表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/20

Episode 004-1: 砂の味

ススキノの入り口で、ついに北狼号が完全に沈黙しました。 極限の空腹に襲われたタケルは雪を口にしますが、それは「砂」の味しかしませんでした。 スーツの機能が、生存に不要な「味覚」を削除したのです。

【登場キャラクター】

高瀬タケル: 味覚を奪われ、絶望の中で地下街へ。

権田テツオ: 愛車との別れを惜しみつつ、先導する。

Part 1: Hunger in the Void


 その瞬間は、唐突に訪れた。


 ゴフッ、ゴフッ、ガガガッ……プスン。


 北狼号のエンジンが、肺を患った老人のような乾いた咳をしたかと思うと、不意に沈黙した。

 腹の底に響いていた振動が消える。

 ダッシュボードの計器類が、一斉に光を失う。

 残されたのは、ヒーターの送風口から気休め程度に漏れる最後の温風と、外の容赦ない吹雪と、その風が鉄板を叩く音だけだった。


「……あ。」


 俺は声を漏らした。

 車体が惰性で数メートルだけ進み、そして重たい鉄の塊となって雪の中で停止した。


 テツオは、何度もキーを回したりはしなかった。

 アクセルを無駄に踏み込むこともしなかった。

 ただ、静かにキーから手を離し、革巻きのハンドルをそっと撫でた。


 まるで、長く連れ添った戦友の瞼を閉じてやるように。


「……ここまでか。」


 その声は、驚くほど穏やかだった。


「いい夢見させてもらったぜ。」


 彼は懐から短くなった「わかば」を取り出し、火を点けようとしたが、オイル切れのライターは虚しく火花を散らすだけだった。

 彼は苦笑して、タバコを耳に挟んだ。


「降りろ、少年。……こいつはもう、ただの鉄屑だ。」


 俺たちは車外へと降り立った。

 ドアを閉める。

 バンッ。

 その重く乾いた音が、俺たちから「気休めの暖房」と「移動手段」、そして「鋼鉄の殻」が永遠に失われたことを告げる合図のように響いた。


 寒い。

 今までとはまた質の違う寒さが襲ってきた。

 服の隙間から侵入してくる冷気が、汗ばんだ肌を一瞬で凍りつかせ、体温を容赦なく奪っていく。


 俺は振り返り、雪に埋もれていく北狼号を見た。

 片目が潰れ、タイヤがなくなり、満身創痍でここまで走ってきた鉄の狼。

 その巨体が、急速に白く塗り潰されていく。

 もう、二度と動くことはない。


「……行くぞ。」


 テツオが歩き出した。

 俺は襟元をかき合わせ、その後ろ姿を追った。


 場所は、国道三六号線。

 目の前には、かつて北の歓楽街と呼ばれた「ススキノ」の入り口が広がっていた。


 だが、そこは俺の知っている煌びやかな夜の街ではなかった。


 異界だ。

 そうとしか表現できない光景が広がっていた。


 ビルの壁面を覆う巨大なネオン看板。

 それらが、ドロドロに溶けていた。

 熱で溶けたのではない。まるで絵具に水を垂らしたように、色彩が垂れ下がり、アスファルトの上で極彩色の汚泥となって混ざり合っている。


 電飾がバグったように明滅している。

 チカ、チカチカ、ブツン。

 不規則なリズムで点滅する光が、雪の乱舞をストロボのように照らし出し、視界をおかしくさせる。


 俺は、交差点の中央で足を止めた。

 ススキノの象徴。

 あの、ヒゲのおじさんが描かれたニッカウヰスキーの巨大看板。


 ない。

 半分が、ない。


 看板の右半分が、あのアパートと同じように「灰色の砂」になって崩れ落ちていた。

 笑顔でグラスを傾けていたおじさんの顔は、左半分だけを残し、残りは虚空へと霧散している。

 砂になった部分は、滝のようにビルの下へ流れ落ち、歩道に灰色の山を築いていた。


「……なんだよ、これ。」


 俺は立ち尽くした。

 札幌の歴史が。

 何十年もこの街を見守ってきた象徴が。

 ただの砂になって、風に吹き飛ばされていく。


 世界が壊れている。

 俺の家だけじゃない。この街の「記憶」そのものが、物理的に削除されようとしているのだ。


 グゥゥゥゥ……。


 不意に、腹の底から情けない音が鳴った。

 空腹だ。

 感傷に浸る余裕さえ与えてくれない、暴力的な飢餓感。


 さっきの戦闘で、俺の体は限界までカロリーを消費していた。

 胃袋が裏返るほど収縮し、胃壁が擦れ合う痛みで脂汗が滲む。

 手足の末端が痺れ、視界が白く霞む。


 食いたい。

 何でもいい。

 何かを胃に入れないと、内臓が自分自身を消化し尽くしてしまう。


 俺は、無意識に足元の雪をすくい上げた。

 排気ガスで汚れていない、降り積もったばかりの白い雪。

 水分補給だ。

 せめて冷たい水で、胃の痙攣を誤魔化そう。


 俺は震える手で、雪を口に運んだ。


 ジャリッ。


 ……え?


