Episode 002-4: 処刑座標
廃工場内部での近接戦闘。 触れれば消える「消失の手」に対し、タケルは背中の異物を爆発させます。 左腕を覆う黒い泥。それは「虚無」すらも喰らい尽くす、冒涜的な捕食でした。
【登場キャラクター】
高瀬タケル: 黒い泥を部分展開し、消失攻撃を物理的に殴り飛ばす。
No.01 町村ツカサ: タケルの「熱」を理解できず、敗北する。
Part 4: The Zero Point
音が、なかった。
廃工場の内部は、まるで深海に沈められたかのような、重苦しい静寂に満たされていた。
窓という窓はベニヤ板とトタンで乱暴に塞がれ、昼間だというのに深夜のような漆黒の闇が広がっている。
天井のわずかな隙間から、細い月光のような白い光が差し込み、舞い上がる埃をキラキラと照らしているだけだ。
外ではまだ石狩の猛吹雪が吹き荒れているはずだ。
だが、風の音ひとつ聞こえない。
この空間だけが、世界から切り離されている。
ドクン。ドクン。ドクン。
聞こえるのは、肋骨を内側から叩く俺自身の心音だけだ。
いや、違う。
もう一つ、別の音がする。
グチュッ……グチュッ……。
俺の背中だ。
肩甲骨の間、脊髄に沿って深く埋め込まれた「何か」が、俺の心臓とは違う不気味なリズムで脈打っている。
粘着質で、湿った胎動。
皮膚の下で、溶けた鉛のような熱い液体が循環し、血管を食い破って全身へ広がろうとしている。
寒さは感じなかった。
ここはマイナス一〇度を下回る冷凍庫のような場所のはずなのに、俺の脳は焼けるように熱く、視界は異常なほど冴え渡っていた。
アドレナリンなんて生易しいものじゃない。
もっと根源的な、生物としてのリミッターが強制的に解除された状態。
俺は鉄骨の陰で、ひしゃげた鉄パイプを握りしめた。
手汗で滑る。
泥と錆の臭いが鼻をつく。
隣にいるテツオの、荒い呼吸音だけが、ここが現実であることを繋ぎ止める細い糸だった。
来る。
直感が、脳髄を刺す。
その時。
パチリ。
頭上で、乾いた音がした。
見上げた天井。
錆びついたトタン屋根の一画が、音もなく「消失」していた。
直径二メートルほどの真円。
切り取られた円盤が落ちてくることはない。
そこには最初から空しかなかったかのように、綺麗な穴がぽっかりと口を開けていた。
そこから、影が降りてきた。
No.01、町村ツカサ。
彼は落下しなかった。
重力に引かれることなく、まるで透明な階段があるかのように、フワリと、しかし絶対的な質量を持って、床へと着地した。
足音はない。
着地の衝撃で埃が舞うことさえなかった。
物理法則が、彼にだけは遠慮しているような、不気味な挙動。
逆光で表情は見えない。
だが、その顔には白いフェイスマスクのようなものが張り付いているように見えた。
目鼻立ちの凹凸が希薄な、能面のような無機質さ。
目が合った、その瞬間。
キィィィィィィィィィンッ!!!!
脳内で、サイレンが炸裂した。
鼓膜じゃない。脳の警報中枢が直接発火したような、耳をつんざく幻聴。
逃げろ。
死ぬ。
喰われる。
存在ごと消される。
生物としての全細胞が、目の前の存在を「敵」ではなく「災害」として認識し、絶叫を上げていた。
足が竦む。
だが、背中の「異物」がドクリと脈打ち、俺の足を強制的に前へと蹴り出させた。
町村は、言葉を発しなかった。
ただ、スッと右手を上げた。
人差し指が、俺に向けられる。
子供が鉄砲ごっこをするような、無邪気で、緩慢な動作。
俺の右目に見えている「黄金の螺旋」が、その指先から伸びる死の線を描き出した。
――そこだ。
俺はテツオを突き飛ばし、反対側へ転がった。
ヒュン。
俺たちがさっきまでいた場所。
そこにあった太い鉄骨の柱が、中ほどからごっそりと抉り取られていた。
ダルマ落としのように。
支えを失った天井が、轟音と共に崩落を始める。
ガガガガガガッ!!
鉄骨と瓦礫の雨。
その中を、俺は泥にまみれた獣のように這いずり回った。
視界が揺れる。
埃で喉が焼ける。
だが、止まれば死ぬ。あいつの指先が向く場所は、全てが「無」になる。
町村は動かない。
崩れ落ちる瓦礫が彼の頭上に迫っても、彼は避ける素振りさえ見せない。
ただ、指先を軽く振るだけ。
それだけで、迫り来る数トンのコンクリート塊が、パチュンという軽い音と共に消滅する。
ふざけるな。
防御ですらない。
攻撃そのものを「なかったこと」にしている。
あんなのがまかり通っていいのか。
俺たちが血を流して、骨を折って生きているこの世界を、あいつはまるでパソコンの画面みたいに編集してやがる。
許せない。
恐怖よりも、理不尽への怒りが勝った。
俺は瓦礫の影から飛び出し、鉄パイプを振りかぶった。
逃げているだけじゃ、ジリ貧だ。
懐に入って、あいつのその澄ました仮面を叩き割るしかない。
「う、おおおおおおッ!!」
咆哮と共に、距離を詰める。
あと五メートル。三メートル。
町村がこちらを見た。
その指先が、俺の心臓を捉える。
右目の螺旋が収束する。
俺は、さらに加速した。
地面を蹴る足の裏の皮がめくれ、ブーツの中が血で濡れる感覚。
上体を極限まで低くし、スライディングのように滑り込む。
パチリ。
俺の背中のダウンジャケットが、ごっそりと消し飛んだ。
熱い。
背中の肉を掠めたか。
だが、生きている。
目の前に、町村の無防備な足がある。
俺は起き上がりざま、渾身の力で鉄パイプをフルスイングした。
「砕けろォッ!!」
ガギィィィンッ!!!
