Episode 003-2: 演算の誤謬(ごびゅう)
雪山に埋もれた北狼号。 テツオの執念と蹴りが、死にかけたエンジンを無理やり蘇生させました。 帰路につく車内で、タケルは「日常」の妄想を語り始めます。 「帰ったら、コンビニで一番高い弁当を買うんだ。」
【登場キャラクター】
権田テツオ: 凍りついたトラックを現場の知恵と暴力で再始動させる。
高瀬タケル: 心の均衡を保つため、ありふれた日常の願望を口にする。
Part 2: The Long Way Home
北狼号は、死んでいた。
路肩の巨大な雪山に頭から突っ込み、車体の半分以上が硬い雪の壁に飲み込まれている。
ボンネットはひしゃげ、蒸気を上げていたはずのラジエーターは、いまや氷の彫刻のようにカチカチに凍りついている。
誰が見ても、ただの遭難車両だ。
この氷点下の世界で、一度心臓を止めた鉄の塊が、再び息を吹き返すことなどあり得ない。
だが、権田テツオは諦めていなかった。
「……起きろ。てめえはまだ、死んでねえ。」
彼は血まみれの手で、スコップ代わりの鉄板を握りしめ、タイヤを埋め尽くす圧雪を必死に削っていた。
ガッ! ガッ!
雪はコンクリートのように硬く、ビクともしない。
修理ではない。発掘作業だ。
だが、どれだけ雪を掻き出しても、肝心のエンジンはうんともすんとも言わない。
衝撃と雪詰まりで窒息し、バッテリーも死にかけているのだ。
「起きろッ! まだ終わってねえぞ! 俺たちは帰るんだよ、あのクソみてえな街へッ!」
ドガンッ!
テツオが叫び、凍りついた吸気口をバールで殴りつける。詰まった氷塊を物理的に粉砕しているのだ。
俺は、その様子を瓦礫の陰からぼんやりと見ていた。
手伝わなきゃ。
そう思うのに、体が動かない。
指先一つ動かすカロリーさえ残っていない。
ただ、寒さと飢えで意識が遠のきそうになるのを、必死に食い縛っているだけだ。
テツオが、雪だらけの運転席に潜り込んだ。
キーを回す音。
キュル……キュ……。
セルモーターが、断末魔のように弱々しく鳴いた。
かからない。当たり前だ。シリンダーの中まで凍りついている。
「……ナメてんじゃねえぞ、コラァッ!!」
ドゴォォォンッ!!
テツオがダッシュボードを思い切り蹴り上げた。
その衝撃で、わずかに残っていた電気が通ったのか、あるいは執念が勝ったのか。
ズドンッ。
ボッ、ボボッ……ボボボボボ……。
不整脈のようなアイドリング音が響いた。
マフラーから黒煙がゴボリと吐き出され、雪面を汚す。車体が痙攣したように震え出す。
瀕死の呼吸だ。いつ止まってもおかしくない。
「……へっ。ざまあみろ。」
テツオが煤だらけの顔で笑った。 その笑顔は、機械への愛着というよりは、死神から時間を分捕った男の、悪意ある勝利の笑みだった。
「乗れ、少年。……騙し騙し行くぞ。」
俺はふらつく足で、助手席へと這い上がった。
ドアはない。衝撃で吹き飛び、ベニヤ板も剥がれ落ちている。
そこにあるのは、ひしゃげた鉄枠と、雪まみれのシートだけだ。
俺が体を沈めると、シートからジャリッという音がした。
まるで冷凍庫だ。
走る冷凍庫。
北狼号は、歪んだホイールを軋ませながら、バックで雪山から脱出した。
真っ直ぐ走ることすらできない。
フレームが歪んでいるのか、車体は斜めに傾き、ガタガタと激しい振動が全身の骨を揺らす。
寒い。
遮るものがない開口部から、石狩の猛吹雪が容赦なく吹き込んでくる。
雪が頬を叩く。
風が体温を削り取る。
だが、不思議と不快ではなかった。
今の俺にとって、この痛みだけが「まだ生きている」という実感を与えてくれる唯一の信号だったからだ。
トラックは、廃工場のゲートを抜け、国道へと戻っていく。
時速三〇キロにも満たない、死に損ないの行軍。
俺は、流れていく灰色の景色を眺めていた。
何も考えたくなかった。
あの、人を殺した感触。
背負ってしまった他人の記憶。
それらを思い出すと、また胃が裏返りそうになる。
だから俺は、口を開いた。
この沈黙を埋めるために。
自分自身を騙すために。
「……なぁ、テツオさん。」
声が震える。
歯の根が合わない。
「……帰ったらさ。……コンビニ、寄ってもいいかな。」
テツオは前を見たまま、何も言わない。
咥えた煙草の火が、風で赤く明滅しているだけだ。
「俺、腹減ってて。……一番高い弁当、買おうと思って。」
「あの、ほら。ステーキ重とか、あるだろ。千円くらいの。」
「あと、ホットシェフのフライドチキンもいいな。……あそこの、美味いんだよな。」
言葉が、勝手に溢れてくる。
脳が「日常」という麻薬を求めているのだ。
こんな地獄なんて嘘だ。
家に帰れば、いつもの生活が待っている。
