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Episode 003-4: 演算の誤謬(ごびゅう)

逃げるトラックの背後で、アパートが完全に砂となって消滅しました。 「住所はもう地図から消えた。お前はもう幽霊だ」 テツオの言葉が、タケルの社会的死を宣告します。

【登場キャラクター】

高瀬タケル: 全ての生活基盤を失い、ただ南へ進むしかない「幽霊」となる。

権田テツオ: 冷徹な事実を告げつつも、タケルを見捨てずに走り続ける。

Part 4: The Vanishing Roots


 北狼号のエンジンが、断末魔のような咆哮を上げていた。


 タイヤのないホイールがアスファルトを削り、火花を散らす。

 狂ったように群がってきた隣人たちの叫び声は、吹き荒れる石狩の猛吹雪と、トラックの爆音にかき消され、あっという間に遠ざかっていった。


 俺は助手席のシートに体を預け、激しく揺れる視界の中で、割れたサイドミラーにしがみつくように視線を送っていた。


 逃げ延びた。

 だが、その安堵感よりも、胸をえぐり取られるような喪失感の方が遥かに重かった。


 遠ざかる街並み。

 ヘッドライトの光が届かなくなった暗闇の中に、俺のアパート『コーポ・ポラリス』の輪郭が浮かんでいる。

 半分が切り取られ、断面を晒した無残な姿。

 あそこにはまだ、俺の生活があったはずだ。

 昨日脱ぎ捨てた部屋着。

 読みかけの雑誌。

 サチが大切にしていた、安っぽいマグカップ。

 それらが、寒風に晒され、今まさに凍りつこうとしている。


「……あ。」


 俺の口から、空気の漏れるような音がした。


 見てしまった。

 バックミラーの向こう側。

 アパートの背後に広がる夜空が、不自然に歪んだのを。


 雲ではない。

 もっと濃密で、光を一切反射しない「絶対的な黒」。

 それが、巨大な津波のように、音もなく立ち上がった。


 黒い砂嵐だ。

 いや、それは砂というにはあまりに微細で、嵐というにはあまりに静かすぎた。


 音がない。

 建物が崩れる轟音も、ガラスが割れる破砕音も、木材が折れる音さえしない。


 世界そのものを巨大な消しゴムで擦るように、その黒い闇がアパートに接触した瞬間、物質としての結合が解けていく。


 サラサラ、と。

 幻聴のような音が脳裏を掠めた。


 屋根が、溶けた。

 瓦の一枚一枚が、瞬時に灰色の粒子へと分解され、黒い暴風の中に吸い込まれていく。

 続いて、二階の壁が霧散した。

 俺の部屋があった空間。

 そこにあったはずの本棚が、テレビが、布団が。

 形を保つことを許されず、原子レベルまで粉砕され、ただの「砂」となって夜空へ還っていく。


「やめろ……。」


 俺は呻いた。

 やめてくれ。

 そこは、ただの建物じゃない。

 俺とサチとヤマトが生きてきた証拠なんだ。

 両親が死んで、三人だけで必死に守ってきた、たった一つの聖域なんだ。


 だが、現象は止まらない。

 無慈悲な浸食は、一階へと達した。

 大家さんの部屋が消える。

 玄関のポストが消える。

 『高瀬』という表札が、一瞬だけヘッドライトの残光に浮かび上がり――そして、砂となって弾け飛んだ。


 物理的な破壊ではない。

 存在の抹消だ。


 そこにあった質量、色、匂い、記憶。

 全てが等しく、無価値な灰色の粒子へと還元されていく。


「あ、あぁ……。」


 俺の手が、何もない空を掴もうとして空を切った。


 消えた。

 全部、消えた。


 アパートが建っていた場所には、瓦礫の山さえ残らなかった。

 更地ですらない。

 地面ごとえぐり取られ、底の見えない「黒い虚無の穴」だけが、雪原の中にぽっかりと口を開けていた。


 それは、世界に穿たれた傷跡だった。

 俺という人間がこの街に存在していたという事実が、修正液で塗り潰された痕跡。


