Episode 004-1: 砂の味
ススキノの入り口で、ついに北狼号が完全に沈黙しました。 極限の空腹に襲われたタケルは雪を口にしますが、それは「砂」の味しかしませんでした。 スーツの機能が、生存に不要な「味覚」を削除したのです。
【登場キャラクター】
高瀬タケル: 味覚を奪われ、絶望の中で地下街へ。
権田テツオ: 愛車との別れを惜しみつつ、先導する。
Part 1: Hunger in the Void
その瞬間は、唐突に訪れた。
ゴフッ、ゴフッ、ガガガッ……プスン。
北狼号のエンジンが、肺を患った老人のような乾いた咳をしたかと思うと、不意に沈黙した。
腹の底に響いていた振動が消える。
ダッシュボードの計器類が、一斉に光を失う。
残されたのは、ヒーターの送風口から気休め程度に漏れる最後の温風と、外の容赦ない吹雪と、その風が鉄板を叩く音だけだった。
「……あ。」
俺は声を漏らした。
車体が惰性で数メートルだけ進み、そして重たい鉄の塊となって雪の中で停止した。
テツオは、何度もキーを回したりはしなかった。
アクセルを無駄に踏み込むこともしなかった。
ただ、静かにキーから手を離し、革巻きのハンドルをそっと撫でた。
まるで、長く連れ添った戦友の瞼を閉じてやるように。
「……ここまでか。」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「いい夢見させてもらったぜ。」
彼は懐から短くなった「わかば」を取り出し、火を点けようとしたが、オイル切れのライターは虚しく火花を散らすだけだった。
彼は苦笑して、タバコを耳に挟んだ。
「降りろ、少年。……こいつはもう、ただの鉄屑だ。」
俺たちは車外へと降り立った。
ドアを閉める。
バンッ。
その重く乾いた音が、俺たちから「気休めの暖房」と「移動手段」、そして「鋼鉄の殻」が永遠に失われたことを告げる合図のように響いた。
寒い。
今までとはまた質の違う寒さが襲ってきた。
服の隙間から侵入してくる冷気が、汗ばんだ肌を一瞬で凍りつかせ、体温を容赦なく奪っていく。
俺は振り返り、雪に埋もれていく北狼号を見た。
片目が潰れ、タイヤがなくなり、満身創痍でここまで走ってきた鉄の狼。
その巨体が、急速に白く塗り潰されていく。
もう、二度と動くことはない。
「……行くぞ。」
テツオが歩き出した。
俺は襟元をかき合わせ、その後ろ姿を追った。
場所は、国道三六号線。
目の前には、かつて北の歓楽街と呼ばれた「ススキノ」の入り口が広がっていた。
だが、そこは俺の知っている煌びやかな夜の街ではなかった。
異界だ。
そうとしか表現できない光景が広がっていた。
ビルの壁面を覆う巨大なネオン看板。
それらが、ドロドロに溶けていた。
熱で溶けたのではない。まるで絵具に水を垂らしたように、色彩が垂れ下がり、アスファルトの上で極彩色の汚泥となって混ざり合っている。
電飾がバグったように明滅している。
チカ、チカチカ、ブツン。
不規則なリズムで点滅する光が、雪の乱舞をストロボのように照らし出し、視界をおかしくさせる。
俺は、交差点の中央で足を止めた。
ススキノの象徴。
あの、ヒゲのおじさんが描かれたニッカウヰスキーの巨大看板。
ない。
半分が、ない。
看板の右半分が、あのアパートと同じように「灰色の砂」になって崩れ落ちていた。
笑顔でグラスを傾けていたおじさんの顔は、左半分だけを残し、残りは虚空へと霧散している。
砂になった部分は、滝のようにビルの下へ流れ落ち、歩道に灰色の山を築いていた。
「……なんだよ、これ。」
俺は立ち尽くした。
札幌の歴史が。
何十年もこの街を見守ってきた象徴が。
ただの砂になって、風に吹き飛ばされていく。
世界が壊れている。
俺の家だけじゃない。この街の「記憶」そのものが、物理的に削除されようとしているのだ。
グゥゥゥゥ……。
不意に、腹の底から情けない音が鳴った。
空腹だ。
感傷に浸る余裕さえ与えてくれない、暴力的な飢餓感。
さっきの戦闘で、俺の体は限界までカロリーを消費していた。
胃袋が裏返るほど収縮し、胃壁が擦れ合う痛みで脂汗が滲む。
手足の末端が痺れ、視界が白く霞む。
食いたい。
何でもいい。
何かを胃に入れないと、内臓が自分自身を消化し尽くしてしまう。
俺は、無意識に足元の雪をすくい上げた。
排気ガスで汚れていない、降り積もったばかりの白い雪。
水分補給だ。
せめて冷たい水で、胃の痙攣を誤魔化そう。
俺は震える手で、雪を口に運んだ。
ジャリッ。
……え?
