Episode 005-1: 認識の冬
物語は、札幌市豊平区役所へ。 災害時、人は本能的に「お上」に助けを求めます。しかし、この世界において行政システムは避難所ではなく、もっと残酷な「選別機」として機能していました。 北狼号を降り、泥濘む雪道を歩くタケルたちが見たものとは。
【登場キャラクター】
高瀬タケル: 主人公。住所を失い、自分の「存在」が希薄になる恐怖を感じ始めている。
権田テツオ: 運び屋。行政の裏側にある「冷たい仕組み」を予感している。
佐藤 "シュガー" ケンジ: 料理人。避難民の行列を見て、食料の欠乏を懸念する。
Part 1: The Muddy Processing Plant
北狼号のキャビンは、暴力的なほどに暖かかった。
それは、快適な暖房とは呼べないものだった。
狭い空間に男三人。むさ苦しい体臭と、シュガーの服に染み付いた強烈なクミンとカルダモンの香り。
そして何より、シュガー自身の肉体から発散される異常な熱気。
まるで焼けた鉄板の側にいるような、肌を焦がす物理的な熱量が、車内の温度をサウナのように押し上げている。
俺は汗ばんだ額を拭い、ガムテープで補修されたベニヤ板の隙間から外を覗き込んだ。
車内と車外。
この数ミリの板一枚を隔てて、世界は完全に分断されていた。
外は、鉛色の世界だった。
空は低く垂れ込め、重い雲が今にも落ちてきそうだ。
猛吹雪は止んでいたが、代わりに、空気そのものが凍りついたような静寂が、札幌の街を包み込んでいる。
「……そろそろだ。」
ハンドルを握るテツオが、低い声で言った。
トラックの振動が、アスファルトの継ぎ目を越えるたびに尻に伝わる。
豊平橋。
札幌の中心部と、その南側を繋ぐ巨大な橋。
ここを渡れば、市街地を抜けて南区へと続く国道三六号線に入るはずだ。
トラックが橋に差し掛かる。
俺は、何気なく橋の下を流れる豊平川を見下ろした。
「……っ。」
息を呑んだ。
言葉が出なかった。
川がない。
いや、ある。
だが、そこを流れているのは、俺の知っている清流ではなかった。
黒い泥。
あるいは、アスファルトを高温で溶かして煮詰めたような、ドロドロとした粘着質の液体。
それが、音もなく、蛇のようにのたうち回りながら下流へと流れている。
この世のものではない何かが、川底を侵食し、這いずっているという生理的な嫌悪感だけがあった。
川面からは、病的な紫色の湯気が立ち昇っていた。
窓は閉まっているはずなのに、腐った卵と、錆びた鉄を混ぜたような腐敗臭が、ガラスを透過して漂ってくる気がした。
そして、何より異様なのは、川岸の光景だった。
色とりどりのゴミが、岸辺や中洲にへばりついている。
大量のビニール袋?
いや、違う。
俺は目を凝らした。
右目の「異物」が、勝手にズーム機能を働かせ、解像度を上げる。
服だ。
ダウンジャケット、コート、マフラー、ニット帽。
赤、青、黄色。
鮮やかな冬服の山が、まるで洗濯機の中身をぶちまけたように、川岸を埋め尽くしている。
中身がない。
人間だけが、綺麗に抜き取られている。
まるで、巨大な掃除機で吸い上げられたかのように、肉体だけが消滅し、物質としての衣服だけが「抜け殻」となって残された残骸。
それが数千、数万と積み重なり、新たな地形を作っている。
「……ひでえもんだ。」
シュガーが、俺の後ろから覗き込んで呟いた。
彼の手には、まだ湯気の立つコーヒーのマグカップがある。
「この川はもう死んでる。……いや、この街の排水溝になっちまったんだな。」
ドブ。
何を流しているドブなのか、考えたくもなかった。
本当、たった1日や2日で世界に何が起こったのか……いや……世界はもう、壊れた……?
