Episode 004-2: 砂の味
真っ暗な地下街の奥。 自家発電の音が響く一軒の店『Soup Curry Sugar』。 そこには、世界が終わってもなお、平然と鍋を振り続ける一人の男がいました。
【登場キャラクター】
佐藤 "シュガー" ケンジ: 地下街で営業を続けるスープカレー店主。
高瀬タケル: 匂いに惹かれ、最後の希望にすがる。
Part 2: The Sanctuary
地下への階段を降りきると、そこは完全な闇だった。
札幌の地下街、ポールタウン。
かつては通勤客や観光客でごった返し、明るい照明とショーウィンドウの光が溢れていた場所。
それが今や、巨大な棺桶の内部のように静まり返っている。
俺は震える手でスマホを取り出し、ライトを点灯させた。
細い光の束が、暗黒を切り裂く。
照らし出されたのは、廃墟だった。
左右に並ぶ店舗のガラスはことごとく砕かれ、破片が床一面に散乱してキラキラと不気味に反射している。
洋服屋のマネキンが首のない状態で転がり、ドラッグストアの棚はひっくり返され、薬品やサプリメントの空き箱が雪崩のように通路を埋め尽くしている。
略奪の痕だ。
パニックに陥った群衆が、食料と薬を求めてここを通り過ぎたのだろう。
「……酷いな。」
テツオが短い感想を漏らした。
彼の足音が、ジャリ、ジャリとガラスを踏み砕く音となって、無人の通路に反響する。
空気が澱んでいる。
地上のあの刃物のような冷気とは違う、湿り気を帯びた生温かい空気。
だが、それは決して心地よいものではなかった。
臭い。
カビの胞子が肺に張り付くような臭い。
そして、どこかで下水管が破裂しているのか、汚物が発酵したようなツンとする刺激臭が漂っている。
死の臭いだ。
この地下街そのものが、ゆっくりと腐敗し始めている。
俺は口元を袖で覆い、浅い呼吸を繰り返しながら歩いた。
空調の音もしない。
地上の吹雪の音も聞こえない。
あるのは、俺たちの足音と、俺自身の荒い息遣いだけ。
この圧迫感のある静寂が、俺たちが世界の底へ落ちてしまったことを実感させる。
グゥゥゥゥ……。
また、腹が鳴った。
さっき雪を食おうとして失敗してから、飢餓感はさらに増していた。
胃袋が物理的に縮んでいくような感覚。
内臓が、空っぽであることを訴えるために、自らの壁を消化液で溶かし始めている。
痛い。
背中の「異物」が、栄養を寄越せと脊髄を叩いている。
カロリーが足りない。
このままじゃ、本当に俺自身が食われる。
でも、何を食えばいい?
ここにあるのはガラス片とゴミだけだ。
それに、もし何か見つけたとしても、どうせ「砂の味」しかしないんだろ?
絶望が、足取りを重くさせる。
もう歩けない。
ここで座り込んで、腐った空気の中で眠ってしまいたい。
その時だった。
フワリ。
鼻腔を、異質な粒子がくすぐった。
「……え?」
俺は足を止めた。
腐敗臭とカビの臭いの中に、明らかに場違いな「香り」が混ざっている。
クミン。
コリアンダー。
カルダモンの清涼感。
そして、焦げたバジルと、じっくり炒められた玉ねぎの甘い香り。
スパイスだ。
それも、レトルトのような安っぽいものではない。
何種類もの香辛料が複雑に絡み合い、熱せられた油の匂いと共に爆発的に立ち昇っている。
スープカレーの香りだ。
ドクン!!
脳髄を、ハンマーで殴られたような衝撃が走った。
いい匂い、なんて生易しいものじゃない。
餓死寸前の俺の脳を、土足で踏み荒らすような暴力的な誘惑。
ジュワッ。
口の中に、意思とは無関係に唾液が溢れ出した。
さっきまで干からびていた唾液腺が、痛いくらいに活動を再開する。
食いたい。
その匂いの元を、喉に流し込みたい。
理性が吹き飛ぶ。
足が勝手に動き出す。
「おい、待て!」
テツオの制止も耳に入らない。
俺はスマホのライトを振り回しながら、匂いの元を探して走り出した。
こっちだ。
もっと奥。
闇の向こうから、その香りは漂ってくる。
胃袋がキュウと収縮し、激痛が走る。
でも、それが快感だった。
この痛みは「食欲」だ。
俺はまだ、生きようとしている。
だが、同時に恐怖もあった。
もし、これを見つけて口にしたとして。
また「砂」だったら?
この天国のような香りが、口に入れた瞬間に泥の味に変わってしまったら?
