Episode 008-2: 空の墓標
空閑マイは語ります。 あの日、離陸しようとした機体が次々と文字化けして墜落したこと。 自分が空へ行けなかったのは、幸運ではなく「重力の呪い」であること。 彼女の足は滑走路のアスファルトと癒着し、物理的にそこから離れられなくなっていました。
【登場キャラクター】
高瀬タケル: 彼女の「諦め」に対し、ある提案をする。
権田テツオ: 同じ「乗り物を扱う者」として同情する。
佐藤 "シュガー" ケンジ: 彼女のやつれた様子を気にかける。
霧隠スイ: 飛べない彼女に興味を持つ。
空閑マイ: No.410。空への憧れと、地への束縛に引き裂かれている。
Part 2: The Curse of Gravity
ザッ、ザッ。
静寂に包まれた滑走路に、雪を掻く音だけが規則的に響いていた。
空閑マイは、背負っていた巨大なコンパウンドボウを丁寧に足元へ置くと、近くに立てかけられていた角スコップを手に取った。
そして、自分の足元に積もった薄い雪を、熱心に払い除け始めた。
彼女が動ける範囲は、極めて限定されていた。
右足首から先が、滑走路の誘導灯ごとアスファルトに溶け込み、完全に固定されている。
まるで、生きている彫像だ。
彼女は軸足を中心にして、コンパスのように体を回転させながら、半径一メートルほどの円形の領域だけを清掃している。
その狭い範囲だけ、黒いアスファルトが鏡のように磨き上げられ、濡れたように輝いていた。
周囲に広がる死骸の山と、血と泥にまみれた雪景色の中で、そこだけが異常なほどに「清潔」だった。
「……もう、管制塔ったら連絡が遅いんだから。」
マイは、スコップを動かしながら独りごちた。
吐く息が白く揺れる。頬は寒さで赤くなっているが、その表情は楽しげで、これから恋人に会いに行く少女のように高揚していた。
「滑走路は綺麗にしておかないと。あのコが降りてくるとき、タイヤが滑っちゃうでしょ? ただでさえ視界が悪いんだから。」
彼女は時折、手を休めて上空を見上げた。
そこには、あの巨大なジャンボジェット機が、物理法則を無視して静止している。
ノーズを下げ、今にも地面に激突しそうな角度で凍りついた鉄の塊。
だが、マイの瞳には、全く別の光景が映っているようだった。
「大丈夫よ。もう少しだからね。……私が一番いい場所に誘導してあげるから。」
彼女は機体に手を振った。
彼女の中の時間は、「着陸直前」の一点でループしている。
あの飛行機が何時間も、何日も、あるいは何年も、あそこでピクリとも動いていないという事実だけが、彼女の意識から綺麗に欠落していた。
「……なんなの、これ。」
俺の背後で、スイが震える声を出した。
無理もない。
この光景は、あまりにも完成されすぎた狂気だった。
ゾンビが襲ってくる恐怖とは違う。
一人の人間が、笑顔のまま壊れてしまっている様を見せつけられる、生理的な気味の悪さ。
「何言ってるの!? お姉ちゃん、目おかしいよ!」
スイが耐えきれずに叫んだ。
彼女は北狼号の陰から飛び出し、マイに向かって指を突きつけた。
「あの飛行機、もう死んでるよ! エンジンも止まってるし、全然動いてないじゃん! 降りてくるわけないじゃん!」
子供の直感だ。
彼女は、この場の空気が許容している「優しい嘘」を、無遠慮な正論で切り裂いた。
ピタリ。
マイの手が止まった。
スコップの先端が、アスファルトを擦る音だけを残して静止する。
彼女はゆっくりと、スイの方へ顔を向けた。
さっきまでの、聖母のような柔和な表情は消え失せていた。
そこに在ったのは、獲物の急所を見据える、冷徹な「射手」の目だった。
感情のない、ガラス玉のような瞳が、スイを射抜く。
「……静かにして。」
声のトーンが、数度下がった気がした。
「集中してるの。……不吉なこと言うと、管制塔が怒るわよ。」