 口の中に広がったのは、冷たい水の感触ではなかった。

 乾燥した、ザラザラとした異物感。


 砂だ。

 俺は慌てて吐き出した。

 唾液と混ざったそれは、確かに雪のはずなのに、口に入れた瞬間に「灰色の砂」へと変質したかのように、無機質な感触だけを残して喉に張り付いた。


「……雪じゃない、のか?」


 いや、手に持っているのは間違いなく雪だ。体温で溶けて水滴になっている。

 なのに、なぜ口に入れると砂になる?


 俺はポケットを探った。

 テツオから貰ったカロリーメイトの残骸。

 袋の底に残っていた、粉々になった欠片。

 俺はそれを、藁にもすがる思いで口の中に放り込んだ。


 ガリッ。ゴリッ。


「……ぁ、ぐ……。」


 吐き気がした。

 味がない。

 チーズの香りも、小麦の甘みも、塩気さえもしない。

 そこにあるのは、乾燥したセメントを噛んでいるような、水分を奪う不快な粉末の感触だけ。


 飲み込めない。

 喉が拒絶して、痙攣する。

 俺は咳き込みながら、ボロボロとそれを地面に吐き出した。


 なぜだ。

 舌が麻痺したのか?

 寒さで感覚がおかしくなったのか?


 カチッ。


 脳の奥で、小さなスイッチが切り替わる音がした。


 理解した。

 いや、理解させられた。


 背中の異物――俺に寄生しているあの黒いスーツが、俺の肉体を最適化しようとしているのだ。

 生存に不要な機能をカットし、エネルギー効率を最大化するために。


 そして、あいつにとって「味覚」とは、無駄なデータだった。

 「美味しい」と感じる幸福感。

 「不味い」と感じる不快感。

 それらは、戦闘と生存には不要なノイズだ。

 だから、削除デリートした。


 俺の脳から、「食事を楽しむ」という概念そのものを物理的に切り離したのだ。


「……ふざけんな。」


 俺は吐き捨てた。

 口の中には、まだジャリジャリとした砂の感触が残っている。


 これから先、俺は何を食べてもこの感触なのか?

 サチの手料理も、大好きなスープカレーも、すべて砂と泥の味に変わってしまうのか?


 それは、死ぬことよりも恐ろしい「人間の死」だった。

 生きる喜びを奪われたまま、ただ心臓を動かすためだけに有機物を摂取する。

 それはもう、機械と何が違うんだ。


「……おい、どうした。」


 テツオが振り返った。

 俺が雪の上に蹲っているのを見て、怪訝そうな顔をしている。


「……なんでも、ないです。」


 俺はふらつきながら立ち上がった。

 言えない。

 味がしないなんて言ったら、テツオは俺をどう思うだろう。

 「もう人間じゃねえな」と、また笑うだろうか。

 それとも、哀れみの目で見るだろうか。

 どちらも耐えられなかった。


 吹雪が強まった。

 もはや風ではない。

 無数の氷の粒が、回転するヤスリのように皮膚を削り取っていく。

 痛い。

 顔の感覚がなくなる。


「ここじゃ凍え死ぬぞ。……潜るぞ。」


 テツオが指差したのは、地下街への入り口だった。

 『ポールタウン』と書かれた看板の下、シャッターが降りている。


 俺たちはそこへ駆け寄った。

 テツオがバールをシャッターの隙間にねじ込み、強引にこじ開ける。


 ギギギギッ……ガシャァン!


 人が一人通れるだけの隙間が開いた。

 そこからは、カビ臭いような、淀んだ生温かい空気が漂ってきた。


「行け。」


 テツオに促され、俺は暗闇の中へと滑り込んだ。

 

 階段を転げ落ちるように降りる。

 背後でテツオが入ってくると、猛烈な吹雪の音が少しだけ遠のいた。


 そこは、完全な闇だった。

 非常灯すら点いていない、死んだ地下街。

 だが、地上のあの狂ったネオンと砂の味よりは、この暗闇の方が幾分マシに思えた。


 俺は壁に背を預け、ズルズルと座り込んだ。

 口の中に残る砂の感触を、唾液で必死に洗い流そうとする。

 だが、消えない。

 その不快なザラつきは、俺が支払った「力の代償」として、舌の上に呪いのように刻み込まれていた。


Would you like me to proceed to Episode 004_Part 2: The Sanctuary?

何を食べても砂の味。それは生きる喜びの喪失でした。 吹雪を避けるため、二人は廃墟となった地下街へ潜ります。 そこで漂ってきたのは、あり得ないはずの「スパイスの香り」でした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