口の中に広がったのは、冷たい水の感触ではなかった。
乾燥した、ザラザラとした異物感。
砂だ。
俺は慌てて吐き出した。
唾液と混ざったそれは、確かに雪のはずなのに、口に入れた瞬間に「灰色の砂」へと変質したかのように、無機質な感触だけを残して喉に張り付いた。
「……雪じゃない、のか?」
いや、手に持っているのは間違いなく雪だ。体温で溶けて水滴になっている。
なのに、なぜ口に入れると砂になる?
俺はポケットを探った。
テツオから貰ったカロリーメイトの残骸。
袋の底に残っていた、粉々になった欠片。
俺はそれを、藁にもすがる思いで口の中に放り込んだ。
ガリッ。ゴリッ。
「……ぁ、ぐ……。」
吐き気がした。
味がない。
チーズの香りも、小麦の甘みも、塩気さえもしない。
そこにあるのは、乾燥したセメントを噛んでいるような、水分を奪う不快な粉末の感触だけ。
飲み込めない。
喉が拒絶して、痙攣する。
俺は咳き込みながら、ボロボロとそれを地面に吐き出した。
なぜだ。
舌が麻痺したのか?
寒さで感覚がおかしくなったのか?
カチッ。
脳の奥で、小さなスイッチが切り替わる音がした。
理解した。
いや、理解させられた。
背中の異物――俺に寄生しているあの黒い泥が、俺の肉体を最適化しようとしているのだ。
生存に不要な機能をカットし、エネルギー効率を最大化するために。
そして、あいつにとって「味覚」とは、無駄なデータだった。
「美味しい」と感じる幸福感。
「不味い」と感じる不快感。
それらは、戦闘と生存には不要なノイズだ。
だから、削除した。
俺の脳から、「食事を楽しむ」という概念そのものを物理的に切り離したのだ。
「……ふざけんな。」
俺は吐き捨てた。
口の中には、まだジャリジャリとした砂の感触が残っている。
これから先、俺は何を食べてもこの感触なのか?
サチの手料理も、大好きなスープカレーも、すべて砂と泥の味に変わってしまうのか?
それは、死ぬことよりも恐ろしい「人間の死」だった。
生きる喜びを奪われたまま、ただ心臓を動かすためだけに有機物を摂取する。
それはもう、機械と何が違うんだ。
「……おい、どうした。」
テツオが振り返った。
俺が雪の上に蹲っているのを見て、怪訝そうな顔をしている。
「……なんでも、ないです。」
俺はふらつきながら立ち上がった。
言えない。
味がしないなんて言ったら、テツオは俺をどう思うだろう。
「もう人間じゃねえな」と、また笑うだろうか。
それとも、哀れみの目で見るだろうか。
どちらも耐えられなかった。
吹雪が強まった。
もはや風ではない。
無数の氷の粒が、回転するヤスリのように皮膚を削り取っていく。
痛い。
顔の感覚がなくなる。
「ここじゃ凍え死ぬぞ。……潜るぞ。」
テツオが指差したのは、地下街への入り口だった。
『ポールタウン』と書かれた看板の下、シャッターが降りている。
俺たちはそこへ駆け寄った。
テツオがバールをシャッターの隙間にねじ込み、強引にこじ開ける。
ギギギギッ……ガシャァン!
人が一人通れるだけの隙間が開いた。
そこからは、カビ臭いような、淀んだ生温かい空気が漂ってきた。
「行け。」
テツオに促され、俺は暗闇の中へと滑り込んだ。
階段を転げ落ちるように降りる。
背後でテツオが入ってくると、猛烈な吹雪の音が少しだけ遠のいた。
そこは、完全な闇だった。
非常灯すら点いていない、死んだ地下街。
だが、地上のあの狂ったネオンと砂の味よりは、この暗闇の方が幾分マシに思えた。
俺は壁に背を預け、ズルズルと座り込んだ。
口の中に残る砂の感触を、唾液で必死に洗い流そうとする。
だが、消えない。
その不快なザラつきは、俺が支払った「力の代償」として、舌の上に呪いのように刻み込まれていた。
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何を食べても砂の味。それは生きる喜びの喪失でした。 吹雪を避けるため、二人は廃墟となった地下街へ潜ります。 そこで漂ってきたのは、あり得ないはずの「スパイスの香り」でした。




