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Episode 003-3: 演算の誤謬(ごびゅう)

辿り着いたアパート『コーポ・ポラリス』。 そこは無残にも半分が消滅していました。 サチ、ヤマト、三人で暮らした痕跡が、灰色の砂になって崩れていく。 さらに、変わり果てた姿の「隣人」たちが襲いかかります。

【登場キャラクター】

高瀬タケル: 帰るべき家が半分消えている現実に愕然とする。

暴徒たち: 殺意に脳を焼かれた近隣住民たち。

Part 3: The Lost Address


 北狼号は、深夜の東区を走っていた。


 片方のライトが割れた隻眼のヘッドライトが、猛吹雪の向こうにある街並みを頼りなく照らし出している。

 助手席の振動は相変わらず酷い。

 ガタガタと骨を揺らす衝撃が続くたびに、俺の空っぽの胃袋は不快に収縮し、酸っぱい液を喉元まで押し上げてくる。


 だが、俺の目は窓の外に釘付けになっていた。


 おかしい。

 この街は、何かが狂っている。


 見慣れた住宅街のはずだった。

 俺が毎日、自転車で通った通勤路。

 角のコンビニ、クリーニング店、小さな公園。

 それらが、異様な姿に変わり果てていた。


 爆撃を受けたわけじゃない。

 火災の跡でもない。


 崩れているのだ。

 まるで、巨大なシロアリの大群に食い荒らされたかのように。


 コンクリートの塀が、ボロボロと崩れ落ちている。

 民家の壁が、虫食い穴のようにスカスカになり、強風に煽られてサラサラと「灰色の粉」になって飛散していく。

 雪ではない。

 あれは、建物を構成していた物質そのものが、結合力を失って砂へと還っているのだ。


「……なんだよ、これ。」


 俺は窓に張り付いて呟いた。

 強酸性の雨でも降ったのか?

 それとも、未知のバクテリアか何かが、コンクリートだけを分解しているのか?


 信号機が根元から折れ、電線が生き物のように垂れ下がっている。

 アスファルトには無数の穴が開き、そこから乾いた砂が噴き出している。

 札幌という都市が、物理的に「風化」している。

 たった数時間で、数百年の時が経過した廃墟のように。


「……おい、少年。……ここか?」


 テツオが声を絞り出した。

 トラックが減速する。


 俺は前を見た。

 見覚えのあるカーブ。

 あの角を曲がれば、俺のアパートがある。

 築三〇年の木造アパート、『コーポ・ポラリス』。

 ボロいけど、俺の城だ。

 サチと、ヤマトと、三人で暮らした、唯一の帰る場所。


「……ああ。そこを右だ。」


 俺は祈るように言った。

 頼む。

 無事でいてくれ。

 部屋に入れば、いつもの匂いがするはずだ。

 サチが忘れていったマフラーが、ソファに掛かっているはずだ。

 ヤマトが買ってそのままにしてる小説も、テーブルに残っていて。

 冷蔵庫には、賞味期限切れの牛乳と、昨日の残りのカレーが入っているはずだ。


 トラックが角を曲がった。

 ヘッドライトが、闇の奥を切り裂く。


 俺は、息を飲んだ。


 ない。


 いや、ある。

 半分だけ。


「……う、そ……だろ……。」


 目の前にあったのは、巨大なナイフで斜めに切り取られたような、アパートの残骸だった。


 一階の大家さんの部屋は残っている。

 だが、俺の住んでいた二階部分は、綺麗さっぱり消滅していた。

 屋根がない。

 壁がない。

 俺の部屋があった空間は、ただの夜空に置き換わっている。


 そして、建物の足元には、小高い丘ができるほどの「灰色の砂」が堆積していた。

 

 あれが、俺の部屋か?

 俺のベッドも、テレビも、本棚も、サチとのアルバムも。ヤマトのパソコンも。

 すべて、あのサラサラとした砂に変わってしまったのか?


 キキーッ……。


 トラックが、砂を踏んで停止した。

 俺はドアのない助手席から、転がり落ちるように外へ出た。


 膝をつく。

 砂と雪が混ざった冷たい感触。

 手ですくってみる。

 指の間から、サラサラとこぼれ落ちていく。

 それはコンクリートの粉末のようで、しかし鉄錆のような臭いがした。


「俺の……家……。」


 声が震えた。

 思考が停止する。

 寒さも、飢えも、背中の痛みも、一瞬で消し飛んだ。

 残ったのは、心臓を直接握り潰されるような喪失感だけ。


 帰る場所がない。

 物理的に、ない。

 俺は今日、どこで眠ればいい?

 どこへ帰ればいい?


 断面が晒されたアパートの壁には、隣の部屋のポスターが半分だけ残って、寒風にパタパタと虚しく羽ばたいていた。

 生活の痕跡。

 それが余計に、ここが「死んだ場所」であることを突きつけてくる。


 テツオが運転席から降りてくる気配がした。

 何か言っているようだが、耳に入らない。

 俺はただ、砂の山を見つめて呆然としていた。


 その時だった。


 ザッ、ザッ、ザッ。


 雪を踏む音がした。

 一人じゃない。複数だ。

 物陰から、建物の隙間から、人影が現れる。


 近所の住人か?

