けつくような「熱」。

 そして、胃袋に落ちた瞬間に広がる、内側から身体を支えてくれるような重量感。

 それだけは、嘘じゃなかった。


 これは栄養だ。

 明日もまた、地獄を歩くための燃料だ。

 そう認識した瞬間、脳が勝手に味覚情報を補正し、過去の記憶にある「カレーの味」を幻覚として再生した。


「……美味いな。」


 俺は言った。

 それは嘘ではなかった。

 味はしなくても、この温かさは間違いなく「生存の味」だったからだ。


「だろ? 隠し味にチョコを入れたのが正解だったな。」


 シュガーが得意げに笑い、自分の分を豪快にかき込んだ。


 ふと、顔を上げる。

 車座になった五人の輪。


 全員、ひどい恰好だ。

 テツオは顔に油汚れをつけ、包帯だらけの手で器用にスプーンを操っている。

 マイは泥で汚れた航空自衛隊の制服のまま、フウフウと真剣な顔でスープを冷ましている。

 スイは「辛っ! なにこれ辛すぎ!」と文句を言いながらも、水筒の水を片手にスプーンを止めない。


 汚い手。

 血と泥にまみれた服。

 その中で、黄色いプラスチック容器と、そこから立ち昇る白い湯気だけが、異様に鮮やかで、神々しくさえ見えた。


 俺は、一口ずつ、砂のようなカレーを胃に流し込みながら、ぼんやりと思った。


 あの日。

 札幌の地下歩行空間で、全てが始まったあの日。

 俺は一人だった。

 冷たいコンビニのおにぎりを齧り、誰とも言葉を交わさず、ただ死なないために息をしていた。


 恵庭の道の駅では、俺とテツオ、そして合流したばかりのシュガーの三人だった。

 缶コーヒーを分け合いながら「ファントム・グレイ」の襲撃に備えて夜を明かした。あの時はまだ、互いに腹を探り合っていたけれど、それでも背中を預ける相手がいることに安堵したのを覚えている。


 そして今。

 ここには五人いる。


「おいシュガー、おかわりあるか? これじゃ足りねえぞ。」


「へいへい。育ち盛りのおっさんだな。」


「……私も、少しだけ。」


「あ、あたしも! 辛いけど、なんかクセになる!」


 皿が差し出される。

 鍋の底をさらうおたまの音。

 咀嚼音。

 衣擦れの音。

 生きた人間が発する、無防備な生活のノイズ。


 敵は強大になった。

 俺の体は、確実に壊れ始めている。

 味覚は消え、手には洗えない血がこびりついている。


 だが、このノイズの中にいる時だけは、自分が「人間」であることを許されているような気がした。


 食事を終えると、すぐに現実的な作業が待っていた。  北狼号の左前輪。  カズマの領域でバーストしたタイヤは、ホイールごとひしゃげて見るも無惨な状態だった。


「食ったら働く。……これぞ生存のサイクルだな。」


 テツオが苦笑しながら、油圧ジャッキをセットした。  彼は怪我をした手でレバーを上下させ、一〇トンの車体を持ち上げていく。


「シュガー、予備のタイヤを出してくれ。タケルはナットを外せ。」


「了解。」


 俺はクロスレンチを手に取り、錆びついたナットに噛ませた。  キィィィン……と金属が悲鳴を上げる。  硬い。凍りついている。  俺は体重をかけてレンチを踏みつけた。  バキンッ! と大きな音がして、ようやくナットが回った。


 その間に、シュガーが荷台からスペアタイヤを転がしてくる。  千歳基地で略奪してきた、軍用のランフラットタイヤだ。  分厚いゴムと、防弾仕様のホイール。  その総重量は優に一〇〇キロを超える。


「ぬんッ……! 流石に重いな、こいつは。」


 巨漢のシュガーでさえ、それをハブボルトの高さまで持ち上げて合わせるのには苦労しているようだった。

 不安定な雪の上だ。足場も悪い。


「……貸してくれ。」


 俺はシュガーの横に割り込み、タイヤのリムに手をかけた。


 ズキン。

 背中の筋肉が熱を持った。

 石狩の戦いで「最初の一人」を殺して以来、俺の肉体に宿り続けている異常な出力。

 それが、意識せずとも勝手に起動する。


 フッ。


 俺は、タイヤを持ち上げた。


 軽い。

 あまりにも、軽すぎた。


 本来なら腰が砕けるような重量のはずだ。

 だが、俺の腕はそれを「発泡スチロール」か何かのように軽々と持ち上げ、正確にボルトの位置へと合わせていた。


 タイヤの重さが消えたわけではない。

 俺の肉体が、人間という規格スペックを逸脱してしまっているのだ。

 さっきの「味のしないカレー」と同じだ。

 重さの感覚フィードバックが、脳に正しく伝わってこない。


「……おいおい。」


 シュガーが目を丸くして、少しだけ引いたような顔をした。


「お前、細身の割に馬鹿力だな。……やっぱり人間やめてるねえ。」


「……どうも。」


 俺は短く答え、タイヤを押し込んだ。

 ガチン、とボルトが噛み合う。


 俺は自分の掌を見つめた。

 油と泥で汚れた手。

 この手は、鉄パイプで人を殺し、一〇〇キロの鉄塊を軽々と持ち上げる。


 便利だ。生存には有利だ。

 だが、その便利さが、俺を「タケル」という人間から遠ざけていくようで、薄ら寒い恐怖を感じた。


「よし、完了だ。」


 テツオがインパクトレンチでナットを締め上げ、ジャッキを下ろした。

 北狼号が、ドシンと再び大地を踏みしめる。


 ただのパンク修理だが、それは俺たちがまだ「走れる」ことの証明だった。


 俺は、油で汚れた手を雪で拭い、空を見上げた。

 工場の鉄骨の隙間から、南の空が見えた。

 苫小牧の市街地。

 そこにはまだ、俺たちの知らない脅威が、あるいは答えが待っているはずだ。


 だが今は、満たされた胃袋の重さと、修理を終えた頼もしい相棒トラックを感じながら、少しだけ目を閉じることが許されるだろう。


 風が吹いた。

 雪混じりの冷たい風だが、今の俺には、それさえも心地よかった。


Would you like me to proceed to Episode 010: 忘却の湿度?

お読みいただきありがとうございます。 苫小牧港へ到着。 次回、Episode 010。テツオの旧友、記憶を失った職人との再会。

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