Episode 008-1: 空の墓標
新千歳空港周辺。 そこには、空中で「処理落ち」して静止したジャンボジェット機が浮いていました。 異様な光景の下、滑走路で一人、弓を構える女性。 彼女は動かない飛行機を守り、近づくヴォイドを撃ち落とし続けていました。
【登場キャラクター】
高瀬タケル: バグった空の景色に、世界の終わりの質感を見る。
権田テツオ: 異常な光景に言葉を失う。
佐藤 "シュガー" ケンジ: 空港に残された物資に目を光らせる。
霧隠スイ: 先行偵察を行い、滑走路の人物を発見する。
空閑マイ: 元自衛官。足が金属化し、滑走路に縛り付けられている。
Episode 008: The Cenotaph of the Sky
Part 1: The Sky That Cannot Fly
世界が、バグっていた。
北狼号が、千歳基地の敷地境界線を越え、新千歳空港の広大な滑走路エリアへと侵入した瞬間のことだった。
俺は、強烈な吐き気に襲われた。
「……う、っぷ。」
胃袋が裏返るような感覚。
乗り物酔いではない。
もっと脳の深い部分、平衡感覚を司る三半規管が、視覚情報との致命的なズレを起こして悲鳴を上げているのだ。
いわゆる、「3D酔い」に似た感覚。
「おい、タケル。大丈夫か?」
ハンドルを握るテツオが、心配そうに声をかけてくる。
俺は口元を押さえながら、脂汗の滲む額を窓ガラスに押し付けた。
「……気色が、悪いんです。」
「あ? 何がだ。」
「空です。……あれを、見てください。」
俺は震える指で、フロントガラスの向こう、鉛色の空を指差した。
テツオが視線を上げ、そして息を呑んだ。
後部座席でふてくされていたスイも、窓の外を見て絶句した。
そこには、あってはならない光景があった。
空に、巨大な鉄塊が張り付いていた。
ジャンボジェット機だ。
かつて空の旅の主役だった、ボーイング747クラスの超大型旅客機。
それが、滑走路の数百メートル上空に「いた」。
飛んでいるのではない。
浮いているのでもない。
“止まっているのだ。”
機首を大きく下げ、今にも墜落しそうな角度で。
物理法則に従えば、次の瞬間には地面に激突し、爆炎を上げているはずの姿勢で。
ピクリとも動かず、空中の一定座標に固定されている。
エンジン音がない。
風を切る音もない。
主翼が受けるはずの揚力も、重力による落下も、そこには存在しない。
まるで、再生中の動画の「一時停止ボタン」を突然押したかのように。
時間と空間が、そこだけ凍結している。
「……なんだ、あれ。」
テツオの声が震えていた。
人間の脳は、「落ちるはずのものが落ちない」という矛盾を処理できない。
見ているだけで、平衡感覚が狂い、地面が揺らいでいるような錯覚に陥る。
「バグってるのか? この世界ごと。」
俺は呻いた。
右目のHUDにノイズが走る。
システムもまた、あの物体の運動エネルギーを計算できず、エラーを吐き続けている。
【Warning: Physics Error】
【Gravity: Null】
【Target Status: Frozen】
気持ちが悪い。
あまりにも静かで、あまりにも巨大な「エラー」が、俺たちの頭上を覆っている。
北狼号は、静まり返った滑走路を進んだ。
かつては数分おきに離着陸が行われ、多くの人々が行き交った北の玄関口。
今は、風の音さえしない、真空パックされたような死の世界だ。
俺は、視線を空から地上へと戻した。
そして、二度目の吐き気を催した。
道がない。
広大なアスファルトの滑走路が、埋め尽くされていた。
雪ではない。
死骸だ。
「……ひでぇな。」
シュガーが、窓に張り付いて呟いた。
そこは、鳥たちの墓場だった。
カラス、スズメ、トビ。
ありとあらゆる「飛ぶもの」が、地面に叩きつけられ、無惨な肉塊となって散乱している。
それだけではない。
体長数メートルはある「翼竜のような怪物」たちもまた、墜落し、折り重なるように死んでいた。
見たことのない生物だ。
黒い皮膚、鋭い爪、そして歪な翼。
この世界が壊れてから現れた、新種の捕食者なのだろうか。
そんな異形の群れが、何千、何万という数で、滑走路を埋め尽くす黒と赤の絨毯となっている。
だが、何より異様なのは、その死に方だった。
俺は目を凝らした。
近くに転がっている怪物の死骸。
その脳天に、何かが突き刺さっている。
矢だ。
カーボン製の、無骨で太い矢。
他の死骸も見た。
心臓、翼の付け根、眼球。
全ての死骸が、たった一本の矢で、急所を正確に貫かれていた。
爆発や魔法ではない。
純粋な運動エネルギーによる、物理的な狙撃。
空を飛ぶ高速の標的を、地上から弓矢で撃ち落とす?