 よかった、生き残りがいたんだ。


「……あの、すみません。」


 俺はふらつく足で立ち上がり、声をかけた。

 

「ここ、何があったんですか? 俺、二階の高瀬ですけど……。」


 ヘッドライトの光が、彼らの姿を照らし出した。


 先頭にいたのは、近所のスーパーで見かける主婦だった。

 買い物袋を下げたまま、エプロン姿で立っている。

 その後ろには、スーツ姿のサラリーマン。

 ジャージを着た学生風の男。


 見覚えのある顔だ。

 だが、何かが決定的に違った。


 目だ。

 彼らの両目は、白目の部分がないほどに充血し、瞳孔が極限まで開いていた。

 焦点が合っていない。

 どこか遠く、ここではない何処かを凝視しているような、虚ろで、狂気を孕んだ目。


 口元からは、白い泡が垂れている。

 喉の奥で、獣の唸り声のような音がゴロゴロと鳴っている。


「……え?」


 俺が後ずさった瞬間。

 主婦と目が合った。


 ピタリ、と彼女の動きが止まる。

 そして、顔面の筋肉があり得ない方向に歪んだ。

 笑ったのか、怒ったのかすら判別できない、痙攣した表情。


「ア、アガ……ガァァァァッ!!!」


 絶叫。

 人間の声帯から出るはずのない、金切り声。

 

 それを合図に、静寂は崩壊した。


 ダダダダダダッ!!


 速い。

 ゾンビ映画のような、よろめく動きではない。

 リミッターの外れた人間が、筋肉繊維を断裂させながら全力疾走してくる速度だ。


 主婦の手には、出刃包丁が握られていた。

 サラリーマンは、ブロック塀の破片を振り上げている。

 学生は、雪かき用のスコップを槍のように構えている。


 殺意。

 純度一〇〇%の、混じりっけのない殺意の塊。

 彼らは俺を認識した瞬間に、「殺すべき敵」として処理を開始したのだ。


「う、わぁぁぁッ!?」


 俺は腰が抜けて動けなかった。

 なんで?

 なんで近所の人たちが?

 昨日まで挨拶してたじゃないか。

 お互い様だねって、雪かきを手伝ってくれたじゃないか。


 主婦が目の前に迫る。

 振り上げられた包丁が、ヘッドライトの光を反射してギラリと光った。


 死ぬ。

 こんな、わけのわからない理由で。


 ドゴォッ!!


 鈍い音がして、主婦の体が真横に吹き飛んだ。


「ボーッとしてんじゃねえッ!!」


 テツオだ。

 彼が横から飛び蹴りを叩き込んだのだ。

 主婦は雪の上に転がったが、すぐにバネ仕掛けの人形のように起き上がろうとする。

 痛みを感じていない。


「テ、テツオさん……これ……。」


「乗れ! 逃げるぞ!」


 テツオは俺の襟首を掴み、乱暴に引きずった。


「こいつらもう人間じゃねえ! 中身が空っぽだ!」


「で、でも、近所の人たちで……。」


「見りゃわかんだろ! この街の空気は狂ってやがる! 殺意に脳みそを焼かれたんだよ!」


 サラリーマンがブロック塀を投げつけてきた。

 トラックのボンネットに当たり、激しい音が響く。

 学生がスコップを振り回して突っ込んでくる。


 テツオは俺を助手席に放り込むと、自分も運転席に飛び乗った。

 ドアを閉める暇もない。

 彼はギアを叩き込み、アクセルを床まで踏み抜いた。


 グオォォォンッ!!


 北狼号が咆哮を上げる。

 タイヤのないホイールが火花を散らし、雪と砂を巻き上げて急発進する。


 バンッ! ドンッ!


 群がってきた住人たちが、車体にしがみつこうとして弾き飛ばされる。

 窓ガラスのない助手席から、狂った男の手が伸びてきた。

 俺のジャケットを掴もうとする、泥だらけの指。


「ひッ……!」


 俺は無我夢中でその手を蹴り飛ばした。

 男は「ガァッ!」と声を上げ、雪の中に転がり落ちていった。


 トラックは暴走する獣のように路地を駆け抜け、大通りへと脱出した。

 バックミラーを見る。

 暗闇の中で、数十人の影が、なおもこちらを追いかけて走ってくるのが見えた。

 四つん這いになって走る者、倒れた仲間を踏みつけて進む者。


 地獄だ。

 ここはもう、俺の知っている札幌じゃない。


「……はぁ、……はぁ、……ッ。」


 俺はシートに沈み込み、震えを抑えるように自分の体を抱きしめた。

 砂だらけの服。

 消えた家。

 襲いかかってきた隣人たち。


 帰る場所なんて、最初からなかったんだ。

 テツオの言った通りだ。

 俺はもう、帰り道を持たない幽霊なんだ。


 右目の奥で、異物が冷たく脈打った。

 まるで、「それが現実だ」と嘲笑うかのように。


 トラックは、砂と雪の混じる夜の街を、あてもなく南へと走り続けた。

 行き先は、どこにもない。

 ただ、この狂気から一秒でも長く逃げ続けるための、終わりのない逃避行が始まっただけだった。


Would you like me to proceed to Episode 003_Part 4: The Vanishing Roots?

かつて挨拶を交わした人々が、殺意に支配された暴徒と化している。 タケルたちは追われるようにその場を逃げ出しました。 次回、タケルにとって最も残酷な「喪失」が訪れます。

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