そう信じ込まなければ、心が砕けてしまいそうだった。
「……シャワーも、浴びたいな。」
俺は自分の手を見た。
爪の間に入り込んだ黒い泥。こびりついた赤黒い血。
「熱いお湯でさ。……全部、洗い流して。」
「この服も、洗濯しなきゃ。……ダウン、破れちゃったけど、縫えばまだ着れるかな。」
「ユニクロだし、買い直した方が早いか。……でも、金ないんだよな、今月。」
ふふ、と乾いた笑いが漏れた。
平和な悩みだ。
服の心配。金の心配。
さっきまで殺し合いをしていた人間がする悩みじゃない。
「あ、そうだ。……明日、シフト入ってるんだ。」
「朝九時から。……連絡しなきゃ。」
「なんて言おう。……『風邪引きました』って言えば、休めるかな。」
「サチに怒られるな。……『お兄ちゃん、またサボるの?』って。」
「渋々さ、ヤマトが……仲裁に入るんだろうな。……。」
サチ。ヤマト
二人の名前を出した瞬間、胸が締め付けられた。
サチも……ヤマトも、今はいない。
連れ去られたんだ。
分かっている。
分かっているけど、言葉にするのを止められない。
「……帰ったら、サチに……『ただいま』って。」
「そしたら、あいつ……夕飯、作って待っててくれるかな。」
「今日はカレーがいいな。……スープカレーじゃなくて、普通の、家のカレー。」
「……そこにさ、ヤマトが……また理屈こねて来てさ、言い合うんだろうな……。」
涙が滲んだ。
風のせいだ。
吹雪が目に入っただけだ。
ありふれた幸福。
昨日まで当たり前のようにそこにあった、退屈で、どうでもいい日常。
それが今、手の届かない宝石のように輝いて見える。
テツオは、まだ何も言わない。
肯定も、否定もしない。
ただ、ハンドルを握る手に力が入り、指の関節が白くなっているのが見えた。
彼は知っているのかもしれない。
俺が語っている「帰る場所」なんて、もうどこにもないことを。
それでも、彼は俺の妄想を遮らなかった。
それが、この不器用な男なりの優しさなのか、それとも死刑囚に最後の夢を見せる慈悲なのかは分からない。
ただ、その重苦しい沈黙だけが、車内を満たしていた。
ガタゴトと、トラックが揺れる。
壊れかけのサスペンションが悲鳴を上げ、俺の尻を突き上げる。
痛い。
寒い。
ひもじい。
でも、この不快感だけが、俺を現実に繋ぎ止めていた。
ふと、前方が明るくなった気がした。
吹雪のカーテンの向こう。
灰色の闇の中に、ぼんやりとしたオレンジ色の光が滲んでいる。
街明かりだ。
札幌の、街の灯りだ。
「……見えた。」
俺は身を乗り出した。
帰ってきた。
あそこには、暖房の効いた部屋がある。
柔らかい布団がある。
人の声がある。
だが。
ズキンッ。
右目の奥が、小さく疼いた。
町村ツカサから簒奪した「何か」が、脳内で不協和音を奏でた。
俺の左目は、懐かしい故郷の光を見ている。
だが、俺の右目は違った。
ノイズ。
街の灯りが、美しいオレンジ色ではなく、青白く冷たい「データの羅列」に見える。
ビルの輪郭がグリッド線で表示され、そこから立ち昇る熱量が数値として知覚される。
異界。
そこは、俺が知っている札幌ではない。
冷徹なシステムによって管理された、巨大なサーバーの内部。
拒絶されている。
あの光の中に、俺の居場所はない。
俺はもう、「あちら側」の住人ではないのだ。
人殺しの怪物。
システムのエラー。
そんな異物が、あの温かな光の中に混ざることなど許されない。
「……綺麗だな。」
俺は呟いた。
それは心からの感想であり、同時に、永遠の別れの言葉のようにも響いた。
テツオが、短くなった煙草を窓の外へ弾き飛ばした。
火の粉が風に舞い、一瞬で闇に飲まれて消える。
「……ああ。綺麗だ。」
彼が初めて口を開いた。
その声は、酷く嗄れていた。
「だが、眩しすぎる。」
彼はサングラスの位置を直し、アクセルを踏み込んだ。
北狼号が呻き声を上げ、最後の力を振り絞って加速する。
俺たちは、光に向かって走っているはずだった。
なのに、なぜだろう。
近づけば近づくほど、あの光が遠ざかっていくような気がしてならない。
俺はシートの背もたれに深く体を預け、目を閉じた。
瞼の裏に、サチの笑顔が浮かぶ。
ごめん、サチ。
お兄ちゃんは、少し変わってしまったかもしれない。
でも、必ず帰るから。
お前のいる場所へ。
たとえそこが、どんな地獄の底だとしても。
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叶うはずのない願い。 テツオはそれを否定せず、ただ黙ってハンドルを握ります。 そして見えてきた札幌の街明かり。 しかしタケルの右目には、それが冷たいデータの羅列にしか見えませんでした。