硬い。
人の肉を叩いた感触じゃない。
見えない透明な鉄板を叩いたような、強烈な反動が掌に走る。
鉄パイプが「く」の字に曲がり、俺の手首の骨がミシミシと悲鳴を上げた。
障壁か?
いや、違う。
俺の攻撃が、あいつの体に届く直前で「空間の密度」が変わっている。
圧縮された空気が、物理的な壁となって俺の暴力を拒絶したのだ。
町村が、俺を見下ろした。
その瞳には、感情のかけらもなかった。
怒りも、焦りもない。
ただ、計算式のエラーを淡々と修正しようとする、冷徹な作業員の目。
彼が、左手をかざした。
至近距離。
回避不能。
俺の左腕。
肩から先が、彼の掌の前にあった。
――消える。
直感が、俺の左腕の「死」を告げた。
痛みはないだろう。
ただ、一瞬で存在が消去される。
二度と戻らない。
サチの手を握るはずだった腕が、ここで失われる。
パチュン。
空間が、喰われた。
俺の左腕を包み込むように、直径一メートルの「虚無」が発生する。
終わった。
そう思った、その時だった。
グチャリ。
異様な音がした。
肉が潰れる音でも、骨が折れる音でもない。
もっと粘着質で、おぞましい何かが溢れ出す音。
ドクンッ!!!!
背中の「異物」が、爆発した。
心臓が破裂するような衝撃。
俺の意思じゃない。
俺の中にいる「別の生き物」が、自らの住処(肉体)を傷つけられようとしていることに激怒したのだ。
左肩の傷口から、何かが噴き出した。
血ではない。
ドロリとした、黒いタールのような液体。
それは生き物のように蠢き、俺の左腕を瞬時に覆い尽くした。
そして、あろうことか。
町村が放った「消失のエネルギー」へと、真っ向から食らいついた。
ジュワァァァァァッ!!!
空間が悲鳴を上げている。
喰っている。
俺の左腕を包んだ黒い泥が、あいつの「虚無」を飲み込み、咀嚼している。
マイナスを、プラスへ。
消滅させる力を、質量ある暴力へと強制変換する、冒涜的な捕食。
気持ちが悪い。
自分の体なのに、制御できない。
泥が勝手に膨れ上がり、俺の貧弱な腕を、丸太のように肥大化した異形の豪腕へと作り変えていく。
黒く、艶めかしく、筋肉の筋が浮き上がった、悪魔の腕。
重い。
だが、動く。
俺の神経と完全にリンクしている。
「……あ、ガ……ぁぁぁッ!!」
俺は叫んだ。
恐怖か、歓喜か、自分でも分からない。
ただ、体の中に満ち溢れる暴力的な衝動を、目の前の敵に叩きつけることしか考えられなかった。
俺は、その異形の左腕を振りかぶった。
町村の目が、初めてわずかに見開かれた気がした。
計算外。
論理の破綻。
「消えろォォォォォォッ!!!」
ドォォォォォォォォンッ!!!
インパクトの瞬間、空気が爆ぜた。
見えない防壁ごと、町村の体を殴り飛ばす。
手応えがあった。
数式ではない。
肉と骨を、物理的な質量でねじ伏せた、確かな感触。
町村の体が弾丸のように吹き飛び、工場の奥の鉄骨に激突した。
ガシャーンッ!
鉄骨がひしゃげ、粉塵が舞い上がる。
静寂が戻った。
俺は肩で息をしながら、自分の左手を見た。
黒い泥は、すでに皮膚の下へと潜り込み、いつもの人間の手に戻っていた。
だが、熱い。
指先が、まだ痺れている。
今のは何だ?
俺の中に、何がいるんだ?
瓦礫の山が、微かに動いた。
ジャリ……。
町村が、ゆっくりと起き上がった。
その白いフェイスマスクには、亀裂が入っていた。
整えられていた髪は乱れ、漆黒のコートは埃にまみれている。
彼は、ふらりと立ち尽くした。
そして、自分の胸――俺が殴った場所へ、そっと手を当てた。
そこには、泥の跡が黒々と残っていた。
完璧な計算の世界に刻まれた、消えない汚点。
彼は首を傾げた。
無表情のまま。
まるで、初めて見る未知の現象を解析するかのように。
そして、ポツリと漏らした。
「…………熱い。」
「……は?」
俺は、あまりの異常さに、呆けたような声を漏らすことしかできなかった。
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理屈を、熱量が粉砕した瞬間。 タケルの一撃が、最強のプレイヤーの顔面を捉えました。 次回『Episode 003: 演算の誤謬』。 勝者となったタケルに突きつけられる、残酷な代償とは。




