Episode 004-3: 砂の味
恐る恐る口にしたスープ。 その瞬間、脳内でビッグバンが起きました。 砂じゃない。味がある。 スパイスの刺激と素材の旨味が、凍りついていたタケルの人間性を解凍していきます。
【登場キャラクター】
高瀬タケル: 味覚を取り戻し、自分がまだ人間であることを実感して涙する。
佐藤 "シュガー" ケンジ: 自身の料理が二人に届いたことを確認し、旅への同行を申し出る。
Part 3: The Miracle of Flavor
ことり、と。
カウンターの古びた木目の上に、静かに皿が置かれた。
「お客さんたち、名前は?」
「権田、権田テツオだ。」
「……高瀬、タケルです。」
「テツオさんに、タケル君ね。俺はこの店の……元オーナーシェフ、佐藤 "シュガー" ケンジだ。気軽に"シュガー"とでも呼んでくれ。……ほら、おあがりよ。」
その瞬間、俺の視界は色を取り戻した。
それまで俺の世界を支配していたのは、灰色のコンクリートと、黒い泥、そして白い雪だけの無彩色の景色だった。
だが、目の前にある「それ」は違った。
鮮やかなサフラン色のスープ。
その表面に浮かぶ、焦がしバジルの深い緑色と、極上のスパイスオイルが描くルビーのような赤い波紋。
素揚げされた野菜たち――艶やかなピーマンの緑、ニンジンの橙、茄子の紫が、まるで宝石のように輝いている。
そして、別皿に盛られたターメリックライスの黄金色。
チキン野菜カリー。
この灰色の終末世界において、唯一「色彩」と「熱量」を持った、奇跡のような芸術品。
湯気が立ち昇る。
その湯気すらも、ただの水蒸気ではない。
カルダモンとクミンの香りを孕んだ、生命力そのものの揺らぎに見える。
ゴクリ。
喉が鳴った。
胃袋が、歓喜の悲鳴を上げて痙攣する。
食いたい。
今すぐにこの熱を、色彩を、香りを、空っぽの胃袋に流し込みたい。
だが、次の瞬間、俺の手はピタリと止まった。
恐怖だ。
底知れぬ恐怖が、指先を凍りつかせた。
さっきの雪。
そして、カロリーメイト。
口に入れた瞬間に、ジャリジャリとした無機質な「砂」へと変換された、あの忌まわしい記憶。
もし、これもそうだったら?
こんなに美味そうな匂いがして、こんなに温かくて、こんなに美しいのに。
口に入れた瞬間、泥水やセメントの味に変わってしまったら?
そうなれば、俺はもう立ち直れない。
心が、完全に折れる。
この料理は、俺にとって最後の希望であり、同時に俺の人間性を試す残酷な処刑台でもあった。
「……どうした、冷めるぞ。」
店主のシュガーが、低い声で言った。
彼はカウンターの奥で、タオルで手を拭きながら俺を見ている。
その視線は、試すようでもあり、祈るようでもあった。
俺は、震える手でスプーンを握った。
ステンレスの冷たい感触が、掌の脂汗でぬるくなる。
やるしかない。
ここで食わなきゃ、俺は本当に死ぬ。
肉体だけじゃない。人間としての俺が死ぬ。
カチャリ。
スプーンが器の縁に当たる音が、静寂な店内に響いた。
俺はスプーンを沈めた。
油膜が割れ、黄金色の液体が掬い上げられる。
熱い湯気が鼻をくすぐる。
クミンの野性的な刺激と、コリアンダーの爽やかさ。
口に運ぶまでの数十センチが、永遠のように長く感じられた。
心臓の音がうるさい。
背中の「異物」が、不快そうに蠢いているのが分かる。
頼む。
頼むから。
味であってくれ。
砂じゃない、食べ物の味であってくれ。
俺は目を閉じ、覚悟を決めて、スプーンを口の中に放り込んだ。
熱い液体が、舌の上に広がる。
その、瞬間だった。
ドォォォォォォンッ!!!
脳内で、ビッグバンが起きた。
砂?
鉄?