怒号ではない。
だが、その静かな言葉には、明確な敵意が含まれていた。
自分の世界を否定する異物への、排他的な殺意。
「ひっ……。」
スイが息を呑み、後ずさった。
俺はとっさにスイの肩を掴み、自分の背後に隠した。
マイは俺を一瞥すると、興味を失ったように視線を外し、再び雪かきに戻った。
ザッ、ザッ。
狂気の作業が再開される。
俺は、彼女の足元に目を凝らした。
無理な姿勢で体を捻り、スコップを振るうたびに、彼女の足首に負担がかかっているのが分かった。
金属化した皮膚と、生身の肉の境目。
そこが無理やり引っ張られ、引きつっている。
プチッ。
微かな音がして、皮膚が裂けた。
じわりと、鮮血が滲み出す。
赤い滴が、磨き上げられた黒いアスファルトの上に落ち、小さな花を咲かせる。
痛いはずだ。
身が裂けるほどの激痛が走っているはずだ。
だが、マイは眉一つ動かさない。
痛みに気づいていないのか、それとも、その痛みさえも着陸を迎えるための「必要な儀式」だと思い込んでいるのか。
「……タケル。」
テツオが小声で俺に耳打ちした。
「ありゃあ、病気だ。……治る類のものじゃねえぞ。」
「ええ。」
俺は頷いた。
右目のHUDが、彼女の状態を解析し続けている。
だが、表示されるのはエラーばかりだ。
物理的な拘束具は見当たらない。彼女の体を構成する細胞そのものが、地面の成分と同化し、変質している。
これは、ただの呪いじゃない。
俺は、以前シュガーが言っていたことを思い出した。
『人の想いってのは、時に物理的な質量を持つんだ』と。
彼女は、待ち続けている。
あの上空の機体が降りてくることを。
中に乗っている誰か――恋人か、家族か、あるいは守るべき市民たちを、無事に地上へ迎え入れることを。
その強烈な「執着」が、重力のように作用し、彼女自身をこの場所へ縫い付けてしまったのではないか。
鎖の名前は「希望」だ。
絶望してしまえば、諦めてしまえば、きっと彼女はここから解放される。
だが、信じているからこそ。
あの飛行機は必ず降りてくると、一縷の望みにすがっているからこそ、彼女はここから一歩も動けない。
待つという行為は、時に暴力よりも人を損なう。
彼女の足から流れる血は、その代償だ。
その時。
キィィィィン……。
不快な音が、鼓膜を震わせた。
耳鳴りのような、あるいは遠くでガラスを引っ掻いたような、鋭い高周波音。
真空のような静寂が破られた。
「……来る。」
テツオが空を睨んだ。
静止したジャンボジェット機の向こう。
鉛色の雲の切れ間から、新たな「ノイズ」が接近してくる。
黒い点。
一つじゃない。三つ、四つ……増えていく。
翼竜のようなシルエットを持つ、空の捕食者たち。
さっきまで俺たちが見ていた死骸と同じ、異形の鳥の群れだ。
カラン。
マイが、スコップを捨てた。
乾いた音が響く。
彼女は流れるような動作で、足元の弓を拾い上げた。
身の丈ほどもある巨大なコンパウンドボウ。
それを構えた瞬間、彼女の纏う空気が一変した。
狂気の整備士から、冷徹な防人へ。
「……また来た。」
彼女は矢筒から太い矢を抜き取り、弦につがえた。
その所作には、一切の迷いも、痛みによる躊躇いもなかった。
「着陸の邪魔をする、悪い鳥。」
ギリリリリ……。
弦が引き絞られる音が、張り詰めた空気をさらに圧縮する。
彼女の視線は、上空の敵だけを捉えていた。
足元の血溜まりなど、存在しないかのように。
Would you like me to proceed to Episode 008_Part 3: The Arrow that Pierces the Vacuum?
お読みいただきありがとうございます。 飛べないなら、走ればいい。 次回、上空からの襲撃。弓と鉄パイプの共闘。




