Episode 003-1: 演算の誤謬(ごびゅう)
崩れ落ちたNo.01。 タケルは彼を殴り続け、その命を絶ちました。 死体から立ち昇る黒い霧がタケルの中に流れ込み、彼は敵の能力――「遠くを見る目」を強制的に継承します。
【登場キャラクター】
高瀬タケル: 町村を殺害し、能力を簒奪。人間から遠ざかる感覚に震える。
権田テツオ: タケルの勝利を見届ける。
Part 1: Fatal Exception
「…………熱い。」
No.01、町村ツカサは、そう呟いた。
彼が無機質なフェイスマスク越しに触れているのは、俺の黒い泥が叩き込まれた胸元だ。
そこには、計算式で構成された彼らの世界には存在しないはずの、物理的な汚点が残されている。
時が、止まったようだった。
町村の動きが、おかしい。
彼は踵を返そうとした。
いつもなら、流れるような動作で空間の座標をずらし、幻のように消え去るはずだ。
だが、その足が空中でピクリと止まった。
ガガッ……。
まるで、傷ついたレコードが同じ場所を繰り返すように。
あるいは、処理落ちした映像のコマ送りのように。
彼の肉体が、前へ進もうとする意思と、その場に縫い留められた「痛み」との間で矛盾し、痙攣している。
フリーズしている。
完璧だったあいつの演算装置が、俺が叩き込んだ「熱」という未知の変数を処理しきれず、致命的なラグを起こしているのだ。
隙だ。
コンマ数秒にも満たない、ほんの一瞬の硬直。
だが、今の俺――人間であることを半分辞め、獣の時間を生きている今の俺にとって、それは永遠にも等しい好機だった。
ドクンッ!!
背中の異物が、かつてないほど激しく脈打った。
――喰え。
――殺せ。
脳髄に直接響く、暴力的な命令。
俺の理性など、濁流に飲まれる小枝のように容易くへし折られる。
「……オ、オオオオオオオッ!!」
咆哮は、獣のものだった。
俺は地面を蹴った。雪ではなく、コンクリートの床を。
ブーツの底が悲鳴を上げ、摩擦熱で床が焦げる匂いがした。
速い。
自分でも信じられない速度で、景色が後ろへすっ飛んでいく。
五メートル。三メートル。ゼロ。
町村が、遅れて反応した。
その能面のような顔が、ギギギと不自然な動きでこちらを向く。
彼の瞳には、恐怖も驚愕もなかった。
あるのは、システムのエラーを理解できないまま、強制終了の直前に陥った機械のような、虚ろな光だけ。
彼が反射的に手をかざした。
指先から、黄金の光が溢れ出す。
防御座標の展開。
俺の攻撃を拒絶し、物理的に遮断する「見えない壁」が、俺の鼻先で構築される。
だが、遅いんだよ。
俺は、肥大化した左腕を突き出した。
黒い泥に覆われ、丸太のように膨れ上がった異形の拳。
それが、黄金の壁に接触する。
ギチギチギチギチッ……!!
嫌な音がした。
ガラスを爪で引っ掻くような、神経を逆撫でする高周波。
黄金の壁が、俺の侵入を阻もうと輝きを増す。
美しい幾何学模様。神の数式。完璧な秩序。
それが、俺の泥によって汚されていく。
黒いタールのような粘液が、黄金のラインに絡みつき、腐食させ、溶かしていく。
理屈じゃない。
計算でもない。
ただの、圧倒的な「質量」と「穢れ」による蹂躙。
お前の綺麗な数式なんて、俺の泥臭い暴力の前では紙屑同然だ。
パリンッ!!
砕ける音がした。
見えない壁に、蜘蛛の巣状の亀裂が走る。
町村の目が、わずかに見開かれた。
その亀裂の向こう側から、俺の拳が、防壁の破片を巻き込みながら突き抜ける。
狙うのは、その白い仮面。
お前の本体だ。
「……潰れろォッ!!」
ドォォォォォォォォンッ!!!
インパクトの瞬間、生々しい感触が拳に伝わった。
硬い仮面が砕け散る感触。
その奥にある鼻骨が折れ、眼窩が陥没し、柔らかい肉が潰れる、あの独特の気持ち悪い手応え。
町村の頭が、物理的にあり得ない角度へ弾け飛んだ。
体ごと吹き飛ぶ。
黒いロングコートが空中で舞い、彼は廃工場の錆びついた機械の山へと、ゴミのように叩きつけられた。
ガシャァァァンッ!
鉄パイプが崩れ、埃が舞う。
まだだ。
まだ息がある。
俺の背中の異物が、興奮したようにドクドクと脈打ち、追撃を促している。
俺は止まらなかった。
吹き飛ばした相手が地面に落ちるより早く、俺は瓦礫の山へと跳んだ。
町村は、崩れた鉄骨の間に埋もれていた。
白いフェイスマスクは半分砕け落ち、素顔が露わになっている。
端正な顔立ちだった。
血の通っていないような白い肌。色素の薄い瞳。
だが、その顔の左半分は、俺の拳によってひどく歪み、赤黒い血にまみれていた。
彼は、身動き一つしなかった。
逃げようとも、反撃しようともしない。
ただ、残った右目だけで、俺を見上げていた。
その瞳に映っているのは、俺ではない。
彼自身の内側で崩壊していく「論理」の残骸だ。
俺は、彼の上に馬乗りになった。
左手の泥が、生き物のように蠢き、さらに質量を増していく。
重い。
まるで鉄の塊を腕に付けているようだ。
俺は、その拳を振り上げた。
とどめを刺す。
ここで殺さなければ、こいつはまた俺を「掃除」しに来る。
理性が叫ぶ。殺すな、と。
本能が叫ぶ。殺せ、と。
町村が、血の泡を吐きながら、唇を動かした。
命乞いか?