違う。
味だ。
圧倒的な、暴力的なまでの「味」だ。
最初に舌を叩いたのは、鋭利なスパイスの刺激。
カイエンペッパーの辛味が導火線となり、味蕾の一つ一つを爆発的に覚醒させる。
続いて押し寄せるのは、濃厚な鶏ガラのコクと、炒め玉ねぎの甘み。
何十時間も煮込まれたであろうブイヨンの深みが、干からびていた俺の細胞に津波のように染み渡っていく。
そして、香り。
焦がしバジルのほろ苦さと、カルダモンの清涼感が鼻腔を突き抜け、脳髄を直接揺さぶる。
美味い。
そんな言葉じゃ足りない。
これは「情報」ではない。
生命力そのものだ。
萎縮していた脳の血管が、一気に拡張する。
モノクロームだった意識の世界が、極彩色のペンキをぶちまけたように塗り替えられていく。
生きてる。
トマトの酸味が、キャベツの甘みが、チキンの脂が、俺に「生きろ」と叫んでいる。
「……あ、」
口からスプーンを抜くと同時に、声が漏れた。
ボロボロと、目から涙が溢れ出した。
悲しいわけじゃない。
嬉しいという感情すら追い越している。
ただ、凍りついていた人間としての機能が、熱いスープによって急激に解凍されたことによる、生理的な雪解け。
「……味が、する……。」
俺は掠れた声で、誰にともなく呟いた。
「……味が、するんだ……ッ!」
その事実だけで、俺は泣き崩れそうになった。
システムに奪われていなかった。
俺はまだ、美味しいものを美味しいと感じられる。
俺はまだ、人間だ。
そこからは、もう止まらなかった。
俺は獣のように、あるいは何かに憑かれたように、スプーンを動かした。
ターメリックライスをスープに浸す。
黄金色の米粒が、スープを吸って輝く。
それを口に放り込む。
噛み締める。
米の甘みとスープの辛味が混ざり合い、咀嚼するたびに脳が痺れるような快感が走る。
素揚げされた野菜を齧る。
ピーマンの苦味。ニンジンの土の香り。茄子が吸い込んだ油の旨味。
一つ一つの素材が、確かな輪郭を持って俺の舌を喜ばせる。
チキンレッグをスプーンで崩す。
ホロホロと骨から外れる柔らかい肉。
それをスープと一緒に流し込む。
タンパク質だ。
俺の失われた筋肉の材料だ。
ガツガツ、ムシャムシャ。
咀嚼音が店内に響くのも構わない。
鼻水が垂れ、涙で視界が滲んでも拭おうともしない。
ただひたすらに、目の前の「命」を胃袋へ詰め込む。
胃が熱い。
空っぽだった内臓に、熱源が宿っていく。
その熱が血液に乗って全身を巡り、指先の冷たさを追い出し、震えを止め、思考をクリアにしていく。
隣のテツオもまた、無言でスプーンを動かしていた。
いつも皮肉げな笑みを浮かべている彼が、今は真剣な顔で、祈るようにカレーを食べている。
彼もまた、救われたのだ。
この一杯のスープに。
ふと、視線を感じて顔を上げた。
カウンターの向こう。
厨房の中で、シュガーが煙草を吹かしていた。
紫煙の向こう側にあるその瞳は、先ほどまでの眠たげなものではなく、どこか誇らしげで、そして深い安堵に満ちていた。
彼は、泣きながら貪り食う俺たちを見て、静かに微笑んだ。
「……そうか。」
彼は短くなった煙草を灰皿に押し付け、ぽつりと漏らした。
「俺の飯は、まだ『届く』か。」
その言葉は、俺の胸に深く突き刺さった。
届く。
そうだ、届いたんだ。
システムによる感覚の遮断も、怪物化による肉体の変質も乗り越えて。
この男の作った料理の熱量は、俺の魂の芯まで到達した。
彼はただのカレー屋じゃない。
この狂った世界で、人間が人間であるための最後の砦――「文化」という灯火を、たった一人で守り続けている聖職者だ。
外の世界では、建物が砂になり、人々が獣になり、理不尽な暴力が支配している。
だが、この地下の小さな店の中だけは、スパイスと音楽と、温かい食事が支配する「人間の世界」だった。
俺は、最後の一滴までスープを飲み干した。
皿が空になる。
胃袋は満たされ、体の中から力が湧いてくるのを感じた。
あの不快な背中の異物――黒い泥の気配が、今は大人しくなっている。
満足したのだろうか。
それとも、人間の強烈な「生の実感」に気圧されたのだろうか。
「……ごちそうさまでした。」
俺は深々と頭を下げた。
それはただの食事への感謝ではない。
俺を人間に引き戻してくれた、命の恩人への礼だった。
シュガーは照れくさそうに鼻を擦り、新しい煙草を取り出した。
「いい食いっぷりだったよ。……金はいらねえ。どうせ紙屑だ。」
彼はライターの火を見つめながら、独り言のように続けた。
「……だが、タダってわけにはいかねえな。このご時世だ。」
彼はゆっくりと視線を上げ、俺とテツオを見据えた。
その目に、鋭い光が宿る。
それは料理人の目ではなく、この地下街で生き抜いてきたサバイバーの目だった。
「兄ちゃんたち。……南へ行くんだろ? ヤマトって奴を探しに。」
俺は息を飲んだ。
なぜ、それを。
シュガーはニヤリと笑った。
その笑顔は、どこか共犯めいた、危険な匂いを孕んでいた。
「俺も連れて行け。……この店ごと、な。」
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涙を流しながら貪り食うタケルとテツオ。 シュガーの料理は、システムによる遮断をも突破する「熱量」を持っていました。 「俺も連れて行け。この店ごと」 新たな仲間が加わります。