 トラックは角を曲がり、その光景は建物の影に隠れて見えなくなった。

 だが、俺の網膜には、あの「黒い穴」が焼き付いて離れない。


 俺は助手席で、膝を抱えるように丸まった。

 寒い。

 窓のない開口部から吹き込む風のせいじゃない。

 もっと体の芯、魂の深い部分が、凍りつくように冷たかった。


 テツオは、車を止めなかった。

 アクセルを緩めることさえしない。

 彼は割れたサイドミラーを一瞥し、そして前を向いたまま、短くなった煙草を噛み潰した。


「……諦めろ。」


 その声は、エンジンの轟音に混じって、低く、冷たく響いた。


住所そこはもう、地図から消えた。」


 彼は淡々と事実を告げた。

 同情も、慰めもない。

 ただ、この世界で生き残るための残酷なルールを突きつけるように。


「お前はもう、帰り道を持たない幽霊だ。」


 幽霊。

 その言葉が、俺の胸に重くのしかかった。


 そうだ。

 家がないということは、そういうことだ。


 俺はもう、どこにも帰れない。

 Amazonの荷物は届かない。

 電気も、ガスも、水道も、俺の名義で契約することはできない。

 明日着る服もない。

 身分を証明するものもない。

 住民票も、保険証も、あの黒い穴の中に消えた。


 高瀬タケルという人間は、社会的に死んだのだ。


 俺が手に入れた「力」。

 あの黒い泥のような怪物。

 それを宿した代償として、俺は「人間としての席」を没収されたのだ。

 等価交換。

 テツオの言った通りだ。

 俺は、怪物の力を得る代わりに、人間としての生活を全て差し出した。


 ポタリ。


 膝の上に、熱い雫が落ちた。

 涙だった。


 悲しいわけじゃない。

 悔しいわけでもない。

 ただ、肉体が泣いていた。

 自分という存在を定義していた「外枠」を物理的に引き剥がされたことによる、生理的な喪失反応。

 指先を切断された時のような、鋭利で、取り返しのつかない痛みが、涙となって溢れ出していた。


 俺は汚れた手で顔を覆った。

 泥と血と、涙が混ざり合い、顔中がぐちゃぐちゃになる。

 拭っても、拭っても、止まらない。


 その時。

 涙で滲む視界の端に、赤いノイズが走った。

 あの日に見た、あの無慈悲なシステムログ。

 それは脳内に直接響く、呪いの通知音と共に現れた。


【侵食率 2.5%:住所の喪失】


 数字。

 俺の人生の崩壊が、たった数バイトのデータとして処理された。


 二・五パーセント。

 家を失い、隣人に襲われ、人殺しの罪を背負って、それでもたったの二・五パーセント。

 あと九七・五パーセント。

 俺はあとどれだけ失えば、サチの元へ辿り着けるんだ?

 その時、俺の体には、心には、何が残っているんだ?


 恐怖で、歯がカチカチと鳴った。

 俺は自分が化け物になっていくのが怖い。

 サチを見つけた時、俺が「お兄ちゃん」の顔をしていられる保証なんて、どこにもない。


 それでも。

 トラックは止まらない。

 俺たちを乗せた鉄の棺桶は、砂のように崩れゆく札幌の街を、南へ、南へと走り続ける。


 行き先は地獄かもしれない。

 だが、今の俺には、その地獄だけが唯一の「進むべき道」だった。


 俺は涙を拭い、闇の中に沈んでいく故郷に背を向けた。

 さよなら、俺の日常。

 さよなら、高瀬タケル。


 ここから先は、名前のない幽霊の時間だ。


Would you like me to proceed to Episode 004: 砂の味?

家も、身分も、明日着る服もない。 全てを失い、文字通り「何者でもなくなった」タケル。 システムログは冷酷に【住所の喪失】を告げます。 次回『Episode 004: 砂の味』。 極限の飢餓と、味覚の喪失。

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