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Episode 006-1: 透明な侵入者

国道36号線、恵庭エリア。 走行中の北狼号の屋根から聞こえる、硬質な爪音。 停車して確認した雪の上には、足跡だけが続き、その主の姿はどこにもありませんでした。 見えない敵との、神経を削る追走劇の始まりです。

【登場キャラクター】

高瀬タケル: 右目のHUDにも映らない敵に焦りを覚える。

権田テツオ: 経験と勘で、見えない敵の気配を感じ取る。

佐藤 "シュガー" ケンジ: 車内の備品を守りつつ、警戒を強める。

Part 1: The Ghost's Footprint


 北狼号は、白い闇の中を泳ぐように走っていた。


 国道三六号線。

 視界は最悪だ。ヘッドライトの光が、数メートル先で吹雪の壁に吸い込まれて消えていく。

 ワイパーが悲鳴を上げながら、フロントガラスに叩きつけられる雪の塊を払いのける。

 キャビンの中は、ヒーターの温風と、シュガーの体から出る熱気、そして腹の底に響くディーゼルエンジンの重低音で満たされていた。


 平和、と言っていいのかもしれない。

 IDを失い、社会から抹消された俺たちだが、とりあえず今、命を脅かす敵はいない。

 後部座席では、シュガーが器用に体を丸めて高いびきをかいている。

 テツオは黙々とハンドルを握り、時折、眠気覚ましのガムを噛む音をさせている。


 俺は助手席で、微睡みの淵にいた。

 昨日の戦闘の疲労と、満腹感。そして、逃亡者特有の緊張の糸が切れた虚脱感。

 意識がとろりと溶け出し、夢とうつつの境界線が曖昧になる。


 その時だった。


 ガリッ。


 頭上で、異音がした。


 俺はビクリと肩を震わせ、目を開けた。

 今の、なんだ?

 氷が跳ねた音か?