オエッ……。
想像しただけで、期待と絶望が入り混じって、嘔吐しそうになる。
それでも、俺は走るのを止められなかった。
たとえ砂でもいい。
その熱源に触れたい。
地下街の突き当たり。
狸小路方面へと続く広場の隅に、それはあった。
一軒の店。
周りの店舗はシャッターが降り、看板も割れているのに、そこだけが異様な存在感を放っていた。
ドド、ドド、ドド、ドド……。
低い振動音が響いている。
自家発電機だ。
店の奥から、排気ガスの匂いと共に、力強いエンジンの鼓動が聞こえる。
店の入り口からは、暖色系のランプの光が漏れていた。
闇に沈んだ地下街で、そこだけが切り取られたように明るい。
そして、換気扇からは、あの暴力的なスパイスの香りが白煙となって噴き出している。
看板には、手書きのような文字でこう書かれていた。
『Soup Curry Sugar』
シュガー。
砂糖?
カレー屋なのに?
俺は、吸い寄せられるように店のドアに手をかけた。
重い木のドア。
それを押し開ける。
カラン、カラン。
ドアベルの音が、静寂を破った。
瞬間、空気が変わった。
地下街の湿った冷気ではない。
ムッとするような熱気と、さらに濃厚になったスパイスの香り。
そして、耳に入ってきたのは、古びたスピーカーから流れる、気怠いジャズのピアノ音だった。
俺は呆然と立ち尽くした。
店内は、驚くほど「普通」だった。
木目を基調とした、落ち着いた内装。
カウンター席と、いくつかのテーブル席。
壁には古いレコードジャケットや、札幌の風景写真が飾られている。
照明は少し落とされ、オレンジ色の暖かい光が店内を満たしている。
まるで、ここだけ時間が止まっているようだ。
外の世界が崩壊し、人々が狂い、街が砂になっていることなど、嘘のような平穏。
2026年以前の、当たり前の札幌の夜が、ここに真空パックされて保存されている。
俺は、夢を見ているのか?
これは、死ぬ前に見る走馬灯なのか?
「……いらっしゃい。」
声がした。
カウンターの奥からだ。
厨房の中に、一人の男が立っていた。
年齢は三十代半ばくらいだろうか。
無精髭を生やし、頭には汚れたタオルを巻いている。
使い込まれた茶色のエプロンには、いくつものシミがついている。
どこにでもいる、くたびれたカレー屋の店主。
彼は、俺たちの方を見ようともしなかった。
巨大な寸胴鍋に向かい、長い木べらで黙々と中身をかき混ぜている。
その動作は、ピアノの旋律に合わせるようにリズミカルで、そして異常なほど落ち着き払っていた。
カチッ、ボッ。
彼がコンロのつまみを捻ると、青い炎が勢いよく立ち上がった。
彼は中華鍋を振り、スパイスと具材を踊らせる。
ジャァァァッという小気味良い音が、ジャズの音色と重なる。
異常だ。
狂っている。
こんな地下の廃墟で。
客なんて来るはずもないのに。
彼はまるで、ランチタイムのピーク時のように、真剣な眼差しで鍋を振っている。
俺とテツオは、泥だらけの靴で店内に踏み込んだ。
床に泥が落ちる。
綺麗な店を汚してしまう罪悪感が、一瞬だけ胸を掠めた。
男は、鍋から視線を外さずに、背中越しに言った。
「……酷い顔だね、お客さん。」
その声には、恐怖も警戒もなかった。
ただ、雨に濡れて入ってきた客を気遣うような、日常のトーン。
彼は中華鍋の中身を寸胴に移すと、ようやくこちらを振り向いた。
タオルで額の汗を拭う。
その瞳は、少し眠たげで、しかし鍋底のように深く、静かだった。
「外は吹雪かい? ……まあ、適当に座ってくれ。」
彼は顎でカウンター席をしゃくった。
「メニューは一つしかないけどね。……チキン野菜、辛さ5番。これでいいかな?」
俺は、言葉が出なかった。
肯定も否定もできない。
ただ、目の前で揺らめく湯気と、鼻を突き刺すスパイスの香りに、全身の細胞が釘付けになっていた。
食いたい。
砂でもいい。毒でもいい。
この男が作る「熱」を、体に入れたい。
俺はふらふらとカウンターへ近づき、吸い込まれるように椅子へ座り込んだ。
テツオもまた、無言のまま俺の隣に腰を下ろした。
ここは聖域だ。
狂った世界に残された、最後の正気の場所。
あるいは、こここそが、最も狂った場所なのかもしれない。
店主は、ニヤリと笑うと、再び鍋に向き直った。
「すぐ出すよ。……温まってきな。」
その言葉と共に、新たなスパイスが油に投じられ、強烈な香りが店内に炸裂した。
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「いらっしゃい」 日常と変わらぬトーンで迎える店主。 出されたのは、色鮮やかなチキン野菜カリー。 果たして、今のタケルにその「味」は届くのでしょうか。