俺は吐き気をこらえ、視線を前方に戻した。
橋を渡りきると、さらに絶望的な光景が待っていた。
国道三六号線。
本来なら南へと続く幹線道路が、寸断されていた。
物理的に、道がない。
川と同じ、あの「黒い泥」が道路を横断し、アスファルトを飲み込んで、巨大な沼地のように広がっている。
先へ進むことは不可能だ。
「チッ、行き止まりかよ。」
テツオが舌打ちをした。
彼はハンドルを切り、トラックを路肩に寄せた。
そこには、古びた看板が立っていた。
『豊平区役所:緊急避難所 開設中』
手書きの張り紙だ。
矢印が、左手のわき道を指している。
「……どうする、テツオさん。」
俺は聞いた。
嫌な予感がした。
この街の「避難所」が、まともな場所である保証なんてどこにもない。
テツオは少し考え、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。
「……寄るぞ。」
彼は決断を下した。
「燃料はシュガーがいるが、食い物は別だ。この先、道南まで店が開いてるとは限らねえ。自治体の備蓄を分けてもらおう。」
こんな状況だ、インフラは当てになら無い。
あくまで、自分たちが生き残るための補給。
俺も頷いた。
シュガーのトレーラーにはまだ食材があるが、いつまでもつか分からない。
それに、もしかしたらヤマトの手がかりがあるかもしれない。
トラックはわき道へ入り、雪に埋もれた住宅街を抜けた。
数分後、目の前に巨大な建物が現れた。
豊平区役所。
かつては、素朴でどこにでもありそうな庁舎だった場所。
だが、今の姿は異様だった。
建物全体が、黒いネットのようなもので覆われている。
いや、それはネットではない。
無数のパイプだ。
黒く太い金属のパイプが、建物を絞め殺すように巻き付き、脈動している。
その隙間から、シュー、シューという音と共に、灰色の蒸気が噴き出している。
消毒液のようなツンとする臭い。
その奥に、微かに混じる焦げた有機物の臭い。
ドウン、ドウン、ドウン……。
重低音。
それは行政サービスが行われている音ではない。
巨大なプレス機か、あるいは肉を挽くミンチマシーンの駆動音。
建物全体が、一つの巨大な内臓として脈打っている。
「……着いたぞ。」
テツオがトラックを止めた。
そこには、既に数台の車が乗り捨てられ、雪に埋もれていた。
俺たちは車を降りた。
瞬間、鼻孔を刺す冷気。
さっきまでの車内の熱気とは裏腹に、外気はマイナス一〇度を下回っているだろう。
正面玄関の前。
そこには、さらに異様な光景が広がっていた。
行列だ。
数百人、いや千人近い市民が、建物の周囲を取り囲むように列を作っている。
彼らは暴徒ではなかった。
叫ぶことも、走ることもない。
厚手のコートを着込み、マフラーで顔を覆い、ただ無言で、凍えるような寒さの中で立ち尽くしている。
手には、紙切れ――整理券のようなものを握りしめて。
静かすぎる。
子供の泣き声ひとつしない。
まるで、自分たちの運命を受け入れた羊の群れのように、大人しく「自分の番」を待っている。
「……不気味だな。」
テツオが呟いた。
俺も同感だった。
災害時のニュースで見る避難所の映像とは、何かが決定的に違う。
生気がない。
希望も、絶望さえもない。
ただの事務的な手続きとして、人々が建物の中へ吸い込まれていく。
列の先頭には、白い防護服を着た職員たちが立っていた。
その防護服は分厚く、顔が完全に見えないフルフェイスのマスクを被っている。
彼らは手にしたタブレット端末を見ながら、機械的な動作で市民を誘導している。
「次の方、どうぞ。」
職員の一人が、こちらに気づいた。
彼はゆっくりと右手を上げ、手招きをした。
その仕草は丁寧で、親切に見えた。
俺たちは顔を見合わせ、警戒しながら近づいていった。
補給物資をもらうだけだ。
変な動きがあったら、すぐに逃げる。
職員の前に立つ。
マスクの奥から、くぐもった声が聞こえた。
「避難の方ですね。……ようこそ、豊平シェルターへ。」
歓迎の言葉。
だが、その声には抑揚がなかった。
俺は、何気なく彼の顔を見た。
マスクのガラス越しに、中の表情を伺おうとした。
その時。
ズキンッ!!
右目の奥が、焼けるように疼いた。
視界が赤く染まる。
平和な光景の上に、禍々しいノイズがオーバーレイされる。
【WARNING: HOSTILE ENTITY DETECTED IN SHELTER】
【Target Status: DISGUISED】
警告。
敵性体検知。
偽装中。
俺は息を呑んだ。
HUDが指し示しているのは、目の前の「親切な職員」だった。
俺の肉眼には人間に見えている。
だが、右目のシステムは、こいつを「敵」だと断定している。
どういうことだ?
こいつは人間じゃないのか?
それとも、この施設全体が、俺たちを捕食するための罠なのか?
職員が、俺の顔を覗き込むように一歩近づいてきた。
「どうしました? 顔色が優れませんね。……どうぞ、中へ。温かいスープもご用意しております。」
温かいスープ。
その言葉が、なぜか背筋を凍らせた。
テツオが俺の肩を掴んだ。
彼も気づいている。
この場所の空気が、どこか決定的に狂っていることに。
俺たちは、無言のまま頷き合った。
逃げるか?
いや、まだだ。
燃料も食料も足りない。
ここで手ぶらで帰れば、どのみち野垂れ死にだ。
俺は恐怖を押し殺し、震える足で一歩を踏み出した。
この地獄の工場の奥に、何が待っているのか。
確かめるしかない。
俺たちが自動ドアをくぐった瞬間、背後で重いシャッターが降りる音がした。
Would you like me to proceed to Episode 005_Part 2: The Glitch in the Mirror?
お読みいただきありがとうございます。 区役所を埋め尽くす、無言の行列。 次回、鏡に映る自分の顔が「文字化け」し始めます。自己認識の崩壊。