呪いの言葉か?
違う。
「……解、なし。」
それは、あまりにも無機質な、最期の報告だった。
彼は最期まで、人間としてではなく、システムの一部として機能停止することを選んだのだ。
俺は拳を振り下ろした。
グシャッ。
トマトをハンマーで叩き潰したような、水っぽい音がした。
一度では終わらない。
俺は何かに憑かれたように、何度も、何度も、拳を振り下ろした。
グシャッ。ベチャッ。グチュッ。
音が変わっていく。
骨が砕ける乾いた音が消え、肉と血が混ざり合う湿った音だけが、廃工場の静寂に反響する。
返り血が顔にかかる。
生温かい。
鉄の臭い。
内臓が空気に触れた時の、あの独特な湯気の臭い。
これが、No.01。
石狩を支配していた怪物。
神の如き力を振るっていた男の、あまりにも呆気ない末路。
もう、顔の原形はなかった。
そこにあるのは、黒いコートに包まれた、赤黒い肉の塊だけだ。
美しい数式も、黄金比も、すべてはこの汚れた肉塊へと還元された。
俺は動きを止めた。
肩で息をする。
白い呼気が、足元の死体から立ち昇る湯気と混ざり合う。
殺した。
俺が、殺した。
人間を。
吐き気がこみ上げてくる。
手が震える。
だが、それ以上に、背中の異物が歓喜に震えていた。
その時だった。
死体から、黒い霧のようなものが立ち昇った。
蒸気ではない。
もっと重く、粘り気のある、影のような闇。
それが意思を持っているかのように揺らめき、そして俺の左腕へと向かってきた。
「……う、わ……っ!?」
俺は後ずさろうとした。
だが、体は動かない。
左腕の泥が、その黒い霧を渇望するように、勝手に触手を伸ばしたのだ。
ゾワリ。
霧が、泥に触れた。
その瞬間、強烈な悪寒が背筋を駆け抜けた。
入ってくる。
俺の中に。
他人の命が。
ズブブブブブ……。
黒い霧は、泥を通して、俺の毛穴から無理やりねじ込まれていく。
泥水を鼻から吸い込んだような不快感。
拒絶反応で全身が粟立つ。
脳の奥底で、何かが焼き切れて、繋ぎ直される音がした。
バチッ、バチッ。
異質な神経回路が、俺の脳髄に無理やり接続される。
視界が歪む。
暗闇のはずの廃工場が、一瞬だけ、青白いグリッド線で覆われたように見えた。
遠くにある鉄骨の錆び、床に落ちたボルトの溝、舞い上がる埃の軌道。
それらが、顕微鏡で覗いたように鮮明に、そして冷徹に脳内に投影される。
これは、なんだ?
まるで脳の中に、冷たいガラスのレンズを埋め込まれたようだ。
遠くを見るための、感情のないスコープ。
町村ツカサが見ていた世界。
それを今、俺は強制的に「共有」させられている。
オエッ……。
生理的な嫌悪感で、胃が裏返りそうになる。
他人の感覚器官を移植されるという、冒涜的な行為。
俺の体の一部が、確実に俺のものではなくなっていく。
泥が、ズルリと皮膚の下へ戻っていく。
俺の左手は、いつもの人間の手に戻っていた。
だが、その皮膚の下には、今喰らったばかりの「他人の命」が、異物として確かに沈殿している。
その時。
網膜に、赤黒いノイズが走った。
Ep.001で見た、あの不快な文字列。
【討伐完了:No.01】
【レベルアップ】
レベルアップ。
なんてふざけた言葉だ。
強くなった?
進化した?
違う。
これは「人間性の喪失」だ。
人を殺して、その死体を糧にして、怪物のランクが上がっただけじゃないか。
俺は瓦礫の上に手をつき、荒い息を吐いた。
静寂が戻った廃工場で、自分の心臓の音だけがうるさい。
ブブッ。
ポケットの中で、何かが震えた。
俺はビクリと肩を震わせた。
乱闘の最中で落ちていた俺のスマホが、雪の上で一度だけ短く振動し、画面が青白く明滅した。
着信ではない。
メールでもない。
ただ、画面が一瞬だけ光り、そしてフッと消えた。
ヤマト。
お前か?
お前が、見ているのか?
俺が人を殺すところを。
俺が人間じゃなくなっていく様を。
どこか安全な場所から、モニター越しに観察しているのか?
「……クソッ。」
俺は呻いた。
怒りたいのに、怒る気力さえ残っていない。
ただ、背負ってしまった罪の重さが、鉛のように胃の底に溜まっていた。
俺は生きて、ここを出る。
だが、その代償は、俺が想像していたよりも遥かに残酷なものだった。
Would you like me to proceed to Episode 003_Part 2: The Long Way Home?
レベルアップ。それは人間性の喪失でした。 人を殺し、その力を奪った罪悪感。 それでもタケルは、壊れたスマホの画面に友への誓いを立てます。 「生きて、ここを出る」