 いや、違う。もっと硬質で、そして意図的な音だった。


 俺は天井ルーフを見上げた。

 当然、鉄板の裏地が見えるだけだ。

 耳を澄ます。

 エンジンの轟音と、風切り音。

 シュガーのいびき。


 ……気のせいか。


 そう思って、再び目を閉じようとした瞬間。


 ガリッ……ガリッ……。


 まただ。

 今度は、さっきよりもはっきりと聞こえた。

 連続的ではない。

 何かを確かめるように、あるいは、しがみついている場所を探すように、硬い爪で鉄板を引っ掻く音。


 音は、天井の真ん中あたりから聞こえる。

 風で飛ばされた小石が転がる音とは違う。

 重みがある。

 何かが、屋根の上に「乗って」いる。


「……なぁ、テツオさん。」


 俺は、できるだけ平静を装って声をかけた。


「何か、聞こえませんか?」


「あぁ?」


 テツオは視線を前方から外さずに、片眉を上げた。


「何がだ。……シュガーのいびきなら、俺も殺意を覚えてるところだ。」


「違います。……屋根の上です。何か、引っ掻くような音が。」


 テツオは怪訝そうな顔をして、少しの間、耳を澄ませた。

 車内には、ゴウゴウという走行音だけが響いている。

 その間、あの音はしなかった。


「……何も聞こえねえぞ。」


 彼は興味なさげに言った。


「風の音だろ。あるいは、タイヤが巻き上げた氷が当たったんだ。……この吹雪だぞ? 何が飛んできてもおかしくねえ。」


「でも、今の音は……。」


「神経質になりすぎだぞ、幽霊さん。」


 テツオはニヤリと笑い、俺の肩を軽く叩いた。


「IDを捨てて自由になったんだ。少しは肩の力を抜けよ。」


 俺は口をつぐんだ。

 テツオの言う通りかもしれない。

 俺はまだ、あの区役所での恐怖を引きずっている。

 自分の顔がノイズに飲まれて消える感覚。

 それが、幻聴を聞かせているのかもしれない。


 俺はシートに深く体を預け直した。

 だが、違和感は消えない。

 背中の産毛が逆立つような、生理的な不快感。

 誰かに見られている。

 いや、もっと近く。

 すぐ頭の上で、何かが息を潜めているような気配。


 ガリッ。


 まただ。

 今度は、俺の頭の真上だった。


 数十分後。

 北狼号は減速し、雪に埋もれた廃墟の駐車場へと滑り込んだ。

 元はコンビニだったのだろうか。

 看板は折れ、建物は雪に押しつぶされて半壊している。


「休憩だ。……ションベン行っとけよ。」


 テツオがエンジンを切らないまま、サイドブレーキを引いた。

 シュガーが「ふあぁ……」と大あくびをして目を覚ます。


「着いたか? ……寒っ! なんだこの気温は。」


 ドアを開けた瞬間、猛烈な冷気が車内に雪崩れ込んできた。

 俺たちはコートの襟を立て、外へと降り立った。


 轟音。

 風の音が凄まじい。

 地吹雪が地面を這い、視界を白く塗り潰していく。


 テツオとシュガーは、トラックの風下に回り込み、並んで用を足し始めた。


「いやー、出るもん出さないとな。人間だもの。」

「違げえねえ。……しかし、いい加減晴れてくんねえかな。」


 彼らの会話には緊張感がない。

 地獄のような世界でも、日常の営みは続く。

 その図太さが頼もしくもあり、同時に、今の俺には少し遠い世界の出来事のようにも思えた。


 俺は用を足す気になれなかった。

 寒気のせいじゃない。

 さっきの音が、頭から離れないのだ。


 俺はトラックの側面に回り込んだ。

 巨大なタイヤ。泥だらけの車体。

 そして、継ぎ接ぎだらけのキャビン。


 俺は、キャビンの後ろにある荷台用のステップに足をかけた。

 滑らないように慎重に体を持ち上げる。

 屋根が見える高さまで顔を出した。


 そこには、ひと冬分の雪と言わんばかりに、分厚く雪が積もっていた。

 風に晒され、波のような模様を描いている。


 何もいない。

 やっぱり、気のせいだったのか。


 安堵のため息をつこうとして、止まった。


 視線が、一点に釘付けになった。


 助手席の真上あたり。

 雪の表面に、不自然な「窪み」があった。


 風で作られた模様ではない。

 物理的な力が加わって、雪が押し固められた跡だ。

 俺は手を伸ばし、グローブ越しにその場所を触れてみた。


 硬い。

 そこだけ雪が氷になっている。

 そして、その中心に、鋭利なもので抉ったような傷があった。


 四本。

 四本の線が、平行に走っている。

 塗装が剥げ、下の錆びた鉄板が露出している。


 爪痕だ。

 それも、獣の爪じゃない。

 人間の手くらいの大きさで、しかし指の数が一本足りない。

 そんな異形の手が、走行中のトラックの屋根にしがみつき、風に飛ばされないように爪を立てていた。


 ガリッ。

 あの音は、これだったんだ。


 ゾワリと、全身の毛穴が開いた。

 気のせいじゃなかった。

 確実に「何か」が、さっきまでここにいた。

 俺たちの頭上に張り付いて、一緒に移動していたのだ。


 どこへ行った?

 俺たちが停車した時に、降りたのか?


 俺は慌てて周囲を見回した。

 白い闇。

 視界は数メートルしかない。

 その向こうに、何が潜んでいるか分からない。


「おい、タケル! 置いてくぞ!」


 下からテツオの声がした。

 俺はハッとして、荷台から飛び降りた。


 着地する。

 雪を踏む感触。


 テツオとシュガーは、もう運転席の方へ戻ろうとしている。

 俺も早く戻らなきゃ。

 そう思って足を踏み出した時。


 ザクッ。


 足音がした。

 俺の足音じゃない。

 テツオたちの方からでもない。


 俺のすぐ後ろ。

 北狼号の巨大なタイヤの影から、その音は聞こえた。


 振り返る。

 誰もいない。

 ただ、トラックの影が雪面に伸びているだけだ。


 ザクッ。


 また、音がした。

 今度は目の前だ。


 俺は息を呑んで、雪面を凝視した。


 そこには、誰もいないはずだった。

 なのに。


 ミシミシッ……。


 雪が、沈んだ。

 俺の視線の先、何もない空間の下で、新雪が踏みしめられ、圧縮されていく。

 足跡だ。

 透明な足跡が、今まさに刻まれている。


 一つ。

 二つ。


 ザクッ、ザクッ。


 歩いている。

 透明な「何か」が、タイヤの影から歩み出て、俺の方へと近づいてくる。

 形は見えない。

 だが、質量はある。雪が踏み固められる音が、これ以上ないほどリアルな現実として鼓膜を叩く。


 逃げろ。

 本能が叫んだ。

 だが、足が動かない。恐怖で膝が笑っている。


 足跡は、俺の目の前、わずか五十センチの距離でピタリと止まった。


 そこに「いる」。

 手が届く距離に。

 俺を見下ろしているのか、覗き込んでいるのか。

 気配だけが、冷たい風の塊となって俺の肌を撫でる。


 ズキンッ!!


 右目の奥が、破裂しそうなほど脈打った。

 HUDが、狂ったように警告を吐き出す。


【WARNING: Proximity Alert (Close Range)】

【Target: Unknown】


 警告。

 近接アラート。

 対象、不明。


 右目は感知している。

 ここに、致命的な脅威が存在することを。

 だが、次の瞬間、ログがバグったように歪んだ。


【Error: Target Lost】

【Error: No Life Sign】

【Error: .......】


 見失った。

 いや、生命反応がない?

 目の前にいるのに?

 システムは脅威を感じているのに、その「正体」を認識できないでいる。


 俺は、震える唇を開いた。

 白い息が、細く長く吐き出される。


 その息が。


 フワリ。


 俺の鼻先数十センチの空中で、不自然に揺らめいた。

 風に流されたのではない。

 見えない「壁」に当たって、拡散したのだ。


 そこには、確かに何かが立っていた。

 俺の吐いた白い息が、透明な輪郭を、一瞬だけ浮き彫りにした気がした。


 人型。

 だが、人間じゃない。

 もっと歪で、細長い影。


「……あ、……。」


 声が出ない。

 喉が凍りついたように張り付く。


 その透明な怪物は、俺に触れるでもなく、攻撃するでもなく。

 ただじっと、俺を「観察」しているようだった。

 値踏みするように。

 あるいは、次に殺す獲物としてふさわしいかどうかを、吟味するように。


 静寂の中で、俺の心臓の音だけが、耳障りなほど大きく響いていた。


Would you like me to proceed to Episode 006_Part 2: The Logic of Transparency?

お読みいただきありがとうございます。 視認できない恐怖。 次回、タケルはシュガーのコーヒー(あるいはオイル)を使い、ある「泥臭い策」で敵をあぶり出します。

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