一羽や二羽じゃない。この数を?
「……誰か、いるぞ。」
テツオがブレーキを踏んだ。
北狼号が、キキーッと音を立てて停止する。
前方。
死骸の山が最も高く積み上げられた場所。
一種の「塔」のようになったその頂上に、人影が立っていた。
一人の女性だった。
俺たちは車を降りた。
冷たい空気が肌を刺す。だが、ここには風がない。
上空の飛行機と同じように、空気の流れさえも止まっているような、不自然な静寂。
俺は、その女性を見上げた。
年齢は二〇代半ばだろうか。
着崩した航空自衛隊(JASDF)の制服。
泥と油で汚れ、袖は破れているが、階級章だけは鈍く光っている。
長い黒髪を無造作に束ね、背中には身の丈ほどもある巨大な弓――コンパウンドボウを背負っていた。
彼女は、俺たちに背を向けていた。
侵入者が来たことになど気づいていないのか、あるいは興味がないのか。
ただひたすらに、上空を見上げている。
あの、静止したジャンボジェット機を。
「……今日も、落ちてこないね。」
ポツリと。
彼女の声が、静寂の中に響いた。
それは独り言のようであり、誰かに語りかけるようでもあった。
その声色には、狂気も殺気もなかった。
ただ、恋人を見るような、あるいは遠くへ行ってしまった子供の帰りを待つ母親のような、慈愛と諦観が入り混じった響き。
上空の「静止した美しい機体」と、彼女の足元に広がる「血と泥にまみれた鳥や怪物の死骸」。
天上の美と、地上の醜。
そのコントラストが、俺の網膜に焼き付く。
「……あの、すいません。」
俺は声をかけた。
彼女の肩が、ピクリと動いた。
ゆっくりと、彼女が振り向く。
その瞳は、ガラス玉のように透き通っていて、どこか焦点が合っていなかった。
俺を見ているようで、俺の後ろにある虚空を見ている。
ズキンッ。
右目が疼いた。
HUDが自動的に彼女をロックオンし、解析を始める。
【Target Identified】
【Name: Mai Kugama (空閑 マイ)】
【Affiliation: JSDF (Former) / 203rd Tactical Fighter Squadron】
元自衛官。
やはり、この空港の生き残りか。
だが、次の行に表示されたステータスを見て、俺は息を呑んだ。
【Status: Anchored (Critical)】
アンカード。
固定されている?
俺は、彼女の足元に視線を落とした。
「……っ!?」
心臓が、早鐘を打った。
彼女は、死骸の山の上に立っているのではなかった。
埋まっているわけでもない。
融合していた。
彼女の両足。
自衛隊仕様のコンバットブーツ。
その底が、滑走路のアスファルトや、そこに埋め込まれた誘導灯のガラスと、ドロドロに溶け合って一体化していた。
違う。
ブーツだけじゃない。
破れたズボンの裾から覗く、彼女の足首。
白い皮膚が、徐々に金属的な光沢を帯び、錆びついた鉄骨のような質感へと変質しながら、地面へと「根」を張っている。
鎖で繋がれているのではない。
物理的に、生物的に、彼女という存在がこの滑走路の一部として組み込まれているのだ。
そこから、一歩も動けない。
トイレに行くことも、雨風をしのぐこともできない。
ただこの場所で、弓を引き、空を見上げ続けることしか許されていない。
これは、守っているのではない。
縛り付けられているのだ。
この「動かない空」の下に。
「……貴方たちも、飛びに来たの?」
空閑マイが、ふわりと笑った。
その笑顔は、足元の惨状とは裏腹に、聖母のように穏やかで、そして決定的に壊れていた。
「ダメだよ。今はまだ、管制塔からの許可が出ていないから。」
彼女は、自分の足枷など気にする様子もなく、再び空を指差した。
「ほら。あの子もずっと、着陸許可を待ってるんだから。」
俺は、言葉を失った。
彼女が見ている世界と、俺たちが見ている世界は違う。
彼女の中では、あの飛行機は止まっているのではなく、「待機」しているだけなのだ。
永遠に訪れない許可を待ちながら、近づく鳥や怪物を「空路の邪魔者」として撃ち落とし続けている。
空の墓守。
いや、彼女自身が、生きたまま墓標の一部と化していた。
俺の背後で、スイが小さく悲鳴を上げて口元を押さえた。
テツオも、苦虫を噛み潰したような顔で黙り込んでいる。
静寂。
音のない世界で、上空の鉄塊だけが、無言の圧力を放ち続けていた。
Would you like me to proceed to Episode 008_Part 2: The Gravity of Memories?
お読みいただきありがとうございます。 重力に呪われた整備士。 次回、彼女の足にかけられた「飛べない呪い」の正体。




